第4章 15幕
降りしきるスコールの音が辺り一面の音をかき消す。薄暗いジャングルの中、木々達は雨に打たれながら激しく揺れた。
その中を数人の影が動く。その人影はやがて大きな横穴へとたどり着くと中へと入った。中へ入ればスコールの音から解放される。横穴の奥深くに歩こうとするが疲れ切った身体は悲鳴を上げ、崩れるようにしゃがみこんだ。
「ルイ!!」
しゃがみこんだ人影、ミネルはおぶっていたルイをゆっくりと降ろす。仰向けに寝かされたルイは赤く染まり、今も尚脇腹からは湧き水のように血が溢れていた。
「ルイ! ルイ!!」
何度も叫ぶ。その叫びは洞窟の中に反響した。ドドンガの巣だったはずの横穴は暗黒が広がっている。生き物の気配はもうない。
ミネルの後ろからコハルが洞窟に入って来る。続いてイレアが。
コハルはミネルの方に駆け寄ると、寝かされたルイの元で座り込んだ。
「ルイ君!!」
声を上げ頬を触る。しかし彼からは何の反応もない。
「どうしよう。僕、僕……」
コハルは雨で濡れた髪を後ろに束ねながら「服が邪魔です。切断してください。それと、彼の名を呼んでください。意識をこちらに引き止めないと……」と言った。
「分かった……」
ミネルはコハルの指示でルイの服を握る。
しかし「いい、ミネル。俺がやる」と後ろから声を掛けられた。
そこにいたのは右手を庇い、よろめきながら洞窟に入って来るレインだった。
「レイン君!? けど……レイン君も怪我を」
ミネルは不安そうに声を上げる。どう見ても彼の怪我も重症だ。止血していない腕は真っ赤に染まっている。
レインは同然と佇むイレアの横を通り過ぎ、ルイの横に座った。服を腰に挿したナイフで切り裂き、自分の右腕を縛り始める。
「お前は応援を呼んできてくれ。このまま洞窟にいたら、あのボスが帰って来るかもしれない」
「けど……けど……」
ミネルは動揺して声を震わせた。
「大丈夫。俺とコハルで何とかする。俺よりお前の方が土地勘があるんだ。頼めるよな?」
レインは右腕に布を何重にも巻きつけ、最後に歯できつく縛った。
「お前が頼りだ」
「…………分かった」
ミネルはレインに大きく頷くと、ルイの顔を覗き込む。魚人族特有の白い肌がさらに白くなった彼を見つめ「ルイ、必ず帰って来るから」と、言葉を投げ掛けた。
「待ってて!」
ミネルはホルスターから抜いた拳銃を握り、洞窟の入り口に立つとスコールの中へと消えて行った。
その背中を見送ったレインはナイフをルイの衣類に当てると一気に切り裂く。そこから露わになる彼の素肌と傷口。あまりの光景にコハルとレインは一瞬息を飲んだ。
「……コハル、やれるか?」
レインがコハルの瞳を見つめる。コハルは赤と金の瞳を見つめ返すと大きく頷いた。
「はい。やれます! そのために私はここにいるのですから」
その言葉を聞いたレインは、腰に着けているウエストバックから綺麗な包帯を取り出す。そして赤々と染まる彼の傷口へ押し当てた。
コハルはルイのへその辺りを両手で押さえ、顔を覗き込む。
「ルイ君! ルイ君!!」
名を呼びながら能力を送る。何度も何度も、名を呼び続ける。
「ルイ! 行くな! 帰って来い!!」
レインも声を荒げ止血をしていく。
「ルイ君!」
「お前はまだあっち側に行くべきじゃない!」
「ルイ君! 帰って来て!」
「お前の生きる場所はここだろ!? ルイ!」
二人の声が洞窟に反響する。
外の雨音がかき消されるように響く。その声を聞きながらイレアは同じ場所で佇んでいた。
先程のルイの顔が忘れられない。自分を守り、目の前で傷つくあの光景が頭から離れない。
