主人と奴隷の日々の章・2 ファムの故郷
俺たちがベルゼビュートを捕らえ、亜人狩りの組織を壊滅させたあと、俺にファムを売った奴隷商人もほどなくして騎士団に捕らえられた。秘密裏に亜人を奴隷として売っていたことが発覚したのだ。
前に言っていた通り、俺は奴隷商人にもう一度会うべく、一人で牢獄の中の彼に面会しに行った。面会のための部屋は高い位置にある小さな窓から光が入るだけで、脱走の余地もなく、奴隷商人は髭が伸びっぱなしになり、両手と両足に枷をつけられていた。
「……やあ、あんたか。あの猫獣人に謝れだとか言ってたが、本当にそんなことをさせに来たのか?」
俺の顔を見て怯えるかと思いきや、奴隷商人は意外なほどに落ち着いていた。
「……随分と、毒気が抜けたな。騎士団の取り調べで絞られたのか?」
「まあ、そういうことだ。もう私も歳なんでね、奴隷を商う稼業からは足を洗うことにした。というよりも、私のような生き方をしてきた者たちは、今は騎士団の命令を受けて人足として働く以外には、外で生きる道はなくなったのさ。私のように、亜人を売っていた人間には禁錮が課せられるがね。しばらくしたら、この牢屋から、より厳重な牢に移されるらしい。あんたもさすがに、そんな場所には足を踏み入れられんだろう」
「俺が来てくれて良かったみたいな口ぶりだな……俺は、あんたを殺してもおかしくないんだぞ」
「そこまで切れている人間なら、目を見ればわかるさ。あんたは俺のようなつまらん人間を手にかけたりはしない。だからこそ俺は、最後にあんたに教えてやろうと思ってここに来たんだ」
「教える……?」
奴隷商人はその時初めてにやりと笑った。卑屈だが、人間くさい笑い方だった。
「あの猫獣人には済まないことをした。そう謝れば、俺を生かしてくれるんだろう。だがそれだけでは、俺からの支払いは足りていない。あの猫獣人の親の情報を教える」
「っ……ファムの両親がどうなったか、知ってるのか……!?」
「あの猫獣人が買い取られたとき、その両親も一緒に競りに出された。しかし彼らは娘が売られたことを知ると、首輪をつけられる前に脱走した。それからは、娘を救うために富豪の屋敷に何度も入ろうとしたが、護衛によって防がれた。今も、娘がそこにいると思っているのかもしれんな」
「……そうか。ファムの両親は、生きている可能性が高いってことだな」
「早いうちに見つけ出せればな。それも、あんたなら不可能じゃないだろう。あのベルゼビュートを倒して、俺たちの組織を潰してしまったあんたなら」
そこで、面会の許可が出ている時間は終わった。男は牢番に連れられて、部屋を出ていく。
牢獄の外の空は雲ひとつなく、抜けるように青かった。自由ということがどれくらい価値があるか、確かめながら俺は歩く。
そして向かう先は――決まっている。ファムを買った富豪の家だ。ファムの両親がまだ娘を救おうとしているならば、そこには必ず手がかりがある。
◆◇◆
王都から南に下り、俺たちがもといた町を過ぎ、さらに南に向かう。
亜人を好んで買う人間のリストは、組織を潰した時点で得られていた。そのリストには買った奴隷の素性までが記載されており、その中にファム・ファタルの名前を探すことは難しくはなかった。
ファムを一緒に連れて行こうとは思わなかった。最初は俺だけでいい――何も、忌まわしい記憶を彼女に思い出させることなどない。
辿り着いたのは、港町だった。その町の町長こそが、ファムを買った張本人だった。
地元では名士として知られ、町の発展に貢献した人物――しかし俺が町に入って情報を得ようとすると、町人は青ざめ、頼むから何も聞かないでくれ、と言って逃げ出した。
(どういうことだ……町長が、そんなに恐れられて……いや……)
港町を見下ろす小高い丘の上に、町長の家がある。それだけ情報を聞き出すことができれば十分だった。
しかし丘を登り、町長の家らしき建物の近くまで来ても、全く人の気配を感じない。そして俺は、家の門の前まで辿りついたところで、ここで何が起こったのかを悟った。
――門柱に、爪痕がついている。
並みの大きさの獣がつけたものではない。そして周囲には何者かの血痕が残され、争ったあとが残っていた。
鍵もかけられていない、壊された扉をくぐって敷地の中に入る。玄関の扉に続く石畳のあちこちに、陥没した跡が残っていた。
それは、強力な脚力で、獣の足を叩きつけてできたもののようだった。その爪の形状を見て、俺は思う――まるで、巨大な猫のようだと。
