猫獣人の章・6 包帯
ファムが起きられるようになったのは、次の日の朝のことだった。
今朝もクレアが朝食を作っている間、俺がファムの様子を見ていたのだが――眠っていた彼女のまつ毛が動き、ぱち、と目が開いて、ファムは身体を動かそうとし始めた。
「ん……んぅ……」
「ファム、大丈夫か? 痛かったら、まだ起きなくてもいいからな」
「……痛くない……痛いの……だいぶ、よくなった……」
ディラックの言っていた、彼女の火傷に塗られた膏薬が定着すると、彼女の全身を苛んでいた痛みはほとんど消えたようで、ファムはゆっくりと身体を起こすが、つらそうな顔はしていなかった。
「……リョウ……クレアが、言ってた……」
「ああ、俺の名前はリョウ・カシマ。ファムの名前は、『ファム』だけなのか?」
「……獣人は、氏族の、なまえだけ……わたしは、ファタル族……」
ファタル族のファム、ということか。青みがかった黒い髪、そして同じ色の猫耳。片方が半分しかないのが痛々しいが、そちらの耳にも医者の処置がされていた。再生こそしないが、傷から感染症を起こしたりということもないだろう。
「……首輪……ずっと、つけられてた……今も……外さなきゃ……」
「あ……そうだよな。前の主人につけられた首輪だもんな……」
「……リョウは、いっぱい、お金出してた……私、リョウのもの……助けてもらった……」
「っ……い、いや。あの場では、金を払っといた方がいいって、俺の考えもあっただけだから。金を払ったからって、俺の奴隷になる必要は……」
ない、と言おうとしたところで、ファムがじっと俺を見ていることに気づく。
そのつぶらな瞳には、静かで、けれど確かな感情の輝きをたたえた光が戻ってきている。じっと見られると、まるで心の中を見透かされているかのようだ。
だが、悪い気はしない。ファムが俺の心を見定めているなら、望むところだ。俺は彼女を甘やかして、癒してやりたい。そのためには、彼女が少しでも疑いを持つことがあってはならない。
「……リョウなら、いい。私のこと、人みたいに扱ってくれた。私のために、怒ってくれてた……」
「えっ……ま、まあ確かに本気で怒ってたけど……それは、ファムに好かれたいからってわけじゃないんだ。それだと、下心があったってことになっちゃうしさ」
慌てて弁明したら、もっと怪しくなってしまうじゃないか――と思いつつも、ファムが俺のことを好意的に見てくれていることに驚き、どうにも動揺してしまう。
なにせ落ち着いているファムは、包帯で覆われた姿こそ胸が痛むものはあるが、明らかに美少女なのだ。クレアより一回り幼く、食事を取っていなかったからかかなり痩せてしまっているが、それでも大きな瞳に白い素肌をしており、声も涼やかでとても愛らしい。
「……そういう言い方だけで、わかる。リョウは、私のこと、いじめない。守ってくれる」
「あ、ああ。それは約束するよ、間違いない……こんな言い方すると変に思うかもしれないけど、俺はファムに甘えて欲しいんだ。したいことは何でも言ってくれ」
「したいこと……」
ファムはいったん視線を落として、包帯に包まれた自分の手を見たあと、もう一度俺を見て言った。
「……身体、洗いたい。全身にべたべたした薬がついてる……もう取ってもだいじょうぶのはず」
「そうか、包帯は一日経ったら外していいって言われてたからな。慎重にした方がいいけど、確かに身体は洗っても大丈夫かな」
「……おふろ、ずっと入ってなかった。はいれる?」
「もちろん。じゃあ俺、湯を沸かしてくるよ。ファムはここで待ってるんだぞ」
「クレアがお料理してる。音が、とんとん、ぐつぐつって聞こえてくる……私も、手伝いたい」
「え、えらいな……やばい、ちょっと俺涙が出そうなんだけど……」
