聖女の噂
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──聖女の噂
精霊帝国と抵抗運動の戦いは苛烈化した。
抵抗運動は精霊帝国の軍隊を攻撃し続け、兵士が死に、貴族が死ぬ。我々は待ち伏せと夜襲で精霊帝国に休む暇を与えず、常に打撃を与え続け、物理的にも、そして精神的にも、敵を損耗させていった。
これで精霊帝国の軍隊の動きは鈍くなった。兵士も貴族も死を恐れて積極的に抵抗運動と交戦しようとはせず、パトロールの規模も小さくなった。
だが、精霊帝国が全くの無策であり続けていてくれるかというとそうでもない。
精霊帝国側も対応を示さなければならないということは理解しており、抵抗運動の攻撃に対応を示している。
しかし、彼らのやっていることはまるで逆効果のそれなのだ。
そう、彼らがやっているのは以前と同じように村々を焼き払い、住民を無作為に殺すということだけ。自分たちの物理的支配地域を広げているように見えて、実際の精神的支配領域は狭まっているというもの。
もっとも、下層民の農民を殺し続ければ、自分たちの収入に影響することは精霊帝国の貴族たちも分かっている。そのためか最近では殺されるのは年寄りや女性、怪我人、病人に絞られ、間引くように殺されて行っている。
村を完全には壊滅させない。それは抵抗運動に新しい選択肢を提示した。
すなわち、敵の支配領下における活動である。
抵抗運動の規模は大きくなり、食料の調達も精霊帝国の軍隊が輸送するものを襲撃するだけでは不十分になり始めた。食料の備蓄はまだまだあるのだが、この調子で規模を広げていくならば、その貯蓄ではあまりにも頼りない。
そのため新しい食料調達のルートが必要とされていた。
そこで出てくるのが精霊帝国の支配領域下にある農村だ。
農村の住民たちは家族を殺されたり、近くの村が襲撃を受けたりなどして、精霊帝国に不信感と憤りを覚えている。それを利用して、彼らを味方につけるのだ。
ただし、兵士として彼らをリクルートするわけではない。彼らにはあくまで農民として働き続けてもらう。その代わり、彼らに勝利と自由を約束し、それを担保に彼らから収穫された作物を受け取り、食糧備蓄を増やすのだ。
実際にこれは上手くいっている。
精霊帝国はあまりにも住民たちの怒りを買った。彼らが村を焼き、住民を殺すのに誰もが理不尽を感じている。そして、これまでのように大人しくしていれば困難が過ぎ去ってくれるわけでもないということも住民たちは理解している。
全ての始まりは俺が交易都市ナジャフで起こしたテロであり、そこから始まった報復の連鎖が今や憎悪の渦となってこの大地に染み込んでいる。
貴族たちは下層民に恐怖と怒りを覚え、下層民は貴族に理不尽と殺意を抱く。
「恐ろしいほどに上手くいっていますね」
「内戦の炎というのはかくも簡単に燃え上がるものなのだよ」
いつもの洞窟の拠点──最近では南部国民戦線の構成員も増え、彼らはここを“リベルタ砦”と呼んでいる──でアティカが農村から運ばれてきた作物が貯蔵庫に収めれるのを見つめながら、感心したような、呆れたような声を発していた。
食料の貯蔵庫には抵抗運動に賛同した村落で収穫された食物が、老人と女子供の手で長期保存可能なように加工されて収められている。今の兵士たちの規模であれば、優に5年分の食料がここに保存されていることになる。
「君の方も指導的な役割を果たしてくれていると思うが」
「宗教関係で少しですね。大したことはありません。ここにはちゃんと聖職者もいますから。精霊教会のそれではない聖職者が」
南部国民戦線の戦力は補充されつつある。大量の死者が出ていることで装備にも問題はない。指導者にはバルトロという血筋的にも、扇動者としても優れた男がいる。問題は宗教的なもの、あるいは精神的なものである。