(……やりとげたのか。ファムの両親は……いや、痕跡は一匹だけだ。戦ったのは、どちらかだけ……)
人間が、亜人より弱いということは決してない。町長の護衛が、猫獣人であるファムの親を退け続けられるかどうか――その答えが、この光景なのだと俺は思った。
襲撃が行われたのは、たった数日前のようだった。家の中に入ると、中は嵐でも起こったかのように荒らされていたが、埃が積もったりはしていないし、何者かが居間で酒を飲んでいた形跡まで残っていた。
表向きは豪奢な、貴族に憧れでもしたかのような屋敷の造りだったが、その地下は、座敷牢を備えた王族の屋敷などとは比較にならないほど、陰惨な気配に満ちていた。
地下牢もまた、爪で破壊されていた。おそらくはファムの親は、囚えられていた奴隷までも解放したのだ。
――そして俺は、地下から上がり、家主の家らしい部屋に辿り着いた。
他の部屋の荒れようと違い、その部屋は異様なほどに、元のままの姿を保っていた。
壁に何かを叩きつけたような、大きな赤い染みを除いて。
おそらくこの屋敷の主は、もうこの世にはいない。俺とファムがあれほど憎んだ相手は、もういない――。
ここで探すべきは、この屋敷の主人の在りし日の悪事ではなく、ファムの両親の手がかりだ。
「ん……?」
そして俺は気がついた。町長が使っていた机の上に、白い紙が置かれている。
それを手に取り、その文面を読んで、俺はファムの親が確かにここに来たのだと確かめることができた。
『我が愛する娘へ もしこの手紙を読むことがあれば、懐かしい我が家にて待つ
偉大なる森の精霊の子 グラド・ファタル レム・ファタル』
◆◇◆
その日のうちに家に戻った俺は、ファムに自分が見てきたことを伝えた。
クレア、マリアンヌ、ベルゼビュートは神妙な面持ちで、一緒に俺の話に耳を傾けている。三人とも、ファムのことを気遣ってくれていた。
「ファムの両親は、きっと生きてる。俺はそう思ってるよ」
それが俺が見出した結論だった。生き残り、全てを終えた後でなければ、書き置きを残すことなどできないからだ。
あの荒廃した屋敷に訪れ、書き置きを確実にファムが読むと思って残したわけではなかっただろう。他の侵入者が見つけてしまわないとも限らない――しかしファムの両親には手がかりがもう残されておらず、手段を選んではいられなかったのだ。
「……リョウに、一つお願いがある」
「お願い……?」
俺が聞き返すと、ファムはこくりと頷いた。
ファムの頼みとは、手紙に書かれた『懐かしい我が家』――故郷へと連れていって欲しいということだった。
俺はクレアとマリアンヌ、そしてベルゼビュートに留守を任せ、ファムと二人で、彼女の記憶をたどり、生まれ故郷の村を目指した。
そして辿り着いた猫獣人の村は――数年前、ファムがいたときに襲われたときのまま。火を放たれて焼け落ちた家はそのまま朽ちて、廃墟となっていた。
ファムは周囲に視線を巡らせ、ある方向に向かって歩き始める。俺はその横に並んで、彼女に尋ねた。
「ファム、自分の住んでた家を探してるのか?」
「そう……そこに、少しでも……」
ファムの言葉ははっきりとは聞き取れなかった。しかし俺は、『少しでも残っているものがあれば』ということだと受け取った。
やがてファムは自分の家の残骸の前に辿りつくと、無言で地面に座り込み、何かを探し始める――そして見つけたものは、骨で作られた細工物だった。
「……お母さんが作ってくれた、首飾りのかけら」
「……そうか。良かったな、見つけられて」
「うん。でも……もう、ここには戻らない。捕まってた村のみんなも、違う場所で暮らすって言ってた……ここには、つらい思い出が多いから」
「……ごめん。俺が、もっと早くファムを助けられてたら……」
「リョウは何も悪くない……悪いのは、獣人がお金になると思った人たち……そして、あの小悪魔。もう、リョウがやっつけてくれた」
そう言ってファムは微笑む。
しかしその笑顔があまりに儚げに見えて、俺は彼女を後ろから抱きしめた。
ファムは俺の腕に触れて、目を閉じる。撫でるように動いて、まるでそれが俺を労っているようで――傷ついているのは彼女なのに、癒やされているのが自分だと気がつく。
「……俺は、みんなを助けたつもりで、みんなに救われてたのかもな」
「助けてもらったのは、私たちなのに……リョウは、ときどきふしぎなことを言う」
