第3章 23幕
コハルはテーブルの下で耳を塞いだ状態でぐっと目を閉じていた。そこはライのいる真下だ。ライが戦闘が始まった直後に自分を手招きし、ここに避難するように指示したのである。
随分長い時間こうしている気がする。目を薄っすら開けてみた。ライの足が見える。右足は義足で木の棒が足に付いていた。ライの尾が揺れている。どうやら機嫌は治っているようだ。戦闘は終わったのだろうか。
コハルは恐る恐るテーブルから這い出て、辺りを見回した。
すると長室の中は見るも無惨なほどグチャグチャになっている。テーブルの上の物が散乱し、長のデスクの上にあった資料は風のせいか辺りに散っていた。窓は大きく開け放たれていて、部屋の中は閑散としている。どうやら部屋にいるのはシルメリアのメンバーだけのようだ。
「長?」
コハルは恐る恐るライに声を掛ける。すると「お! コハル、怪我はないか?」と、いつもの笑顔でライはこちらに笑い掛けてきた。
「あの……長。バルベドの方々は?」
コハルの質問にライは更に嬉しそうに「帰ったよ?」と言う。
「コハル。あんたそんなところにおったんかい? また長の騒動に巻き込まれたんかえ? 可哀想に……」
そう言って急に後ろからアリュークに抱きしめられる。頭の辺りに胸がポヨンと当たった。
「あ、アリュークさん。お、お帰りなさい」
「うんうん。ただいま!」
アリュークは嬉しそうにコハルにじゃれつく。
「ど、どうなったんですか?」
ライはニヤリと笑って「脅迫しただけさ、なあ? レイン」と窓際でどっしりとした重い空気を背負う、若草色の髪の青年に声を掛けた。
「れ、レインさん!?」
コハルは頭の上に今にも雨雲を作りそうな顔をしたレインを見つめる。
レインは下を向いた顔をライに向けて「はい?」と少しキレ口調で返事をした。
『で? まだ俺達と戦争するわけ?』そんな質問をしたライに向かってバエーシュマが出した結論は『一時撤退』だった。彼の去り際は以前と同じであっけなく、更に俊敏だった。
兵士を取りまとめ、何事もなかったかのように部屋を後にする背中は何とも不気味だ。
レインはそんな数分前に起きた出来事を頭の中で振り返りながらライに「はい?」とキレ口調で声を出す。彼に怒っているのではない。自分自身に怒っているのだ。
自分を見つめるコハルと目が合う。不安そうな彼女の瞳にレインは耐え切れなくなり目を逸らした。
「長はなぜあの時あんなことを言ったのですか?」
レインは窓の外を見ながらライに質問する。窓の外、坂道の遥か先にはマーケットが見えた。その辺りを茶色の団子が見えている。どうやらバエーシュマ率いるバルベドの兵達は今あの辺りを歩いているようだ。ミネルとルイはバルベドの兵が問題を起こさぬように門まで見張ると言い出し部屋を後にした。たぶん彼らもあの辺りにいるのだろう。
「あんなことって?」
ライはすっとぼけて首を傾げる。
「エルドラドに言った言葉です」
「ああ」
ライの嬉しそうな顔にレインは少しイラっとした。
バエーシュマが部屋を後にする直前に、ライがエルドラドに放った言葉のことである。
『エルドラド。お前そっちにいて楽しいか? こっちは楽しいぞ? お前に面白いをやるよ。こっちに来る気はないか?』
そう言ってライはレインに向かって親指を指す。
『はあ?』
あの時レインは驚きのあまりそれだけしか発することが出来なかった。
エルドラドの返答はなかった。しかし去り際に黒い尾が少し揺れたのをレインは見逃してはいない。
「あ~あれか? だって面白そうだろ?」
ライは数分前に発した言葉を思い出し、楽しそうに笑う。
「俺は面白くないですけどね」と、レインはふて腐れたように言った。
「はあ? あれだけ暴れてよく言う」
「……」
ライの言葉が胸に刺さる。レインは思いっきりライを睨んだが、直ぐにここ一番の大きな溜息を付いて、また窓の外を眺めた。レインの周りだけどんよりと空気が重い。
何をやっているのだろうか……。自分でも分かっているのだ。あんな行動をした自分は馬鹿だと。
しかしバエーシュマが最神の、彼女の事を言っているのを聞いていたら自然と身体が動いてしまっていた。彼女の愛するこの世界を……彼女の理想をあんな風に言われて、心の中が掻き乱れた。
「だからって……」と、レインは独り言を吐く。『自分らしくない』そう思った。
「あれがお前の本性か?」と、急にライから声を掛けられレインは部屋の中へ視界を移す。
「あれが本当のお前なんだろ?」
ライが嬉しそうな顔をしレインを見る。
「どういう事ですか?」
「どうって? そのまんまさ。お前は会った時からどこか別の場所にいた。生きる場所も想う場所もここではない。そういう感じだった。けど、さっきの戦闘でお前の心はここに来た。だろ?」
「……」
ライの言葉の通りだ。今までどこかふわふわしていた気がする。しかし怒りに任せたあの瞬間から、自分が自分であるような……そんな感覚が戻って来たのかもしれない。
「レイン。お前はどこにいる?」
「?」
「お前はどこで生きているんだ?……どこで死ぬつもりだ?」
「……!!?」
ライの質問にレインは息を飲む。
「お前の太刀筋は迷いが無かった。けど生気もない。今のお前の太刀筋は生きるためのものではないだろ? お前は死に場所を探してるんじゃないのか?」
「……お、俺は」
窓から入って来る風にレインの髪にくくられた赤いリボンが揺れる。
ーー死に場所を探している? 自分が?
