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依頼人~太った野心家~

白い壁に白い床、革張りのソファがガラステーブルを挟んで並べられている部屋。芸能事務所といえど、応接室というのは大体どこのオフィスも同じようなものだ。

ガラステーブルにはコーヒーカップが置かれている。さきほど前谷の秘書らしき女性が入れてくれたものだ。 ソファには一人の青年が腰掛けている、細身の体に、ダークブラウンの髪と瞳、手足は長く実際の身長より長身に見える。中性的だが、エキゾチックな光をたたえた顔かたち。

先祖にイギリス・フランス・ドイツ人がいるためか、日本人の美青年とはすこしちがった趣だが、彼、春都の容姿も人をひきつけるには十分魅力的であるといえた。

春都は新規の依頼を受けた兼ね合いで、この事務所に訪れていた。

 前谷はすぐに参ります。といわれてから15秒がたった。春都は暇つぶしと眠気覚ましをかねてコーヒーを入れてくれた女性の分析をおこなうことにした。

 30台女性、独身。仕事は有能だが、家事は不得手。自分の容姿に若干コンプレックスがある。結婚はしていないが深い付き合いの男性がいる。その男性はおそらく20代の男性でやや荒っぽいタイプ。こんなもんか、あとで答え合わせをしよう。

 短い接触ではいかに春都でもこのくらいのことしかわからなかったので、あっという間に暇つぶしが終わってしまう。

 一呼吸つき、春都はコーヒーに口をつけようとしたところで、小太りの男性がドアをノックして入ってきた。

「いやー、どうもすみません。お待たせしてしまった」

 どうやらこの男が前谷らしい。今回のクライアントである。

「いえ、おかまいなく」

 春都はソファから立ち上がり挨拶をした。

「はじめまして。今回はひとつよろしくお願いします」

 前谷はそういって、頭を下げ名刺を差し出してきた。『FT芸能プロ プロデューサー 前谷 太』と書いてある。

 資料によると彼は、この芸能プロが有する人気アイドルグループ『フライデー13』のプロデュースを行っている人物であり、この事務所のナンバー2の肩書きをもっているらしい。元は作詞家で、業界では名が知れているということだ。

 春都は名刺を受け取りながらとりあえず前谷の観察を始める。

身長172cm、体重はおよそ80キロといったところか。やや肥満体ではあるが、清潔感はある。芸能関係の仕事をしているだけあって、来ているジャケットやシャツも洒脱で、高級なものである。メガネをかけており、かなりの近眼。表情はにこやかで、瞳孔の大きさから好奇心に満ちていることがわかる。かなり年少である自分に対しても完璧なビジネスマナーを遵守しているが、こちらを探るような目を一瞬見せたのち、それを悟られないよう視線を左上に向けた。

以上のことから、春都はとりあえず「有能なビジネスマンだが、子どものような無邪気さもある。そしてこちらに疑いをもっている」と判断した。

まあ、それも当然だろう。マトモな仕事をしている人間からすると、春都の仕事は現実離れしているように感じられるものだ。話には聞いていても、半信半疑なのが普通だ。

「あいにく、僕は名刺をもっていなくて。なにせこんな商売なもので」

 春都はそう断ると、前谷はかまいませんと答え、ソファにすわるよう促した。

 ソファに座った春都はコーヒーに一口だけ飲み、口を開いた。

「あなたも忙しいでしょうから、すぐに仕事の話をはじめても?」

 普通、商談の前には世間話など、雑談が入るものということは春都も知っているが、自分はビジネスマンではなく、一種の職人であると思っている彼はすぐに本題に移った。

春都は事前の情報で仕事内容は理解していても、クライアントから直接話を聞くことにしている。ターゲットの詳しい情報も聞けるし、クライアントの意向をより深く理解できるからだ。

「早速ですか。やっぱりプロの方は違いますねぇ。まぁ、そのほうが話が早いですが。では、私も率直にお話し、というか質問してもいいですか?」

 前谷はややくだけた口調になっている。

「いいですよ」

 おそらく前谷は春都の『仕事』について詳しく知りたいと思っているのだ。クライアントはいつもそうだった。

今までの人々はチラチラと春都をみて、身をのりだし、注意を引こうとした。これは人間が質問をしようとするときに見せる動作の特徴である。しかし大抵の場合は聞きたそうにしているが聞いてはこない。別に質問されても春都は一向に困らないのだが。