足がすくんだ。真っ白な顔をしたルイが真っ赤に染まる姿が……怖いと思った。
「イレア!」
突然名を呼ばれ、意識が戻てくる。
「イレア! お前の言葉が必要だ」
レインは自らの腕の痛みに耐えているのだろう、顔を歪ませながらイレアを見る。
「ルイを呼んでくれ。このままだと逝ってしまう!」
「……けど……」
「お前の言葉が必要なんだ!」
「……けど、私……わたし……」
「ルイはお前の言葉を待ってる。だから!!」
レインの必死の声にイレアは茫然と立ち尽くしていた足を動かす。そうしないと後悔しそうだったから。今動かないといけない、そう思った。そしてルイのもとへ歩むと座り込む。
「ルイ……」
彼の名を呼んでみる。いつも名を呼べば、彼はこちらを振り向いてくれていた。ぶっきらぼうでも返事をしてくれた。ルイの行動一つ一つが蘇る。自分を叱る声も、甘やかしてくれる顔も、全部。
特別にしてくれる彼……。自分はそれが嫌だった。嫌だったはずなのに……。
「ねえ、ルイ。起きてよ……」
大嫌いだ。彼なんて、大嫌い。大っ嫌いだった……はずだ。
「ルイ! ねえ!! 起きてよ!」
頬に手を添える。
「ルイがいなくなるのは嫌だよ! ルイがいないと……いやだよぉ」
イレアはその場で泣き始める。溢れる気持ちが抑えられない。嫌いだったはずの彼がいなくなるのは……嫌だ!
「ルイ!!!!」
イレアの言葉にコハル、レインも彼の名を呼び続ける。
スコールの音をかき消すように何度も、何度も……。
スコールの音が洞窟の外から聞こえるのは変わりない。しかし中は先程よりも安堵の空気が流れていた。
寝かされたルイの顔色が少しばかり鮮やかになり、脇腹の傷口はレインの応急処置とコハルの能力のおかげで何とか止血することができた。
しかしこのままでは命の危険はまだある。早く街に戻ってきちんとした治療を施さないといけないだろう。
コハルは顔色が良くなったのを確認し、大きく深呼吸をした。イレアはルイの胸板に顔を当て、まだ泣いている。スコールの音と、イレアのすすり泣く声だけが洞窟の中で響いている。
レインは洞窟の壁に寄りかかり、痛みに耐えながら自分の右腕を縛っていた布を解いた。そして腕の傷口を触る。肉が切り裂かれ、骨も折れているようだ。きちんと止血していない為、布を解くとさらに血が溢れる。
「コハル……もう少し踏ん張れるか?」
「はい。大丈夫です」と落ち着いた声で返事をしたコハルは一度大きな呼吸をし、彼の腕を触った。
「…………ッ!!」
レインは声にならない叫びを上げ、歯を噛み締める。
「レイン様」
「いい、続けて……」
コハルの不安そうな顔にそう答える。
その瞬間、頭の中にまた遺跡の記憶がよみがえってきた。何かを訴えているそれが分からない。何を自分に伝えたいのだろうか。
目の前が霞む。サタンの悲しみが自分を食いつぶすように、頭の中が赤く染まっていく。左目が熱い。
ーーこれを受け入れれば……楽になるのか? この感情を受け入れれば……。
「ダメだ」
ふと出た言葉にコハルは能力を送るのを止める。
「レイン様……今、夢を見てらっしゃいますか?」
「夢……?」
「はい。何か……辛い。あなた様の過去の夢を」
コハルの言葉に息を飲み、何かを言おうと口を開ける。
しかし今度は目の前にトラックが出現した。自分を飲み殺した車。『君を殺したのは僕だよ』。フィールの言葉に、仮面の男の顔。瓦屋根の家屋達……ガナイドに残してきた彼女の背中。白い髪が赤く染まり、羽が飛び散る。箱庭の木々……日の当たるテラスに座るスカイブルーの髪の背中。天界の神殿の先に見える何か………それが―――。
「見えないんだ……俺は」