日本は宗教的なものに無頓着であり、軍に宗教的なポジションはなかった。だが、従軍司祭などは未だに地球にも存在する。
世の中には脳波測定器で脳の動きを調べながらカウンセリングを行う民間軍事医療企業の精神科医の言葉よりも、伝統的な倫理観を持ちながらにして非科学的である宗教家の言葉の方が頼りになると感じる人間がいるのだ。
そして、この世界においては精神科医はいない。脳神経医学も精神医学もない。自分たちの犯す無数の殺人と自分に降りかかる死について、「自分のためであり、延いては国家という社会集団のためであるから安心するように」と諭してくれる存在はいない。
その役割は神に任せられている。死について許しを与えるのは聖職者の役割だ。
罪の許しも、死後の生も、聖職者たちが保障する。兵士たちが人を殺すという罪を犯すことを彼らが許し、その魂が死後に安息を得ることを約束するのだ。
そうすることで兵士たちは躊躇わずに人を殺せるようになる。ただのくだらない慰めだったとしても、それが神の教えからくるものならば価値を持つ。神という絶大な権威に保障された言葉は時として精神科医の言葉よりも重い。
南部国民戦線には従軍司祭が拠点や前線に存在する。彼らは兵士たちの精神面をサポートするカウンセラーであり、精霊教会の教えを否定し、南部国民戦線の信じる女神ウラナの教えを広めて回る伝道師でもある。
精霊教会の教えは精霊帝国の体制のためのものだ。それは否定されなければならない。民衆が魔術を使える貴族こそが下層民を導くのだという教えを信じていてしまっては、抵抗運動は広まらないのだ。
「もう宗教など広めずともいいのでは。精霊帝国への反発は高まりました。このまま精霊帝国は勝手に崩壊するのではないしょうか。ここまで民衆の怒りを買って、存続できる体制というのもなかなか想像ができません」
「残念だがこの程度の炎では国家という体制を破壊するには至らない」
アティカが楽観的な意見を述べるのに、俺は首を横に振った。
「2020年から2027年。アジアで戦争があった。日本のある地域の戦争で日本も巻き込まれた戦争だ。その戦争の最中でも日本は民主的な政権を維持していた」
アジアでの戦争。
2020年に台湾海峡を端に発し、アジア全域にまで拡大した大戦争。日本が戦後直面し、巻き込まれた最初の正面戦争。
「戦争の最中の世論調査では内閣支持率は最大で約70パーセント、最低で約50パーセントだった。つまり戦争最中、中華人民共和国という共通の敵を有していながら、日本国民の半分は自分たちの指導者を信頼していなかったというわけだ」
「随分と暢気な人たちですね」
戦争に参加した当時と一時期戦況が怪しくなった時期、そして日本の加わったアジア太平洋合同軍に対する人民解放軍による核攻撃の危機の際には、内閣支持率は低下し、50パーセントほどにまでなっていた。
「そうだ。暢気なものだ。目の前に敵がいるのに内輪で揉め合っているとは。だが、その内閣支持率が50パーセントほどの時期でも日本で内戦や革命は起きなかった。日本人の半分が今の指導者に不満を覚えているのに何も起きやしなかったのだ。我々の敵対していた中国ではその支持率にかかわらず、中央アジアに面する方面で内戦が勃発したのに」
日本という後方地帯は平和だった。日本の有する南西諸島は戦場になったが、日本本土は予想された巡航ミサイルによる攻撃などもなく、平和そのものだった。
「つまり、どういうことなのですか?」
「ただ不満を覚えるだけでは不十分ということだ。日本で内戦が起きず、中国では内戦が起きたのはつまりはベクトルの問題だ。我々日本情報軍、アメリカ情報軍、オーストラリア情報軍は中国国内の不満のベクトルを操作した。その結果、中国国内ではテロと内戦の嵐が吹き荒れたのだ」
ただ、不満を持つだけならば誰にだってできる。自分たちの指導者を本当に信頼している人間など国に忠誠を誓った軍の中ですら完全にはいないだろう。
