第2章 4幕
天井が見える。
真っ白の天井だ。
その天井の隅には大きな蜘蛛の巣がある。
天界の端にある転生天使の居住区の、さらに端に中界軍の軍事基地は建てられている。
あの蜘蛛の巣はさらに端に位置するのか……。
そんなことを思いながらヤマトは大きく深呼吸をした。
自分のデスクの椅子に深く座ったまま、ボーっと天井を眺める。
今日は所属している部隊の隊員は皆出払っていて誰もいない。
大佐は夕方まで会合、口うるさい軍曹も出張中。今だけは実質自分の城だ。
中界での一件からもう二日も経っているが、いまだにジュラス元帥はこの基地に現れていない。
あの後、二人が『熾天使の騎士』に就任するという話は瞬く間に中界軍全体に広まり、基地に滞在しているほとんどの軍人はその事実を知っているようだった。
にも関わらず、この話は噂でしか広まっていない為、隊の仲間には距離を置かれ、同期の奴らも仕事以外は話しかけて来ない。皆ヤマトに対する扱いがどこか余所余所しかった。
無理もない。『熾天使』とは天使階級時代、上級天使として実在していた人物の名前だったらしいが、今は軍、貴族、どちらにも属さない最神直属の階級として使われている名だ。
しかも今のヤマトは中界軍では『中尉』だが、天界に行けば『騎士階級』という何とも分かりにくい立ち位置にいる。
そんな特殊な階級を持つヤマトに対し、皆どう接すればいいのか分からないのだろう。
ヤマト自身もレインの前では毅然に振る舞ってはいるが、実のところ戸惑いや迷いを感じていた。
――この異例の地位をどこまで使いこなせるのか。それをこれから模索していかないと。騎士階級をどこまで自分のモノにできるかで今後の活動が大きく変わるはずだ。
そんな事を考えながらヤマトは部屋の天井にある蜘蛛の巣を眺める。
「あああああ~」
自然と口から言葉にならないうめき声が上がった。
そんなヤマトの声をかき消すように、入り口の扉がノックされる。
「ど~ぞ~」
誰が入って来るのかわかっていたヤマトは、体勢を返る事なく気の抜けた声で応えた。
「失礼いたします」
部屋の扉を開けたのは一番身近な部下である大柄な男、レオニード少尉だ。
日頃からヤマトの仕事を手伝ってくれている。レインを軍に呼び戻す際に迎えに行ってもらったのも彼だ。
「あ、お休みのところでしたか? 失礼しました」
「いや、もう仕事に取り掛かる。問題ない」
レオニードはやる気無く椅子に座るヤマトを微笑ましく眺めつつ部屋の中へと入ってくる。
「お疲れのようですね」
レオニードはそう言ってヤマトのデスクの前に新しい資料を置く。
「少しな」と、ヤマトはわざとらしく目元を押さえる仕草をしながら答えた。
「まあ、騎士階級ですからね。皆さん中尉にどう接するべきか悩んでるんですよ」
レオニードはヤマトの考えている事を分かっているようで、笑いながら言った。
ヤマトはレオニードの言葉に「ん~」と気の抜けた返事をし背中の翼をほぐすように動かし座り直す。
「そのうち元に戻るでしょう」
「だといいんだがな」
「式典で正式に発表ですよね?」
「元帥はそのつもりだろう。華々しく俺とレインを登場させてバーン! と中界を宣伝するつもりだろうよ」
レオニードは「あはは」と笑うと、脇に抱えていた資料を本棚に返しながら言った。
「ジュラス元帥、先程お戻りになられたようですよ」
その言葉に「やっとか……」とヤマトは声を漏らす。
「あの御方は多忙ですから」
「今どこにいるって?」
「自室にて書類整理をされるそうです。数日は篭もると」
「よし、なら問題ないな」
ヤマトは立ち上がると首元の乱れを直しつつ部屋の出入り口へと向かった。
「少尉、その書類、大佐のデスクに置いておいてくれ」
「怒られませんか?」
「騎士様は忙しいんだ! ってことにしておく」
そう嫌みを言うヤマトにレオニードはやれやれと肩をすくめた。
「それにどうせあと少しでこの部隊ともさよならだからな。引き継ぎだ! 引き継ぎ!」
「そんなさみしいこと言わないで下さい」
「事実だろう?」
「確かにそうですが。だからと言って仕事を上官に押し付けるのはどうかと思いますけど。ま、そうお伝えしておきます」
レオニードの呆れた声にヤマトはいつものように笑って見せた。
「じゃ、ちょっくら行ってくる」
レオニードは敬礼をし、「はい」と短く答える。
その姿を見たヤマトは扉を勢いよく開け、ジュラス元帥の自室へと向かった。
◇
廊下を進むと二人の衛兵がジュラス元帥の自室の前で警備をしていた。
ヤマトが部屋の前まで来ると二人は一度顔を見合わせ、背筋を伸ばす。『熾天使の騎士が来た』とでも思っているのだろうか。
「閣下はこちらにおいでか?」
その問いに一人が「はい」と答える。
ヤマトはそれを聞くと扉の前に立ち間を置くことなくノックをした。
「ちょっ!」
本来ならここで謁見の申し入れをしなければならない。それを無視した行動に、衛兵は慌ててヤマトの腕を掴んだ。
「元帥閣下は今ッ……」
それに被さるように部屋の中から「は~い」という声が聞こえた。
ヤマトは一瞬自分の階級を口に出すことを躊躇したが、意を決して胸を張り目の前の扉に向かって名乗った。
「ヤマト熾天使中尉です」
「入れ~」
中から聞こえてきた返事にヤマトは腕を掴んでいる衛兵を睨み付ける。