ファムは振り返って俺を見る。彼女の笑顔がとても自然なものになった、と改めて思う。見た目は幼いのに、俺は彼女の胸に抱かれたなら、どれだけ安心するだろうと考えてしまう。
一人でファムの囚えられていた家に行っている間、俺が何を考えていたか――少しでも早く、みんなの元に帰りたいと思っていた。
俺が奴隷を甘やかしたいと思ったのは、同じだけ、孤独を癒やされたいと思っていたからだとわかった。
「急にそんなこと言われても、わからないよな……変なこと言って、ごめんな」
「……私はリョウと一緒にいて、幸せ。リョウがそう思ってたら、それだけでいい。他に何もいらない」
そしてファムは、俺が欲しいと思っている言葉をくれた。
何もいらないのは、俺のほうだ。転生して手に入れたかったものは、全部みんなが与えてくれた。
――それでも最強の力を持て余して、俺は物足りないと思ってしまっている。
もっと自分の力を生かすことができる世界があるんじゃないか。俺を転生させてくれたソロネに、力を貸すべきじゃないのか。
でもそれは、クレア、ファム、マリアンヌ、ベルゼビュートをこの世界に置いて、天使の元に戻りたいということではない。
(みんながついてきてくれるなら、方法はある。この世界での人生を『記録』して、ソロネの元に向かう――それなら、俺たちはこの世界を捨てたことにはならない)
しかし天使が俺の観測をやめたなら、ソロネの元に戻ることはできない。その時は、今まで通りでいい――みんなと一緒に幸せな日々を過ごす。それも最良の答えのひとつだ。
「……ファム?」
気が付くと、ファムが俺ではなく、肩越しに俺の遥か後方を見ていた。
村の門だった場所のあたりに、二人のことを見ている、二匹の大きな山猫がいる。
一匹は大きく、傷だらけの、青みがかった黒い体毛を持つ雄の猫。もう一匹は一回り小さく、しなやかな体躯と、白い毛並みを持つ雌の猫だった。
山猫はただ静かに俺たちを見つめ――そして、何をするわけでもなく、俺たちに背を向けて歩き去る。
「……もう、だいじょうぶ……ありがとう……」
ファムが猫たちの後ろ姿に向けてつぶやく。
彼女の頬に、涙が伝っていく――しかし、悲しそうな顔はしていない。
二匹の猫が見えなくなるまで、俺とファムは、何も言わずに見送った。その二匹が何者だったのか、ファムの一言で理解することができたから。
◆◇◆
獣人の村の近くに、獣神像が祀られている泉がある。二匹の猫を見送ったあと、俺はファムに連れられてその場所にやってきた。
本来なら、獣人はここで成人と認められ、嫁ぐことが許される。その認められる年齢が十二歳というから、今十三歳のファムは、一年過ぎていることになる。
「……すべての獣人の母、獣神さま……祈りを、捧げます……」
獣神像には乳房があり、女性の姿をしている。母性を感じさせるその像に、俺もファムと一緒に並んで祈りを捧げた。
長い祈りが終わると、ずっと目を閉じていたファムは、俺の方に向き直った。その目には、今まで見た中で初めての感情が宿っている。
――明確に、女性として、男の俺を見ている。そう分かる目だった。
「これで、本当に大人になれた……リョウが、連れてきてくれたおかげ」
「ファム。さっき、獣人の村で会ったのは……父さんと、母さんじゃなかったのか?」
「…………」
ファムは何も答えないが、その瞳が潤む。やはりそうだ、と俺は確信する――ファムは両親に会うことができていたのだ。
俺とファムを遠くから眺めるだけで去っていった、雄と雌の山猫。彼らは、ファムの父親と母親が、獣化した姿だったのだ。
「二人は、何か伝えてくれなかったのか……?」
「……大きくなった、って……もう、大人だから……私が選んだ人がリョウなら、その人と一緒に、生きていきなさいって……」
「……そうか」
ファムはそれ以上何も言わず、俺の胸に飛び込んできた。俺は彼女の包帯に包まれた身体を抱きとめて、その柔らかい髪に触れる。
俺の顔を見上げる時、彼女は涙をこぼしてはいなかった。ただ顔を赤らめ、切なげな瞳に俺を映す。
「……リョウのことが好き。これからも、ずっと一緒にいたい」
「うん。俺もファムのことが大事だ……好きだよ」
「ありがとう……でも……」
ファムは顔を真っ赤にして俺から少し離れると、愛らしい猫耳をぴくぴくと動かして、しばらく迷った後に――意を決したように彼を見る。
「……好きっていうだけじゃ、たりない。触ったり、抱きしめたりしてもらうだけじゃ、もう……」