それでもその不満のベクトルはまちまちだ。左派としての不満であったり、右派としての不満であったり、貧困層としての不満であったり、富裕層としての不満であったりと統一された不満ではないのである。
統一されていない不満や反発は大した力にはならない。それらは政治家によって各個撃破され、連携して行動することはないからだ。そもそもその不満のベクトルの違いによるものだけで、それらは基より団結する力を有さない。
その点を中国国内における情報作戦において日本情報軍、アメリカ情報軍、オーストラリア情報軍の3つの組織は解決し、その不満を民族としての不満と宗教としての不満に集約した。その結果の内戦とテロだ。
かの有名な言葉にもあるように1本の矢は脆弱だが、3本の矢ではなんとやらというわけだ。不満のベクトルを整え、束ねればそれは国家を揺るがす力になる。
「ベクトルを整えるのには宗教と思想が必要だ。宗教による倫理と思想による理想なき、ただの不満は治安の悪化こそ招けど、国家を揺るがすまでには至らない。我々は宗教と思想の車輪なくしてはベクトルを統一できないのだ」
この内戦では宗教と民族主義の思想というイデオロギーにて反乱のベクトルを整える。宗教は民衆を団結させ、新しい倫理観を植え付ける。民族主義の思想もまた民衆を団結させ、新しい世界観を植え付ける。
そうやって不満のベクトルを統一し、大きな力とする。
それでこそ内戦の炎は高らかと立ち上るのだ。
ツールはいろいろあれど、今回は宗教と民族主義の思想を使う。精霊教会という宗教は否定されなければならないし、民族主義という思想にはバルトロという指導者がいるのだから使わなければもったいない。
「はあ。いろいろと考えておいでなのですね」
「人が殺し合うことを本能として有しているとはしても、それを大規模な殺し合いという名の戦争にするまでにはそれなりに頭を使わなければならないのだよ」
呆れたようなアティカの言葉に俺は苦笑いを浮かべた。
「ヤシロ」
我々がそんな会話を交わしていたとき、顔見知りの兵士がやってきた。俺も随分とこの場に馴染んだようで気軽に世間話などを振ってくれるようになった。
だが、今回は世間話ではなさそうだ。
「どうしたかな?」
「バルトロさんが呼んでいる。大事な話があるそうだ」
ふむ。バルトロの話か。
「聞くとしよう」
俺はこのリベルタ砦におけるバルトロの私室に向かう。
「来たか、ヤシロ」
「話があると聞いたが」
バルトロの部屋には先客がいた。最近、南部国民戦線に加わった青年だ。
「彼から少しばかり気になる話を聞いた。ヤシロに聞かせてやってくれ」
バルトロはそう告げて、青年に話を促す。
「自分はアッシジ市の方に行商をしている友人がいるのですが、彼が言っていたのです。アッシジの近くで“聖女”が捕まえられて、アッシジの大聖堂に囚われていると」
聖女。
そういえばまだ聖女には会っていない。女神ウラナの話ではいるはずなのだが。
「それは確かな情報なのかな?」
「多分、です。嘘をつくような友人じゃないし、アッシジの聖女の話は他の人からも聞いたし。でも、実際に自分の目で見たわけではないので断言はできないんです。本当に聖女なんて人がこの世にいるんでしょうか?」
そう告げて青年は俺を見る。
「あなたは女神ウラナが遣わした勇者だ。聖女のことを知っているのではないか?」
バルトロもそう告げて俺を見る。
勇者とは。全く、随分な肩書がついたものだな。女神ウラナが遣わしたのはただの軍人に過ぎない。ただの日本情報軍における何かが欠如した軍人だ。
「心当たりはある。聖女はいる可能性が高い」
「そうか。では、どうする?」
聖女にも女神ウラナが祝福と加護を与えるのだろう。奪還できれば戦力になる。
「救出しよう。聖女を助け出し、我々の戦列に加える」
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