前編
ようやく書き終わりました……。つ、疲れたぜ(笑
とにかく字数が半端ないので、お覚悟を。では、どうぞっ!
世界に繁栄を促した古の技術、魔法ーー。それを扱うために必要な宝石、魔法石の採掘として有名な国、ディアヌーン。その都市であるアウストラでは、人伝えにこんな噂話があった。
ーー一匹の狼を従えた、とある義賊の物語ーー
皆が寝静まった夜更け。豪奢な屋敷の窓を突き破って、一人の男が現れた。その男は、口元を隠すように覆面をし、目立たぬよう黒ずくめの格好をしている。
パリィーンと言う音。そして、大小さまざまなガラスの破片と共に落下を始める。地面までの十数メートルをあっという間になくし、軽い音を立て着地する。
それなりの高さがあったのだが、足を痛めた様子は全くない。背中にくくり付けた袋を背負い直し、男は疾走を開始する。だが、数歩も行かない内に、異変が起きた。
「奴だー!奴がいたぞー!」
背後から、異変を知らせる笛の、けたたましい音と共に、そんな叫びが上がった。
その叫びを聞きつけたのか、屋敷の至るところから、兵士達が続々と現れる。口々に叫んでいるが、やがて黒衣の男に向かって指さす。
男のことを見つけると、皆一斉に武器を構える。剣や槍を構えるのがほとんど、その内の数人がカンテラを持ち、その明かりが辺りを照らす。そんな状況の中、しかし男ーー盗賊は、走る速度を緩めはしない。
(こっから先は、出たとこ勝負!)
自ら、集まって来た兵士ーカンテラを持っている一人に接近し、その兵士は、いきなりの接近に驚き、慌て剣を振るう。が、遅い。
盗賊は、その一撃をきわどくかわし、突然、着込んでいた黒服の中から、手品のように一振りの長剣を取り出す。細身であり、しかし装飾の類のないその剣は、どう考えても、その黒服から現れるとは思えない。
そして彼は、その長剣でカンテラを切り裂き、中で光を放っていた小さな火をもかき消した。
「なっ!?あのヤロ…!」
カンテラの明かりが消え、兵士の周りがフッと暗くなる。離れた所に別のカンテラを持った兵士がいるのだが、そのカンテラの光もこちらにまでは届かない。
暗がりの中、盗賊は兵士と兵士の間をぬうように走り続ける。
兵士達も、目の端に何かが動くのを捉えるが、ろくに夜目が効かず、それが何なのか、捉えることができない。
「くそ、どこだ!?」
「っ!? そこか!?」
「うおっ、危な!? 何すんだ、俺は味方だよ!?」
「ウォラー!!」
暗がりの中、必死に目を懲らして辺りを見渡したり、危うく味方に切り掛かったり、剣をやたらめったに振り回す。
兵士達が右往左往しているすきに、盗賊は最短距離で塀を目指す。途中で、一人の兵士から槍を拝借。槍投げの要領で豪快にぶん投げる。
盗賊の狙いどうり、塀のそばに槍が突き刺さる。それを見て、ニヤッと笑う。
(よっしゃ!あとは…)
突き刺さった槍のそばまで近寄ると、そのままトンッと軽やかに飛び、槍の石突きに片足を乗っける。すると今度は、石突きを足場にして、高く飛び上がり、三メートルはある塀を飛び越えた。
「なっ…」
別のカンテラの明かりで、その光景を見た兵士達は、その身の軽さに驚愕の表情を浮かべた。あれじゃ、捕まえるのは並大抵の事じゃないな、と。
と言うか、なんども同じ手口で逃してしまったのだが、こればかりは何度見ても驚きは無くならない。盗賊が塀の向こう側に飛び降りて数秒後、ようやく我に返った兵士達が、口々に叫ぶ。
「お、追え! ほら、急げ!」
「で、でも逃げられましたよ! 向こうは城下ですし、捜索は困難です!」
「…また…逃げられた、だと? ……俺の給料が〜!!」
隊長格の兵士は、頭を押さえ、悲痛な叫びを上げた。言葉から察するに、今月は財布が軽いだろう。
そんな中、彼の部下がボソッと呟く。
「でも、隊長の給料って、元から少ないっすよね?」
それを聞いて、哀れな隊長は、がっくりと膝をついた。
~~~~~
とある店の昼。戦場のような忙しさを誇っていた厨房も、ピーク時を過ぎると、ずいぶんと緩やかな時間が流れる。
「あー…。疲れた〜」
「お疲れ様」
伸びをしながら、厨房から出て来た赤毛の少年に、二十歳ぐらいの女性がティーカップを差し出す。熱い紅茶が入ったそれを受け取ると、ゆっくりと啜り始める。
一口飲むと、赤毛の少年ーーライは、ずいぶんと緩んだ表情を見せる。
「はぁー…」
疲れを滲ませたため息をつき、手短な椅子にドカッと座る。この店ーー名はラサトーユと言うーーは、彼と彼の姉であるサヤ、そしてあと二人で経営している。
この辺りは貧困層が多く、子供の内から働くと言うことは珍しいことではない。
ちなみに、料理は彼ともう一人、帳簿の整理や金銭管理等はサヤが、最後の一人は手伝いをしている。店自体が小さいので、四人でも十分回して行けるのだが。
なぜかいつも忙しい。それは何故か。それは。
「相変わらず、ライは凄いよなー」
「ホントそうよ。…何でライの方が料理上手いのよ…」
もう一人の料理係の言葉に、サヤは長い赤毛を揺らしながら呟く。答えは単純だった。ただたんに、ライの料理が凄く美味しいのだ。
ちなみに、それによってサヤの女性としてのプライドが深く傷ついたのは言うまでもない。ライは、ハハッとかわいた笑みを浮かべる。
「そ、それは…。僕は何とも言えないよ。と言うか、トレイドも中々のものだと思うよ」
姉に言った後、もう一人の料理係、ライと同い年くらいの黒髪の少年ーートレイドに言う。ちなみにこの三人、同じ孤児院出身であり、つまりは幼馴染である。
ライの言葉に、トレイドは笑みを浮かべる。
「そうか。ありがとな」
隣にいるサヤからティーカップを受け取り、感謝の言葉を告げる。白い粒状のものが入った小瓶の蓋を開け、
「お前がそう言うなら、俺もうまくなったんだろうなー」
「…僕は評論家じゃないから何とも…。…て言うか、ちょっと待って。何で塩を入れようとしているの!」
今まさにティーカップに塩を入れようとしているトレイドに、ライは止めるように声をかける。トレイドは、「えっ?」と呟き、塩をすくったスプーンの動きを止めた。
塩はぎりぎり入っていない。
「…それ、砂糖じゃないよ」
サヤの言葉にトレイドは中身を確かめる。
「…あ、ホントだ」
(いや、あ、ホントだ、じゃなくて!)
わからなかったのかよっ! お前一応料理人だろっ!?
