第4章 36幕
俺は東京のとある夫婦の元に生まれた。
夫婦の馴れ初めは、父の働いていた小さな工場に営業で母が訪れたから。中卒で何年もその工場で職人として働いていた父と、有名大学を出て大手の会社に就職しエリートコースを進んでいた母。違う世界に生きる二人はお互いの自分には無い部分を見て興味を持ち、やがて恋に落ちた。そんな時に母は俺を身篭った。親の反対を押し切って駆け落ち同然で俺を生み、俺達は家族になった。
父の稼ぎは少なく、ほとんどが母の収入で賄っていた。その為、幼い頃の思い出は全て父とのもので母はいつも家にはいなかった。
妹の七海が生まれた年、母の収入で建てた家が完成した。父と二人で二階建ての一軒家でお祝いをしたのを薄っすら覚えている。
七海が生まれて少し経ったある日、彼女に大きな病気があることが分かった。肺の病気。呼吸が上手く出来ないものだった。
両親は必死に七海の看病をし、莫大な医療費に悩まされ続けた。
その頃から母はますます働くようになり、父はそのことでいつも悔しそうな顔をしていた。
いつまでも続く闘病生活。いつからか二人の喧嘩が絶えなくなった。崩れていく夫婦関係。
その話の中心にいるのはいつも七海だった。二人は俺を見てはくれていない。そう、俺はこの家にいないんだ……と思うようになった。
そんなある日、父は俺に言った。母に内緒で夜の工事現場のバイトをしようと思うと。俺は父の思いつめた顔を見て、嫌だと言えなかった。
大きな家に一人で過ごす夜は怖かった。父の帰りを待ちながら布団の中で過ごすのはすごく……すごく寂しかった。
父が帰って来た時、寝ている俺の頭を撫でてくれると、安心できた。俺はその手が好きだった。
けど、ある日から父は帰って来なかった。
一瞬だったらしい。機械と機械の狭間に巻き込まれ、顔は見ることも出来ない程、原型をとどめていなかったと聞かされた。
葬式は呆気なかった。ああ、人ってこんな風に死ぬんだ。そう思った。なんだ……簡単だ……と。
父の葬儀で母は泣かなかった。それどころか父の夜の工事のバイトを知って腹を立てていた。なぜそんなに怒ったのかあの時の俺には分からなかった。
そのすぐ後、父の生命保険で七海の手術をすることになる。手術は成功したが、あまり病状は良くないと聞いた。
そんな話を聞かされてから俺は七海に会いに行かなくなった。
きっと七海も父のようにあっけなく死ぬのだろう。そう思っていたからだ。父や母がそこまでしても、きっと彼女はすぐに死ぬ。どうせ……どうせ……。
母はますます家に寄り付かなくなった。七海の病室と職場を行き来する日々。
俺は大きな家に一人、ずっと一人だった。
そんな時、学校の授業で柔道があった。そこで俺は武術に出会った。身体を動かし、相手を投げる。それに病みつきになる。そこから俺は様々な武術を習い始める。
最初はただ、母親を振り向かせたかった。どうせ七海はもうすぐ死ぬ。父みたいに死ぬのだから、俺を見て……と言いたかった。だけど、母は道場に通わせてくれるだけで、俺の成績には関心を示さなかった。
そんなある日、学校の三者面談があった。いつも学校行事は父が来てくれていた為、初めて母と話を聞いた。
学校の教諭は俺の武術のすごさや生活態度を褒めてくれたが、母は営業スマイルを振りまき、まるで仕事の延長線上のような言葉で面談を終わらせた。その後、俺に何かを言ってくれることは無かった。
教室から出て帰路に着こうとした時、数人の保護者と立ち話になる。その中での話も七海のことだった。病状や医療の話を大人たちは永遠と話す。俺のことなど一切触れない。今日は俺の面談なのに……そう思い母の顔を見つめた。その時の母の顔は何故か嬉しそうだった。
「お母さん偉いわ、旦那さんを亡くして一人で子育てして」