ファムがクレアを手伝いたいというのを健気に思ってしまうのは、彼女のことを可哀想だと思いすぎているからかもしれない、と自分を戒める。しかし、どうにも胸が熱くなってしまって言葉が出てこない。
二日前までは生死の境をさまよっていたのだ。手術が成功したこともそうだし、こうして俺と普通に話して、少しでも心を開いてくれているだけで、得難い光景だと感じてしまう。
「……リョウ、ないてる……私が薬の中に浸かってるときも、泣いてた」
「な、泣いてはいないぞ。男は、そう簡単に泣いちゃいけないからな。俺もそういうもんだと思ってる」
「…………」
そんな俺の言葉を強がりだと見ぬいたのか。
身体を起こしたファムは、包帯に包まれた手で俺の胸元につかまり、頬をぺろ、と舐めてくれた。
「っ……ふぁ、ファム……?」
「……涙がこぼれてた。リョウはきづいてない。男の人が泣いてるところ、初めてみた」
「ほ、本当に? い、いやその、さっきあくびしたからだよ。ははは……」
「涙がでそう、って言ってた……リョウは、やさしい……」
――今度は、頬を舐めるわけじゃなかった。ファムは俺の首元に、唇を寄せてくる。
柔らかくてくすぐったい感触があって、ファムはそっと離れるが、俺の胸につかまったままだった。服をきゅっと掴みしめて、俺を潤んだ目で見ている。
「……うれしい。泣いてるのがうれしいなんて、だめ……ほんとは……私、悪い子……」
「……悪い子とか、誰にも言わせないよ。ファムはいい子だ……もう、俺には十分すぎるほど伝わったよ」
「……お父さんとお母さんも、昔、言ってくれた。でも……リョウが言ってくれるのも、うれしい……」
真っ白なファムの顔に血の気が戻ってきて、ほんのりと赤く染まっている。
こんな愛らしい子に、なぜ酷い仕打ちができたのか。そのことへの怒りは、今も消えずに俺の胸にある。
――しかし、今はこうして会えたこと、話せていることを喜びたい。
「……リョウ……いい子いい子、ってして……?」
「えっ……」
だが俺が感動を純粋なものに変えようとしている以上に、ファムはもう、俺に心を許してしまっていた。
その瞳にじっと見つめられると、ひとたまりもない。
――甘えてくれている。俺がずっと望んでいたことを、ファムが自分から求めてくれているのだから。
「……これから、幾らでも甘えていいからな」
俺はファムの背中に左手を回し、右手で彼女の頭を撫でた。風呂に入ってないというが、その手触りはしっとりとしていた。
しっかりと洗ってあげれば、きっと彼女の表情はさらに明るくなるだろう。お風呂に入りたいと言ったということは、元の彼女はきれい好きだったのだろうから。
「リョウの手、大きい……もっと撫でてほしい……」
「ははは……でも、ずっと撫でてると、クレアを待たせることに……」
「私なら大丈夫です、ご主人様。だって、来ちゃいましたから」
クレアがいつの間にか来ていて、ベッドの上から身を乗り出して俺になついていたファムは、そっと離れてクレアに微笑みかけた。少し恥ずかしそうだが、それでも俺から手を離すことができずにいる――どうやら、すでにファムは甘えん坊になってしまったようだ。
「元気になって良かった……ファムさん、すっかり身体の具合が良くなったんですね」
「……クレアが、頑張ってって言ってくれたから……リョウのこと、かんじゃったこと……ごめんなさいって、言おうと思って……それで……」
「何も謝ることない。ファムが噛みついても、俺には甘噛みみたいなもんだからな」
「……ちがう。本当に甘噛みすると、こうなる……」
「っ……」
ファムは俺の手を取り、口元に運ぶと、はぷ、と指をくわえてみせた。柔らかい唇に挟まれているだけで、痛みはなく、思わず声が出そうになるような感覚がある。
「ふぁ、ファムさん……ご主人様がそんなに気持ちよさそうにされるなんて。すごいです、私にもやり方を教えてほしいくらいです」
「……かぷ、ってしただけ……女の子の友達同士で、よくこうやってじゃれてた……」