黒の瞳に睨まれた兵士は素早く手を放すと、慌てて敬礼をした。
「し、失礼致しました!」
ヤマトは睨んでいた顔を笑顔に変え、焦りを見せる衛兵に向かって「ご苦労様です」とにこやかに声を掛けた。
そして目の前の扉を開けると敬礼をする。
「失礼します」
そう声を掛けてからヤマトは部屋の中へと足を踏み入れた。
中は資料や書物が乱雑に積み上げられていて足の踏み場がなく、実際よりも狭く感じる。
ヤマトがここに入るのは二度目だった。
一度目はガナイド地区悪魔討伐戦の報告の時。あれから三年も経っているのに、部屋の中は当時とまったく変わっていない。
部屋の奥には大きなデスクがあり、その上にはさらにたくさんの紙切れが山積みにされていた。書類の山に阻まれてデスクには近付けそうにない。
ヤマトは進むのを諦めて立ち止まり、敬礼をした。
「お! 来たな」
そう言って資料の間から羽ペンを持ったジュラス元帥が姿を現す。
いつも通りの白髪混じりの髪に剃り残しだらけの顎ひげ。目の周りには濃いクマが見えた。
「いいよ、楽にしろ」
ジュラス元帥はそう言うと、また資料の中へと消えてしまう。
ヤマトは肩幅まで足を広げ両手を後ろに回すと、山積みになった資料見つめながら話し出した。
「レインが怒ってましたよ」
「あ? やっぱり?」
資料の向こうから紙のこすれる音とペンの動く音に交じり、ジュラス元帥の声が聞こえる。
「流石にあれはやり過ぎです」
元帥はペンを動かしながら軽く笑った。
「そうかぁ。悪かった悪かった」
「謝るならレインに言ってやって下さい」
「そうだな、どうせ近々城に上がるつもりだからその時に顔を見せるわ」
さらさらと紙へサインしていく音が響く。
「で? ヤマト、お前はどうなの?」
「どうとは?」
「上手くやってるか?」
「……まあ、なんとか」
歯切れの悪い返事に、ジュラス元帥は資料の間から顔を出し笑った。
「状況が変わりつつある事に戸惑ってるのか? らしくないな」
「そうかもしれません」と、ヤマトは足下を見つめぼそりとこぼす。
自分自身でもそう思っている。らしくない……と。
ヤマトはいつかこの父と呼べる存在の側に行きたい。そう思い軍上層部に上り詰めようと努力してきた。
しかし、突然予想していなかった方法で手に入った地位に、戸惑っている自分がいる。大きな進展であるはずの現状にも関わらずヤマトは素直に喜べないでいた。
「ま、うまくやれ。俺からはそうとしか言ってやれんからなぁ」
ジュラス元帥はそう言ってヤマトを見つめる。
「お前なら今の立ち位置でもしっかりやれるさ」
「そう……ですかね……」
ヤマトは柄にもなく弱音を吐いてしまう。人間の頃の自分が見え隠れしているような気がしてますます情けない。
そんないつにもなく覇気のないヤマトに、ジュラス元帥は歯を見せて笑った。
「お前は俺が見込んだ天使だぞ。大丈夫だって!」
その言葉にヤマトはうつむいていた顔を上げる。顔を上げた先に見える元帥の優しい顔に、心が少しずつ温かくなっていくのが分かった。
父と慕う人が背中を押してくれているのだ。自分が弱音を吐き続けていてはいけないと、ヤマトは大きく深呼吸をすると、胸を張る。
姿勢を正すヤマトを見て、ジュラス元帥は「分かりやすい奴め」と言いながらまた資料の中へと戻っていった。
「で? 他にも何かあったんだろ?」
元帥にそう切り出され、ヤマトは先日見つけた歪みの事、その歪みに悪魔の能力が感じられた事を報告した。
話し終えると、ジュラス元帥は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺める。
「う~ん……この件、レイン以外に知ってる者は?」
「いえ、極秘の方がいいかと思い、報告はしていません」
「適切な判断だ。実はな、今月に入ってそういった報告が三件あるんだ」
「三件も?」
「ああ、たまに悪魔が上にちょっかいを掛けてきたりはあったが、ここまであからさまに行動するのは休戦後なかったからなぁ」
ジュラス元帥は白髪だらけの髪を掻き「なにか臭うな」とこぼす。
「それは……戦争ってことですか?」
「いや、そこまでとは言わないけど、何か起こすつもりなのかもしれない」
ジュラス元帥はそこで言葉を止め、自分の腕にはめているカラクリの腕時計を見る。
「ヤマト、この後時間あるか?」
「はい。あります」
「ならこのまま付き合え」と、壁に掛けてある黒のマントを羽織った。
「これから極秘の中界軍上層部軍議がある。お前も来い」
「よろしいんですか?」
「何言ってるんだよ。お前は『熾天使の騎士』だ、十分その資格がある。付いて来るよな?」
その言葉にヤマトは敬礼をして「もちろんです」と答える。
迷いが消えたヤマトを見て、ジュラス元帥は嬉しそうに微笑んだ。
「お供いたします」
はっきりとした言葉と見据える瞳を確かめた元帥はヤマトの肩を二度叩き部屋を後にする。
ヤマトは黒のマントを追いかけ、大佐以上の階級のみが集う軍議へと足を運んだ。
臨時に用意された席での初陣ではあった。
しかしこの一歩は大きなものだとヤマトは感じている。父と慕うジュラス元帥の姿を近くで見られる事が今の自分には必要なのだと。
そして、いずれは自分が手にする席を見つめる。『中界軍中将』の席を。