「七海ちゃんの看病も大変でしょう? すごいわ」
「仕事もこなして、お辛いでしょう」
その言葉に母は笑顔で答える。「そんなことありません。母親として出来ることをしているんです」と。
その時、俺は感じた。この人はきっとこれが嬉しいんだと。母は周りからの同情に酔いしれているのだと。
俺に興味などない。事故で旦那を亡くし難病の娘を持ちながらハードな仕事をこなす自分に酔っているのだ……。
ああ、そうか……俺などいらないんだ。そうだ。俺は……いらないんだ。
あの三者面談の日。俺はそう悟った。
その日から学校に通うのが疎かになる。中学ではほとんど授業をサボった。不良グループに入り、武術の使える俺はリーダー格の用心棒としていつも街を歩いた。煙草も吸った。酒も飲み続けた。
どん底に落ちつぶれていく日々。それでもいいや。どうせ俺なんていらないのだから。
そんなある日、家の電話が鳴る。いつもは無視するはずなのに、何故かその日に限って俺は電話に出た。それは病院からで、七海の病状がかなり悪いということだった。
ああ、やっと死ぬのか。そう思った。父みたいにあっけなく死ぬと思っていたが、あいつもやっと死ぬのかと。
俺がこうなってしまったのは七海のせいだ。そう、あいつが生まれてこなければ俺はこんな風にならなかった。父は夜のバイトに行かなくてよかったし、母も仕事を必死にする必要もなかった。あんな風に歪んだ思想にならなかった。父も母も俺を見てくれていたはずなのだ。
そうだ、最後に笑いにいってやろう。あっけなく息を引き取るのを俺が見てやろう。ざまあみろと、そう言ってやろう。
しかし現実はそんな甘いものではなかった。
向かった病院。
いくつもの管に繋がられた細い身体、真っ白の光の中に彼女はいた。
何年ぶりかに会う妹の姿……その衝撃に俺はその場に茫然と立ち尽くした。
そんな俺を見て七海は笑う。「おにいちゃん」と……擦れた小さな声で俺を呼ぶ。
俺は彼女の細い手を握り言った。
「……お兄ちゃん、私……死ぬのかな?」
「死なないよ。大丈夫。俺がついてるから」
そう言って俺は泣きながら七海の手を握った。
今にも消えてしまいそうな妹のことをその時、初めて愛おしく思った。
それから七海の病状は少しずつ回復に向かっていく。
俺はあの日を境に彼女の病室を訪れるようになった。妹と一緒にいるのが何よりの楽しみになっていた。
学校にも家にも居場所の無い俺の入れる場所は七海の隣にあると思った。
母親とはその頃から全く話さなくなった。あの三者面談の時の気持ち悪さがどうしても脳裏に過り、母親を避けていた。
たまに話せは喧嘩になった。母は俺にとって、もう振り向いて欲しい存在ではなくなっていた。
そんなある日、俺はいつも通り学校をさぼり、道場を辞める話を付けていた。寒い冬の日。クリスマス前のネオンと今にでも雪が降りそうな曇天の空。そう、そんな日に俺は死んだ。
ほら、やっぱり。人が死ぬなんてあっけないものなのだ。父と同じように自分もあっけなく死んだではないか。
けど、死にたくなかった。七海ともっと一緒にいたかった。一緒にいれなかった空白の時間を取り戻したかった。兄として側にいてやりたかった。
死という恐怖に蝕まれ、苦しみの中で思ったのは七海のことだった。
死んで知ったことがある。それは七海の病状はあまりよくないということだ。そんな中、俺の死を聞いた七海は更に病状を悪化させ、緊急治療室に入ってしまう。三日間の集中治療を抜け、元の病室に戻りベッドで横になる七海の姿を見て、決意した。
俺が七海の最期を看取ってやろうと。
死という恐怖に怯えないように、苦しみや悲しみが襲ってきても俺が側にいてやろう。
俺が彼女が死ぬ時の見届け人としてこの場にいよう。
だから、天使に転生しよう。そう思った。
階段を急いで駆け降りる。
