僕は小説を書けない
「クソッ……!」
俺はパソコンの前で何も出来ない悔しさ、苛立ちから拳をキーボードに叩きつけた。
「畜生! 書かせてくれぇ!」
叫ぶ。渇望を。願いを。願望を。だが、それを許してはくれない。
『ククク……書いてもいいんですよ。己の欲望のままに』
天井の角に付けられたスピーカーから声が聞こえた。機械によって変えられた無機質な声。だが、声の主の性根までは隠せてはいない。隠すつもりもないのだろうが。
「そんなことはしない!」
俺はガタッと勢いよく椅子から立ち上がり、監視カメラを恨みがましく睨み付けながら叫ぶ。
『まだ理性は残っているようで何よりです。精々耐えることです。貴方の家族の命が掛かっているのですからね。……クックック』
もはや耳にこびりついた嘲りしきった笑い声に今すぐにでもスピーカーを叩き壊したくなるが、それもできない。した時点で、俺の負けだ。
「……妻と娘は、無事なのか?」
冷静になるよう言い聞かせ、乾いた声で俺は訊ねる。
『それは無事ですよ。私は約束は守る方なのでね。家族想いもいいですが、貴方の読者はどう思っているのでしょうね……ククク……』
まるでゲームを楽しむような言い方だ。いや、こいつにとってはゲームなのだろう。イカれてやがる。
俺はマウスを操作して投稿サイトに上げた自作小説のページを確認する。
「……クッ」
心の奥底から申し訳ないという気持ちが溢れだし、目の前が滲む。
『ククク……貴方の小説をお気に召されている八千人の読者が今も待ちわびているのではないでしょうか。首を長くして。……ああ、貴方は酷いお人だ、楽しみに待つ読者の期待に応えられないとは』
演技臭く嘆くような口調に俺は、
「いったい誰のせい――」
怒鳴り散らしそうになるのを寸でで堪え、パソコンの画面を見た。
既に更新が途絶えて一年以上も経つ、俺の作品をこんなにも待っているかもしれない人がいるというのに。
書きたい。今すぐにでも書いて期待に応えてあげたい。だが、書いたら俺の家族は……。
「……すまない、すまない……」
俺には壊れたおもちゃのように繰り返し謝ることしかできない。
パソコンの前で謝り続ける俺の背後、スピーカーからそれを楽しむ笑声が聞こえ続けていた――
―――――――――――――
「俺はいったい何を書いているのだろうか……」
ふと我に返って俺は書き連ねていた駄文をためらいもなくスマートフォンのメモアプリから消去する。
書かない理由を正当化しようと考え込んでいたら、いつの間にか書いてしまっていた駄文だ。後悔はない。
「そもそも、何て理由だよありゃ……」
家族を人質に取られて小説を書くのを禁じられている。うむ、あり得なさすぎる。俺には家族がいない……いや、両親はいるけど。妻も娘もいないのだからそうなる可能性すら生まれてないし。ついでに言えばお気に入りが八千もない。
もっと納得させられる理由があるだろうに。例えば、テキストデータが消えたとか、設定資料を紛失したとか、忙しくて書く時間がないとか。
『どれも嘘になりますけどね』
「……うっ」
事実を言われ俺は呻く。ちなみに今の声は俺の妄想彼女だ。俺にしか見えないし、現実には存在しない。
俺は小説投稿サイトにアクセスし自分の作品を表示する。まず真っ先に目に入るのは、小説が長期間投稿されていないことを忠告するメッセージだ。二ヶ月目から表示され、一年ともなると更新される可能性が薄いとも伝えてくれる。実に親切なサイトだ。ちなみに俺の小説にもこのメッセージが表示されている。
「まさか、ここまで長くなってしまうとはな……」
俺は嘆息する。
『何故、書かないのです?』
「書かないのではない。書けないのだ」
『胸を張って言わないでください』
淡々と妄想彼女に言われた。妄想ならばもっと優しい言葉を掛けてくれてもいいのかもしれないが、これは俺の深層心理が反映されているのだろう。事実、言われて嫌な気はしない。
「書きたいとは思う。だが、いざ続きを書こうとしても展開が浮かばなくなってしまって、書き始める前に止めてしまう」
そう、続きなのだ。
俺が更新を止めた部分は、主人公とヒロインの会話の途中だ。話が一段落してるとかならば、新たな話を書き出せば済む話だが、途中となるとまずはその話を着地させる必要がある。ページをめくったら、場面が変わって別の話が展開していた――では読者の怒りを買うだろう。
