終わりに
終わりに
これまでキシロ―という人物について様々な視点から捕らえてきたつもりだがいかがだろうか。
テレビやインターネット、彼女の残した本、ブログとはまた違った発見があれば幸いである。
今回快く協力してくれた多くの方に感謝を述べる。
さて、本書の冒頭で触れた通り、彼女の時代は、終わった。
結婚に伴う支社を売り渡しての引退劇は前時代的と言うしかないものかもしれない。正直、あれだけ規制観念に真っ向からNOを言っていくというイメージとかけ離れている。
しかし、彼女をそうさせたものは何だったのだろうか?
「飽きたから辞めました」
と彼女は自嘲気味に話すが、飽いた仕事は手抜き勝ちにんるのが常なのに、もんすたぁの業績を見る限りそうでもないように思える。
実は、私は「本に書かない」という約束で、彼女の本音を聞くことが出来た。
約束なので引用はしないが、あえて私がここで言うとすれば
「ではなぜ彼女はそうしないと思われていたのか?またなぜそれによって、こんなにもバッシングを受けなければならなかったのか?」という疑問がある。
FTMだからというのであればそれは違う、彼は初めからFTMゲイだと言っていたはずだ。
モモさんがこう言っていた。
「なんで『愛し合っていたけど』なんてドラマあるんだろう、私はわからないです」
ヒーローの幸せを、我々は願っていただろうか?
悪を倒した後ヒロインと幸せに暮らすヒーローではなく、どこかで、ヒーローの幸せはみんなを幸せにすることなんだろうと、現実にはいない、自らの幸せのことなど顧みないヒーローを夢想してはなかったか?
しかし、そもそもこれが間違いで、どんなにみんなを幸せにしてもヒーロー自身の幸せを皆が願わない社会を、もし私がヒーローだったら、救いたいと思うだろうか?
なぜ我々はキシロ―というヒーローを求めていたのだろう?
自分の意見を聞いて欲しいのであれば、自分の声で、自らの力で戦うべきである。
フェミニズムの中に「点となるより、面となって戦え」という有名な一説があるのはそのためだ。
しかし、我々はいつの間にか我々の意のままに戦う、我々の代弁者を求めてしまってはいないだろうか?
自ら戦うのではなく、ただ自分の言うことに従う誰かが欲しかっただけだとしたら、震災後不寛容さが広がるなか、それと戦う誰がが欲しかっただけなら、そしてたまたまそこにキシロ―が当てはまっただけなら、あまりに不憫である。
それにしても、会談後キシロ―に言われた
「まるで僕に恋してるみたいですね」
は言いえて妙だ。
誰かを知りたいと思い、こうして知っていく、この作業は、恋に似ていた。
幸せな時間だったが、この本もそろそろ終わりに入りたい。
ただ一つ私がキシロ―について書いて思ったことは
「キシロ―も人間だった」
という当たり前のような感想だった。
確かにキシロ―はヒーローだった、しかし我々はキシロ―のようになれないし、なる必要もない。
ヒーローになる必要もなければ、立ち上がる勇気も、もしかしたら戦う勇気もない私達は、つい誰かを待ちわびてしまう。
しかし、私がキシロ―をこうやって追っていて思ったことは、そうやって誰かを待ちわびることこそが、むしろ別の誰かに都合よくなってしまわないか?ということである。
私のできることも限られている、新聞記者として、出来るだけ声を上げることも叶わない名もなき者の声を拾い上げることぐらいである。
そして、その作業をしながら私は少し休もうと思う。
小さな声を上げる、誰かを待ちながら。




