第2章 11幕
レインは大きく深呼吸をしながら背中の翼を羽ばたかせた。
空がすでに白く色づき始めている。
今朝は少し部屋を出るのが遅くなってしまった。遅れたのには理由がある。それは部屋の入り口に紙切れが挟まっていたからだ。
紙切れには『来週の式典の準備でしばらく箱庭に行けない。しっかりジュノヴィス坊ちゃんからシラを守ること!』と記されていた。
ヤマトの字だとはっきり分かる。
そこには『追伸、伝え忘れていたが、去年と同じように俺とお前の模擬戦を演目に入れてある。今年はシラも謁見する大きな式典になる予定だ。うまくやれよ』という走り書きが付け加えられていた。
――まさかとは思ったが、今年も模擬戦が演目に入っているとは……。
走り書きを見てからのレインは気分が落ち込んでしまい、鍛錬の時間も遅れてしまった。
中界軍の式典とは、毎年行われる『技術発表会』と言ってもいいイベントだ。それが大規模に行われ始めたのはここ数年の話で、去年は親衛軍を招いての大きなものだった。
今年がさらに盛り上げる為にシラや親衛軍を、招いているらしい。
さらにレインとヤマトが熾天使の騎士に就任するという発表も控えている。
昨年以上の大きな盛り上がり……いや、馬鹿騒ぎになることは間違いないだろう。
「気が重い……」
レインはそうぼやきつつ伸ばした翼をくにゃりと下した。
人前に出るのが苦手な自分が、何千人もの見物客の前に晒される。そう思っただけで鳥肌がたつ。
しかしそれを気にしているばかりではいけない。
レインは首を振り、竹刀を両手で握ると勢いよく振り下ろした。
いつもより遅い時間から始めてしまった。そろそろメイド達がシラの部屋に朝食を持って行く為にこの庭を通るだろう。竹刀を振り回す姿を見られれば、また怖がられてしまう。
レインは少しペースを上げて一通りの型を行った。
そして竹刀を振りながら、昨日の天界巫女の話を思い出す。
世界の理。初代最神と人間王、初代魔王。血族。魂の循環。世界を変える力。
――想像を超える渦の中に俺達はいる。世界を動かす大きな渦の中心に。
そう思うと急に急に黒い霧のような者が身体を包み込む感覚に襲われる。これはきっと不安や恐れの現われだろう。
そんな不安を斬り裂くようにレインは竹刀を振り踊った。
――速く……速く……。
身体を軽く、リズムを付けて、無駄のないように。
全ての型を終え、レインはふわりと動きを止めた。ここに来た頃より少し伸びた髪が動きに合わせて揺れる。
「ふぅ……」
レインは身体の中に残った不安な気持ちを吐き出すように深呼吸をすると、渡り廊下に向かった。
そこで、ふと誰かが近づいてくる気配に気が付き、建物の先を見つめる。
するとスカイブルーの髪を撫でながら廊下を歩くシラが姿を現した。
シラはこちらに気が付き、笑顔をレインに向ける。
「おはようございます、レイン」
「おはよう」
シラに挨拶を返すとレインはいつも通りに廊下の淵に腰を掛けた。
「昨日はごめんなさい。ジュノヴィスが失礼な事ばかりして」
レインが座るのと同時にシラが頭を下げる。
「シラが謝ることじゃないだろ?」
そんな彼女にレインは微笑んで見せた。
「けど……彼は」
「気にするなよ。ジュノヴィスに限ったことじゃない」
辛そうな顔をするシラに、レインは座るように促す。
彼女はそれに従い腰を下ろした。それに合わせロングスカートがふわりと舞う。
「天界天使が転生天使を迫害してるのはどこでもあることだよ。あまり気にしてたらキリがないぞ?」
「でも……」
「巫女の話で俺達がなぜ迫害されてきたのかも分かったしな」
「天界で人間王と初代最神の起こした出来事のことですか?」
「そう、初代最神が死を経験してももう一度人生をやり直せる新たな循環機関を人間の為に作った。自分の血族ではなく多種族にそれを行ったんだ。そう思えば天界天使達が俺達転生天使を嫌う気持ちも分かるよ」
「でも、現代にそれを知っている者はほとんどいません。なのに……今でもその迫害は続いています」
「発端なんて誰も覚えてなくたって続くもんさ」
「レインは!」
シラが声を張り、訴えるようにレインを見つめてくる。
「レインはどうしてそんなに簡単にこの話を受け止められるんですか? 私にとっては天界天使や転生天使に境界線はありません。皆同じ大切なこの世界の民。そして二人は私にとって大切な天使です」
