猫獣人の章・5 癒やしの始まり
――ファムの手術が始まってから、どれくらいの時間が経ったのか。
待っている間に、いつしか俺は眠りに落ちて、夢を見ていた。
夢の中では、ファムと両親がそろっていて、ファムの身体には包帯が巻かれていなかった。
しかし夢の中は光にあふれていて、ファムと両親の顔を、はっきりと見ることができなかった。
笑っているのだろうと思う。けれど俺にはまだ、ファムの笑顔を想像することすらできていない。
偶然だったといえば、そうだ。あの奴隷市場にファムが捕まっていなければ、俺が訪れなければ、出会うことはなかったのだから。
だが、もう今は偶然などではない。彼女に出会ったという事実を変えたくない、その気持ちから、俺はファムと出会った後にセーブを残した。
ファムに『買う側の人間』とみなされ、憎悪を向けられている俺が、彼女の心を開くなんておこがましいことだと分かっている。
――しかし、クレアなら。
一度深く傷ついてもなお、全てを包み込むような暖かさを持つ彼女なら。
「……ん……」
「気が付かれましたか? ご主人様」
「わっ……ご、ごめん。俺、寝ちゃってたのか……」
気が付くと、俺は待合室の長椅子の上で、クレアに膝枕をされていた。クレアの金色の髪が、薄暗い明かりの中で、神秘的なきらめきを放って見える。
俺は深夜になって眠ってしまったのに、クレアはずっと起きていてもなお、意識がはっきりしていた。
「エルフはその気になれば、不眠で過ごすこともできます。そういうふうになっているんです」
「……そうなのか。でも、疲れただろ。次は、俺が起きてるよ」
「いいえ……ファムさんが起きたら、伝えなければならないことがありますから」
「なんて……言うつもりなんだ?」
「あなたが目覚めるのをずっと待っていました、って言いたいです」
「……そうか。クレアは、やっぱりすごいな」
「すごいのは、ご主人様です。ファムさんも、分かっていると思います……ここに運んでもらった時には、まだ少し意識が残っていたみたいなんです。魔法で語りかけてみたら、少し答えが帰ってきました」
ファムは、俺に対して言っていたようなことを、クレアにも言ったのだろうか――いや、そうではない。
クレアは聞けずにいる俺に微笑みかけ、その胸を顔に押し付けるようにした。俺を喜ばせようとしてくれている――いや、彼女は俺を労ってくれているんだ。
「……ご主人様は、私を助けてくれたのかと。ファムさんは、そう聞いてきました。私は、あなたがここから出られたときに笑ってくれるのなら、それが助けたということかもしれないです、と答えました」
「……俺より、俺の気持ちを、よく伝えてくれてる……しかし、これだと呼吸ができなくなりそうなんだが……」
「もう少しだけ、こうさせていてください。ご主人様が無事に戻られたことも、私は嬉しいですから……」
どれだけ強くなっても、人に心配してもらうというのは嬉しいことだとその時気がつく。
顔を挟みこむような二つの柔らかさ、そして花の蜜のような甘い匂いに包まれて、俺はしばらく目を閉じ、クレアにただ身を委ねた。
――気がつけば、階段の上から、朝の光が漏れてきている。
不眠でも平気と言っていたクレアだが、やはり心労があったのか、俺と入れ替わりに眠ってしまった。今度は俺が彼女に膝枕をして、ファムの手術が無事に終わることをひたすら祈り続ける――そして。
手術室の扉が開く。担架に載せられたファムは、薬液槽のある部屋に置かれたベッドに移された――俺はクレアをそっと長椅子に寝かせ、ファムの元に急ぐ。
「ファム……っ!」
「慌てるな。まだ、皮膚を再生するために塗った膏薬の効き目次第ではあるし、損傷していた肺、骨折していた三箇所の措置も、経過を見なければならん」
「っ……そんなところまで……あんた、それを伏せて手術を受けてくれたのか?」
ディラックは髪をまとめていた帽子と口を覆っていた布を外し、手術着を脱ぐ。全身が汗だくになっていた――どれだけ長い時間集中していたのか。手術が始まってから10時間、ローラの言っていた予定より早く終わらせるために心血を注いでくれたことが、その姿から伝わってくる。
「火傷でただれた部分が熱を持たないように処置をして、皮膚呼吸もある程度回復させた。もらった予算は、どうやら返すどころか、少々足が出てしまったが……そこは、貸しにしておいてやろう。おまえには恩があるからな」
「……ありがとう。恩に着る……!」
「きりがないから、礼の言葉はいらん。あえて言うなら、生きようという意志を捨てなかったこの娘に言うことだな。あれほど痛めつけられても生きていられたのは、この娘の心が死んでいなかったからだ……っ、と……」
ディラックはふらりと倒れかかり、ローラに支えられる。ローラは汗をかいておらず、しかしディラックのことを心配して、初めてわずかに感情を顔に出していた。
「すまんが、俺は寝る。この娘はもう連れ帰っても構わんが、一日は包帯を外すな。もし熱が出るようなら、ローラから薬を出させるから、そいつを飲ませろ。膏薬が皮膚に定着したら、火傷の痕こそ残るが、命に支障はない……他に聞きたいことはあるか?」
「いや……大丈夫だ。ありがとう、先生」
