6(終)
息を吐く。動悸が酷い。暑くもないのに、汗がとめどなく溢れてきて、滴る。真下の顔を見ながら、右手の先に視線をずらして、唇を噛んだ。
振り下ろした刃は、首筋に一筋の傷だけを残して、その真横に突き立っていた。
「殺さないの?」
無感動な双眸が見上げてくる。ここまで来て、恐怖の一片すら示さないその瞳が不気味だった。
「うるせえ」
見れば見るほど黒い感情が溢れ出てきて、止まらない。
記憶が回る。赤が。炎が。血が。溢れる死と肉の焼ける臭い。噎せ返る程の血の臭い。ここに無いはずの感覚が蘇ってきて、息が詰まる。
見てきた訳でもないのに、無数の死体の上に佇み、無感動に踏みにじる降夜の姿が脳裏に過ぎる。
弛緩した右手に再び力が篭もった。
殺す。
許さない。殺したい。殺さないと。
細く息を吐いて瞬きを一つ。目を開けた瞬間に、違う光景が見えて息を呑む。
見下ろした無表情な面が、妹の顔とだぶって見えた。
どうにもならないことがあると、抵抗せずに諦めるのは、あの子の悪い癖だった。
やめろ。
やめろ、違う、やめろ。
妹の口が開く。淡々と。違う、声で。
「殺していいよ」
「うるせえ!」
違う。こいつは違う。あの子じゃない。あの子はもう、居ない。
分かっている。一時的な気の迷いだ。始めは似ていると思ったこともあった。でも、全然似ていない。
出会ってからの相違点が記憶として蘇る。言うほど接点が多い訳では無い。その割に、色々なことをやけにはっきりと思い出せた。ぎり、腑に落ちない情に歯噛みする。
分かっているはずなのに。
何故一向に、この手は重いままなのだ。
「これが、俺がやってきた事の報いなら、俺は黙って受け入れる」
「うるせえってんだよ……!」
なんなんだよ。さっきから、ちらちらと。
よぎる過去は激情とは程遠いものばかり。降夜と過ごした時間はこの街に来てから考えられないほど、静かで凪いでいた。
記憶が破壊衝動を抑え込むような、思いとは真逆な心中。訳が分からないままに目を細め、いい加減にしろと、戸惑いよりも憤怒が優る。
自分の中の何かが乖離していくようだった。落ち着かない。定まらない。その所在なさが、八つ当たりのように、目の前の存在への怒りを増長させた。
こいつは仇だ。敵だ。殺すべきだ。それが正しい行動だ。それだけが、全てだ。
たった数度、助けられただけで、こいつの全てを許せとでも言うのか。
ふざけてんじゃねえぞ、おい。
「殺したい! ああ殺してやりたいさ! 当然だろう! お前らが全部ぶっ壊したんだ! 家族も、居場所も、何もかも! 一方的にごみみたいに掃き捨てやがって! 」
喉の奥から絞り出した声は、慟哭にも似ていた。
ガラス玉のような瞳を見下ろして、感情を吐露する。
「俺は、俺たちは、こんな終わりを迎えるために、必死に生にしがみついていた訳じゃねえんだよ!」
両手で胸ぐらを掴み上げる。離したナイフは石の床の上で重心を維持出来ず、小さく音を立てて倒れた。降夜の上半身が僅かに浮く。拘束を解かれた両手が自由になっても、相変わらずその手は弛緩したまま動かない。
「一度捨てたならもう構うなよ! 今更のように干渉してくんじゃねえよ! 知らないくせに! 不要とされた寂しさも、何も知らず出来ないまま放り出された心細さも! 分かってるんだよ、生き永らえたところで、何が出来るわけじゃないって! いくら恨んでも、街一つ変えられない弱者だって! それでも、俺たちは」
生まれは一生変えられない。世界はあまりに理不尽だ。足掻いたところで、底なんて知れている。
それでも、死を望まなかったのは。生を渇望していたのは。
「幸せに、なりたかったんだ」
自分だけじゃ意味が無い。あの子と二人でも、それだけじゃまだ足りない。