そう突っ込みたいのを、かろうじて堪える。彼は、やる時はやる男なのだ。(色々な意味で)
サヤはそんな彼を見ながら苦笑、ライは頭を抱え、重々しくため息をついた。トレイドはと言うと、気まずそうに塩を元に戻し、紅茶を一口すする。
ここはラサトーユの調理場であり、色々な調味料がたくさんあるのだが、なぜか彼は塩と砂糖を間違えたようだった。ーー料理を作るときは、そんなミスはしないのだが。
トレイド、実はかなりのポケポケさんなのであった。
ビミョーな空気が漂う中、突然入り口のドアがバンッと開いた。
「ただいまー。…て、あれ?どうかしたの?」
両手で荷物を抱えた少女が、キョトンとした表情で三人を見渡した。年齢はライやトレイドと同じか、少し下。この店で住み込みで働くお手伝い、ユリアである。
店内をキョロキョロ見渡し、最後に恐る恐る尋ねた。
「…もしかして、私、何かやった?」
何もやっていないのだが、この場の空気からはそう思わざるを得ないだろう。
「いや」
ライは首を振って、トレイドを指さす。指さしされた本人は、まるでその指から逃げるようにプイッと顔を背ける。しかし、ライはその様子に構わずに喋りだす。
「トレイドが、紅茶に塩を入れかけた」
「…え? 何それ? ……あーハイハイ」
ライの言葉少なめな説明に、一瞬疑問符を浮かべるも、すぐに理解した。ーー普通なら、これで理解できるのかと突っ込みたくなるが。それでも、わかってしまう程に、この四人の付き合いは長かった。ハハ~とユリアは頷き、手にした荷物をテーブルに置いてトレイドに近寄る。
「トレイド~」
「…」
からかうように名前を呼び、しかし彼は素知らぬ顔をしたまま、彼女の視線を無視する。それが気に入らないのか、ユリアはムッとしたように頬を膨らませ。
次の瞬間、トレイドの両頬に手を当て、強引にこちらを振り向かせた。
「うおっ! …お前、何すんだ!?」
ユリアの手をほどいて、トレイドは彼女に向かって叫ぶ。だが、ユリアはそんな物を歯牙にもかけず、
「名前呼んでいるんだから、こっち見なさい! 何で無視するの!?」
「何となくだ!」
「言い切るなよ!?」
トレイドの、いっそ清々しい言い方に、思わずライが突っ込み、サヤはそれを見て微笑んでいる。
「フフフ、何となく?」
「そう、何となく」
「っ…トレイド、ちょっとお話があるよ!」
彼のふざけた言いように、(本人は至って真面目)ユリアの説教が始まった。事の収集が着くまでには、しばらく時間がかかりそうだった。
~~~~~
「あ、そう言えば」
店を閉め、(昼だけの営業のため)四人でライが作った夕食を食べている時だった。
ちなみにメニューは、パンとスープに牛乳と言うシンプルな物だが、パンとスープは出来立てでかなりの美味だった。
さらに言えば、ユリアの説教がよほど効いたのか、トレイドはやや疲れた様子で黙々と食事をしていた。
「何だ?」
ライがトレイドに同情的な視線を送りながら聞き返す。
「あの義賊、また出たらしいよ」
それを聞いて、サヤとライの姉妹は、へぇ~と感嘆の声を上げる。あの義賊とは、つい数ヶ月前に現れた、神出鬼没の盗賊である。
盗賊とはいえ、何かポリシーのような物があるのか、盗みを行うのは、大抵悪どい商法で儲けた店や貴族ばかり。そして、その盗品ーーつまりは金銭だが、それをばら撒いて行くのだ。
そのためか、ここらではその盗賊のことを義賊と呼んでいる。
「どこで出たの?」
食事の手を止め、サヤがユリアに尋ねる。彼女は肩をすくめ、ある屋敷の名前を言った。
「確かそこ、悪どい商売して、でかくなったとこだよね?」
名前を聞いて、ライが思い出したかのように答えた。サヤがウンウン頷き、
「そうそう、やなとこよねー」
「そうだよねー。…やっぱりこういう時って、英雄が一人は必要だよねー」
ライも頷き、半ば笑いながら冗談でそう言う。
「おい、ライ」
そんな中、一人だけ食事に専念していたトレイドがライを呼ぶ。
「どうしたの?」
「今必要なのは英雄じゃなくて、飯だ。おかわり頼む」
そう言って、スープが入っていた器を差し出した。中身は、見事になくなっていた。ハイハイ、と頷きつつ、ライは器におかわりを注ぎ込む。
「最近、お前食うようになったよな~」
「う~ん……そうか?」
と、トレイドは首をひねりながらそう言う。自覚なかったのか、とライは思うが。
「あ、まだ食べられるなら。ハイ、これ」
ユリアはおかわりをもらったトレイドに、あるものをわたした。それを見て、トレイドはジトッとした視線を彼女に送る。彼女が渡したもの、それはーー
「…牛乳ぐらいちゃんと飲め」
牛乳だった。トレイドは言葉少なめにそれだけ言うと、おかわりを食べはじめた。だが、ユリアは引き下がらない。
「ちょっと! 私が牛乳嫌いなの、知っているでしょ!」
「嫌いでも飲め。じゃないと成長しないぞ」
「もう十分成長してるわよ!」
それを聞いて、トレイドはある一点に目を落とす。
「…そこは育ってないぞ」
…この事を言った彼の事を殴ったのを、誰が責められようか。無論、殴ったのはユリアである。
「ぐっ…てめぇ…」
彼は呻き、持っていたスプーンと器を、そっとテーブルに置く。
「お前なぁ、サヤさんみたいに行ってほしい所に栄養が行かないからって、ひがむなよ」
(…天然て言うのは、恐ろしいな)
トレイドの発言を聞いて、ライはそう思った。ユリアはそれを聞いた瞬間、無表情になった。”怒り”と言う名の不可視のオーラが彼女を包んでいる。
決して気のせい等ではなく、その証拠に彼女の長い栗色のポニーテールがゆらゆら揺れている。目を疑いたくなる状況だが、実際に起きてるのだから仕方がない。
ユリアは立ち上がり、本能的にヤバイと感じたのか、トレイドは椅子から転げ落ち、そしてそのまま後ずさりする。
「ユ、ユリア?…俺、何か言った?」
恐怖に顔を引き攣らせ、助けを求めるようにライとサヤを見る。
「うん、言ったよ。とても失礼なことを」
サヤが非難の視線をトレイドに送り、ライがその横でウンウン頷く。
「トレイド……ご愁傷様」
二人の答えに唖然とし(何が悪かったか、気づいていない)、トレイドはユリアに向き直る。
「…」
ユリアは相変わらず無表情で無言。正直、かなりの威圧感を放っていて、かなり怖い。そのままゆっくりと、だが確実に、トレイドに迫る。
「ユリア、落ち着け!」
「……」
「何したがわからんが、俺が悪かった! だから…」
「……」
「その無表情で無言やめろ! 怖いわ!」
「……」
「そしてこっち来るなぁー!」
ズザザザッと、しりもちをつきながら、後ろに逃げ、壁にベッタリとくっつく。もう逃げられない。そこへユリアがやって来て。その日、ある店で、悲鳴が響き渡った。
~~~~~
その次の日。鳥が目覚ましの鳴き声を上げている時間帯に、ラサトーユの仕事は始まる。ライは、その赤毛を揺らしてジャガイモが入ったケースを持ち上げる。
裏口あたりで皮むきをしようと思うのだ。その程度のことならば、お手伝いであるユリアや、彼の姉であるサヤに頼めばいいのだが、生憎二人は今手を離すことが出来ないでいる。
それに、元々ライがこの手の作業が意外に好きだということもあって、朝の仕込みはだいたい一人でやっている。ちなみに、トレイドは今厨房で他の作業をやっている。他の作業とはいえ、やっていることはライと変わりないが。
裏口を開けるため、一度ケースを下ろそうと腰をかがめるが、それより早く扉が開いた。
「お……サンキュー、ザイ」
表情を明るくし、ライは開けた主に感謝の言葉を伝える。扉を開けた主は、このラサトーユに住み始めた一匹の大型犬であった。
ザイと呼ばれた大型犬は、ライの言葉に何事もなかったようにしずしずと身を引き、彼に道を開ける。その行動に、ライは微笑みを浮かべた。
「お前は気が利く奴だな。ホント、トレイドは良い拾いものをしたもんだ」
うんうんと頷きながらケースを地面に置き、中にあるジャガイモの皮むきを始めた。手短にあったイモを手に持つと、小刀を巧みに扱い、10秒も掛からずにあっという間に皮むきを終える。そのイモを別の容器に入れながら、昨日聞いた話を思いだしていた。
(…義賊、か……)
この街ーーアウストラで話題になっている、一人の盗賊のことであった。
数ヶ月前に突然現れたその盗賊は、あくどい商法で儲けた店や、そいつらからのお気持ちーーつまり賄賂を受け取っている貴族だけに絞られていた。
一般市民であるライの身からしてみれば、「良いぞ、もっとやれ!」と言うのが本音である。何せアウストラで起こった数ヶ月前に起こった大火災の後、その商店は建物に必要な木材を高値で売り出したのだ。
元々この街では、木造建築物が主流のため、この都市で唯一の木材を扱っていたその店は、あっという間に多大な利益を上げた。その利益の一部を貴族に納めているため、この街ではやりたい放題である。
元々貴族主義の政策のため、酷いときには貴族と言うだけで人を斬っても許される。そんなものとつながりを持ったその商店は、向かうところ敵なしだろう。