「えーっと、佐倉さんの仕事についてなんですけど…。すいません。わたし、好奇心が止められないたちでして」

前谷は率直だった。たしかに好奇心からもあるだろうが、それ以上に春都が信頼に足る人物かどうか判断するため、といったほうが大きいだろう。なにせ前谷にとっては自分が育てたアイドルと事務所の未来を左右する仕事を任せる相手なのだから。

「まず、どうしてそんな仕事をしているんですか? ええっと…あと、職業名はなんていえばいいですかね?」

 最初の質問はいいが、二つ目の質問は答えるのが少し恥ずかしい

「仕事は世襲制なんです。家業みたいなもので。えーっと、職業名は…えーっと、一応、最近では『ロマンスメイカー』ということになってるみたいです」

 この職業名は恥ずかしい。春都はつねづねそう思っていた。ロマンスという言葉に一種の気恥ずかしさがあり、また、しょうもない仕事のくせにかっこつけた名を名乗るのもちょっとなぁ…という思いもある。

「ほう! 素敵ですね! ロマンスメイカーですか!」

「普段は単に仲介人、とでもよんでくれればいいです」

「いやいや、せっかく素敵な名前なんだから、使いましょうよ!」

 どうやら前谷はこの響きが気に入ってしまったらしい。どうしよう、これで仕事の報告の電話とかで、「ロマンスメイカーさん、進捗状況はどうですか?」なんて聞かれると嫌だなぁ、などと考える。

「でもロマンスメイカーさん」

「僕のことは名前で呼んでくれませんか? ちょっと恥ずかしいです」

 これからしばらく付き合う相手だ。毎回そんな風に呼ばれてはたまったものじゃない

「では佐倉さん。いえここはあえて親しみをこめて春都さん、でもいいですか? ええそうですか、ありがとうございます。さっき世襲、って言ってましたけど、そもそもどうしてそんな仕事が出来たんですか? えーっと、つまりはあなたのご先祖様に初代の方がいるということですよね?」

 随分と、深いところまで聞きたがる人だ。プロデューサーというのはみんなそうなのだろうか? 

「そうですね。本当かどうかは知りませんが、ルーツは二つあって、一つは日本の平安時代で、一つは中世のフランスだそうです」

「随分、由緒のある仕事ですね」

 前谷はおそらく信用していないだろう。そりゃそうだろう、と春都は思った。なにせ春都自身、半信半疑である。普段であれば別にかまわないが、ここでは前谷はクライアントであって、ある程度の信頼を貰わなければ仕事がやりづらくなるので、自分も疑って考えている祖父や母から聞かされた話をそのまま話すことにした。

 春都の仕事、現在での名称ロマンスメイカーの起源が日本で発生したのは平安時代のことだ。

高校の古典でも学べるが、平安時代の貴族の男女は互いに顔を合わせもしないまま、和歌を交し合うことで交流を深めあっていた。したがって、この時代の男女の魅力というものは‐無論家柄や容姿なども大事ではあっただろうが‐和歌を詠む能力に大きく依存していたことになる。

 いつの世も異性からの人気がない、すなわち「モテない」男女はいる。当時は和歌が下手な人物はまるでモテなかった。

 そこで、あるモテない貴族は恋の歌を得意とする歌人に和歌の代書を頼んだそうである。歌人はモテない貴族の女性への思いを聞き、また女性の好みを聞いてまわった上で、それは美しく、女性の心に深く染み入る和歌を詠んでやった。これが大成功した。勿論、代書の事実は秘匿とされたが、人の口に戸は立てられないもので和歌を代書する者がいる、という事実だけは一部の人間には知られることになった。

 そうするとあとは早いもので、我も我もと代書を求める者が増えた。歌人はそれを受け入れ、また自分の息子、またその息子たちと子孫にも代書の技術を習得させていった。現在にも当時の恋の歌は輝きを持って残っているが、一般に知られている作者は歌人の一族に依頼した人間に過ぎないとする考えは春都の一族では通説になっている。

そのような働きを示した彼らは当時、結び人とよばれていたそうだ。 

「ほー。それは面白い話ですね。それでは春都さんはいにしえの時代の恋歌の名手の子孫というわけだ。いえね、私も一応作詞家ですし、ラブソングも作ってますからね。興味深いなぁ。うんうん。あ、すいません」

ここまで聞いた前谷は口を挟んでくる。なるほど、たしかに言われてみれば、もとをたどれば前谷と自分は同業者ということになる。だけど、今は違う。そこがここからのところだ。