シラの悲痛な表情を見てレインは驚いた。
「なのに過去の出来事が発端だったとしても、なぜ今もなお人は他者を簡単に蔑むのですか? そしてなぜ、あなたはその行いを許せるのですか?」
「ゆ、許すとか許せないとか……そんな簡単な話じゃないだろ?」
レインは感情的に話すシラをなだめるように言った。
「俺一人がどうこうしても何も始まらないし……昔から起こってることを簡単には覆せないさ」
「……そう、ですよね」
シラはそれを聞いて一呼吸置くと、寂しげに顔を伏せる。
「ごめんなさい」
「いやいや、謝るなよ」と、レインはできるだけ優しい声で話した。
ここ最近、シラは何度も箱庭の外へと足を運ぶようになった。そこでレインとヤマトが受けている周囲からの扱いを見て、ずっとこの気持ちを抱えていたのだろう。
さらに昨日のジュノヴィスが取った態度で、彼女の気持ちに拍車が掛かった。
「シラがそれを何とかするんだろ? その為に城の中を見て回ったり、来週の中界軍の式典に出席したりするんだって決めたじゃないか」
レインがそう声を掛けるとシラは小さく「はい」と返事をする。
「俺はそれで充分だよ」
その言葉にうつむいていた彼女はレインの顔を見つめた。
「シラのその気持ちで充分」
レインがもう一度そう口にすると、彼女の顔が柔らいでいくのが分かった。
「私はレインの力になっていますか?」
「うん。なってる」
「私の今している行動は、皆さんの気持ちを変える何かになっていますか?」
「俺は君の行動は正しいと思うよ」
「そう……よかった」
シラがそう言ってレインに微笑む。
彼女の頑張りは自分が一番分かっているつもりだ。だから彼女の苦痛も背負ってあげたいと思った。
「来週の式典に出て、一ヶ月後には成人の儀だろ? まずはそこから、な?」
「はい!」
シラが今度は嬉しそうに返事をする。その笑顔にレインは頷いてみせた。
「そういえば、式典が終わってから本格的に儀式の唄の練習が行われるんですよ」
「唄って、この前歌ってた……子守歌みたいな?」
「そうです。古代から続く血族の唄」
シラは階段を使って渡り廊下へ降りると、庭へ歩き出す。
「聴きたいな、その唄」
その言葉に彼女はくるりと振り返り驚いた顔をした。
「ここで、ですか?」
「いや、今じゃなくてもいいんだけど……綺麗な歌声だったから、またどこかで聞かせて貰えたらと思って」
レインは無理強いさせたくないと急いで言葉を続ける。そんな焦る表情にシラは笑いながら翼を広げた。
「少しだけなら」
「え?」
「歌わせて下さい。レインに聴いて欲しいから」と彼女は笑う。
「まだ下手なので笑わないで下さいね」
そう言って呼吸を整えるとシラは手を合わせた。
彼女の唄が始まる。
風に乗ってその唄声は響き、朝日に溶け込んでいった。
――言葉は分からない、なのに悲しい……。
レインは不思議な感覚に襲われながら、シラの歌声に耳を傾ける。
――こんなに引き込まれるメロディーは今までに聴いたことがない。ないはずなのに、知っている。自分はこの言葉とメロディーを知っている。……どこか懐かしい。
シラと初めて会った時に似ている気がした。なんだか懐かしいような、寂しいような、そして待ちわびた再会のような……。
そこでレインは自分の心が何かの感情に押しつぶされている感覚に襲われる。
――言葉にならないこの感情はいったい。
シラはゆっくりと翼を広げ、唄を歌い続けている。
朝の光に彼女のスカイブルーの髪が輝き、白い翼が空に溶け込む。
その姿に誰かの面影が重なる。
どこかで見たことのある……同じ色の髪をした女性。
――これは……自分の記憶? いや違う……。これは自分の産まれる前の話。前世の記憶だ。
唄が聞こえる。
――あの時もこんな朝だった。あの時? あの時とはいつだ?
魂が叫ぶ――会いたい、と。
その叫びにレインの意識がどんどんと薄れていく。
そこで歌い終わったシラがレインの異変に気が付き、急いで駆け寄る。
「レイン! レイン!」
シラの叫ぶ声が遠くに聞こえる。近くにいるはずなのに……。
レインはおもむろに彼女の頬へ手を添えた。
包帯をしていない右目がかすかに揺れる。
そして魂が求める誰かに呟いた。
「愛している……」