そして、貴族の方も敵なしであった。貴族主義の政策に反感を持った者達ーーレジスタンス達は、同士達を集め、水面下で活動を行っていた。しかし彼らは、ある手段を用いた貴族達によって、あっという間に所在を捕まれ、皆斬首された。ーーそれも、後腐れの無いよう家族もろとも。
それいらい、彼らに逆らう者達はいなくなったのであった。
「……ホンット、英雄だよね~」
ジャガイモを剥きながら、ライはため息をついた。もう既に、剥き終えた芋は小山を作り、元々入っていたケースは空っぽになっていた。
最後の一つを小山のてっぺんに乗せ、彼はん~っと伸びをする。賞賛するようなその一言とは裏腹に、彼の表情は優れなかった。心配なのである、その義賊のことが。何せ、その義賊にはーー。
『……心配したところで、お前に出来ることはない』
「えっ……!?」
突如聞こえた謎の声に、彼は飛び上がるほど驚き、慌てて周りに目をやった。しかし、誰もいない。横になっているザイが、大きくあくびをするのを目の端で捉え、
『心配するなら、ここでうまいものでも作っておくんだな。……貴様の料理を、いつか奴が食いに来るかもしれんしな』
再び謎の声が”頭に響く”。その現象に驚きを露わにさせるライだが、その言葉に眉をひそめーーやがてほっとするような笑みを浮かべた。
それもそうだと思ったのだろう、今ここで思い悩んでいるよりは、名も知らないその義賊に、せめて飯を食べさせてやりたいーー一料理人として、そう思ったのだろう。
しかし、気分は少し晴れたが、今の現象は何だったのだろうか。今この裏口には、自分とザイしかいない。
まさかーーそんな思いを持ってザイを見やったが、このどこか安らぐ風貌の大型犬は、もうとっくに寝に入っていた。
(……あり得ないよな)
頭を何度も振りながら、雑念を捨てる。と言うよりも、まさか、と思った時点でどうかしているのだろう。
ザイが話すなんてことはーー
一人でに苦笑いを浮かべ、ライは皮を剥いたイモを持って店の中へ入っていく。そして、そこにいるであろう親友に、声をかけた。
「お~い、トレイド。終わった……ぞ……?」
しかし、言葉がだんだんと尻すぼみになっていき、しだいに首を傾げる始末であった。何せ、先程まで確かにいた親友が、いなくなっていたのだから。
「……何処行ったんだ、あいつ?」
そう言いつつも、多分トイレだろうなと大体の予想は付いた。ーー厨房のテーブルに置かれた、1枚の紙切れを見るまでは。その紙は、テーブルにイモの入った器を乗せたひょうしに、はらりと床に落ちてしまった。
「? なんだこれ?」
それに気づいたライは、腰をかがめて拾い上げると、その場で文章を読み始める。
それには、簡潔にこう書いてあった。
『ちょっくら用事を思いだしたんで、出かけてくる。昼までには戻るんでよろしく』
文の最後には、これを書いたであろう人物の名前ーートレイドの名前が書いてあった。それを読んだひょうしに、ライはまたか、とため息をついた。
~~~~~
「くそ、またあやつか!」
バンッと机に手をたたき付け、恰幅の良い男がそんな叫びをあげた。上品な着物を着ているが、顔中テカテカとした脂まみれの表情は、今は怒りに染め上げられている。髪の毛の薄いその男こそが、例の商店ーートラヌスのトップであるウオンド・バルナニであった。
「だ、旦那様……?」
「ええい黙れ!」
彼は今、非常に虫の居所が悪かった。そばに控えていた若い女給が、心配そうに声をかけたにも関わらず、それに当たり散らしてしまうほどに。
無理もない、と彼から雇われた傭兵、アルトはため息をついた。こちらは、樽のように太ったウオンドとは対照的に、細身の長身である。切れ長の瞳は、いかにも”そういう事”に慣れている雰囲気を醸し出している。
ウオンドはそんな彼の隣にいる一人の騎士ーー例の隊長であるーーに、指を突き付け、怒鳴り付ける。
「倉庫の金は全て奪われた……全てだぞッ! 貴様それでも民くさの財産を守る騎士かッ!!」
「申し訳ありません……」
(民くさ、ねぇ……)
いつもは貴族と仲良くやり、ほぼ彼らと変わらない生活をしているのに、こんな時だけ一般人面か。アルトはその性根の方にこそ、怒鳴り付けてやりたかった。
しかし、相手は自分を雇った人物。そんな相手に怒鳴ることなど出来ず。仕方なく、八つ当たりされている哀れな騎士隊長に助け船をだしてやる。
「ウオンド殿、どうかその辺で。彼らが最善を尽くしたのは明らかです。……それに、こう言っては何ですが、今回の損害はそれほど痛手ではないのでしょう?」
「あぁ、対した痛手ではない」
アルトの言葉に、彼は表情を歪めながら口を開く。
「だが、これでもう四回目だ! わしらはあの盗賊に金をやるために、商いをやっているのではないッ!」
叫ぶなり、再び机に手をたたき付けた。それを見てアルトは、ウオンドが激怒している理由に、何となくさっしがついた。
つまり、彼は面子を潰されたことに激しい怒りを抱いているのだろう。下手したら並の貴族以上の財源を持っているのだが、それを盗賊に掠め取られているわけである。
これが、悪心を持っている盗賊ならまだいい。しかし、相手は義賊。彼に奪われた金品は、おそらく大半が民くさに流れて行くだろう。
結果的に、トラヌスは慈善事業を行ったことに変わりはない。実際、貴族達の間ではそういった話題が流れていたりする。
「ようやく……ようやくここまで来たんだッ! ここに来てコケにされてたまるかッ!!」
ブツブツと口にする雇い主の後ろ姿を見て、アルトは深いため息をついた。彼からしてみれば、悪趣味としか思えないウオンドの服装や、数々の趣味。それら全ては貴族が好むような物である。それから推測するに、ウオンドは貴族に憧れているのだろう。
貴族優先であるこの国の政策を思えば、無理もない事である。貴族に憧れる平民は数多いのだから。ウオンドも、そんな一人なのだろう。
(……俺も、雇い主の事を事前に知っていればな)
こんな所に、来たくはなかった。アルトは内心で呟いたのだった。とりあえず、そそくさとこの仕事を終わらせるために、前から考えていた案を、雇い主に伝えてみた。
「ウオンド殿。私に考えがあります」
それから一時間後、アルトはトラヌスの屋敷を出た。今は昼少し前であり、少しぶらついた後、どこかで昼食を取ろうかと思ったからだ。
外に出ると、周りは野次馬達で溢れかえっていた。それもそうだろう、何せ昨日ここに例の賊が出たのだから。屋敷の敷地内には、昨日騎士達が善戦した証が未だ残っており、その後始末にトラヌスの下男達が追われている。
それを横目で見やり、アルトは関係ないやとばかりに首を振ると、足を街の方へと向けた。
野次馬達をかき分け、ようやく屋敷の敷地内から出る。すると、そこに見知った顔を見つけた。
「おっ、サヤ嬢ちゃんじゃねぇか」
「あッ! アルトさんッ!」
長く、綺麗な赤い髪をした、二十歳ぐらいの女性ーー少し前まで、まだほんのガキンチョだと思っていたサヤである。彼女は、アルトの声に反応すると、こちらを見て笑いながら手を振ってくれた。
それを見て、アルトは苦笑する。こう言うところは、まだガキだな、と。近づいてきた彼女に微笑みかけながら、
「一体どうしたんだ、こんな所に。お前もアレか、義賊さんの足取りを見に来た、て言うところか?」
「違います。私は、これから店の材料の買い出しなんです」
「ほほぉ~、お前さんシスコンと天然の二人に、こき使われているようだな」
切れ長の目を細め、穏やかな笑顔を見せる。目つきが鋭いため、第一印象が良いとは言えないが、彼が笑うと自然と目がなくなり、穏やかな笑みを見せるのだった。ーーサヤは、この笑顔が好きだった。
ちなみに、シスコンは彼女の弟であるライ、天然はトレイドのことを言っている。
「まぁそんなところです。それより、アルトさんは何してたんですか?」
「ん? いや、トラヌスに雇われてな。気は進まんが、例の義賊を捕らえることに協力しろとさ」
ほんと、やりづらいぜ。そう言いながら髪の毛をガシガシとかくが、サヤはそれを聞いて表情を曇らせた。
「……あの、捕らえることは……」
「安心しろ、俺もそこまで鬼じゃない」
俯きながら言う彼女の頭をポンと撫でてやり、アルトは真剣な表情で口を開いた。
「義賊にはでかい借りがあるからな。……出来る限り、捕らえることはしない」
でかい借りーーそれが何なのか知っているアルトは、少し嬉しそうな表情をしているサヤに頷いて見せた。その借りがあるから、サヤもライも、そして多分トレイドも、義賊のことを思い、心配しているのだ。
そう言えば、とサヤは微笑みながら、
「借りと言えば、アルトさんにもありますよね」
「ああ、気にすんな。おかげでこっちはただ飯を食えるんだ。それでチャラさ」
「フフ。でも、懐かしいですね。あれから、もう5年になるんですか……」
彼女の言葉に、肩をすくめてアルトは言う。彼がサヤーーと言うかラサトーユの面々と深いつながりがあるのには、ちょっとした訳があった。
サヤとライ、トレイドの三人が働き始めた頃ーー今みたくラサトーユという店を持って営業をやり始めたのは、ごくごく最近の頃であり、昔は孤児院の厨房を借りて料理をしていたのだ。