そして時は流れて、武士の時代がくる。需要は大分減ったものの、歌人の子孫は未だに代書を続けていた。そしてそこに目をつけた一人の有力武士がいた。(この武士は歴史の教科書にも載っている有名な武士なのだが、名前まで言うと嘘っぽいので春都はあえて言わなかった)

 この一族はなんと恋の歌に長けているのだろうか。この美しき清流のごとく心に染み入る歌は単に和歌の技術が巧みというだけではない、ひとりひとりの男女の心の深遠を解し、またそれを動かすための急所を掴む知恵をもっているからこそ詠むことが出来るものだ。そう思い至った武士は、結び人の能力を別のことに利用することを思いつく。

 政略結婚である。

 武士の時代には政略結婚が普通だ。通常の場合、顔も見たことが無いもの通しが家や国に都合で婚姻する。大抵の場合は人質だったり、領地の拡大のためだ。

 それとは別に、恋愛結婚というのも少ないが存在した。有名なところではかの太閤、豊臣秀吉と妻のねね、などがそうである。

 恋愛結婚の場合、なにせ当人の意思で行うのだから多少の反対や不都合などは乗り越えて結婚してしまう。人間の恋愛感情というものは意外と強いものだからだ。

 では、この恋愛の結果として行われた結婚が、結果として政略結婚になってしまう場合はどうか? 当人どうしはお互いの自由意志で惹かれあい、結びついただけだが、たまたまその結婚が政治的にも意味があった場合はどうか? あるいは結婚まではいかなかったとしても子をなしてしまった場合はどうか?

 たとえば、高貴な身分にある男がある貴族の娘を気に入り側室として娶った場合、娘の父親は権力を手にすることが出来る。あるいは隣国の大名に嫁入りするはずだった大名の娘の姫が家臣の若い男と好きあい駆け落ちしてしまった場合、両国の外交関係にはヒビが入ることとなる

 このような「自由恋愛」は政略的に大きな意味をもってしまうが、自由故に御しがたものだ。では この自由恋愛を操ることが出来たらどうか? それは政治的に重要な意味と大きな力を持つのではないか?

 さきの有力武士は「結び人」に忍びのものとしての訓練を積ませた上で、恋愛を操ることが出来るか試してみた。すなわち対象となる男女のことを調べ上げ、容姿などを好みのものにする、文を送る、周囲の人間に噂を広める、偶然を装って二人を合わせる、などのことをさせた。

 するとなんと、対象は武士の思うとおりに結びついた。男女の心の機微を知り尽くした歌人でありながら、忍びの者としての技術を習得した彼らは見事仕事を成し遂げたのである。有名武士の娘たちは見事、高貴な男に輿入れすることとなり、武士は権力を手にした。

 あとは平安時代のときと同じように、結び人の一族とその働きは権力者たちの間で知られることとなり、専門職として働くことになった。

 これがおよそ500年昔のことだ。その先も結び人の一族は少しずつ時代のニーズに合わせながら形を変え、大正の世まで残っていたとのことだ。

「と、いう流れらしいです。同じようなことがヨーロッパの貴族のあいだでもあったそうです。で、もろもろあって、二つの一族は交友し、同化したんだそうで。今の僕らはその末裔…だと祖父が言ってました。本当かどうかは僕も知りません」

 春都は話を終えた。最後に伝聞系にしたのは、自分で言ってて、リアリティがないなぁ、と思ったからだ。しかし前谷にとってはそうでもなかったらしい。

「いやー、なんて面白い話だ! わたしは信じますよ! 春都さんの話! すごいなぁ! 歴史の裏に生き、恋を操りし者たち! 素敵だなぁ! これをもとに作詞していいですか? 駄目ですかそうですよね」

 前谷は瞳を子犬のように輝かせてまくし立てる。春都はこの反応が意外だった。

「はぁ…どうも。大体わかっていただいたようで何よりです」

 はしゃぐ前谷をみて、春都はすこし恥ずかしくなった。

 平安時代の話も戦国時代の話も、基本的にはやっていることは今でも変らない。ただ、対象が大企業の子女だったり、若い政治家だったりするだけだ。和歌は使わないが、さまざまな手段を駆使して、男女を結び付けている。

いつの時代も他人の恋愛によって得する人はいるし、当人どうしだけでは絶対に結びつかない男女もいる。春都たちは依頼を受け、あらゆる手を尽くし二人を結びつけ、報酬を貰っている。それだけだ。