「……あんたは良くわからんな。その強さで、人間臭さがこれほど残っているのは……それこそ、人間離れしてるよ」
皮肉めかせて言うと、ディラックは彼らの居室だろう部屋に戻っていった。残ったローラは、俺にファムが退院したあとの処置について教えてくれた。
俺が外見だけで判断できた傷よりも、ファムはずっと重い傷を負っていた。それを考えれば、ディラックが手術が成功するか分からないと言ったのもわかる――しかし、彼は俺が思うよりずっと腕の良い医者だった。
ロードをすれば、ファムが命を落とした世界を捨ててやり直すことになる。それを思うと、一度目でファムを助けてくれたことに、簡単には感謝し尽くせない。
俺はやり直せるとしても、ファムが死んでしまうことが怖かった。セーブをすればやり直しが利き、リスクを回避できる――だが、今になって気がついたが、セーブは使いどころを限定される特典だ。逆に言えば、場合によっては無二の力を発揮する能力でもある。
(ソロネは分かってたんだろうな……俺の未熟さを、気づかせようとしてくれたのか。それとも……)
今回は、天使は力を貸してはくれなかった。いつでもソロネの助力を期待してはいけない――そう戒めながらも、俺は天使ともう一度話したいという思いを強くせずにいられなかった。
ファムを家に連れ帰ったあと、彼女のためにベッドを一つ新しく手配し、それまでは俺のベッドで寝かせることにした。
クレアに処置の仕方を教えて看病を頼み、既に日が変わっていたので、俺はギルドでCランクの仕事を一つだけ受けた。翌日にはBランクの仕事が入ると言われて、俺は朝一で依頼を受けに来ると言い置いて家に帰った。
ファムは俺の家に来てから、こんこんと眠り続けていた。Cランクの依頼で稼いだ金で食料を買い、クレアと看病を交代して、彼女に食事を作ってもらう。
昼食を済ませたあとも、俺はクレアに自分から申し出て、ファムの看病を続けた。
「くっ……うぅ……熱い……」
「ご主人様、ファムさんの様子が……っ!」
「熱が出たら、これを飲ませろって言われてたな……」
薬瓶から飲み薬を垂らし、ファムの唇の間に慎重に流し込むと、彼女はこくん、と喉を鳴らして飲み下した。
薬の効果はすぐには発現しない――しかし、十分経たないうちに、ファムの様子が落ち着いてくる。
「……すぅ……すぅ……」
ファムの顔の半分は包帯で覆われているが、覗いている瞳を見る限りでは、もう苦痛の色は感じられない。
それからも俺は、ファムが苦しみ始めても見逃さないように、傍らで見守りつづけた。
「……おか……さ……」
熱ではなく、母親を呼んでうなされるファムを見て、クレアは泣きながらその手を握った。そうすると、ファムの表情が和らぎ、微笑んでいるように見えた――それが俺にとっても救いだった。
もう一度夜を越えて、朝が近づく。クレアが朝食の支度をしている間に、俺は仕事に出る支度をする。Bランクの依頼を一つ受けてしまえば、しばらくは仕事に出なくてもファムについていてやれる。
外に出る支度を整えてから、ファムの顔をもう一度見ようと、彼女のところに戻ってきた。するとドアを開いた音に反応し、包帯の間から出た片方の猫耳が、ぴくぴくと震える。
「…………ん……」
「……ファム? 目が覚めたのか……?」
大きな声を出してはならない、しかし感情を抑えきれない。
やっとファムと言葉を交わすことが出来るかもしれない。しかし、初めの一言は拒絶の言葉かもしれない――。
ファムが俺を見やる瞳には、まだほとんど光は宿っていない。やはり、俺のことを憎んでいるのか――そう思った瞬間だった。
「……くすり……あり、がと……」
「薬……熱を下げる薬のことか? ファム、意識があったのか……?」
「……ちがう……他にも、いっぱい……」
クレアが、俺のことを伝えてくれていたのか。それを、ファムも受け入れてくれたのか。
彼女の言葉は断片的で、まだ言いたいことの全てを言えてはいない。
けれど、俺を拒絶していない。その手が俺に向けて、ゆっくりと差し出される。
その手を握ってもいいのか。問い返すまえに、俺は包帯でくるまれたファムの手を取り、両手で包み込んでいた。
「……良かった……ファム。本当に……」
ファムは何も言わず、俺をただじっと見ている。
まだ、目が覚めただけ。そして、俺を憎まなくなっただけ……初めの、小さな一歩を踏み出せただけだ。
しかし、これからもっと元気になる。ファムの笑顔を、いつか見られる。
「……あり、がと……ベッド……あなたの……」
「ああ……そんなこと、気にしなくていい。ファムのためのベッドを買ったら、自由に使っていいからな……」
ファムは自分の状況を全く悟っていないわけではなかった。そんな彼女が頑張って一言ずつ話しかけてくれる。
それに耳を傾け、返事をしているうちに、クレアが俺を呼びに来て、朝食をつくる時に使った木のおたまを落として、ファムに駆け寄ってすがりつく。
「ファムさん……良かった……目が覚めたんですね……っ」
「…………クレア……あり、がと……」
泣きじゃくるクレアの頭を撫でながら、ファムは俺の方を見て。
そして、包帯ごしでも何とか分かるくらいの、ほんのわずかな微笑みを見せてくれた。
※次回は明日更新です。