レインは視点の合わない瞳をコハルに向ける。
「レイン様。ダメです。その世界に入っては。それは……」
遮るようにレインは急にコハルの腕を握る。同時に瞳に光が変えってきた。
「ありがとうコハル。もういい」
「え? けど……まだ」
「いや、時間がない」と、レインはきちんと止血できていない腕に、また同じように布を縛り始める。
「レイン様!?」
コハルはその行動を止めるように彼の手を握った。
「きちんとした布で止血を。今、感染症にかかれば」
「分かってる。けど…………きた」
レインの瞳は何かを捉えたようにまっすぐ洞窟の外を見つめる。洞窟の先はスコールで何も見えない。
「少し行って来る」
「ダメです! その怪我では!」
「うん、けど……」
レインはそう言って洞窟の外へと歩き出した。
彼の背中を追いかけられない。コハルは傷つき今にも崩れかかりそうな背中を見つめることしかできなかった。
ならば……。コハルはそんな彼の背中に向かい祈りを捧げる。
どうか……どうか……と。
レインはスコールに打たれながら歩みを進める。そして先ほどまで死闘を繰り広げていた場所にたどり着いた。目の鼻の先にコハルやイレアがいる洞窟が見える。あちこちには先ほどのドドンガ達が倒れ、赤い血で地面を染め上げていた。
中央まで歩くと、雨に打たれながら主人の帰りを待っていた刀が転がっている。
その主人であるレインは刀をゆっくりと握る。日本刀が手に馴染むのと同時に痛みが走り、顔を歪ませた。
遥か遠くで雨音に交じりながら雄叫びが聞こえる。その叫びは徐々にこちらに近づいてきているようだ。
レインは刀をしっかり握ると髪を束ねていた赤いリボンを解いた。リボンは雨に濡れて、まるで泣いているように見える。
そのリボンを右手に縛る。何重にも、しっかりと。そうでもしないと刀を握り続けられない、そう判断したからだ。
最後に歯できつく縛り上げる。それと同時に、先に見えていた木々達が揺れ始め、ジャングルの中から巨大な黒い塊が姿を現した。
先程より冷静さを取り戻したのだろうか。巨大な猪、ドドンガのボスは鼻息を荒げながらも、こちらを警戒し動きを止めた。
レインも歯にリボンを加えたままドドンガを睨む。
少しの沈黙を切り裂いたのはドドンガだった。こちらに走って来る巨体をレインは軽いステップで交わす。
この場でこいつを仕留めてしまわないとコハルやイレア、ルイが危ない。応援を呼びに行ったミネルが帰って来る前に仕留めてしまわないと……。
レインはリボンによって補強した右腕を振り、ドドンガに攻撃を仕掛けた。
雨の中の死闘。先ほどよりも動きを鋭く。研ぎ澄ますように。速く……。
塞ぎかけた右腕の傷口が開き、血が噴き出る。レインは声を上げながらも赤く染まり続ける右腕を動かした。ドドンガも攻撃を受け止めるように歯をむき出す。
研ぎ澄まされる世界。その世界の中に黒い何かが渦を巻く。黒のどこまでも広がる大きなそれはやがてレインの身体全体を覆い始める。
「来るな!!!」
レインはそう叫んだ。
なにかが自分を覆っていく。憎しみ、悲しみ、呪い……。
受け入れてはいけない。そう、この黒い渦を受け入れてしまえば、自分が自分で無くなってしまう。そう思った。
魂が叫ぶ。世界を……怨めと。
「違う!」
――世界は戦争で血に溢れた。核爆弾、汚染、異変種……その根源は誰だ!?
――悪魔の生きる場所は何処だ!? 神に奪われた天界を取り戻せ!
――彼女を呪え! 世界を呪え!
「俺は……俺は!!!!」
そう叫び、目の前の巨大な口に刀を向ける。斬り掛かり、ドドンガの口を切り裂く。
「俺は! 呪わない!! 彼女を……」――呪いたくない!!
