第2章 12幕
「レイン! レイン!」
まどろみの中で揺れる意識の中、レインはかすかに聞こえる声に何度かの瞬きをする。
すると徐々に視界がはっきりとし始めた。
青色の瞳、スカイブルーの髪の女性が見える。その女性がシラだと分かるようになるまでさらに数秒の間、ぼうっと彼女を見つめた。
そこで自分の両手がシラの頬を包み込むように添えられているのに気が付き、レインは一気に意識を取り戻した。
「うわっ! ごめん!」
慌てて彼女の頬から手を放す。
「良かった……意識が戻って」
そんなレインを見てシラは胸をなでおろした。
「ごめん、何だか急に……」
「レイン!」と、シラが慌てて叫ぶ。
彼女の声でレインに自分の膝へなにか冷たいものが落ちていくのを感じた。その冷たいものを追うように、包帯で隠れている左目をそっと触る。
「な、涙……?」
眼球のないその場所から涙が溢れ出している。それが包帯を濡らし、膝に落ちているようだ。
「どうしたんです? 何か辛いことでもありましたか?」
不安そうにシラがレインの顔を覗き込んでくる。そんな彼女を心配させまいとレインは笑って見せた。
「大丈夫。これは俺の涙じゃないから」
「レインのではない? どういう意味ですか……?」
「これは……魂が泣いてるんだ」
一度死を経験し、魂の存在になった自分には分かる。これは身体や頭で感じているものではない。身体の内側のさらに奥深くにある魂が悲鳴を上げているのだ。
胸を締め付けるような感情が脳内で騒ぐ。現世に生きるレインにまで分かるほどの辛い記憶のようだ。
前世のどこかで記憶した感情が唄を聴いたことにより表に出て来たのだとしたら……。
――俺の魂が最神の唄に反応している? けど、どうして。
悩むレインの顔を不安そうにシラは覗き込む。
「やはりお身体の具合が良くないのではないですか?」
そう声を掛けてくれる彼女にレインは「大丈夫だよ」と、もう一度微笑んで見せた。
「なら、包帯を取り換えましょう。涙で濡れてしまいましたから」
シラがそっとレインの包帯へ手を伸ばす。
彼女が頬に手を添えると同時に、庭の奥から大袈裟な足音が聞こえ、グレーの軍服姿の男が姿を現した。
「シラ! メイドに朝はいつもこの庭を散歩していると聞いたのでね! 一緒にどうだいと誘おうと――」
そんな大きな声に、シラはレインの頬に手を添えたまま振り返る。
「ジュノヴィス?」
シラが名を呼ぶと、その男はその場に立ち止まった。
彼女の後ろに若草色の髪を見つけた驚きで、呆然と佇んでいるようだ。
そこでジュノヴィスの視線とレイン視線がぶつかる。
「な、ななななななななななな!」
途端にジュノヴィスの顔が険しくなり声を荒げ出した。
「貴様は何をしているんだ!」
彼は大股で二人に近付き、大きな声で怒鳴りつける。そしてシラの両肩を抱きかかえ、レインから引きはがした。
「貴様は最神である僕の妻に何てことを!」
「ジュノヴィス! 違うんです!」
言葉を遮るようにシラが叫ぶが、ジュノヴィスは聞く耳を持たない。
「このっ、人間風情の下等生物が!」
そう甲高く叫び、レインの頬を殴る。
「……ッ」
レインはその拳を受け、座っていた渡り廊下の淵から体勢を崩し地面へ倒れ込んだ。
「ジュノヴィス、やめて! レイン!」
うずくまり動かないレインに向かってシラが叫ぶ。
「貴様は何をしているのか分かっているのか? 僕のシラにそこまで近づいて」
倒れ込んだままのレインに向かってジュノヴィスはさらに声を荒げた。そして目の前に横たわるレインの脇腹に向かって思いきり蹴りを入れる。
レインは彼の暴虐に為す術なく、唸り声を上げ蹲った。
「やめて!」
シラはジュノヴィスの腕をつかんで彼を止めようと必死に叫ぶ。
「誰か! 誰か来て!」
この騒ぎにメイドが急いで姿を現すが、驚きのあまり持っていた朝食の御前を床に落とした。
メイドの悲鳴と食器の割れる音が朝の箱庭に響く。
それに合わせるかの様に、ジュノヴィスはレインに二度目の蹴りを入れた。
「姫様!」
その声でシラは後ろを振り向く。そこにいたのは息を切らしながら走って来るエレクシアの姿だった。
「これは……どういう」
エレクシアは目の前に広がるあまりの悲惨な光景にその場で佇む。
その間にジュノヴィスは三度目の蹴りを入れた。レインの身体がその反動で大きく揺れる。
しかしレインは声一つ上げず、反撃に出ることはしない。
「ジュノヴィス、やめて!」
シラがレインを庇おうと上へ覆いかぶさり叫ぶ。
その行動に驚いたジュノヴィスは蹴り上げた足をおろし、彼女を見つめた。
そこへエレクシアがシラを守るように彼の前へ立ちふさがる。
ジュノヴィスはそんな光景に困惑し、眉を歪ませた。
「シラ……どうしてしまったのだい? その転生天使を庇うのかい?」
辺りを見回し動揺を隠せないジュノヴィスだったが、何かに気付きパッと顔を明るくした。
そして高揚した声で下に話かけた。
「そうか、分かった。犬や猫を拾った感覚なんだね。そうか、そうか。でもそんな野良犬はきちんと躾ないといけないよ?」