はっきり言って、褒められた職業ではない。春都はそう思っている。殺し屋や運び屋、あるいは政治家付けの現代の忍者も実はいる、ということも春都は知っているが、それらと基本的には同じ裏稼業だ。他人の運命を勝手に左右する仕事なんてろくなものじゃない。

 褒められたものではない上に、くだらないと思ってもいた。そもそも恋愛、ってなんだよ。そんな風に感じる。だから、前谷のような肯定する反応は恥ずかしい

 ラブソングが共感を呼んでヒットし、巷では男女問わず、相手探しにやっきになっている。映画でも小説でも人間にとってかかすことの出来ない至高の価値あるもの、として描かれており世界の中心で叫ばれたりもしている。

 だが、実際はどうだ? あんなものは結局、思いこみだ。社会によって行われたすり込みと種族維持のための本能がもたらす錯覚にすぎない。タイミングと条件がそろえば、人は恋をする。

なんと薄っぺらいものか。「運命の恋」「最高のパートナー」「赤い糸」、断言しよう。そんなものは、無い。その証拠に見ろ。僕がこれまでターゲットにしてきた人たちを。自由意志のつもりが第三者の意図のままに恋に落ちているではないか。きっとそのときは本人たちは「運命によって結ばれた赤い糸で繋がった最高のパートナー」だと思ったかもしれない、だがそれは誤りだ。

自身のテクニックだけで結ばれたカップルを数多くみてきた。そこには惹かれあう真実の心などなく、ピュアな恋も、深い愛もなかった。

過去に結びつけたカップルが今どうなってるのかは知らない。知りたくも無い。もともと第三者の介入によって作られたカップルなのだから、幸せになっているという可能性のほうが低いのではないだろうか。それでも彼らは結びついた。これが茶番でなくてなんだ。そしてそれを生み出した僕はなんだ。

それだから僕は、こんなくだらいない仕事はさっさとやめてしまいたいのだ。

「春都さん? どうしました?」

 前谷が不安そうに除きこんできたことで、春都は考えていたことを振り払った。

「いえ別に。聞きたいことは終わりですか? そろそろ仕事の話をしても?」

「ああ、すいません。どうぞどうぞ」

 春都は雑念を棄てて仕事にかかることにした。どのみち、これが最後の仕事なのだから深く考えまいとした。

 「まず確認ですけど、ターゲットの女性は前谷さんのプロデュースしているアイドルグループのメンバー、小松 優菜さんとそのファンで現在無職の男性、杉村幸太さんで間違いないですか?」

 まずは確認である。今回の依頼はたいぶ変ったところがある。人気アイドルとニートの男をくっつけるのだから。最初それだけ知ったときは依頼人である前谷の動機が理解不能だった。

「はい間違いないです」

「理由もここに書いてあるとおりですか?」

「一応、拝見。ええ、はいそうです」

 しかし送られてきた理由を読んで、一応理解した。すこし納得できないところもあるが、まぁ芸能界のことなんてさほど詳しいわけではないので、まぁそういうこともあるか。くらいには思っている。

「本当にいいんですか? 二人が上手くいったとしても、前谷さんの狙ったとおりの結果になるとは限らないと思いますが」

 だから春都は念押しした。これで仕事が片付いたあと、クレームをつけられてはかなわない。

「いえ、大丈夫でしょう。それは私のプロデューサーとしての腕ですよ。それにもし万が一駄目だったとして、それは春都さんの問題ではないですから」

 なるほど、前谷は自分のプロデューサーとしての手腕に自信をもっているのだろう。そしてプロ意識も立派なものだった。

「了解です。では次に、基本事項の確認ですが、小松優菜さんはこのことは知りませんね?」

「はい」

 これは当然のことだった。ターゲットに依頼のことを知られてはならない。一族の掟でもあるが、それよりまず著しく成功確率が下がるからだ。一体誰が仕組まれた恋愛に乗ろうなどと思うだろうか。

「杉村幸太さんもですね?」

「当然ですよ。私はあったこともありません。そういえば彼に関しては別の人でもいいですよ。春都さんが同じ条件の人を見つけていただければ」

 それはつまり、ニートで、優菜の熱狂的なファンであるということだろうか。

「いいです。二度手間ですし、同じ条件の人だったら難易度はたいして変らないです」

「そうですか」

「期間は3ヶ月。報告は随時。業務の達成はキス現場の写真及び小松優菜さんからの報告ということでいいですね?」

「かまいません」

「このことを知っている人は前谷さんと、事務所の社長、そして前谷さんの秘書だけですね? 緘口令も敷いてますか?」

これも重要なことだ。知っている人間は極力少なく、しかしいなければならない。自身の仕事が公になるのは避けなければならないが、次のクライアントも確保しなければならないからだ。

