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Blue Skyの神様へ  作者: 大橋なずな
第1章 天界軍人編
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第1章 14幕-1

 俺には三つの忘れられない過去がある。

 一つ目は高校に入学したばかりの頃。妹の七海が立て続けの発作に見舞われ、集中治療室に運ばれた時だ。

 蛍光灯の眩しい光に当てられた七海の姿。たくさんの管に繋がれた妹を、俺はガラス越しに三日間不眠で見つめ続けた。

 声をかけてやれない。手を握ってやれない。何もできない自分に悔しくて泣いた。大切な家族を失うかもしれない、そんな恐怖に身体が震えた。

 母親は七海が集中治療室から出た翌日の朝早くに駆けつけ、その場で泣き崩れていた。出張先から飛んで帰ったなんて言っていたが、それは本当だっだのだろうか。あの人の涙は本当に七海のことを思ってのものだったのだろうか。自分が世間から同情して貰える為の代物がなくなる恐怖だったのではないのだろうか。今でもそれは俺には分からない。

 妹の前で泣く『母親』と呼ぶべき女を、俺はただ呆然と見ていた。

 二つ目は人間の俺が死んだ時。

 トラックに跳ねられ、身体がフワリと浮かんだあの時から俺は人間ではなくなっていた。痛いという感覚はなかった。

 七海の泣き顔を見ながら「生きたい」と叫び、丸一日泣き続けた俺は天使への転生を決めた。今の記憶を持ち続け、少しでも七海のそばにいられるなら……。そう思い俺はあの日から人間の頃の名を捨て『レイン』という名を授かった。

 そして三つ目……。それは今から三年前、俺が中界軍に所属して一年ほど経った頃の記憶。

 天界軍と中界軍の共同作戦、『悪魔討伐戦』での出来事だ。


 ◇


 広い野営地の隅に建てられた獣の皮を加工した軍事用のテント。そのテントに三十人ほどがひしめき合い、作戦遂行を待つ。

 俺はそのテントの一番奥の柱に寄り掛かるように座り、自分の刀を抱え任務までの時間をぼんやりと待っていた。

 薄暗いテントの中。頭上にあるランタンは激しくなる雨脚を表すように小刻みに揺れている。その明かりに仲間達の顔が照らされ、重たい空気をさらに強く感じさせていた。


「なんだよ。ビビってんのか?」


 そう声をかけられ、俺は隣に座る黒髪の青年ヤマトを見る。同じような体勢で座る彼の顔は引きつっていて、俺と同じようにこの先の作戦への恐怖が隠しきれないようだった。


「そんなわけないだろう」と、そっけない態度で答えたはずの俺の声は震えている。

 俺の声にヤマトは安心したのか笑って見せるが、すぐに顔つきは険しくなりテントの入り口付近を眺め始めた。

 あと数時間もすれば俺達は戦場に赴く。この場にいる三分の一以上が戦場を初めて経験するのだ。どんな戦場になるのかは誰も想像できない。全員が生き残れる……そんな甘い考えの奴はここにはいないだろう。

 この場にいる者は皆、死を経験している者ばかりだ。あの恐怖を全員が知っている。

 死ぬのは怖い。しかし敵をこの刃で斬り裂く……その恐怖もまた拭えなかった。目の前の敵が悪魔だとしても、人の命を奪うことに変わりはない。そこで自分は躊躇なく相手に刃を向けられるのだろうか……。

 このテント内にそんなことを口にする者はいない。腹を括っているのか、恐怖で声も出ないのか、それともこの恐怖に怯えているのは俺だけで、皆軍人になった時に恐怖心を克服しているのだろうか。

 俺はそんな考えをかき消そうと、隣にいるヤマトの固く握られた拳を眺め続けた。ヤマトの手が時折激しく震える。彼の中でも俺と同じような葛藤が渦を巻いているのだろう。

 先ほどよりもさらに天井は激しい音を立て、垂れ下がる数個のランタンがその衝撃で揺れた。影がそれに合わせてゆらゆらと不気味に動く。

 激しい雨で地面はぬかるんでいて、戦闘になれば厄介な天候だ。しかし今回の作戦は闇夜に紛れての特攻。雨音で足音が聞こえないのはこちらにとって好都合だった。

 俺は支給された雨具とゴーグルを握りしめる。それは人間界の化学知識を持った化学者達が作った代物だ。人間界とは違う物質で構成された天界で、人間が扱うような機材を作るのは難しいとされている。そんな中、化学班は能力で動くカラクリを応用し軍事兵器などを作っていた。