(な、なるほど……獣人のコミュニケーションか。し、しかし、それにしても……)
今まで甘噛み自体にさほど興味を持たなかった俺だが、こんなに心地良いのなら、する意味があるんだなと思ってしまう。何事も経験だ。
「……ところでファム、あまり何度もかぷかぷされると、俺も落ち着かないというか……」
「あ、あの……ご主人様、私のお耳も、かぷ、ってしていただけますか?」
なぜそうなる、とツッコミたくなるが、クレアは耳がかなり敏感な部分なので、甘噛みされたらと想像してしまったようだ。
「……だめですか? だめですよね。ご主人様にかぷっとしていただくなんて、私には恐れ多いですし……」
「わ、わかった……そんなにしてほしいならしてやろう。でも、まずは朝食を食べてからだ。ファムは久しぶりの食事だけど、柔らかいものの方がいいんじゃないか?」
「はい、山羊の乳のお粥を作ってみました」
「っ……乳のお粥、好き……お母さんが良く作ってくれてた。クレアは、お母さんみたい」
「そ、そんな……私、まだご主人様の赤ちゃんは授かっていませんし……」
そんな期待されるような目で見られると、俄然やる気になってしまうのだが――ファムが元気になったばかりなのに、すぐにそんなことを考えるのも気が引ける。
わりと真剣に悩む俺だが、好物が食べられると聞いて目を輝かせていたファムは、クレアと俺を見比べて、何やら言いたそうにしていた。
ファムは最初は食事が喉を通らなかったが、クレアの尽力もあって、柔らかいお粥なら食べられるようになった。少しずつ食べられるものを増やしていけば、さらに元気になっていくだろう。
そして俺は、ファムのお風呂に入りたいというリクエストを聞き、昼間から風呂の準備をした。
クレアとファムを呼びに行くと、彼女たちは朝食の片付けを終えたあと、二人で手を合わせてリズムを取りつつ、わらべ歌を歌う遊びをしていた。
「あ、ご主人様……今、ファムさんと遊んでいたんです」
「……クレアは、ほんとにお母さんみたい。お母さんが知ってた歌も知ってる」
「そうか……まあ、確かにクレアは次第にお母さんっぽくなってきてるな」
「で、では……今夜あたりにでも、ご主人様のベッドでお待ちしていてもよろしいですか……?」
「い、いや、それは……嬉しいけど、ファムもいるしな。ファム、風呂が湧いたぞ」
「うん……入る」
「ご主人様が入られたら、私たちは後から入ります。それが、この家の決まりですから」
「そうか? 今日は、ファムが入るのが一番大事なんだけどな。まあいいか、じゃあ俺が先に入るよ」
もともと俺は風呂に入るつもりはなく、ファムとクレアがゆっくり風呂を使ってくれればと思っていたのだが、いざ浴室にやってくると、入ろうかという気分にさせられる。
石鹸は貴重品だが、在庫が尽きていなければ町でいつでも手に入る。洗髪料はさらに貴重なので、俺はたまにだけ使うことにしていた。クレアの美しい艶髪を保つ方が大事だし、今回の場合は、ファムに思う存分使ってもらいたい。手術の前後でローラの手で身体の洗浄はしているが、それから二日は寝たきりだったわけで。
「ふう、さっぱりした。さて、上がるか……」
――しかし風呂から上がろうとして扉を開けると、そこには布で身体を隠したクレアと、同じ姿のファムが立っていた。ファムの身体には、まだ包帯が巻かれている。
「うわっ……あ、後から入るんじゃなかったのか?」
「ファムさんの包帯を外すときに、ご主人様にも立ち会っていただきたいと思って……ご主人様は、恥ずかしがって入ってきてくれないかなと思いましたから……奴隷なのに知恵を使って、申し訳ありません」
「……リョウも、ゆっくりお風呂に入るといいと思う」
「い、いや……っ、今は包帯巻いてるけど、それを解いたら裸なんだぞ……!?」
