第2章 25幕
レインとシラはエレクシアの先導で神殿へと足を運んだ。
何段もある階段を上れば上るほど空気が澄んでいく。
レインはそんな空気の変化を肌で感じながら二人の後ろを歩いていた。
目の前に白い門が見え始める。
古き時代からのこの場所はきっとこの世界では大きな役割をしていたのだろう。
初代最神が誕生した土地であり、古き時代に起こった大戦争の始まりの土地。そして初代魔王を討ち取った土地。
その言葉はきっと真実だ。レインは澄んだ空気でそれを感じていた。
門の前に人影が見え始める。
そこにいたのは以前と同じように着物に似たような服装をした少女だった。
その少女が正体を隠している本当の天界巫女だとすぐに分かる。
しかしエレクシアはこの事実を知らない。レインはその少女に深々と頭を下げそうになって、そのことを思い出した。
「巫女様はおいででしょうか?」と、目の前の少女にエレクシアは聞く。
「いいえ、巫女様は今禊に入られております。ご用事でございますか?」
少女は淡々と言った。
「いえ、姫様の『唄』の稽古で神殿の中へと入ることは可能でしょうか?」
「それは構いません。今日は姫様の良き日にございます。どうぞごゆるりと」
アカシナヒコナはそう言って頭を下げる。
「しかし、巫女様が儀式の為に祭壇に入られる時間が近付いております。ですので、それまでの間とさせて頂きとうございます」
「それは構いません。ご無理を言います」
シラがアカシナヒコナにそう言って頭を下げた。
「それに私も禊のお手伝いの為に席を外させて頂きます故、姫様の御付きはレイン熾天使のみでも構いませんでしょうか?」
「それはもちろんです」
シラの言葉に少女は頭を下げ、門を開けた。
神殿の中に入れるのは神に近い高位の者だけだ。そうなると親衛軍という肩書だけのエレクシアは中には入れない。
「では、私はここでお待ちしております。中に入る者がおりましたら、ここで姫様が『唄』の稽古をしているとお伝えしますのでご安心を」
エレクシアはそう言ってレインとシラに微笑む。
「ジュノヴィスと過ごすよりは穏やかでしょう?」
シラが「気を使わせてしまってごめんなさい」と眉を下げると、エレクシアはゆっくりと首を振り「さ、中へ」と促した。
シラはその言葉に微笑み返し中へと入る。そんな彼女の後を追うようにレインも歩き出した。
「レイン」
そう声を掛けられレインは門の外にいるエレクシアへ振り返る。
「なんだ?」
「……いや、何でもない」
「……?」
彼女の歯切れの悪い言葉にレインは首をかしげたが「三十分ほどで帰ってくる」と歩き出した。
◇
神殿の中は相変わらずだ。所々に松明があるだけの明かりの為、足元は暗い。
「ッキャ!」
横を歩いていたシラが声を上げ躓く。そんな彼女の腰を「おっと」と、レインは支えた。
「怪我は?」
「いえ、大丈夫です」
その声が無音の空間に広がった。
「足元が暗いな……」
「ですね。以前来た時よりも暗い気がします」
「この時間に来客があるとは思ってなかったのかもな」
レインがそう言ってシラの腰から手を放す。
そして少し考えた後に「んっ」と手を差し出した。
「え?」
シラは手を見つめる。
「手、貸して。こけないように」
シラはレインの優しさに嬉しくなって「はい」と返事をすると彼の手を握る。
二人は短い廊下を抜け、プラネタリュームのような半球状の部屋へと進んだ。
空気は透き通りヒンヤリと涼しさを増す。
真っ暗の空間の壁には、等間隔に廊下と同じ松明が並ぶだけで他に明かりは無い。以前と同じだ。
半球の空間を二人は歩いていく。
建物の真ん中を歩くと、歩いた足跡がまるで蛍が光るように柔らかく放ちだす。
ポンッポンッと光は水面を波紋するように広がり、壁に反響する。
その光景を二人は無言で進んだ。神秘的な空間に心が落ち着いていく。
半球の空間の先にある祠の中は誰もいない。
レインは神経を集中させ辺りの空気を感じたが、この空間には誰もいないようだ。それを確認すると神殿の丁度真ん中に位置する場所で足を止めた。
「不思議ですね。この場所はいつ来ても心が落ち着く」
レインは「そうだな」と答え半球の建物を見渡す。
「何か特別な力があるのかもな」
「かもしれません。古き時代に多くの出来事を見て来た土地ですから」
シラは大きく息を吸う。
「そしてこれからも、きっと多くの出来事を見ていくのでしょう」
「これからも……か」
「レインは本当に今後大きな『災い』が私達に降りかかると思いますか?」
「どうだろう。今は何とも言えないけど……」と、レインは少し戸惑ってシラの顔を見た。
「その『災い』が起きて、俺達が『世界を変える力』の持ち主だとしても……それがどういう方向に進むのかは検討が付かないな」
レインの言葉にシラは「ですね」と短く言った。ゆっくりと翼を広げる。
シラの純白の翼はどんなものより美しい。そう思った。
「じゃあ、折角の皆のご厚意なので唄の練習します」
彼女はそう言って無邪気に笑う。
レインはシラに向かって「そうしなよ」と答えた。
「レインはあの日以来、幻想を見ていないんですよね?」
シラは一ヶ月前に初めてレインが『唄』を聞いた時のことを気にしているようだ。
「ああ、あの日だけだよ」そう素直に言った。