 そんな俺達『転生天使』は天界天使達にとって不愉快な存在に違いない。人間の成り上がりが天界の技術より高度な代物を作るというのは、彼らには受け入れがたいのだろう。下級層の世界に生きる人間と、それから生まれ堕ちる俺達転生天使。貴族や天界天使は、我々の存在自体を認めたくないはずだ。

 今回の作戦もその背景を色濃く映している。『天界軍と中界軍の共同悪魔討伐』と謳った大規模な作戦だが、その内容は我々中界軍を盾にした特攻作戦だ。七年前にガナイド地区を奪われた天界軍の尻拭いを俺達にさせようという魂胆が見え隠れしていた。

 静寂の中、急に入り口の布が音を立てて豪快に開かれる。


「いやー、参った参った!」と、大きな声で中に入ってきたのは全身黒ずくめの人物だ。それに続き同じ格好の奴らが数人テントの中に入って来る。

「こんなに降るとはなー」


 そう言って先頭の男がフードを脱ぎ、頭の水滴を払い落とした。少し白髪の入った痩せ型の男。頬はやつれ、軍人には見えない風貌の男は緊迫したテントの中、この場に不似合なほどの満面の笑みを見せる。

 その男こそが俺達を導いてきた人物、『中界軍ジュラス元帥』。


「おいおい! お前ら暗い顔しやがって!」と、豪快に笑うジュラス元帥はマントの下から瓶や袋を出し、テントの中央にドサリと腰を下ろした。


 後ろから入ってきた部下もフードを脱ぎ、同じように食料をテント中央に置き始める。


「腹減ってるだろ? うまい飯とはいかんが、天界軍の野営地から拝借してきた! 飲め! 食え!」


 ジュラス元帥は座り込んだ場所で周りにそう声を掛けると、袋から硬そうなパンを取り出し豪快に丸かじりした。彼の行動に周りの者達が唖然と見つめる。ジュラス元帥は仲間の顔を見るとニカッと笑ってみせた。


「まだまだ時間はあるんだ! 俺の晩餐に付き合えお前ら!」


 そんな元帥に圧倒されつつも、今まで動かなかった仲間が食料を受け取ろうと動き出し、ガヤガヤと会話が増え始めていく。


「食え食え!」と、その中心にいるジュラス元帥は皆に食料を振る舞う。


 テントの中に漂う緊迫していた空気が元帥の登場で大きく変わっていくのが分かった。暗かった空気がいつもの日常に戻るのを感じる。


 この先どんな戦いがあるのか不安で潰れそうになっていた仲間達の顔が、ほぐれていくのが見てとれた。


「やれやれ、あの人にお酌でもしてくるかな」


 ヤマトは立ち上がり、刀を腰に挿し直した。先ほどの緊張で険しかった顔は和らぎ、落ち着いているように見える。「お前も来い」と目配せをされたが、俺は苦笑いを見せこの場に残ることを伝えた。

 ヤマトは俺の返答を見ると、賑やかになりつつあるテントの中心に向かって歩いていく。

 そんなヤマトと入れ替わるように、テントの中心から袋を二つ抱えたマント姿がこちらに向かって来た。

  フードを脱ぐと白い髪のセミロングヘアーにラベンダー色の瞳の女性が顔を出す。凛とした出で立ちの女性は俺の前で立ち止まると、「いやー、参ったー」と、抱えている袋を一つ渡してきた。

 俺はそれを受け取る。中を開くと水の入った小瓶と小ぶりなパンが二つ入っていた。彼女の持っているものも同じだろう。

 彼女は俺の左隣に腰を下ろすと、袋の中からパンを取り出しかじる。そして「固い。味も薄いし最悪ね」と笑った。彼女のいつも通りの明るいアルトトーンに安心し、俺も同じようにパンをかじる。