調理し作ったものを売るーーたったそれだけの事だったのだが、少々厄介な奴に目をつけられた。中々見られる顔立ちをしていたサヤに目をつけた男達が、ちょっかいを出したのだ。
当然、サヤやライ、トレイドも反抗したが、年端もいかない子供達を蹴散らすのは、そいつらにしてみれば簡単な事である。おまけに、弱いものを殴る蹴るというのは、彼らの鬱憤を晴らすことにも繋がったのだろう。
必要以上に痛めつけられている彼らを見ても、周りの者達は助けようとはしない。それも当然であり、そいつらは貴族とつながりを持った者達(後からわかったことだが、トラヌスの下男達であった)のため、むやみに助けると、自分たちにとばっちりが来ることを恐れていたのだ。
ライもトレイドもボロボロにされ、サヤも男達に連れ去られるーーそんなとき、アルトがぶらりとやって来たのだ。
「あの時のこと、私は一生忘れません」
「忘れてくれ。俺も若かったんだ」
今も十分に若いですけど。そんな事をサヤに言われたが、それは当然無視する。
とにかく、彼女を連れ去ろうとしていた男二人を、アルトは手早くかたづけてしまったのだ。しかも、助け出した後、怪我を負ったライとトレイドに薬までわけてくれた。
大抵は、自分に見返りがない限り、そこまではしてくれない。だか、一部の人達は見返りを求めずに親切にしてくれる。そう言う人は皆、優しい人間なのだ。アルトも、そう言うタイプの人間であった。
それ以来、何かと彼は自分たちの面倒を見てくれて、ラサトーユという店を持つとき、資金の提供までしてくれた。彼女たちにとって大恩人とも言えるアルトは、苦笑いを浮かべて、
「それに、言っただろう? あの頃の俺は、用心棒として手っ取り早く実力があると言うことを示したかったんだから。…色々手伝ってやったのは、そうことに利用したお前達に、引け目があったからさ」
そう言って、彼はぷいっと視線をそらしてしまった。それを見たサヤは、クスリと微笑みを浮かべて、歩きながら彼に寄りかかる。
「お、おい?」
「……今日は、うちで食べに来ます?」
「えっ、あっ……ああ」
いきなりの行動に、流石のアルトも驚き、タジタジとなってしまう。おかげで、気の利いた返事が出来なかった。
ーー一体いつから、このガキンチョを意識し始めたんだろうか。そう苦笑しながら、アルトはサヤと共にラサトーユへと足を向けた。
~~~~~
アウストラ郊外にある森には、魔法生物ーー通称魔物と呼ばれる生き物たちがいる。
こいつらは元々、普通の動物たちだったのだが、地下に豊富に含まれている魔法石ーー魔力を宿した鉱石なのだが、それの影響で突然変異を起こしたらしい。
おかげで、少ないながらも魔力を持ち、その影響か筋力や素早さと言った身体能力が上昇している。だが、その代償としてか理性が消し飛んでしまったというおまけ付きであった。おかげで、普通の生き物たちーー家畜を襲う狼などだがーーよりも、遥かに厄介な相手となっている。
そんな、倒すのさえ困難な魔物相手に、”たった一人で”戦う者の姿があった。
「はぁぁッ!」
気合いと共に斜め下ーー袈裟に振り落とされた細身の剣は、一匹の狼を切り裂いた。さらに、そこから閃くようにして剣線が跳ね上がり、またもや狼を斬り伏せた。
地面に倒れた狼”達”の目は、魔物だと言う事を表す真紅に染まっており、彼のことを恨めしげに見上げている。が、そんなことには全く関心を持たず、その少年は前方に目を向けていた。
「これで、18っ! でも後何体いるんだよっ!?」
(目算だが、残り二十ぐらいか。頑張れ、後半分だ)
頭に響く声に、気安く言ってくれるねぇ~と、半ば八つ当たりにも近い気持ちを抱きながら、少年ーートレイドは、剣を構える。その表情は、ごくごく真剣そのものであり、いつもの天然さは皆無であった。
また、真剣なのは前方にいる魔物の群れも同じで、相手がたった一人だというのに襲いかからずにいる。それもそのはず、彼一人に、数を半分まで減らされたのだから、警戒感が半端なく高い。
しかし、そんなことは気にせず、トレイドはその内に一匹に向かって走り出した。すると当然、魔物は警戒するように、いつでも動けるように身をかがめる。
相手の剣を躱すか、または喉元を食いちぎろうとするかーー理性がない魔物は、そんなことを考えていたのかは知らないが、どちらにせよ、その狼は行動を取れなくなっていた。
走り出した彼は、その途中で地面を蹴り上げると、相手の目を目掛けて土を蹴り飛ばした。驚いた魔物は、それを食らい、目が見えなくなった。
哀れな声を出しながら、目が見えなくなった魔物に向かって、容赦なく構えた剣を振り切った。
「うおぉぉぉ!!」
今度は真横に剣線が走り、その狼はあっけなく切り裂かれた。魔物の血が噴き出し、地面を赤く染め上げる。ーーその血が地面に落ちる前に、トレイドはもう行動を起こしていた。
自分に降りかかる返り血を躱し、手短にいた魔物に剣を一閃。先程と同様血の海に沈め、ここでようやく魔物が動き始めた。
と言うのも、大半がトレイドを襲うことを諦め、しっぽを振って後ろへと逃走を開始した。理性を失っているとは言え、命は欲しいのだろう。それにようやくか、とため息をつき、未だ残っているしつこい魔物に声をかけてやった。
「おい、お前らもあいつらの後追っていったらどうだ!」
ーー返答の代わりに来たのは、彼ののど笛を食らいつかんとする狼の大きな口だった。ずらりと並んだ牙が妖しく光り、思わずぞっとする。
その牙を、横に半身になる事であっさりと躱し、すれ違いざまに斬り付ける。ーーこれで、確実に倒せただろう。しかし、彼の脳裏に良くない予感が走る。その予感に従い、バッと体勢を出来る限り低くすると、その頭上を狼が通っていった。
頭上でガチンと言う、牙と牙がかみ合わさる音を聞き、冷や汗が流れる。あのまま突っ立っていたら、おそらく今度こそのど笛を噛みちぎられただろう。せっかく大半の魔物が引いてくれたというのに、これではかっこ悪い。
「しつこいな、もう!」
今し方頭上を飛び越えた狼は無視し、残りの二匹を見やる。目の前にその二匹、背後に先程の一匹。計三匹の魔物は、タイミングを伺うようにジッとトレイドを見ていた。ーーそれが、油断となった。
ニヤリ、と笑みを浮かべると、左手を突き出し、小さく一言だけ呪文を唱えーー文様が描かれた円形の法陣が浮かび上がる。
この法陣ーー魔法陣と呼ばれるそれを、現代の魔法使いが見れば驚愕するだろう。何せこの魔法陣、彼らの使う魔法とは別体系のものなのだから。
彼が展開させた法陣が一瞬で白から赤へと変色し、その中心に炎が集う。その炎を見て、魔物は驚愕したようにいななきーー頭の中に響く声も、驚きの声音を出す。
(ま、まてトレイドッ!? それはーー)
「もう数はいねぇんだし、一気に片を付けても良いよなッ!」
そう叫び、左の手のひらに集まった炎を、思いっきり背後の一匹に投げつけた。
ろくに見もせずに投げつけたというのに、その炎は違えることなく魔物”のみ”を焼き尽くし、完全に灰にして見せた。
そう、魔物のみ。ぱちぱちと燃えるその炎は、草木に燃え広がることない。
おかげで、火事にならなくてすんだという事である。そして、投げつけたと同時に、全力で前方へと踏み込み、未だに動かずにいる二匹に対しトレイドは剣を振るった姿で停止した。
1秒、2秒ーー。魔物もトレイドも、全く動かない。しかし、ついに魔物がドサリ、と連続して倒れる音が響く。二匹とも、ろくに鳴き声すら上げられずに絶命していた。
「ーー終わった」
それを見て、トレイドは深いため息をついたのだった。ーーしかし、かわりに始まった物があった。
「お前という奴は……っ! さっきあれほど言っただろうッ! 今回は魔術は使うなと!」
「何だよッ! たった三匹なら使っても良いだろう!」
「数が問題なのではない! 何のための修行だ!」
いきなり、彼のそばから先程と同じ文様の、白い法陣が展開され、そこから一匹の大型犬が出現した。ラサトーユにいた、例のザイである。ザイは、現れるなりトレイドに向かって叫び始めた。
その声は、先程頭に響いていた声と同じであり、つまり響いた声の主はザイであったと言う事である。
トレイドは、ザイの叫びに五月蠅いと言わんばかりに耳を手で塞ぐ。
「魔術なし、剣術のみでの一対多の修行だろ。でも、たった三匹を”多”って言うのかよっ!?」
「ッ……お前という奴は……ッ!!」
これだから天然はッ!! そんな思いを内心に押し込み、ザイは大きくため息をついた。とにかく、落ち着かなくては。深呼吸しようとして大きく口を開けてーー。
「よ~しよ~し、ザイ。ほら、大きい骨だぞ~」
「食い殺すぞ貴様ァァァッ!!!」
いつの間にか持っていた、大きめの骨(多分魔物の骨)を左右にぶんぶん振りながら、トレイドは呼びかける。それに対しザイは、大きく開けた口から、辺り一面に響き渡らんばかりの大声で怒鳴りつけた。しかし、それにさしてこたえた様子もなく、トレイドはケラケラ笑っている。
「大体、私は犬ではなく狼だッ! それも、幻獣型の精霊、神狼だぞッ!!」
