第2章 3幕
曇り空の下、レインは久しぶりに七海の入院している病院を訪れた。中庭を抜け、そのまま三階の窓を目指す。
外は少し肌寒く、病室も窓が閉まっている。部屋の中を覗くと、ベッドに座り看護師と話をしているショートカットの女の子が見えた。
レインは羽ばたき体勢を整えると、女の子の部屋の窓ガラスをコンコンとノックする。
七海はその音に気付き、嬉しそうに外を見ると看護師に窓を開けるように頼んだ。
「でも、七海ちゃん。寒いよ? いいの?」
看護師はそう言いながら窓を開ける。
「ありがとうございます。少しの間だけ」
七海は嬉しそうに笑う。
「そう? じゃあまた来るから、寒くなったら閉めるんだよ?」
「はい」
看護師は部屋から出ると入り口をゆっくりと閉める。
それを確認してから七海は窓の方に視線を移し「お帰りお兄ちゃん」と、見えるはずのないレインを笑って迎え入れてくれた。レインは窓の桟に座ってその笑顔を眺めながら答える。
「ただいま」
その言葉は七海には届いていない。
本来、人間にとって生きている次元が違う天使を感知することはできない。しかし、七海は昔から霊感が強い体質だ。その為会話などはできないが、人間以外の存在が近くにいることを感じる事ができた。
いくら霊感が強い体質のでも、ここまではっきりと天使を感知する人間は少ない。
それだけ自分達の家系は強い能力を持っているのかもしれない。母は霊感が強い体質ではないので、幼い頃に死んだ父の血筋なのだろうか。
もしかしたら父も天使に転生しているのかもしれないと考えた事もあったが、大抵は人間の頃の過去を隠したがる。その為、父を探すことは早い段階から諦めていた。
「お兄ちゃん、私ねもうすぐお薬の量が減るんだって」
七海がベッドの隣に置いてある丸椅子に向かって笑う。どうやらそこにレインがいると思っているようだ。
「そしたらね、先生が中庭の公園までならお散歩に行ってもいいって」
七海の声にレインの頬も自然と緩む。
「そうか……」
「それにね、それにね」
その話にレインは相づちを打った。
これから天界での生活になる。シラに頼んで定期的に会いには来るつもりだが、今までより頻度は格段に減るだろう。会えない時間が増える事への寂しさにレインは拳を強く握った。
「でね、でね」
レインは桟から降り部屋に入ると、嬉しそうに話す七海に近づき頬に手を添えた。
その頬は石のように冷たい。顔を近づけても、七海はずっと椅子の方を見つめて話し続けていた。
「七海、俺やりたいことが見つかったんだ。だから……」
レインはその頬を愛おしく撫で、嬉しそうな笑顔に微笑み返す。
そばにいるのに声を掛けてやれない悔しさに心が痛んだ。
触れているはずの手に感じられるのは冷たい感触のみ。これが人間と天使の間にある次元の違いだ。
レインは七海との間にある見えない溝を感じ、もう一度拳を握る。
しかし、そんな気持ちに浸るより七海の嬉しそうな姿を見ていたいと、彼女が話し掛けている椅子に座った。
必死に誰も座っていない椅子を見つめる彼女。死んだはずの兄に嬉しそうに話す姿に答えるようにレインは微んだ。
幸せな時間が過ぎていく。愛おしい妹とのかけがえのない大切な時間だ。
そんな時間の終わりを告げるようにコンコンと軽い音で入り口がノックがされる。
「はい」
七海は話を止め扉に向かって返事をした。
「七海ちゃん、誰かお客さん?」
先程とは別の看護師がゆっくりと扉を開け七海に声をかける。しかし部屋の中には七海しかおらず、窓が開いているだけだ。
「あれ?」
「本を朗読してました。すみません」
そう言って七海は看護師の女性に微笑む。