 彼女の名前はスズシロ。中界軍二番隊軍曹、俺の上官だ。

 幼くして人間の死を経験したスズシロは周りより軍の在籍が長い。多くの作戦に参加し戦いにも慣れている彼女は、軍曹という階級にも関わらず、皆に一目置かれていた。

 転生して間もない頃、魂の回収の仕事をこなしていた俺はある人の勧めで中界軍へ入る。そこで新人の世話役として配属されたのがスズシロだった。

 彼女とはそれ以来の付き合いで戦闘技術や体術の師であり、姉のような存在であり、俺の大切な人だった。


「土砂降りだもんな。お疲れ」


 俺の言葉に「全くだわ」と彼女は頬を膨らませる。


「閣下も閣下よ。あんな感じに騒いでるけど、この食料を盗むのがどれだけ大変だったか……」

「これ、盗んできたのか?」


 スズシロは大きめに溜息を付くと頷いた。


「そうよ。閣下が大きな声で挨拶周りをしている間に私達に盗ませたの」

「あの人らしいな」

「ま、そうなんだけどね」


 スズシロはそう言って俺に微笑む。

 そんな彼女の髪から水滴が落ちていくのを見て、俺は思わず真っ白い髪に手を伸ばした。


「なに?」


 そんな行動にスズシロは首を傾げる。俺は急に恥ずかしくなり、髪の毛を撫でていた手を引っ込めた。


「いや、髪が濡れてるから風邪を引くな……と思って」

「あー、これね」


 スズシロはセミロングの白い髪を撫でながら笑った。


「大丈夫よ。それにどうせ作戦が始まればまた濡れるし」

「うん。まぁ……そうだけど」


 俺の歯切れの悪い言葉に、スズシロがニヤニヤと顔を覗き込んでくる。


「なに? 心配してくれるの?」

「そ、そりゃ……いろいろ心配するだろ?」


 恥ずかしくなった俺はスズシロから目を逸らしながら答えた。


「ありがと」


 その答えに満足したのか、スズシロは俺の頭をポンポンと叩く。俺はその手をそっと払いのけた。


「あれ?」と、スズシロは俺に払いのけられた手をプラプラさせ残念そうな顔をした。

「子供扱いするなって言ってるだろ」


 俺がそう伝えると、彼女はいつも通り微笑みながら「嫌だった?」と聞き返してくる。俺はそんなスズシロの質問には答えず、パンを一口頬張った。

 何度も繰り返したこのやり取り。緊迫した作戦前のこんな時でも、彼女はいつも通り俺に微笑んでくれている。


「レイン! 来いよ」と、急に声を掛けられた。


 テントの中央を見るとジュラス元帥が俺に向かって手を振っているのが見えた。


「ホラ、来いよ!」「一緒に飲もう」「なに隅で拗ねてるんだよ」と、仲間達が元帥とともにそう言って俺に笑い掛けてくる。


 俺は声を掛けてくる奴らに聞こえないよう「拗ねてねーし」とつぶやくと水を口に含む。そして誘いの言葉を無視しようとしていると、俺の背中を隣のスズシロがそっと押してきた。

 驚いてスズシロを見る。すると彼女はニッコリと微笑んで「行っておいで。みんなと話をしてた方が気がまぎれるよ」と言った。

 俺はスズシロの隣にいたいと口に出しそうになったが、彼女の微笑みに「うん……」と頷き、立ち上がる。


「スズシロは?」

「私はいいよ。ここで見てるから。レインはみんなと話しておいで」


 俺はスズシロの言葉にもう一度頷くと、テントの中央へと移動した。


「よく来た! ほれ! パンと水しかないが」


 一人の仲間が俺の席を開けて招き入れてくれた。俺が一人分開いたスペースに座ると周りの仲間たちが嬉しそうに頭を撫でたり、肩を突いたりして来る。


「腹減ってないか?」

「今、食べた」

「まさか天界の連中との合同作戦で緊張してるのか?」

「してねーよ!」

「おこちゃまレインはビビってるんだよな?」

「ビビってねーし!」


 口々に言葉を掛けてくる奴らに俺は答えた。周りの年上の男どもは笑い、俺を茶化してくる。いつまでたってもガキ扱いばかりする連中だ。今回の作戦で一番歳下だからと皆、俺に甘い。