数段降り始めここは中界なのだと気が付き、レインは翼を使って階段を飛行しつつ降りた。
風は病院内を抜ける。看護師や患者はその風に驚いたが、春先の突風だと思ったようだ。もうすぐそこまで春が来ているのだと微笑む。
レインは見覚えのあるホールまで降りると、走り込み七海の病室に向かった。
入り口は開け放たれている。誰かが座り込んでいるようだ。
「ホムラ先輩」
「よ、レイン。ほら、扉閉められんように開けてやってるんやから、はよぉ中へ入れ」
そう言った朱赤の髪の男はこちらを見て微笑む。どうやら、扉を人間が閉めないようにそこへ居座ってくれていたらしい。
「もうすぐだ。行ってやれ」
「ありがとうございます」
レインは深く頭を下げ、中に駆けこんだ。
そこには数人の看護師と医者の姿があった。管を調節し、電子音の鳴るモニターを睨む。数々の点滅するライトが今の現状を物語り、妹の最期はもうすぐそこまで迫っているのだと思い知らされる。
レインは駆け込んだ病室で一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりとベッドに向かった。
「七海、ごめん。遅くなった」
レインは七海の顔を覗き込む。その顔は赤みが抜け冷たい。
「よく頑張ったな。もうすぐだ。俺が付いてるから、だから……」
そっと頬に手を添える。冷たいその頬から微かに温もりが感じられた。魂が身体から抜け落ちる前触れだ。
「大丈夫、大丈夫だから……」
その言葉を繰り返し、頬を撫でる。自分か嘗て経験した『死』という恐怖。その恐怖をこれから七海は経験しなければならない。そんな彼女を看取り、新しい人生を歩む姿を見届ける。
それが自分がこうして生まれ変わった意味。
「お、おに……ちゃん?」
目を薄っすら開けてこちらを見つめる。
そんな彼女に周りの看護師たちがどよめいた。
「七海ちゃん、お母さんもうすぐ来るからね! もう少し頑張って!」
「どこか痛いところない? もう一度声出せる?」
「頑張って七海ちゃん!!」
そんな声の中、レインは七海に微笑む。
「七海、俺が見えるか?」
質問に七海はコクンと小さく頷いた。
天使が見えるようになっているのはこちら側に魂が抜け落ちている証拠。
「そうか、もうすぐだな」
額を合わせ、目を瞑る。
「大丈夫、俺が付いてるから。だから安心していっておいで。俺がここで見ているから」
その言葉に七海は少しだけ微笑み、ゆっくりと瞼を閉じる。
機械音が長いブザーを鳴らす。その音に周りの医師たちが何度も名を呼び、機械を調整し、手を握る。
しかし、七海はそれ以上目を開けることは無かった。
レインはそのまま動かなくなる七海の額に自分の額を付け待つ。
死という大きな闇の中、生きたいと、もがきあがき叫び這い上がって来るのを。
数分後、医師たちが全ての手を尽くし終え黙祷を捧げる頃、部屋に向かって走り込む影が現れた。
「七海!!!!」
声を上げて駆け寄る女性。
「かあ……さん」
母は深い眠りについた七海を見て、涙を流し名を呼んだ。
「七海! 七海!! どうして!? ねえ! どうしてみんな私の元から去っていくの!?」
泣き叫び声を荒げる母親。その姿をレインは茫然と見つめる。
「私……わたし……頑張ったよ! わたし、頑張ったのに! なのに!!」
「…………」
「どうして? どうやったらよかったの? 私のこと嫌いだからみんな離れていくの? どうしたら愛してるって分かってくれたの? 私は……」
「母さん……おれ……おれ……」
「あなた、七海……―――――」
名前を呼ばれた。人間の頃の名前。自分の捨てた名前。
母親にその名を呼んで貰えたのはいつぶりだろう。
それだけで……自分は今まで間違っていたんだと感じた。この人は少し愛情表現が歪んでたんだ。自分を捨てた訳じゃなかったのだ。