『既に買ってるかと。停止した段階で』
「……クッ」
妄想彼女の言う通りかもしれない。読者はいつまでも気を長くして待ってくれる者ばかりではない。待つのが苦にならず、何度も読み直して考察を積み重ねて待てるほど、自作が面白く深みのある作品だという自信はない。
「別に書かないというつもりはないんだ。だがな、書くのに間が空いたことで、以前の文章のキレが鈍ってるかもしれないし――」
『キレなんてありましたっけ?』
容赦のない突っ込みが入ったが、
「リハビリとして短い話を書いて、感覚を取り戻そうとはしてるだろ」
『ゲームばかりしてるように見えましたが』
「…………」
それは返す言葉がない。一度止まったら中々元の状態には戻れないもので、この一年間での執筆の優先順位はかなり下がってしまっている。
「だが、今年は違う! 俺は続きを書くつもりだ!」
俺は力強く言い放つ。冬季オリンピックもある、W杯もある。消費税も上がる。タイミングとしては今でしょと告げている(こじつけ)。
「そのためにも、俺は過去の俺を思い出すために俺の作品を読み返す! 邪魔すんなよ!」
と、ズバッと妄想彼女に指を突きつけて言い放って自作を一から読み直そうと画面を見つめるのだった。
五分後。
「これはキツい」
俺は画面から目を逸らすしかなかった。
それはまるで自分自身の過去の過ちを見るかのようで、真剣に向かい合うには少々キツすぎた。
改めて読み返すと出てくる、おかしな言い回しに誤字。展開にももっと面白く出来たのではないかと疑問が生じ、これでは読み返すどころではない。
「よし! 忘れよう」
五分前の自分の発言ごと俺は闇に葬り去ることにし、スマートフォンをベッドに放り投げようとした時、
『本当にそれでいいんですか?』
そんな声が耳に響いた。目の前には妄想の彼女が真剣な眼差しで俺を見据えている。
「ああ。誰も俺には期待していないだろうしな」
俺は苦笑して言ってやった。
『どうしてそんなことを言うんですか』
妄想彼女の眉がピクリと僅かに動き、声色は平坦ながらも奥底に怒りが滲んでいるのが分かった。彼女は一息入れて続ける、
『昔の貴方はそんな人ではなかったはずです。ただ純粋に書くことが好きで、書くことを楽しんでいたじゃないですか』
彼女の言葉に俺は目を閉じて思う。書き続けることの出来ていた頃の俺は、たしかに楽しんでいた。自分の創った世界の続きを描き出すことが好きだった。
いや、今も気持ちではそうなのだ。頭の中では物語は続いている。だが、不安なのだ。果たしてそれが読者に受け入れられる続きなのか。だったら、いっそのこと続きなんて書かない方が……
『それで本当にいいんですか?』
静かに彼女はそう問い掛ける。その答えが運命を左右するとでもいうかのように。
『これを観てください』
そう言って彼女は俺の小説の情報ページを開く。(※:操作したのは俺だが。妄想だから)
『貴方には待ってくれている読者がいるじゃないですか。きっと更新してくれることを期待して』
読者=お気に入りは更新停止中に減りはしたが、それでもまだ入れてくれている人がいる。
「きっと消すのを忘れてるんだな」
俺は笑いながら言った。ひねくれている考えの俺が嫌になる。
『そうかもしれません。ですけど、この中に一人……いえ、入れていない人の中に誰か一人でもいるかもしれないじゃないですか!』
彼女には珍しく声を張り、瞳を潤ませながら言う。
『貴方は以前言ってました。たとえたった一人にしか楽しませられない小説でも、そのたった一人を楽しませるために書く。って』
「…………」
そんなクサイ台詞を言った覚えがないのだが、彼女の言葉は強く俺の心へと響く。
『だから、書いてください』
潤んだ瞳を細めて柔和な微笑みを浮かべ彼女は言った。
俺は彼女を真っ直ぐに見つめ頷き、笑う。
「そう言われたら書くしかないな」
俺はスマートフォンを手に取る。
執筆に活用しているアプリを開いて、まっさらな無地の白い画面を見て、深呼吸する。
脳内に浮かんでくる物語を形にする。待ってくれている読者のために、そして自分自身のためにも。
「俺の執筆はまだ始まったばかりだ!」