「まぁまぁ、良いじゃん。ラサトーユでは犬って事で通っているんだから」
はははは、と落ち着いた表情で笑うトレイドに、ザイは物言いたげな表情を浮かべたが、やがて悔しそうな表情で肯定した。
「……認めたくない……認めたくない、がッ! ……それが現状か………」
ーー精霊。トレイドは詳しくは知らないが、半生半魔生命体と呼ばれる存在らしい。生物としての枠組みに捕らわれながらも、体の大部分が魔力で構成されている、一風変わった生命体である。
ここだけ聞くと、この国で広く知られている精霊の存在と、大きく変わっているように思える。だが、ザイの話を聞く限り、一つの進化の道筋だと言う事を理解した。
この国では、精霊とは火や水、風と言った自然的な物が、意思を持ったとされている。だが、ザイはそこから二段階ーー否、三段階ほど進化した存在であった。
まず進化の一段階目。これは、意思を持った自然的な物が、魔法石や、空気中に含まれる微少な魔力と融合したことが始まりである。この精霊を、自然型精霊と呼ぶ。
そこからさらに進化したのが、生物の形に姿を変えた精霊が進化の二段階目。この精霊を動物型精霊と呼び、そして、ザイのような、本来あるはずのない、”空想上の生物”の姿をした精霊が三段階目。
この精霊を、幻獣型精霊と呼び、他の精霊と比べると、格が違うらしい。
ーーと言うようなことを、トレイドはザイから聞かされた訳だが。トレイドは他の精霊を見たことがなく(無論、この世界で広く浸透している、意思を持った自然物と言う事の方も含まれる)、コメントしづらいのが現状であった。
そして、このような精霊と”契約”と言う特殊な儀式を行い、契りを交わした者を、”精霊使い”と呼んでいる。
この”契約”により、体内に魔力炉という、魔力を生成する機関を授かり、少し特殊な力を得ることが出来た。
まず、身体能力の上昇。これは、体内にある魔力が細胞の全てを活性化させたのが原因であり、魔法生物と酷く似た症状である。おかげで、このことをザイの口から聞かされたとき、全身に鳥肌が立ったのを覚えている。
いずれ、あいつらのように理性を失うのかと覚悟したがーーザイと契約を交わして早4年。今のところその兆しはなく、ザイもそんなことは起こらないと保証してくれたので、とりあえず安心している。
最も、この魔力炉とやら。自身の生命エネルギーを使って魔力を生み出しているらしく、そのせいで食費が上がったとライやサヤに文句を言われたのも面倒であった。
そして二つ目に、先程使っていた細身の長剣。これは、”証”という物であり、この国の魔法使いに言わせれば、所謂”杖”に当たる代物である。とはいえ、この証がなくとも魔術を使うことは出来るのだが。
こちらは、常に自分の中にあるようなので、法陣を展開させ、そこから取り出すことが出来る。そのため、持ち運びには大変便利であった。昨日の”事件”の際も、それを有効活用していた。
そして三つ目。魔術の使用である。
この世界の魔法というのは、地下に豊富に含まれている、魔法石を使って魔法を行使している。そのため、魔法使いは皆、杖や懐に、魔法石を必ず一つ持っている。
しかし、魔法石に含まれる魔力というのは無限ではなく(中には魔力炉と同様、魔力を生成し続ける物のあるが)、石に含まれる魔力がなくなると、変えなければならなくなる。
しかし、精霊使いにはそれが無かった。当然である、何せ精霊使いには、魔力を生み出し続ける魔力炉を持っていたのだから。
一瞬で使える量には限りがある、と言う制約はあるものの、常に魔力を生成しているため、無限とは行かないまでも、かなりの量があり、減ったとしても直ぐに補充される。
また、術式にも大きな違いがあった。この国の魔法使いの使う術式は、フィーリグ式という物らしく、魔力をそのまま使うことが特徴的な魔法体系である。
一方、精霊使いが使う術式は、コベラ式という、魔力を火や水、風と言った、”自然的な物”に変化させることに特化している。
魔法使いと精霊使い、両者の性質は大きく異なっていた。
ずうぅぅんと言うふうに沈んでしまったザイを見て、トレイドはため息をついた。かりにも神狼であるザイを犬扱いすれば、プライドも傷つくのだろう。
「それより、今何時だ? 多分昼近くだと思うんだけど……」
「……もう昼だな」
「ああ、了解了解……って、なぬっ!!?」
自分の相棒の言葉に、思わず頷きかけ、すぐに聞き返した。ザイは、相変わらず落ち込んだまま、ああと頷いて見せた。
「うわ、それ早く言えよっ! 俺がライにどやされるだろうがっ!!」
慌てた様子でそう叫び、彼は一目散に森を抜けようと駆け出し始める。その姿を見て、ザイも落ち込んだまま、後を追い始めた。
店に着いたのは、開店間近の時間帯であった。何とか間に合った、と安心しつつ、店の中へ入る。
「ごめん、今帰ったよっ!」
「お、天然君のお帰りだ」
「って、アルトさんっ!」
叫びながら店に戻ると、意外な人物がいた。この店にとって大恩人とも言えるその人、アルトは、傍らにやや湾曲した片刃の剣ーー刀をテーブルに立てかけて座っていた。
そのテーブルにはいくつかの皿があり、それらを見る限り、どうやらここで食事を終えたらしい。流石はこの店のVIPだな、と半ば思いつつ、彼の方を見て、笑顔を浮かべながら頭を下げた。
「お久しぶりですね。今日は、どうしたんですか?」
相手が恩人だと言う事もあって、口調は自然と丁寧な物になる。とは言え、お客さんに対応するときと大差無いのだが。
それはともかく、アルトはその問いかけに一つ頷き、やがてその表情に悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「うむ。今日来たのは、お前とユリア嬢との関係を確かめにな」
「いや、もうご存じの通りだと思いますけど」
彼の物言いに、トレイドは苦笑を浮かべて口にする。だが、その返答を聞いても納得していないのか、彼はコーヒーを飲みながら、
「まぁ知ってるんだけどな。でも、聞かなきゃわからねぇことがあるだろ」
「一体、何のことです?」
若干顔をしかめながら、トレイドは首を傾げた。そんな彼に、アルトは清々しい笑顔を浮かべた。
「ずばり、ウハウハな初めての夜はいつーー」
そこまで言った瞬間、二枚のトレーがフリスビーのように飛んできて、アルトの後頭部に直撃した。がらんがらんと、トレーが床に落ちる音が連続し、彼は後頭部を押さえて悶絶する。
若干表情を引きつらせ、背後を見やると、案の定、サヤがニッコリと笑いながら、ユリアは顔を真っ赤に染めながら、こちらを見ていた。
「あ、アルトさん、そいつに何バカな事聞いてるんですかっ!!?」
顔を赤く染めながら言うユリアは、大いに憤慨している様子だった。
「アルトさん?」
しかし、反対に包丁を持ってニッコリと笑顔を見せるサヤの方が、何倍も怖い。アルトも、そんなサヤを見て顔色を悪くさせると、
「いや、その……うん、出来心という奴だ。何だったら、お前ともーー」
彼がまだ何か言おうと口を開き書けた途端、サヤの後ろから包丁がものすごい勢いで飛んで来る。それを、獣じみた動きでアルトは交わしてみせる。
「あぶ、あぶ、あぶッ!」
心臓をバクバクさせながら、アルトは頬をきわどく掠めていった包丁を見やり、飛んできた方向に目をやる。そこには、サヤよりもすばらしい笑顔を浮かべた、シスコン君がいた。
「アルトさん? アナタハイマ、ナニヲイオウトシタンデスカ?」
「な、なんでもございません……」
とてもとても、大恩人とは思えない仕打ちを受け、しかし彼はそのことをおくびにも出さずに、その場で低頭する。わざわざ土下座までして、だ。
そんな彼のことが、少しばかり不憫に思えた。
「……で、結局アルトさんは何を聞こうとしたんですか?」
こんなぼけた事を聞いたトレイドの頭に、ユリアの投げたトレーが当たった。彼も、先程のアルトと同じように、頭を押さえて悶える羽目になったのは、余談である。
~~~~~
その晩のことである。
暗がりの中、ユリアは自室へと足を運んでいる。その足取りは重く、そうとう疲れがたまっているのだろう。部屋へ入ろうとドアノブに手をかけ、ふと、自分の思い人の部屋のドアが目に入った。
(全く、トレイドは……)
僅かばかり開いたその隙間から、光が漏れてくることに気づき、彼女はため息をついた。いくら何でも、戸締まりぐらいはしっかりしようよ。そう思い、扉を閉めようとしてーー自然と、手が止まった。
「……何やっているんだろ、あたし」
あることを思いだし、ついぽつりと独り言が漏れてしまう。とある偶然から、互いの気持ちを伝え合って早2年。それ以来、ーー時には、ついボコボコにしてしまうこともあるが、まぁ良好な関係が続いている。
実際、トレイドは自分に対して、割と信頼してくれている方だと思う。何せ、アルトはもとより、幼なじみであるサヤやライにさえ、伝えていないことを教えて貰っているのだから。しかしそれでも、彼女の怒りは収まらない。
(あいつ、あたしにさえ隠し事……しているよね?)