きっと、この人も自分と同じように悩んでいたんだ。
泣き叫ぶ母親の横からゆっくりと光が生まれ始める。それは徐々に大きくなり、人の形を成していく。そして身体を作ると涙を流しながらこちらに向かって手を広げた。
その光をレインはゆっくりと包み込む。暖かいその身体を大切に抱きしめ、「よく頑張ったな」と声を掛けた。
「お兄ちゃん!!!」
七海は泣きながらレインを抱きしめる。
「怖かった。けど、お兄ちゃんが側にいてくれたから……だから」
「そうか」
レインは七海の頭を撫で、頬を伝う涙を拭った。
七海は泣き叫び家族の名を呼ぶ母親を見つめる。
「お母さん、ごめんなさい。けど、私もう行かなきゃ」
そう声を掛ける。もう、届かないことが分かっていても。
「私、辛いこと一杯あったけど、お母さんの子供でよかった。お兄ちゃんの妹でよかった」
「…………」
「お兄ちゃんもそうだよね?」
「そうだな。俺もお前の兄でよかった……。母さん、俺……」
レインは七海を抱きしめたまま母親に向く。
「俺、きっと今まであなたのことを勘違いしていた。ずっと俺のこと……必要としてない、要らない息子なんだって思ってた。けど、さっき俺の名を呼んでくれた。それだけで俺、救われたよ。俺も……母さんの子供でよかった。今は、そう思うよ」
その言葉に七海は微笑み、レインの頬を両手で包み込んだ。
「お兄ちゃん、私先に行くね。新しい家族の元へ。そこでまた新しい幸せを見つけて来る。お兄ちゃんは……」と、目を見つめると何かを感じたのか少し嬉しそうに微笑む。
「まだやるべきことがあるんでしょう? 大切な人が……できたんだよね?」
「よくわかったな」
「お兄ちゃんの妹だもん」
「そうか……うん。もう少し……俺はこのままこうして生きるよ」
レインの微笑みを見て七海は嬉しそうに笑った。
「お母さん、ありがとう」
「母さん、ありがとう」
その言葉をそっと吐く。聞こえているはずのない母親は、ふと泣き叫ぶのを止めゆっくりと顔を上げる。そしてこちらを見つめた。
「七海……?」
見えていないだろう。しかし、視界の中に何かがいるのを感じているのだろうか。母親はこちらを見て涙を流した。
七海は手を振り、レインに微笑む。そして光へと変わり始め、やがて消えて行った。
レインはそんな七海を見守り、最後に残った小さな光の球を両手で包み込むと胸に押し当てた。
「次に目覚める時、素敵な人生でありますように。さようなら、七海」
「―――――?」
また、名を呼ばれた。涙でぐしゃぐしゃになった顔の母親に向かって笑う。
「あなたにその名を呼んで貰えた。それだけで俺は幸せです。母さん」
母親もレインに向かって少しだけ微笑む。それはこちらが見えているからなのだろうか。それとも……。
そんな母から離れ、レインは七海の病室を後にした。
屋上庭園まで戻ると、そこにはまだ少し冷たい風が吹いている。そんな風が黒いマントをなびかせながらヤマトは空を見上げていた。
「ちゃんと見届けたか?」
レインの足音を聞き、ヤマトは空を見上げたまま声を掛けてくる。
「ああ、ありがとう。別れの挨拶が出来た」
「なら、良かった」
レインはヤマトに近づくと、刀の柄を握り「今の現状を教えろ、天界の城はどうなっている」と問う。
「まあ、いろいろあってな。このままだと全面戦争は免れないだろう」
「そんなに世界は緊迫しているのか?」
「ああ、今はガナイドで足踏みしてるが、いつまで持つか」
「…………」
「そこでだ」
ヤマトはこちらに顔を向け、ニヤリと笑う。
「俺の話を聞け、そして腹をくくるんだなレイン」
「…………」
「もう一人、会わせたいお方がいる」
「会わせたい?」
「そう、着いて来い」
ヤマトは急に翼を広げると空に飛び立つ。レインもその後を追って東京の街を飛んだ。