「……リョウになら、見られてもいい。恥ずかしいけど……包帯、自分で取るの、怖いから……」
そういうことなら、クレアだけに任せるのは逆に申し訳ないか……これは必要なことだ。裸を見てしまうからといって、意識しすぎてはいけない。
「わ、わかった。じゃあ、ファム……こっちにおいで。傷の具合を見ながら、洗っていかないといけないしな」
「……うん。リョウが見てくれたら、安心……」
素直についてきて、風呂いすに座るファム。俺は後ろから始めるか、それとも前からかと悩むが、まずは最も無難な腕から包帯をほどくことにした。
クレアは右腕、俺は左腕の包帯緩めて、ゆっくりと剥がしていく。ぬるついた膏薬の残りは、ぬるま湯を使って丁寧に落としていくのが良さそうだ。
――犬に噛まれた傷、酸に焼かれた痕。それはやはり残ってしまっているが、俺はそれを見ても、ただ彼女を憐れむだけということはなかった。
これだけの傷を負って、それでも生きていてくれたことへの感謝で、胸がいっぱいになる。いつかこの傷を消してやると誓いながら、俺たちは腕の包帯を外し終えた。
「……リョウ……じっと見てくれてる。目をそらさないでくれて、ありがとう……クレアも……」
「っ……私は……ご主人様がいなかったら、何もできてないです……情けないです、こんな……」
クレアはファムの姿を見て涙をこぼしていた。しかし、まだこれからだ――頭、胸部、そして足に巻かれた包帯が残っている。
「……ファム、本当にいいのか? これ以上、見ても……」
「……リョウには……見てほしい。どれくらいよくなったか……どれくらい、傷が残ってるか……本当は、もう、薬に浸かってるときに見られてたけど……もう一回、見て……」
ファムがどんな思いで、俺に今の身体を見せようとしているのか――それを思うと、もう後に引くことはできない。
俺は考えた末に、頭の包帯を外すことにした。ようやく、ファムの素顔を改めて見ることができる。
――その包帯に覆われた部分。顔の一部には、火傷の痕が残っている。
顔を焼かれたとき、ファムはどれほど傷ついただろう。
俺に顔を見られたときから、ファムの瞳に、今までにないほどの感情が現れる。ずっと淡々としていた彼女が、初めて怖がっている――俺が、何て言うのかを。
ありきたりな言葉。どんな言葉も気休めでしかないとしても、今、素直に思ったままを伝える。
「……火傷があっても可愛いなんて、反則だな」
「……可愛いなんてことは、ない……私、もう、女の子じゃないから……」
「そんなことないよ。いや、そんな簡単に言うなって思うかもしれないけど、俺は『女の子じゃない』なんて思わない。一度もそんなふうに思ったことはないんだ」
ファムは俺を黙って見つめる。不安で仕方がない、けれど俺の真意を確かめたい――そんな目だった。
「いつか必ず治してやる。絶対に治してやる……だけどそれまでも、俺はファムの姿ごと大事にする。何も、引け目に思うことはないんだ」
「……あ……あぁ……」
ファムの大きな瞳が震えて、見る間に大粒の涙がこぼれ始める。彼女は俺に素肌が触れることも気にしないで縋り付くと、声を上げて泣き始めた。
「わぁぁぁぁっ……!」
「辛かったな……でも、辛いのはもう終わりだ。これからは幸せになっていかないといけない。俺とクレアを信じて、ついてきてくれ」
「ふぅっ、うぅっ……うぁぁぁんっ……!」
ずっと感情を殺してきたのは、自分が『女の子じゃない』と思うほどに傷つけられてしまったから。
だったら俺は、何度でも言う。俺はどんな姿のファムでも、女の子として扱うし、そうとしか見えないと。
俺はファムを抱きしめ、彼女は泣き続ける。それを見ていたクレアも泣いていたが、彼女は俺に笑ってくれた。
これから、全てが良い方向に向かう。クレアの笑顔は、俺にそう信じさせてくれるには十分なほど眩しいものだった。
※次回は明日更新です。