「ファムを、大人の女性として見ていいってことか?」
「……私は、もうじゅうぶん大人。ご主人様に、できることがたくさんある」
「そうか……その気持ちは嬉しいけど。抱っこしてるだけじゃ足りなかったら、その次はけっこう勇気が必要だぞ?」
「リョウなら痛いことしてもいい。リョウがしたいことぜんぶ、していい……わたしは、何もできないから……」
「何もできないなんてことない。俺は一緒にいるだけで幸せだし、ファムが笑ってくれると俺も嬉しい」
間違いなくそう思っているのに、ファムは今はなぜか、寂しそうな顔をする。
「……リョウはすごく強いから、捕まってた人たちを助けたときに、みんなリョウは神様の使いだって言ってた。わたしも、少しだけ、そう思った……魔法がないのにこんなに強いのは、本当に、リョウが……」
俺がただの人間ではないなんて、もうみんな分かっている。
しかし、俺は自分がなぜ強いかまでを誰かに話したことはない。みんなを信用してないからじゃない、特典を他人に明かすことは、自分が枠外を生きていることを示すことになる。それが広く伝われば、俺と同じような力を得たいと思う人が出てきたり、なぜ自分は得られないのかと憤ることもあるだろう。
「……クレアも言ってた。ご主人様は、いつか私たちを置いて行っちゃうかもしれないって」
「強すぎるからか? 確かに、この力があれば何でもできる。手に入らないものなんて、何もない……でも、一つ忘れないでいて欲しいんだが、俺はもう、手に入れたいものを手に入れてるんだ。それを、自分から手放すなんてことはありえないよ」
「……もしどこかに行くときは、わたしたちも連れていって。リョウと一緒なら、どこでも行く。リョウがいなくなったら、わたしはもう生きていたくない」
「……自分のことを大事にしてくれとか。そういうきれいごとを言うところなんだろうけどな。じゃあ、俺はファムにもみんなにもずっとそばに居てほしいから、それこそ世界の果てにだって連れていくよ。マリアンヌやベルゼビュートは、どう言うかわからないけどな」
「……だいじょうぶ。リョウがいないときも、ふたりはリョウのことばかり話す。みんな、同じ気持ち」
俺の言葉に嘘がないと分かってくれたのか、ファムは俺に抱きついてきた。俺は彼女の柔らかく豊かな髪を撫でながら、猫耳にもふもふと触る。ファムはくすぐたったそうにして、けれどそれだけではないというように、目を潤ませて俺を見上げてきた。
「……リョウに触ってもらうと、落ちつく。外でも、どこでも眠たくなる」
「そうか……じゃあ、せっかく獣神さまのところに参りにきたわけだし。お膝元で休ませてもらうとするか」
俺は手近なところにある岩に座ると、ファムを手招きする。ファムは久しぶりに猫の姿になると、俺の膝の上に乗って丸くなった。
「にゃ……にゃぅ……ごろごろ……」
背中を撫でて、あごの下を撫でてやると、ファムは喉を鳴らして心地よさそうにする。
人間の時の彼女も愛らしいが、猫の姿にはまた別の良さがある。しかし前世で動物を飼えていたとしても、こんなに満たされた気持ちにはならなかっただろう。
「……どこにでも、連れていく。そこがどこであろうと、俺がみんなを守ればいい」
そう語りかけると、既に眠たそうにしていたファムの目が開いて、俺の肩につかまるようにして、頬に口を寄せてきた。それは猫として舐めているのではなく、キスしてくれているようだった。
「……にゃーん」
普通は飼い主がペットとキスをするとペットが虫歯になってしまったりするのでいけないらしいのだが、ファムは猫獣人だし、虫歯になったら闇医者に連れていってあげればいいだろう。クレアが歯磨き指導をしているので、まったく問題ないと思うが。
猫の姿のファムと、初めてのキスをする。彼女はそれでは物足りなくなったのか、途中で人の姿に戻り、俺の首に手を回して抱きついてきた。
その頬に涙が一筋流れていく。それは彼女が大人になり、親離れをしたこと――その寂しさからくるものだろうと俺は思う。
抱きつかれれば、控えめな胸でも、押し付けられてその形を主張する。俺はそこに全ての意識を持っていかれそうになりつつ、顔を赤らめ、俺のシャツをつかむ彼女と見つめ合う。
まるで、おねだりをされているようだ。何も言わなくても彼女は目を閉じて、俺は引き寄せられるようにキスをする。
木々の間を抜けてきた暖かな陽射しの中で、俺はファムがせがむたびにキスをし、緩やかに流れる時間に身を任せた。
 