そんな自分にさえ、教えてくれない何かーー。それが、酷く気に入らなかった。
そう思う証拠に、1ヵ月ほど前、彼は大怪我をして帰ってきたことがあった。その時本人は、「不良共に絡まれた」と言っていたが、そうじゃないと思う。
その時の彼は、血の気が引いた顔で、体中に醜い刀傷をいくつもつくっていた。幸いにもこのとき、ユリアしかいなかったため、トレイドは「二人に心配かけたくないから、黙っていてくれ」と伝え、その表情に切実な何かを感じ取り、ユリアも即座に頷いた。
しかし、いくら何でも「不良共に絡まれた」というのは嘘だと思う。その理由の一つとして、このラサトーユにはアルトという心強い味方がいる、と言う事。
アウストラ内では一番名の知れた用心棒でありーー下手すると国中にも名が伝わっているかも知れないーー、しかも人望のある彼が、ラサトーユと懇意にしていると言う事は、不良達の間では広く伝わっている。そんな彼に睨まれる勇気のある不良達など、この街にはいないのだ。
そして第二に、彼が精霊使いであると言う事。そこら辺の魔物よりも強い彼が、あっさりと不良に負けるはずがない。そんな確証があるから、ユリアは何かあると思うのだ。
詰まるところ、彼に対する怒りと言うよりも、彼に対する心配が大きいのだ。
例え恋人同士といえども、踏み入れてはならない領域があるーーそんなことは、ユリアとて承知している。
(でも、踏み入れないといけない事だよね)
そう思い、閉めようと伸ばして止めた手を、そのまま持ち上げてドアを叩く。
「トレイド~。ちょっと話があるんだけど……」
声をかけてやったが、返事はなかった。ユリアは首を傾げ、扉を開ける。
ーー生憎、部屋には誰もいなかった。ランプの小さな明かりが灯っており、僅かに開いたドアから漏れていた光はこれだったのだろう。
「……トレイド?」
それなりに整理された部屋を一通り見渡した後、ユリアは微かに震える声でそう呟いた。彼女の心の中にあった心配は、やがて不安に変わっていった。
夜になるとアウストラの街並みに闇が覆い被る。その闇を晴らそうと、かがんに松明を燃やしているところがあった。
先日、とある義賊に金品を盗まれた商店、トラヌスである。
スタッと音もなくトラヌスの高い塀の上に立った黒服の男は、ジッと敷地内を見渡していた。先日の事があったため、敷地内にいる見回りの兵の数が多くなっている。
この見回りの兵のほとんどがトラヌスの下男達で、彼らは厳つい顔に厳しい表情を浮かべながらあたりを見回っていた。
(……ざっと二、三十人か)
義賊は見回りの兵をざっと数えて、内心ため息をつく。流石に先日、盗みを働いてから日がたっていない事もあってか、警戒感が半端なく高い。
とは言え、今回ここに来たのは盗みを働くためではなく、ただたんの様子見である。彼は大勢がせわしなく動く様を見て、ひっそりとため息をついた。
(こりゃ、または入れるのはだいぶ後になるだろうな~)
その考えに答えるように、頭の中に声が響く。
(まぁ、仕方あるまい。今までの対応の遅さを考えると、トラヌスの本気になりつつある、と言う事ではないか?)
その声に、義賊はしばらく黙し、やがて頷いた。
(……そう、だろうな。こっちとしては、むしろ前のままでいて欲しかったんだが)
最初にここで盗みを働いたとき、ここの対応の遅さはまるで話にならなかった。侵入者を知らせる笛の音も、義賊が出る間際になってようやく鳴り始めたし、ここを守るはずの兵(下男達)も、でろんでろんに酔いつぶれていた。
その様子を見て、しばらくの間はここで盗むか、と義賊は心に決めたのだ。むしろ、先日の対応の早さは、彼にしてみれば軽く驚いたものだ。
まぁ、この1ヵ月の間に4回も盗みを働かれると、流石にトラヌスも本気を見せ始めるか。そう考えると、今が潮時ではないか。
(……次からは、違う獲物を探すとしようか)
(それが賢明だな)
彼の考えに、謎の声も賛同したのかそう返すと、義賊は未練なくその場を去ろうと背を向ける。ーーしかし。
「おっと、逃げて貰っちゃ困るんだよな」
飄々とした、しかし聞き覚えのある男の声を聞き、義賊は足を止めた。それと同時に、自身の周りに光球ーー魔力を固めた球状の物が、光を放ちながら浮かびはじめた。
(トラップッ……!?)
「ーー行け」
そう思い、バッと背後へーーつまりはトラヌスの敷地内へと飛び跳ねるのと、男の命令が同時だった。周りに浮かぶ光球は、先程まで義賊がいた場所を的確に穿っていた。
その瞬間を捕らえた義賊は、悔しげに歯を食いしばると、空中で回転して足から地面に着地する。もしあのまま落ちていったら、背中から地面に激突していただろう。
「……ほぅ」
対する男は、義賊の身のこなしを見て、感心するような声を出した。ギッと義賊が男を睨むと、男はうっすらと笑みを浮かべる。
彼が笑うと、目がなくなり、穏やかな笑みを見せるーーそう思っていた義賊が、ついぞ見たことがないような、凄惨な笑みだった。切れ長の瞳は細くなることなく、むしろその目つきと笑みが組み合わさって、きつい表情となっている。
男は、静かに口を開いた。
「さっきの罠を避けるとは、中々やるじゃねぇか。それに、空中での身のこなしーー只もんじゃねぇな」
そう言うと、彼は腰に差してある微かに湾曲した剣、刀を抜き放つ。その刀身は、漆でも塗ったかのように真っ黒だった。
その黒い刀身から、淡い光が漏れ始めるーー魔力の光である。
鋼と高純度の魔法石、二つを特殊な製法で溶かし合わせ、打ちあげた剣を”魔法剣”と呼び、その性能は、他の剣とは比べものにならないくらい高い。
しかも魔力を帯びているため、持っているだけで(知識があれば)魔法を使うことが出来る。先程の光球の攻撃も、魔法なのだろう。
そんな刀を手に持ち、男は義賊に詰め寄る。騒ぎを聞きつけたのか、周りに広がっていた下男達がこちらへ近づいてくる。彼らの方をちらりと見た後、義賊は男に視線を戻す。
「残念だが、義賊さんよ。アンタはここで終わりのようだ」
切れ長の瞳が義賊を貫き、義賊は黒服の中に手を突っ込み、そこから手品のように剣を引き抜いた。細身の長剣ーーそれを見た男は、ぴくりと目元を動かした。
「……まさか、俺とやろうってのか?」
「………」
義賊は何も答えないーー否、”答えられない”。もし彼が口を、声を出した瞬間、彼に正体が知られるのだから。何せ、この男はーー
「良いぜ、だったら俺も相手してやる」
ーー自分が良く知っているーー
「俺の名は”アルト”。……アンタも、名前ぐらい言ったらどうだ?」
ーー”恩人”なのだから!ーー
(っ……”トレイド”ッ!!)
頭に響く声が、義賊にーートレイドに、悲惨な叫び声を上げる。
(ここはさっさと逃げた方が良いっ! フィーリグ式は少々厄介な術式だっ!)
「……」
ザイの忠告を聞きながら、トレイドは無言でアルトを、そして彼の背後から続々とやってくる下男達に目を向ける。そして、目の前にいる相手に悟られぬよう、小さく笑みを浮かべる。
(……昼間の続きだ)
(は……?)
唐突に告げられたーーザイに対してだがーー言葉に、相棒たるザイは素っ頓狂な声を上げた。何を言っている、と言う意味が込められたその一言に、トレイドはさらに続けた。
(昼間の訓練……”魔術を使わずに、一対多”の訓練だ)
(お前っ!?)