彼女に夢のことは伝えていない。もし自分と彼女は古き時代で出会っていて、その頃の記憶を夢に見ているのであっても、今の彼女とは関係ない。それをレインは良く理解していた。
それにただの憶測であるかもしれない夢の中の話を、彼女に話して混乱させたくないというのも少なからずある。
あの夢の確信を見つけるまでは彼女には秘密にしておこう。そう思っていた。
「俺は、この『唄』好きだよ。暖かくて、落ち着く」
シラは嬉しそうに笑う。
「最神の子守歌ですから! そうだレイン、一緒に歌いませんか?」
「俺も?」
「はい」
シラの急な言葉にレインは焦る。
「けど、俺……」
「大丈夫! 誰もいませんから」
そんなシラの言葉に少し悩んだ。
確かに古代の言葉で綴られた歌詞とは言え、イントネーションや音程はシラの日々の練習を聞いていて覚えている。けど……。
シラは最初のメロディーを口ずさみだす。
そして広げた翼を更に大きく広げ、徐々に声量を上げていった。
「っちょ!」
こちらの焦りをよそに、シラは歌いだす。
彼女のソプラノの声が大きな神殿の空間を染める。
そんなシラに負け、レインも大きく息を吸うと彼女の歌声に合わせ声を出した。
二人の歌声が折り重なる。シラに合わせるように自分の翼を大きく広げた。
向かい合い、手を握って歌う。二人の声は半球型の部屋に大きく響き渡った。
心地よいメロディーは身体の中を満たし、心の中にまで広がっていくのが分かる。
目の前のシラを見つめた。シラもレインの瞳に答えるように見つめ、微笑む。
唄は第二のサビへと入り、二人の歌声はさらに大きく広がる。
すると突然、その歌声に合わせ二人の足元が青く光り出した。
歌声を更に引き立てるように、足元の青い光は徐々に大きくなる。それはやがて神殿全体へと広がっていった。
そして部屋の壁に当たるとさらに半球型の壁を伝い、頭の上まで青く染める。
その瞬間、青い光に包まれた神殿の壁全体が空色へと変わるのだった。
見渡す限りの空……。雲が流れ、風が吹く。
閉鎖的な空間から突然、瞬間移動したかのような錯覚に陥る。
そんな空間の様変わりに驚いた二人だったが、不思議と唄を止めることはしなかった。
最後まで歌いきる。それに合わせ心地よい風が二人の髪を揺らした。太陽の香りを感じさせつつ風が遥か彼方へ消えていく。
手を握ったまま二人はそれを見つめた。
「綺麗……」
シラはそれだけをポロリと口にした。
「ああ、君の瞳の中にいるみたいだ」
「え?」
その言葉に天井を見つめていたシラは驚いてレインを見つめる。
「あ、いや……」
突然そんな言葉を口にしたのが恥ずかしくなり、顔を真っ赤にしてシラを見た。すると彼女ははクスリと笑いだす。
「フフフ……」
「ハハハ……」
二人で笑い合う。
そして少しの間、空色に染まった神殿の空間を眺めた。
「この『唄』……最神となる者は生涯に三度歌う唄なんです」
シラが突然話し出す。
「一度は生まれた時、母親が唄い聴かせます。二度目は成人の儀。一人で全て歌いきります……」
そこまで話して言葉を詰まらせる。
「三度目は……婚姻の儀。夫婦となる者二人で歌います」
「……」
レインは握り続けている彼女の手をさらに強く握った。シラもその手を握り返す。
「私も一年後、この場所で婚姻の儀を執り行う時、この唄を歌います」
「……」
レインは何も言えなかった。
一年後に彼女の婚姻の儀が執り行われることは紛れもない事実。こんなにも近くにいる彼女は一年後あの男の元へといってしまう。
分かっている。分かっているんだ。
自分には彼女の運命を覆す力が無い事は……分かっているのだ。
なのに欲が沸いてくる。彼女を自分のものにしたいという欲求が沸々と溢れる。
どうしようも出来ないこの気持ち……。彼女を渡したくない! そう思えば思うほど心は酷く叫ぶ。
そんな気持ちのまま、レインは握っていた彼女の手を自分の方へと引いた。
「キャッ」
小さな悲鳴に合わせ、彼女のスカイブルーの髪が揺れる。そしてレインの腕の中で動きを止めた。そのまま抱きしめる。壊れモノを扱うように大切に……。
シラも一瞬こそ身体を強張らせたが、暖かい温もりに心を許すと肩に顔をうずめた。
「ごめん……」
少しの間を開けレインがそう声を出す。
「ごめん……」と、悔やむような声……。
その言葉に全てが込められている。
自分は人間からの転生天使で、大切な人を守れなかった悪魔討伐戦の生き残りで、シラを全ての呪縛から守ってやれないちっぽけな存在なのだと。
泣きそうな声に、シラはレインの背中へ手を回す。
すると今度は強く彼女を抱きしめ「好きだ」と声に出した。
「君が好きだ。君が……シラが好きなんだ」
小さな叫びにシラは優しく「はい」と答える。
その声に抱きしめている腕を緩め、彼女の顔を見た。
彼女は微笑みながら「私もです」と言葉にする。その声にレインの辛そうな顔が和らいでいく。
「私も、あなたのことが好きです。レイン……好き」
彼女の言葉が心に広がり、シラの笑顔を愛おしいと感じた。
そして見つめ合った二人はゆっくり顔を近づけ、そっと唇を重ねた。
ほんの少しだけ触れた唇。それだけで幸せだった。
見つめ合い二人は笑う。空の世界の中で二人はクスクスと笑い、広げた純白の翼を動かす。
そしてお互いの額を合わせると今の幸せを感じるのだった。