誰も彼もが傷つきながら、傷を舐めあって癒そうとしていた、あの仄暗い小さな故郷で。
皆で、幸せになりたかった。
救われたかった。
なのに、その願いはもう永遠に叶わない。
「なんで、お前が殺してんだよ」
急速に力が抜けていく。掴んでいた体はずるりと滑り、再び床へと張り付く。
位置のずれたナイフを視界に留めて、その刃先が僅かに欠けているのに気がついた。
今まで無表情のまま俺を見上げていた降夜は、そこで初めて、静かに目を伏せた。
「それが、俺の役目だったから」
淡々とした声は、ただ簡潔に事実を告げる。
衝動が消えた訳では無い。なのに気づけば、その声に黙って耳を傾ける自分がいる。
「望まれたから、殺した。何人も、望まれた時に、望まれるままに。それが俺の仕事で、始めに生かされた理由だったから。あそこでの俺の存在意義だったから」
少しの間が開く。
逸らされた瞳は正面から見えない。そこに浮かぶ色は分からない。
「俺は、感情が欠けてるから。人殺しを育てるには、都合がよかったんだろうね」
言い淀んでいた言葉は、結局、ほんの僅かな時間を挟んであっさりと吐き出された。
その声は、相変わらず無感動なものだった。
ああ、なんだ。こいつの普段の様子はそういうことか。全てが腑に落ちた気がした。
だから。だから、なんだというのだろう。
許せとでも言うのだろうか。このまま、見逃せとでも言うのだろうか。
『もう、やめたら?』
いつかの言葉が蘇る。ぎり、と奥歯を噛み締めた。
意識して、過去の惨劇を思い返す。忘れてはいけない。認めるわけにはいかないのだ。
簡単に翻せるような復讐心なら、こんな所まで来ていない。
だってもう今更、この理由をなくしてしまったら。
俺は、どうやって生きていけばいいのかも分からないのに。
一瞬でいい。我を忘れられるほどの憎悪をくれ。俺にこの復讐を遂げさせてくれ。
「なんで今更、人助けなんてしてる。罪滅ぼしのつもりか」
「……抗ってみたくなったんだ」
勝手に償った気でいるのなら、その傲慢さに怒りでも沸くかと思ったのに。
返ってきた答えは、思っていた以上に利己的で、切実な響きをしていた。
「誰かの命令じゃなく、自分の意思で行動をしてみれば、何か分かるかと思って。正反対の行動をとれば、見えなかったものが、見えるかもしれないと思って」
でも、駄目だった。そう言って、降夜は目を閉じた。
「分からない。人を殺しても、何も感じない。人を救っても、何も感じない。分からないんだ。涙も、笑顔も、その意味も。理解出来ない。実感がわかない。……こんなにも、知りたいのに」
変わらない声音が、どうしてこうも寂しく聞こえてしまうのだろう。
「何もかもがすり抜けていくような感覚が、酷く空虚で、この隙間を埋めたいのに、どう足掻いても叶わなくて」
不意に、伏せられていた目があげられた。視線が交差する。作りもののようなその紫の瞳の奥に、ほんの一滴、何かが垂らされる。
降夜は俺を見て目を細めた。
「蓮は、眩しいね」
そこに含まれたものは、紛れもなく、憧憬だった。
「眩しくて、羨ましい。……俺は、逃げないから。殺したくなったら殺せばいいよ」
小さく嘲笑が漏れる。それが自分に向けたものなのか、相手に向けたものなのか、もう分からない。
応える声は、降夜に触発されたかのように、乾いていた。
「俺は、お前の自殺願望を満たすための、都合のいい道具じゃねえんだよ」
駄目だ、と思った。もう、駄目だ。
知らなければ良かったんだ。あの日こいつに出会わなければ、こんな結末にはならなかった。
何も知らないままならば、無抵抗なこいつを殺して、それで済んだことなのに。
やってくれたな。本当、うんざりする。これだからあのサド女は嫌いなんだ。