 他にも春都は次々と確認事項を聞いていき、最後に気になっていることをいくつか質問して終わることにした。

「さきほどコーヒーを入れてくれた女性の方は、独身ですか? 昨日の貴社時間は? あといつもあーゆー髪型なんですか?」

「え? それがなにか関係が?」

「いえ、ただの興味です。差し支えなければ」

「はぁ…中川ですか。独身ですよ。たしか昨日はいつもより早く、七時には帰りましたね。髪もいつもは髪を上のほうでまとめてます…それがなにか?」

 なるほど。ではさきほどの秘書の女性に対する推論は多分あたりだ。春都は自分の調子が悪くないのを確認した。

秘書の女性は指輪をしておらず、またコーヒーもよどみなくもってきたが、不味かった。これは仕事でしかコーヒーを入れてない証拠だ。したがって独身。また失礼ながら美人ではなく、メガネも今どき珍しいほど分厚く、来ているものも白いワイシャツに黒のジャケットと地味。顔を遮るアクセサリーや地味な服装は外見上のコンプレックスを持っている女性に多くみられる。またワイシャツの襟が汚れていた。これはおそらく二日目の着用だからだが、顔色は良く、徹夜仕事や酒のための外泊ではない。つまり男のところにいたと推測される。これはかすかに香る海を思わせる男性用のコロンと不自然に首を覆うヘアスタイルの奥に見えた噛み傷から読み取れる、若く荒っぽい男性像とも一致する。

「では最後にひとつ。僕の仕事に協力してくれるということで提案した件ですが、早速今日からはじめてもいいですか?」

 前谷からは出来る範囲での協力の了承を依頼段階で貰っており、また春都はそれをうけて昨日のうちに一つ提案をしている。

「早速ですね! かまいませんよ。もう話もとおしてありますし、優菜は他のメンバーと一緒に今上の階でダンスのレッスンを受けています。ご案内しましょうか?」

 さすがに人気アイドルのプロデューサーだけあって、動きが早い。「助かります。ではお願いします。でもその前に」

 春都は持参したバックから黒髪にパーマのかかったセミロングのウィッグと黒のカラーコンタクトを装着し、さらに黒のブーツから白のスニーカーに履き替えた。また黒縁のスタイリッシュなメガネをかけ、黒のライダースジャケットから白のテーラードジャケット着替える。露出した顔にはスプレーをかけ、若干色白にもなった。仕上げに人工の黒子と八重歯を装着。人は際立った特徴があるとそこに目がいき、それをもって人を認識してしまうことを逆手にとったワンポイントである。

「これからなんどか別の役で小松優菜さんの前に立ちますからね」

 春都は声色を変えて話した。

「おお! 変装ですか! これはすごい」

 わざわざ前谷の目の前で変装を披露したのは実力にたいしての信頼を得るためのデモンストレーションだった。ちなみにこの姿は美容師やカメラマンなどに扮するときの基本系『桜木』である

「さきほどの、ヨーロッパ風ファッションモデルから、芸術家風の草食系男子への変貌! 声まで変ってまるで別人! しかしどっちもイケメン!! さすが恋のプロ! ロマンスメイカーですね!!」

 前谷は子どものようなリアクションを見せてはしゃいだ。ロマンスメイカーと呼ばれるのは本意ではないが、少なくともこちらが特殊技能者であることは理解してもらえたようだ。

 実は春都は、前谷がこちらを信頼してくれなかった場合にそなえ、前の日に中年男性に好かれるタイプの一般女性をナンパした上で前谷に会うよう頼み、「いい感じ」にしておいた。そして、あの女性は僕の仕込みですよ? これで信じてもらえました? と言うつもりだった。

悪いことをした。ごめんなさい。心のなかで謝る。

「ん? 春都さん? いきましょうか?」

「あ、はい。いきましょう。そうですね。メンバーの前では僕を桜木と呼んでください。本名は具合が悪いもので」

「徹底してますね。わたし、なんだかワクワクしてきました」

 僕はウンザリだけど。そうした言葉を飲み込み、春都は前谷のあとついて応接室を出て、小松優菜がいるというレッスン室に向かった。

 さて、お仕事の始まりだ。春都は左手をぶらぶらと揺らし、ターゲットとの接触にそなえた。ロマンスメイカ

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