それを聞いて、彼の言わんとすることを読み取ったのだろう。ザイは即座に言い返そうとしたが、そのころにはもうトレイドは彼とのつながりを切っていた。
「……どうした? 答えられないのか?」
と、そこでタイミング良くアルトから声をかけられ、トレイドは顔を伏せた。前屈みに体勢を崩すと、そのまま伸び上がるように前へと剣を突き出す。アルトはその一撃を見て微かに表情を動かすと、一歩下がることで避け、お返しとばかりに横薙ぎに刀を振るってくる。
「っ……!?」
肝を冷やす思いをしながら、その場でしゃがみ込むことでその刀を躱す。頭上をブンッと通り過ぎていく剣を感じ取りながら、トレイドは前へ踏み込む。
振り切った後ならば、胴体は隙だらけだーーその思いが、彼に痛い目に遭わせた。突如伸びてくるアルトの左腕。それに気づいたときにはすでに遅く、がしっと捕まれていた。
「っ!」
「フンっ」
腹部に激しい衝撃を受け、トレイドは一気塀の近くまで吹き飛ばされた。頭を捕まれたまま、鳩尾に膝蹴りを叩き込まれたのだと気づいた時には、地面に這いつくばっていた。下手したら意識を失うそれを受け、なおも動けたのは賞賛に値するだろう。
その証拠に、アルトは軽く驚きに目を開いた。
「へぇ~、かなり頑丈な体してるみたいだな。ただまぁ、全然ダメージがないって訳でもなさそうだ」
「………っ」
ふらふらとようやく立ち上がったトレイドは、痛みに表情を歪めながら、あたりをそっと見渡す。もうすでに、周りには見回りの兵達が集まって包囲網を作っており、このぶんだと脱出は難しそうだった。
彼の目の動きから、そのことを読み取ったのか、アルトは眉を少し上げて、
「もう諦めなって。囲まれているんだぜ、お前さんはよ」
「………」
何も答えない義賊の様子を見て、アルトは内心で舌打ちをしていた。
(まずいな……。流石にやり過ぎたか?)
実を言うと、彼としてはさっさとこの義賊には逃げて貰いたかったのだ。そうすれば、恩があるこの人物を捕まえなくてすむし、自分もトラヌスから抜け出すことが出来る。
夜中にトラップ型の魔法を所々に設置させ、それを踏んだ途端、魔力球(先程の光球のこと)が現れ、侵入者を撃退する、という至って簡単な作戦を立てたのは、アルトだったのだ。
この作戦をウオンドに告げた後、彼は実行に移すために、トラヌスは幾人かの魔法使いを新たに雇ったのだ。結果は上々、しかも近くにアルトがいるというラッキーな状況だった。ーー少なくとも、トラヌスからしてみれば。
元々ここの警備は、かなりいい加減な物であり、そのせいで義賊に何度も忍び込まれていたのだ。つまり、義賊からしてみれば、そう言う”思い込み”があると彼は考えたのだ。だからこそ、こんな簡単なトラップでもあっさり引っかかってくれた。
しかし、内心では義賊を捕まえたくないと思っていたアルトは、頼むから引っかからないでくれよと思っていたのだが、生憎外れであった。
あっさりと引っかかってくれた義賊に、どうやって逃げて貰おうかと内心ため息をつきながら思案している内に、包囲網は作られた。結局、成り行きで義賊とやり合う羽目になったのだ。ーーしかし、一つだけ誤算があった。
「………っ」
(勘弁しろって……っ!)
無言のまま突っ込んでくる義賊を見て、アルトは冷や汗を流しながら刀を振るう。暗闇の中と言う事を差し引いても、相手の剣筋が”見えない”。つまり、かなり早いと言う事である。そのためほとんど勘任せに足下を薙ぐと、偶然そこに彼の剣があった。かろうじてはじき返すことが出来たが、義賊ははじき飛ばした勢いを利用してグルリと回転。
今度は、勢いを付けた横薙ぎの一撃が襲いかかる。
「っ!」
それを受け止めるが、あまりの衝撃に一瞬めまいがした。何とか意識を保ち、そのまま刀の反りを利用して相手の剣を受け流し、アルトは一歩後ろに下がった。
ーー相手の初手を見たときにも思ったのだが、この義賊は中々やる。下手したら、自分にも匹敵しそうな強さである。
剣の腕前はそれほど高くない。少し出来る程度の、初心者程度の腕前である。しかし、それを補っているのが、彼の身体能力であった。
体の動かし方、頑丈さ、筋力に速さ。裾に余裕のある黒服を着ているが、その上からでもわかる体の細さからしてみれば、少々あり得ないことである。少なくとも、勢いを付けただけでは、大の大人を一瞬だけ立ちくらみさせることなど出来ない。
(変なクスリでも使っているのか……!?)
頭に浮かぶその考えは、違うと即座に切り捨てる。何せ、ちらりと見えた彼の瞳は、狂気の色に染まっておらず、むしろ穏やかな色を浮かべていた。
(………?)
いや待て……あの瞳……。
彼が知る人物の顔が頭を過ぎり、しかしすぐさま首を振ってその考えを追いやる。それはあり得ない、そう思ったからであった。気合いを入れ、再度刀を正眼に構えた。
(……やっぱし、強い……!)
一方、義賊であるトレイドである。彼は、若干肩で息をしながらアルトの様子をジッと伺っていた。先程から一進一退の攻防を見せているように思えるが、実際は彼の方が押されている。何のことはない、純粋な実力差である。今はその差を、精霊使い故の身体能力でごまかしているが、それが精一杯であった。
時間経過と共に不利になっていくのは、彼も理解していた。
(……いざとなったら、魔術を使うよ)
(……まぁ、あやつが相手ならそれも仕方ない、か……)
トレイドの言葉に、しばし黙っていたザイは、頷くようにして口を開いた。彼としては、コベラ式のことをあまり広めたくはないのだが、今はトレイドの命が優先である。いつでも呪文を唱えられるようにトレイドは身構えると、その僅かな動きから何か来ると思ったのか、アルトも刀を握る手に力を込める。ーーまさに、一触即発の状態。
下男達は弁えているのか、先程からただ見守っているだけである。と言うよりも、今は観戦しているという方が正しいか。何せ、義賊であるトレイドに、さんざん痛い目に遭わされてきたのである。慎重にもなろう。
ーーしかし、そんな状態は長くは続かなかった。
「……」
「……っ!」
アルトは右腕を、矢を放つようにして引き絞り、左手の親指に刀の剣腹を乗せる。ーー所謂、平突きの構えである。だが、その切っ先から光があふれ出したときは、誰もが驚いた。あふれ出した光は魔力なのだが、わかっていてもつい驚いてしまう。
あふれ出した魔力は障壁となり、彼の眼前を覆うかのように、切っ先を中心として円錐状に広がった。まるで一本の突撃槍のようになった彼を見て、ザイは呻いた。
(あの形ーー突進型かっ!?)
「……少し、見くびってたよ。お前のこと」
対し、アルトは静かな声音でトレイドに言う。スッと切れ長の目で彼を見つめ、グッと腰をかがめた。その瞬間、トレイドの背筋に悪寒が走りーー
「だからーーくたばれ」
ーージャベリング・アローーー
今まで聞いた事がないような低い声音を聞くのと、トレイドが身を捩るのがほぼ同じだった。放たれた矢のように、アルトは猛スピードで突撃したのだ。
「ぐっ……ぁ……っ!」
身を捩って何とか”切っ先”は躱したが、それが精一杯であった。アルトの眼前に広がった障壁までは躱せず、それをもろに食らって吹き飛ばされる。
ろくに受身も取れず、トレイドは背後の塀に激しく叩きつけられて、肺の中の空気を全てはき出した。逆に、アルトの方はそれより早く塀に、轟音と共に衝突したのだが、張った障壁のおかげで何の衝撃もなく、突き刺さった刀を無造作に引っこ抜いた。
「……っ!」
意識が飛びかけるが、そこは頭を振って何とか持ち堪え、トレイドは前へバッと身を投げ出す。僅かな差を置いて、先程までいた場所を刀が薙ぐ。
そしてトレイドは、アルトのジャベリング・アローを喰らった際、手放してしまった剣を回収すると、痛みが響く体にむち打って、追撃をかけてきた彼と斬り合う。
「……っ」
「っ! かはっ……っ!」
彼の刀を強引に押しやると、彼の腹に蹴りを叩き込む。息を吐く音がし、トレイドはそのまま前へーーつまり塀へと向かう。
(っ……法陣……展開っ!)