消えない衝動は変わらずある。なのに、ただ衝動に身を任せることも叶わない。
両極の思いが、互いに消えないままにぶつかり合って、内側から苛まれていく。
「生きたいって言え」
分からない。
俺は一体、どうすればいいのだろう。
もう何もかも、分からなくなってしまった。
「死にたいお前を殺してなんの意味がある。生きたいお前を殺してこその復讐だろうが」
俺の言葉に、降夜は少し動きを止めた後、ゆるゆると首を振る。
しかし数秒後、意を決したように口を開き、その言葉を紡ぐ。
「生き、たい」
「……下手くそ」
酷いもんだ。とんだ大根役者じゃねえか。
普段の無表情、無味乾燥な声音を考慮しても、これはない。
ちょっとぐらい抑揚つけろよ。棒読みにも程がある。どもるし、目は泳ぐし、それが命乞いをするやつの態度かよ。嘘がばればれだ。馬鹿野郎。
溜息をついて、目を閉じる。ああ、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて、いっそ泣きたくなってくる。
浅い眠りに落ちる度、悪夢を見る。
透明な壁を隔てて、向こう側で知り合いがことごとく殺されていく。すぐ近くに居るのに、俺はそこへ行けない。隔たれた壁は分厚くて、いくら叩いてもびくともしない。誰も彼もが倒れ伏して、俺は初めて、壁の向こうに行くことが出来る。そうして、一人になった世界で立ち尽くす。何度も、何度も、夢を見る度、何も出来ないまま。
当たり前だ。現実で俺は何も出来なかった。それどころか、その場に居合わせてすらいなかった。
何も気づかないまま、知らぬまま。
その場の恐怖も、苦痛の一片も背負わないままに、一人あの惨劇から逃れて。
どうして俺だけが、のうのうと生きている。
俺はこいつを許さない。俺は俺を許せない。
世界の全てが呪わしい。全てを道連れにして、終わってしまえばいい。腐りきったこんな世界なんて。
「俺の夢が叶ったら」
不意に、降夜がそう言った。
目を開けて見下ろす。揺れる瞳は、何かを迷っているようだ。軽く開いた口は一度何かを言いかけて、発することなく、そのまま閉じられる。
黙って視線で先を促すと、降夜は少しの逡巡を挟んで、呟くような小さな声で続けた。
「いつになるか分からないし、もしかしたら、永遠に叶わないかもしれないけれど、それでも夢が叶ったら、多分俺は意地でも死にたくなくなるだろうから……その時に、殺す?」
「お前の夢ってなんだよ」
「感情が欲しい」
直して欲しい。前に降夜はそう言った。
「こんな出来損ないじゃなくて、普通の人間になりたい」
死を願う降夜は、既に半ば以上、諦めているのだろう。それでも自殺を選ばないのは、可能性を手放せずに足掻いているからか。
どこかで聞いたような話だ。
思うだけで、俺はその先を考えることを放棄する。
「……わかった」
長い沈黙の後に、俺は承諾の言葉を吐き出した。
「手伝ってやる。嫌ってほど思い知らせてやる。後悔すればいい。生を望みながら絶望に沈めばいい。己の罪を自覚して、泣いて、悔やんで、そして死ね」
降夜の顔が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。でもきっと、自覚してはいないのだろう。
「うん。……よろしく、蓮」
生きるのが地獄だというのなら、簡単には殺してやらない。望みがあるというのなら、それが満たされた瞬間に、全てを奪いとってやる。
これは復讐だ。復讐なのだ。
少し方法が変わるだけ。少し結末が変わるだけ。
だから、どうか許して欲しい。
傍に転がっているナイフを拾い上げて、ベルトへと戻す。首筋についた赤い線を見て、目を細めた。
あと少しだけ、こいつを生かす俺を、許してくれ。