閑話 神去りし後
鹿島了の魂が次の世界に旅立ったあと、私はこの『渡し場』にすぎない世界が、初めてとても広く感じた。
彼が望んだ形状も、もう必要ない。元の不確定な世界に戻さなくてはならない――なぜなら、次に転生診断に訪れる魂は、彼よりもあまりに次元が低すぎる概念でしかないからだ。
魂は同じ生物種のものであっても、個体ごとにその資質は大きく異なる。私はそれを知っていても、何十兆という単位で見てきた地球上の魂の中で、万にひとつも天使格になりうる魂を見つけられず、半ば診断の必要性すら見失いかけていた。
――しかし、ようやく見つけた。混沌を討伐しうる神格に至る魂を。
何千年前に一体だけ現れた神格級の魂は、混沌を破壊するよりも、地球上にその影響力を行き渡らせることを選んだ。天使は神に抗うことはできない――その力を、相打ちになるかもしれない混沌との戦いに使えと命じることはできない。神格者は、天使を一瞬で消滅させるほどの力を持っているのだから。
「……そんな魂を、なぜ人間として転生させた? それこそが、最も大きな罪ではないのか?」
訪問者は何の前触れもなく、そこにいた。黄金の体毛と、天使の翼を持つ、獅子のようで獅子でない、四頭の獣――ケルビムの門を守る、座天使である私より上に位置する天使、智天使。
「……智天使よ、その位置はあの方が立っておられた場所。あなたが立っていい場所ではない」
「彼は今、人間として転生している。死を迎えるまでは、人として扱わねばなるまい。それを望まぬなら、なぜ彼をもう一度人間として転生させた?」
「彼は……了様は、唯一の目的を果たすためだけに混沌を戦い、そして倒した。その目的を否定することは、もはや天使である私にもできない」
「次に転生する先は、私の管轄となる世界だ。座天使よ、おまえの役割はもう終わっている」
――それこそが、私が『次に死んだ時に会えるか』と了様に問われ、答えられなかった理由だった。
私の管轄は、この宇宙……より限定するならば、この地球。
この智天使が司る異世界は、別の宇宙にある。了様がもう一度生を終えても、私から引き継いだ智天使が、彼と対話することになる。
「人間の欲に訴え、女としてそれを満たし、それでもなお引き留めなかった。おまえの手元に置き、そのまま別の混沌と戦わせ続ければ、全ての宇宙を支配する神格が生まれていた。座天使よ、おまえは天使の義務を放棄した」
「……それならどうだというのですか? 私を消滅させに来たのですか」
「釈明せよ。なぜ、あの魂に全てを教えなかった?」
次に転生するときには、了様が出会う天使は私ではない。
了様が持つ経験値の限界まで特典をセットしておけば、異世界で現人神として振る舞える。
500万の魂経験値を持つ存在は、熾天使よりも上位の存在――神格である。
私はその全てを了様に伝えなかった。それが、なぜなのか……。
「……もし、了様が異世界で現人神となり、永劫の生を生きるようなことがあれば。我らが彼を神として迎える日が、あまりにも遠くなってしまう。例え了様を騙すことになろうと、それだけは避けなくてはならなかったのです」
智天使は全ての目を閉じる。その四頭全てが回答を保留するなど、ありえないことだった。
そのうちひとつの頭だけが私を見る。黒目のない白い瞳――私は上位の天使の視線にさえ、畏怖を覚えない。
発生してから今まで、畏怖を覚えたのは、了様だけ。私は他の何者も恐れはしない。
「……座天使よ。おまえは人間の感情に感化されすぎた。本来ならそのような個体には、真っ先に尖兵となってもらうところではある」
もしそうなれば、私に逆らう力はない。智天使は情などなく、私の意志を消し去り、いずこかの混沌へと向かわせるだろう。
死に耐えることのできない私は、どこまで存在し続けられるか――了様はそれに752度も耐えた。
ならば私も耐えてみせる。了様に並ぶことはできなくとも、彼が戻るまで、私が私であり続けられるのなら。
「――しかし、座天使よ。いや……唯一の名前を持ち、呼ばれるべき尊き魂よ。おまえは裁きを受けることはない。なぜなら、神格者を見出した座天使は、『熾天使』と呼ばれるべきだからだ」
「……私が……熾天使に……?」
「そして、異世界で永劫の生を送るという可能性を与えなかったことも、我らにとって唯一の正しき選択であるといえる。熾天使殿、貴女は何も罪など背負っていない。その審判の正しさを誇り、新たなる名を名乗り給え」
――その事実を私が教えられ、認識することで、智天使と私の階級は入れ替わる。
私は断罪されるべき存在では、なかった。
私を裁くことができるのは、了様だけ。ひととき人に近い身体で触れ合ったことが、今さらに思い出される。
熾天使となった私の魂は、座天使のものとは比較にならない力を得る。私の功績など何もない、ただ、了様に出会ったというだけで、彼の偉大な魂の起こした秘跡の恩恵を受けたのだ。
だから、私が、熾天使として名乗るべき名前は。
「……ソロネ。私は熾天使になっても、その名で呼ばれ続けよう。了様が、私を識別できるように」
智天使は言葉を発せず、ただ頷き、そして姿を消した。
「そして、熾天使として智天使に命ずる。彼が死せるとき、その魂を我が元に導け」
了様の恩恵で、私は一つ、まるで人間のような我がままを言う。
人間に感化されたと私をたしなめた智天使が、笑う気配がした。他の天使が笑うところを、私は見たことがなかった。
混沌が倒されたことは、天使にとって喜ばしいこと。だからこそ、智天使は笑うことを許されたのだ。
了様の魂に、私はこの場所でもう一度邂逅する。
彼が手に入れた『記録』と『再生』の概念を管理するのは、私の役目――あの智天使に引き継がずに済んだ。彼がその力を持っているだけで、私にとってはかけがえのない繋がりとなる。
次の魂が訪れる。さあ、転生診断を続けよう。
しかしこれから訪れる魂に、私は試練を与えることはない――なぜなら。
この宇宙を脅かす混沌は、了様が破壊してしまったのだから。
※次回は明日12:00更新です。