心の中に何かもやっとしたものが生まれる。
「熾天使の騎士いや最神の暗殺を企てた大罪人と言うべきか?」
「……!?」
レインはライを思いっきり睨む。すると周りで話を聞いていたアカギク、クレシット、アリューク、アグニスがライの周りに集まりだした。
「長、あなたはどこまで俺の事を知っているんです?」
「何も? お前からは何も聞いていないからな。これは間接的に届いた情報だ」
「……」
「神を殺そうとしたお前がなぜあの時バエーシュマに刃を向けた? なぜ死に場所を探しながらもお前はここで生きているんだ?」
ライの質問にレインは答えられない。答えられないのではない。答えが見つからないのだ。自分の中に蠢く感情。それは自分自身にもまだ分からない。
「レイン。俺はお前を気に入っている。だからここからはビジネスの話だ」
「……」
「俺はお前が欲しい。お前の力を欲している。代わりに俺はお前の生きる場所と死に場所を提供してやろう。レイン、このシルメリアの永久住民にならないか?」
椅子に座ったライは左手をレインに向けて伸ばす。
「俺はこの世界の大罪人。この街に災厄をもたらすかもしれないんですよ……?」
「それもひっくるめて俺が……いや、この街が守ってやろう。シルメリアに来い」
レインはその場にいるシルメリア幹部達の顔を見た。そして最後にコハルの顔を見つめる。
コハルは不安そうにしていた顔を少し綻ばせ笑った。
レインはそんなみんなを見ると一つ大きなため息を付く。
「断っても無理なんでしょう? この商談は」
「ああ、そうだとも。俺を誰だと思ってるんだ? この街の、シルメリアの長だぞ?」
嬉しそうに笑うこの街の長を見る。レインもそんな笑顔に釣られ、伸ばされた手をゆっくりと握ったのだった。
「交渉成立。だな!」
ライはレインが伸ばしてきた手を握り満面の笑顔で言った。
「リリティさん!? リリティさんってば!!」
ずっと固まったまま望遠鏡から目を離さないリリティを心配しイレアはしきりに声を掛ける。
あれから数分間、リリティはこの状態から動こうとはしない。何が起こっているのかわからないイレアは何度も彼女の名前を呼んだ。
「ーーーー」
するとやっとリリティが小さな声で何か言葉を発する。小さくて聞き取れない彼女の声にイレアは「え?」と、聞き返す。
「わたくしがここでこうしているのも運命なのでしょうか。わたくしが貴方様にお会いできる日が……来ようとは」と、リリティが感情の無い擦れた声。
「な、何を言ってるんですか?」
突然話し出すリリティにイレアは不安を覚え胸の前で手を握る。
「私の命は全て貴方様の物でございます。ああ……」
「……リリティさん?」
リリティが何を言っているの分からない。いつもの彼女ではない。変わった話し方をする明るい彼女とは別人だ。
するとリリティの大きな瞳から涙が溢れ、ポタリと彼女の手の甲に落ちる。突然の事でイレアはビックリしてしまいその場で固まった。
涙を流しながらリリティは最後に一言こう言ったのだった。
「ああ……麗しい。我が絶対的主君」と……。