身体が悲鳴を上げる。目の前が霞み、足元がふらつく。しかしこのままでは……みんなを守れない。コハルを、イレアを、ルイを、ガナイド地区の時のようになりたくない。仲間を守りたい。
しかし……心が悲鳴を上げながら黒い渦に侵食されていく。
――呪いたくないならば、死ね。
そう、声が聞えた。
そうだ。このまま生き続ければ彼女を呪い、やがて殺してしまう。魔王に心を奪われ、世界を呪ってしまう前に……。
「死なないと……」
黒い渦が心を染め上げていく。『死』に汚染される。あの恐怖をもう一度……味わうことになっても、彼女の為なら。
ーーそうだ、死ねばいいのだ。
目の前のドドンガの口が、切り裂かれながらもこちらに向かって来る。生暖かい息が肌を掠め、視界が暗くなった。
「俺は……あの時。死ぬべきだった」
交通事故で死んだ時に転生しなかったら。ガナイド地区でスズシロを助けられず生き延びてしまったから。彼女を殺してしまいそうになった時、あのまま首を絞めて死んでいたら……。
『お前は死に場所を探してるんじゃないのか?』
ライの言葉が蘇る。死に場所……死ぬ理由を探している。ならば……ここで。
「……シラ」
レインは次なる一手が出せず、目の前の巨大な口をただ見つめた。
ああ、ここで死ねる。そう思った。
ーー彼女の為に死のう。彼女を殺してしまうなら、俺は……。
「レイン様!!!」
突然声が聞えた。その声の主は洞窟の入り口に立つコハルだった。
彼女は手を胸の前で握りしめ、こちらを見つめている。
「コハ……ル?」
「生きて!!!!!」
コハルの言葉がレインの魂に渦を巻いていた黒い何かを消し去る。
――生きて。
彼女の……シラの言葉だ。彼女が自分に掛けた最後の言葉。その為に自分は……。
レインは右腕を振り上げ、こちらに向かれた牙を刀で受け止めた。
右手に縛られたリボンが視界に入る。
――そうだ。俺は……。彼女の言葉の為に!!
レインはそのまま牙を跳ねのけ、全身に力を入れた。
魔王の魂、過去の記憶、古き時代の真実。渦を巻くそれを跳ねのけるように身体を動かす。
「俺は……生きないと」
レインの身体が赤々と燃え盛る。髪の毛は真紅に染まり、首元に火傷の傷が浮き出る。雨の中に炎が宿り、水蒸気が溢れる。
その中でドドンガは雄叫びを上げながらレインにぶつかってきた。
レインは刀を炎に纏わせ、その攻撃を受け止める。炎を更に上げながら目の前の巨体を切り裂いた。舞うごとに水蒸気が辺りを覆う。
その霧は辺り全体を覆っていく。死闘は音のみになり、やがて大きな雄叫びと共に辺りは静寂に包まれた。
水蒸気が辺りを覆う。大きな雄叫びが上がったと共に辺りは静寂に包まれる。
コハルは洞窟の入り口でその光景を固唾を飲んで見守っていた。
辺りが徐々に明るくなる。雨が上がり、空の雲が切れ切れになってきた。
日差しが差し込み始め、辺りが元のジャングルに変わり始める頃、その場も少しずつ晴れてきた。
その霧が晴れ始めると、日の光に照らされた若草色の髪が姿を現す。
風が吹くと霧が一気に晴れ、佇むレインの後ろにドドンガのボスが倒れてるのが見えた。
「レイン……さま」
コハルはレインの元に歩き声を掛ける。
レインは目を瞑り、佇んだまま空を仰いでいた。雨なのか、涙なのか分からない雫が彼の頬を撫でる。
「嫌なことが起こると、必ず雨が降るんだ」
「……え?」
コハルが小さく聞き返す。
レインはこちらに向かって微笑むと力を失ったように崩れた。
「レイン様!!!」
崩れ掛かる彼を支えるようにコハルは抱きしめる。
レインは顔を歪ませ、息を荒げた。
「俺は……俺は……生きなきゃならないんだ」
「…………」
「たとえ、この先何があっても。過去に何があっても……俺は」
崩れかかる彼を支えながらコハルは唇を噛んだ。彼の右手に結ばれた赤いリボンを見つめる。
そして苦しそうにうわ言を言い続ける彼の頭をコハルは抱きしめた。
「レイン様……あなたの想い人の言葉は……あなたを生かす希望であり、苦しめ続ける呪いです」
その言葉はもう彼には届いていないのは分かっている。意識を失った彼を抱きしめたコハルはそのまま天を仰いだ。
「このお方は……どこに向かえばよいのですか? このお方の魂が救われる道は……どこにあるのですか?」
消入るような声で空に投げかける。コハルの声は雨の上がった空気に溶けた。