そう言って腰に挿している刀をゆっくりと鞘から引き抜き始める。
「ジュノヴィス中尉、駄目です! ここは箱庭!」
シラの前でエレクシアはそう叫ぶ。しかし、ジュノヴィスは何食わぬ顔で笑った。
「それがどうしたと言うんだい? これは僕とシラの問題だ。エレア、そこをどけ……」
「どきません!」
「どけッ! 僕が遠征に出た途端に、シラは変なものを拾ったみたいだ。この下等生物に誰が上の立場で、誰のものに手を出したのかを、きちんとここで躾けておくよ」
「レインはあなたと同じ熾天使の騎士です!」
「僕は認めない! 下等生物に騎士階級など!」
ジュノヴィスの顔が徐々に引きつり、笑顔だった顔が再び険しくなっていく。
「エレア、君が僕に楯突くのかい? 君の家系と僕の家系の関係を壊す覚悟が、今の君にあると言うのかい?」
「……」
エレクシアはその言葉に唇を噛み締める。
しかし、しっかりとした瞳でジュノヴィスを見つめ叫んだ。
「私は姫様の護衛人です。姫様のお気持ちをお守りするのも私の務め!」
ジュノヴィスはその言葉に、大きな溜め息をついた。
「いやはや。この箱庭はどうなってしまったんだい? 何かに毒されてしまったのか? それもこれもそこの下等生物のせいかな?」
そこでいままで動かなかったレインがジュノヴィスの方へと頭を向けた。
朝日に照らされたレインの瞳が不気味に光る。無言でジュノヴィスを見つめる金色の瞳は殺意で溢れていた。
「……ッ!」
ジュノヴィスはその瞳に恐怖を覚え息を詰める。転生天使という未知の種族への恐怖も感じているのだろう。
思わず後ずさりしたジュノヴィスだったが、歯を食いしばり刀を鞘から抜ききろうと腕を動かす。
「はい! そこまでっ」
急に聞こえた明るい声がその場を制した。
「ジュノヴィス中尉、もうそこら辺にしておこう」
突然現れたその人物は、ジュノヴィスの刀の鞘を抑え優しく声を掛ける。
「フィール元帥……」
シラがその人物の名前を呼んだ。
「おはようございます、最神様」
ジュノヴィスの背後に立つのは、薄紫の髪に金色の瞳、ダークグリーンの軍服に身を包んだ親衛軍元帥フィールだった。
「メイド達の様子がおかしいと来てみれば……」
そう言ってフィール元帥はニッコリと微笑む。
「フィール元帥、貴方も私を侮辱しに来たのですか?」
突如この場に現れた彼に向かってジュノヴィスはそう言葉を掛ける。
「まさか。止めに来たんだよ」
「それは余計なお世話というものです。貴方も自分がしがない田舎者貴族だということをお忘れか? 僕を止められる者はここにはいない」
「いいや、ここは天界の神の城。軍が納める場だ。君の言い分は通用しないよ」
そう言ってフィール元帥はジュノヴィスの手を押さえ、鞘へ仕舞うように促す。
ジュノヴィスは彼を睨むと、その刀をゆっくりと鞘へ戻した。
「しかしこの箱庭で転生天使などという下等生物を野放しにしているのは納得できません。これはしかるべき問題かと」
仕方なく攻撃姿勢を崩したジュノヴィスだが、諦め切れない様子でフィール元帥に強い口調で話し掛けた。
「しかもあの者達が僕と同じ熾天使の騎士などに……」
「けど、これは軍議で決まったことだからねぇ」
「こんな奴にシラを守れるとは思えません」
彼の言葉にフィール元帥がレインを見る。元帥は少しだけ目を細め「それは……」と、悩む素振りを見せた。
しかしすぐにレインから目を離し、パンッと手を叩くと嬉しそうに笑った。
「では! 先程の続きをするのを許可しよう!」
「フィール閣下!」
その場に佇んでいたエレクシアが叫ぶが、フィール元帥は右手を上げエレクシアを止めると話しを続ける。
「もちろん、ここでではないよ。きちんとした場を設けよう」
「きちんとした?」
ジュノヴィスはフィール元帥の言葉を繰り返す。
「一週間後。中界軍の定例式典が行われる。そこで模擬戦を二人にしてもらおう。そうすれば刀も能力も使って戦える。彼が最神様を守れる力を持っているかどうか、そこで君が見極めればいいだろう?」
フィール元帥の提案に彼は少し悩んだが、頷いてみせる。
「分かりました。そうしましょう。もし僕が彼に勝ったら、彼らの熾天使の騎士階級就任は無かったことにするよう、手配してくれないでしょうか?」
「ん~僕一人の言葉では即決はできないだろうけど、そうなるように取り計らってあげるよ」
「それで問題ないです。こやつをこの箱庭から追い出すことができるのなら……」
そう言ってジュノヴィスは座り込んでしまっているシラの前で片膝をついた。
「先程は大きな声で叫んでしまってすまなかったね、シラ」
そう言って彼女に向かって手を差し出す。しかしシラはジュノヴィスを強く睨むだけだった。
「本当に君は変わってしまった」
悲しそうな顔をしながらジュノヴィスはシラを見つめる。
「でも一週間後、君は間違っていたと僕に言うだろう。下等生物より高貴な血族である僕こそが、君にふさわしいのだと。箱庭は純潔の者達で構成されるべきなのだと……」
ジュノヴィスはそう言って立ち上がると、そのまま箱庭を後にした。