 けれど人間の頃にここまで笑いあえる奴らはいただろうか。ここまで信頼できた人間は七海以外に果たして何人いただろう。

 鬱陶しくて、喧嘩っ早くて、暑苦しい軍人の男達。けれど、それが俺にとっては居心地がよくて、ここは人間の頃には感じることができなかった安心できる場になっていた。

 それから約一時間の間、ジュラス元帥はいつもと変わらない明るい声で、その場にいる全員に声を掛け続けた。テントの中に漂っていた緊迫した空気はいつの間にか姿を消え、いつもの中界軍がそこにあった。みんなそれがジュラス元帥の気遣いだと分かっている。だから全員が出来るだけ明るく振る舞い、ジュラス元帥に笑い返した。

 この先、隣にいる仲間が死ぬかもしれない。もしかしたら死ぬのは自分かもしれない。そんなことを胸に秘めながら……。

 ジュラス元帥は作戦が行われる直前、何か上官らしいことを言うわけでもなく「じゃあまたなー」なんて手を振りながら作戦本部へと向かっていった。

 そんな元帥が去った瞬間から明るい空気が消えていく。現実に押し戻されていくのがはっきりと感じられるほど、場の空気が一瞬で変わった。


「よし! じゃあ元帥も行っちまったし、そろそろ準備するぞ、お前ら!」


 その暗い空気へ皆が飲み込まれそうになる前に、今回の作戦の指揮官が声を上げる。

 俺の直属の上官であるウォンロン中佐が燃えるような赤い髪をかき上げながら、皆の不安をかき消すように胸を張り刀を握った。


「俺達の力を天界軍に見せつけよう。我々転生天使、中界軍がいかに大きな力を持っているかをここで知らしめるんだ。ジュラス元帥の志を俺達が叶える。そうだろ?」


 その言葉に周りの皆も頷き、立ち上がる。「行こう」「俺達がこの戦いを勝利に導くんだ」「閣下の為に」と声が上がる。そして準備が終わった者から順番にテントの外へと出ていった。皆の顔は険しく、先ほどまでの和やかな空気も恐怖で震える様子もない。

 雨はさらに激しさを増しているのだろう。入り口から見え隠れする風景は雨雲の色だった。

 俺も立ち上がり、刀を腰に挿すと身なりを整える。

 しかしスズシロはそのまま動く気配がない。ずっとジュラス元帥が出て行った入り口を見つめていた。


「レイン!」


 声のする方に目をやると、入り口近くでフードを被り、身支度を整えたヤマトが声を上げている。

 その声に俺は右手を上げ先に行けと合図をした。ヤマトはそれを見て一瞬声を掛けようと口を開いたが、ふとためらう表情を見せ、そのまま外へと出て行った。

 一人、また一人とテントから出て行く。そんな仲間達をスズシロは体勢を変えずに見ていた。


「スズシロ、行こう」

「……うん」


 返事はいつもの覇気のあるものではなく弱々しい。

 俺はそんなスズシロにそっと手を差し出す。スズシロが手を掴むと俺は彼女を引っ張りあげ立たせた。

 立ち上がり俺と向かい合ったスズシロは大きく深呼吸をして目を瞑る。両手で手を包み込み、何かを考える彼女の姿を見て俺は不安に駆られた。


「スズシロ?」


 俺はもう一度彼女に声を掛けた。


「大丈夫」

「うん」

「大丈夫だよ……」

「うん」


 俺はただ頷くことしかできなかった。スズシロの不安そうな顔を見たのは初めてで、どう返していいか分からなかったからだ。普段から弱音も吐かないスズシロのそんな弱々しい姿に彼女の両手を強く握る。

 スズシロは手を握り返しながら目を開け、俺をしっかりした眼差しで見つめてきた。

 柔らかいラベンダー色の瞳。いつも俺を見守ってくれる、安心する色。そんな彼女の真剣な顔に俺は思わず「なんだよ」と声を出した。


「ううん……」


 スズシロは首を振り、笑って見せる。いつもと違う雰囲気に俺は戸惑いながらも彼女の瞳を見つめ返す。

 テントの中はもう俺達だけになっていて、先ほどまで賑やかだった場所は閑散としていた。その為か雨の音が余計に大きく聞こえる。天井の灯りが俺達を照らしながら小刻みに揺れた。


