10話・回想
唇に残っている彼の名残りが気持ち悪かった。口許を行儀悪くも袖口で拭いたけど、ちっとも綺麗になった気がしない。
(ファーストキスでなくてよかった。あんな奴に初めてを奪われていたらかなりショックかも‥)
実年齢は三十二歳の志織。それなりに元彼氏と付き合う前に交際していた相手はある。その相手がファーストキスの相手だった。
初恋は実らないと良く聞くけれど、幸いなことに志織のファーストキスも初体験も初恋の相手だった。
しかしレオナルドの行動のせいで、自分のなかの大事にしまい込んでいた思い出さえ穢されたような気がする。
「うええええ。気持ち悪い‥胸やけするう」
何気に窓の方へ眼を向ければ、お煎餅のような満月が目に入った。志織がいた世界で見る月よりもかなり大きめのオレンジ色したお月さまだ。肉眼で月の表面のでこぼこさえも見える距離だった。こんばんは。と、挨拶する様に窓から顔を覗かせて来た。
「こっちの世界でも月ってあるんだ」
子供の頃よく見た海辺に沈みゆく夕日の色に似てる気がする。月と太陽では天体に大きな違いがあるというのに、こちら側の世界の月は、志織の住む世界で見る太陽よりも遥かに大きく感じられた。
それが丁度、志織の知る夏の湿気を帯びた霞む空のもと沈みゆく太陽の光にも似ていて、ふいに囲舎の両親のことが思い出された。
志織の実家では民宿を営んでいた。父は若い頃は漁師をしていたが民宿を経営していた祖父が倒れてからそれを引き継ぐように陸に上がって、家業である民宿を母と共に切り盛り始めたのだ。
もともと民宿は祖父が始めたことだった。祖父が病に倒れた事もあり祖母は入院中の祖父に付き添い、民宿は父と母に任されるようになっていた。
民宿は馴染みの常連客で潤い、特に夏は宿泊客が大勢で来て両親や年の離れた二人の兄達はそちらの対応に忙しく、甘えたい盛りの志織は家族に構ってもらえずに淋しい思いをしたものだ。
夏休みが終わる頃にようやく暇となって来て家族みんなで食卓を囲めるようになる。それまでは一人ぼっちの味気ない食事と一人就寝が続くので志織は夏休みが大嫌いだった。
まだ学校がやっていれば友達と会えて遊べたのに、夏休みともなれば仲のよい友達は両親の囲舎に出掛けたり、家族旅行に出かけたりして遊びに行っても家にはおらず大概留守で会えなかった。志織は実家が民宿をしていたので家族で旅行に出かけたことは今までに一回くらいしかなかった。それも祖父が元気だった頃の話だ。
祖父が末期の癌で入院し、民宿も経営が思わしくなく両親たちが頑張っていたと知ったのは祖父が亡くなって数年後が経ち、志織が中学生になってからだった。幼い頃の志織は家の状況があまり分かっていたなかった事もあり、自分のことよりも民宿のことを優先させる母に、
「民宿なんか嫌い。なんでお母さんは民宿のおかみさんなんかやってるの? わたしは普通の家に生まれたかった」
と、八つ当たりをして母を困らせたこともあった。嫌だ。嫌だと泣く志織に母は「ごめんね。堪忍してね」と、泣きそうな声になっていた。
その母達ももう還暦を過ぎて民宿の仕事の主導権は長男の兄夫婦に任せている。兄の子供たちの面倒を見ながら時おり民宿の手伝いをしてるくらいだ。次男の兄も車で三十分くらいの隣町にお嫁さんや子供たちと住んでいて時おり顔を見せてる様で、一人海辺の暮らしを嫌がって都会に出た志織が時々思い出したように連絡をすれば、
「ちっともあんたは顔を出してくれないんだから」
薄情な子だね。と、恨みがましい事を言われるが、それも一年前に電話したきりになっていた。家族たちは自分が消えて心配してるだろうか?
お煎餅大の大きさの月を眺めていたら、父や母や長兄の賢哉や次兄の和志の顔が浮かんでは消えた。
「お父さん。お母さん。賢にい。和にい…」
(もう二度とお父さん達に会えないなんて)
こんなことになるなら意地を張らずに、帰省して両親に元気な姿を見せておくのだった。と、今さらながら後悔に見舞われた。どうにもならないことなのに。
兄達は結婚が早かった。義姉たちは志織に優しかったが志織は素直になれなかった。彼らとの間に一線を引いてそのなかに入りこもうとしなかったからだ。
民宿を嫌っていた事もある。実家が民宿をしていたことで甘えたい時期に親に甘えることが上手く出来なかったことから、急に義姉が出来てその義姉たちから好意を示されてもどう接して良いのか分からなかったのもある。
自分という存在が義兄嫁達にとって、小姑という障害物にだけはなりたくなくて高校を卒業して早々に家から逃げるように出た志織。
まさかその後、異世界に召喚されて二度と元の世界に帰れなくなるだなんて考えてもいなかった。