女性は部屋の中を見渡すが、七海以外に人の姿はない。看護師は少し不思議そうに首を傾げたが、部屋を訪れた理由を思い出し
「そうだ。お母さんが受付に来たみたい。もうすぐ面会に来るよ」
七海はその言葉に残念そうな顔をした。
「そう……ですか」
「えっと、お母さんが受付まで来たら七海ちゃんに伝えたらよかったんだよね?」
「はい。ありがとうございます」
七海は不安そうに確認してくる看護師に、再び笑顔を作り挨拶をした。女性はそんな七海の笑顔を確認すると、ゆっくりと扉を閉めていった。
「……」
扉の閉まる音と共に部屋が静まり返る。レインは椅子から立ち上がると窓へと近づいた。開け放たれた窓から冷たい空気が流れ込む。
「さ、お兄ちゃん、早く出ないとお母さん来ちゃうよ?」
七海は椅子に向かって残念そうに笑った。
レインと母親の関係をよく知っている。だから最近は母親が来る前に報告して欲しいと、看護師にお願いしてくれるようになっていた。
いつもなら母親が来ると分かると、七海の前髪に風を送り「帰る」と合図をしてから部屋を去る。しかし今日はその合図があるはずのタイミングで何も起こらない。
「お兄ちゃん?」
七海は首を傾げながら周りを見渡す。見えない兄の存在に七海は何度も「お兄ちゃん」と呼んだ。
レインは窓の前に立ち、そんな七海に微笑む。そしてゆっくりと呼吸すると正面に見える入り口を睨んだ。
コンコンと扉を叩く音が響く。
七海は兄の存在を感じることができず不安そうな顔を見せた。しかし来客を待たせるわけにもいかず「どうぞ」と返事をする。
「ななみ~」
扉を開けながら入って来たのはロングヘアーにパンツスーツ姿の女性だ。外は肌寒かったのだろう、腕に紺色のマフラーを掛けている。
「体調は大丈夫かな?」
女性ははつらつととした声で七海に笑いかけながら中へと入ってくる。
「うん」
七海はぎこちない笑顔を見せながら返事をした。
「今日はね、リンゴを買って来たんだ~」
そのまま病室を歩き、レインが先程まで座っていた丸椅子に座る。
その光景に七海は思わず「あっ」と声を出してしまう。
女性はそんな彼女を見て不思議そうに首を傾げた。
「ううん。何でもない」
七海は急いで笑顔を作る。そんな彼女の言動に女性は不思議がったが、すぐに違う話題へと変えた。
レインはそんな親子の会話を聞きながら『母親』と呼ぶべき女性の背中を見つめ拳を握る。
その話しかける言葉全てが本当に七海を思っての言葉なのか。彼女の言葉は、果たしてどこまでが本心なのだろうか。今のレインはそのことすらも、分かろうとも思わなくなってしまった。
過去が蘇ってくる。
子供の頃、あんなに追い求めていた背中。自分に振り向いて欲しくて仕方がなかった存在。あんなに追い求めていた母という存在が今目の前にいるはずなのに、何の感情も湧いてこない。
レインは背筋を伸ばし深呼吸を二度すると、その女性の背中に話しかけた。
「人間の頃はいろいろあった。正直、あんたを憎んでる。けど恨んではいない」
そのまま他人に話すように淡々と言葉を続ける。
「俺は天界に行きます。今までみたいに七海のそばに居てやれない。だから……」
逃げてはいけない。決めたのだ。自分はもう逃げることを辞めたのだから。過去からも、今の気持ちからも逃げないと……。だからこの人からも逃げないと決めたのだ。
女性の背中へレインはゆっくりと頭を下げる。
「七海の事……よろしくお願いします」
自分なりのケジメだった。そして過去の記憶と母親との決別でもあった。
レインは顔を上げると一呼吸置き、七海の前髪をふわりと揺らした。
「お兄ちゃん?」
「え?」
とっさに出た七海の言葉に、女性は窓を振り返った。
その窓は開け放たれていて、少しだけ冷たい風が入って来ているだけだった。