「レイン」

「ん?」


 彼女が俺の目を見つめ名前を呼ぶ。俺はいつも通り短く答えた。


「好きよ」


 その後に発せられた一言に俺は驚いた。


「な、なに? 急に!」と、思わず声を出す。


 スズシロは俺の手を握り続けながら、強い眼差しでもう一度「好き」と言った。


「今伝えときたかったの。好きだって、ちゃんと口で」

「分かった! 分かったから!」


 俺は彼女の瞳を見続けられなくなり顔を逸らす。あまりにも唐突で強い想いにどうしていいか分からなくなってしまったから……。

 そんな俺を見て彼女は急に手を離し、クスクスと笑い出す。


「照れた照れたー」

「う、うるさい!」

「あはは」と、笑いながらスズシロは身なりを整え、入り口へと歩き出した。


「レインはまだまだお子様ねー」

「なんだよ!」


 俺は顔が熱くなるのを感じつつ、笑い続ける彼女の後ろを追い掛け歩く。


「こう言う時は『俺もだ!』って言うものでしょ?」

「こんな所で言えるか!」


 そんな俺の叫びにスズシロはくるりと後ろを振り返る。そしていつもの笑顔で俺を見た。


「ならどんな所なら言えるの?」

「……」


 その言葉に俺の顔がさらに熱くなるのが分かった。


「じゃあ、今度聞かせて。きちんと言える所で、ちゃんと伝えて、ね?」


 そう言ってスズシロははしゃぐように笑い、前を向くとテントの入り口に向かう。


「スズシロ!」


 咄嗟に叫んだ俺は気が付くとスズシロの腕を掴んでいた。

「ん?」と、彼女はそんな俺に首を傾げる。

 俺は自分の予期せぬ行動に慌てつつ、彼女の顔を見つめたまま赤面した。

 ここで伝えよう。いつも感謝していると……君がいてくれたから俺はこうしていられると。


 ――俺はスズシロのことを……。


「……ッ」


 伝えよう……そう自分に言い聞かせたが、たった二文字がどうしても出てこない。

 こんなに想っているのに、こんなに大切にしているのに……その言葉は俺の喉から出て来ることができない。

 数秒間待ってくれたスズシロは、限界が来たのか吹き出してしまった。


「ごめん」

「いいよ、またで」


 そう言いながら彼女は俺の頭を撫でてくれる。彼女の手の温もり。俺はその優しさに溢れた手を振り払うことができなかった。

 俺はいつまで経っても自分の感情を相手に伝えることが出来ない。妹の七海以外に大切な人など今までいなかったからだろうか。それとも人間の頃の辛い記憶が邪魔をしているのだろうか。しかしそんなのはただのいいわけに過ぎない。

 彼女を想えば想うほど、その二文字を口に出したら、ガラスのような空気が割れてしまいそうで、消えてなくなってしまうんじゃないかと怖いんだ。七海との幸せな時間も、人間の頃の楽しかった日々も消えてしまったように。彼女を想う気持ちを口に出したら、彼女が消えてしまいそうで……。

 スズシロは頭を撫でるのを辞め、俺の頬を両手で包み込むと、「ありがとう」と言った。

 そんな彼女の優しさに甘える俺がいる。幼く弱い自分が悔しかった。


「さてさて、行こうかな」


 スズシロはそう言うとフードを被る。その顔付きは軍人へと変わっていた。

 俺もコートに身を包むと、彼女の横に立ち深く頷く。彼女は俺を見て一瞬だけ微笑み、すぐに顔を戻すとテントを出ていった。それに続き、フードを被りゴーグルを付けると外に出る。

 外に出た途端、凄まじい雨で視界が遮られた。暗闇の中で雨に打たれながら仲間の待つ場所まで移動する。


「お前ら、遅いぞ」

「すみません」


  仲間に声を掛けられたスズシロは張り詰めた声で答えた。


「レイン、行けるか?」


  俺の耳元でウォンロン中佐がそう声を掛けてくれるが、その声ですら雨の音に遮られる。


「行けます!」と、俺はかき消されないように少し大きな声で答えた。

「無理するなよ?」

「俺たちの底力見せてやろうぜ! ルーキー!」


 仲間達が俺を気遣ってか、声を掛けてくれる。


 それに「はい!」と返事をするが、先へと進む仲間の姿はすぐに見えなくなり、視界の悪さを痛感した。

「行こう」


  ウォンロン中佐の掛け声と共に俺達の戦争が始まった。

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