バッと左手を前へ突き出すと、塀のちょうど中間地点に、模様が描かれた円が現れる。ーー魔法陣であるそれを展開させると、その上に飛び乗り、足場代わりにする。
と、その光景を見た下男達が、慌てて義賊を止めようと殺到する。ーー今まで期を狙っていたのだが、アルトとの攻防を観戦し、彼が法陣を展開させたことに驚いたため、完全に出遅れていた。つまり、今からでは間に合わない。
それに内心ほくそ笑み、乗っている足場から塀の上へと飛び上がった。誰も追って来れないよう、展開させた法陣を消そうと振り向いた瞬間、それに気がついた。
「待てよっ……!」
全身を魔力で纏わせ、身体能力を上昇させたアルトが、怒りに染まった鬼気迫る表情で呟き、トレイドと同じように法陣を足場にして、一気に塀の高さまで飛び上がった。
(何!?)
「うおおぉぉぉぉ!!」
その光景に、眼下の下男達と同様に自失し、呆然としたトレイドの体に、袈裟斬りに振るわれた黒き刀身が吸い込まれた。一拍置き、肩から脇腹までにかけて傷が走り、血が噴水のように噴き出す。
「……っ!?」
こんな時まで声を出さない自分に、場違いにも賞賛したい気分になる。ーーだがそれは、一種の現実逃避であった。その証拠に、体がぐらりと揺れ、塀の外側に落ちていくのを感じ取っていた。三、四メーターから落ちても、大した事にはならない。しかし、それが”頭”から落ちているのであれば、話は違ってくる。
打撃と斬撃による痛みを味わいながら、トレイドは一人、悔しさ故に口元を歪ませる。ーーここまでだったか、そう目を閉じていく。ーーだが。
(諦めるなっ!)
頭に響く叱責を受けーーぽすん、と何か柔らかい物に落ちた気がした。
「……?」
微かに目を開けると、狼ーーさらに言えば神狼の毛並みが目に入る。それを確認すると、彼は安堵故に再び目を閉じた。
「……何だ、あの狼は?」
一人、塀の上に立つアルトは、その光景を見て絶句していた。落ちていく義賊ーーそれを見て、やってしまったか、という思いが湧き上がったものの、突如現れた狼が、自らをクッション代わりにして彼を助けた姿を見て、安堵する一方、不思議な思いに捕らわれていた。
狼は義賊を背に乗せると、呆れるほど早いスピードで街中を走り去っていく。とても、人一人を運んでいるとは思えないほどに。
普通の狼はそんなことは出来ない、出来るとしたら狼型の魔物ぐらいであろう。ーーだが、とてもあれが魔物とは思えなかった。これはただの勘だが。
「………」
まあいい、今回は上々だろう。義賊には申し訳ないことをしたが、命はある。それにしばらくの間は、この件で義賊の方も動けなくなっただろう。ーーその間に、俺に出来ることをする。
そう決心を固めると、アルトは持っていた刀を一振りして血糊を落とすと、鞘に収めた。
さて、めんどくさい奴に、「何故逃がしたっ!?」と怒鳴られてくるか。
ガラッと言う何かが開く音でユリアは目が覚めた。
主がいないトレイドの部屋で、彼の帰りを待っていたのだが、どうやらそのまま寝てしまったらしい。寝ぼけ眼でベットから半身を起こすと、目をこすりつつそちらに目をやった。
「ーーっ!?」
彼女が見たのは、部屋に備え付けてある窓から、黒衣の男が入ってきたのだ。顔は腹面をしていてわからないが、黒髪の若い人物である。ユリアは驚きに目を見開き、謎の侵入者ーーおそらく強盗に対して、大声を上げようとする。
「っ……!」
「きゃ……!?」
しかし、悲鳴を上げる事に感づかれたのか、その強盗に口元を塞がれ、そのまま背後の壁に押しつけられる。一瞬、痛みが走ったが、それはすぐに目の前にいる男に気づき、恐怖に変わった。
ど、どうしよう……!
口を覆われながら、ユリアはカタカタと小さく振るえだした。下手なことしたら何されるかわからないこの状況の中、そうなってしまうのも無理はない。
「……静かに……しろ……」
「……ふぇ?」
だが、強盗の呟いた、消え入りそうなほど小さな言葉を聞き、ユリアは口を押さえつけられながらも、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。そのまま謎の侵入者は、押さえつけていた手をどけ、腹面を外すと、彼女に弱々しく微笑んで見せた。
「こんな時間に……全員、たたき起こす…気か?」
「と、トレイドっ!?」
思わぬ状況に、つい大きな声を出してしまい、トレイドに諫められた。
「おい」
「ご、ごめん…」
素直に謝り、まじまじと彼の顔を見て、ハッとした。彼の顔は、死人もかくやと言うほど真っ青な顔色でり、同時に何かに耐えるように表情をしかめている。
そして、耳を澄ませば微かに聞こえる、ポタッポタッと言う水滴が落ちる音。これはーー
「っ! トレイド、血がっ!?」
「わかってる。……あまり騒がないで…くれ」
慌てふためくユリアとは対照的に、トレイドは落ち着いていた。しかし、やはりつらいのか、そのままずるずると倒れてしまった。
仰向けに倒れると、その傷口がすぐ目に入った。何せ、肩から脇腹のあたりまで、大きく切り裂かれていたのだ。これで慌てるなという方が無理である。
「ちょ、ちょっと、待っててっ! 直ぐ戻るからっ」
「いや……いい」
ユリアは、すぐさま下の階から薬と包帯を持ってこようと立ち上がったが、すぐさま手を捕まれた。思わずトレイドの方を見たユリアは、彼の目と視線が合う。
「っ! あなた……」
「ユリア、少し待ってくれ」
静かに首を振った彼を見て、カッとなって声を荒げそうになる。実際、そこで別の誰かが声を発しなかったら、そうしていたことだろう。
声のした方を向いて、大型犬ーー本当は狼だがーーの姿を見て、ほんの少しだけ怒りが収まる。しかし、まだ起こっているのは確かなようで、彼女はザイに対して不機嫌そうに呟いた。
「一体何よ。何が起こっているのよ」
「……そのことは後で話そう。それより今は、トレイドの傷の手当てだ」
そう言って、ザイは倒れている彼の方を見た。若干、先程よりも呼吸が荒くなっている彼に対し、言葉少なめに囁く。
「それで、良いな?」
「………」
返事はない。しかし、彼はしっかりと頷き、目を閉じた。
それを見た後、ザイはため息をついて彼の治療を始める。ーーと言っても、単純に治癒魔法をかけるだけなのだが、精霊である彼にとってはやや危険な行為でもあった。
魔法を使う際には魔力を消費する。これはどんな魔法使いや精霊使いにも当てはまる事である。だが、体の大部分が魔力で構成されている精霊にとって、魔力を使うと言う事は、自身の命を削っているに等しいのだ。
だが、ザイは精霊の中でも上級の幻獣型である。ちょっとやそっとじゃ死なないぐらいの魔力を持っており、今回はそれに救われたのだ。
床に立っているザイの足下に、半透明の法陣が展開され、狼の姿が光り出す。それと同時に、力なく横たわっているトレイドの傷口が、みるみる塞がっていく。固唾を呑んで見守っていたユリアは、彼の傷口が完全に塞がったのを見て、ほっとため息をついた。
「ありがとう、ザイ……」
「気にするな。私としても、こいつに死なれるのは困る」
治療が終わり、ザイに向かって頭を下げると、彼は無愛想にそう告げる。そして、ジッと彼女の方を見ると、
「……もう大体の察しは付いていると思うが、最近よく話題に上っている義賊というのはーー」
「わかってる」
全てを言わせずに、ユリアは頷いた。そして、完全に寝入っているトレイドの頬に優しく手を当てて微笑んだ。
だいぶ呼吸も緩やかになってきた。しかし、まだ若干青い顔色をしてる彼に向かって、小さく囁く。
「……言ってくれれば良いのに。水くさいな」
そう言って、コツンと彼の額に自らの額を押しつけた。
ーーこうして夜は、深まっていった。
~~~~~
「……賊は忍び込んだ。が、逃げられたか」
トラヌスにある自室で、アルトから聞かされた報告を、ウオンドはこめかみを揉みながら繰り返していた。
それを聞いた後、「何故逃がしたっ!」と怒鳴りつけたくなったが、それはやめておいた。何せ、彼は元から賊を捕まえる気はなかったのだから。
怒鳴られることを半ば覚悟していたのか、下がれと言ってやったときのアルトの困惑顔は、ある意味見応えのあるものであった。
とにかく、捕まえる気のない彼から提案があると聞かされたときは、やっとその気になったかと喜び勇んで飛びついたが、同時に何か裏があるのではないかと勘ぐってもいた。そのため、彼の案に従い魔法使いを雇った後、彼らに追加料金で頼み事をした。
義賊の拠点を探し出せ。それと、ここ義賊の盗難品の行き先を調べろ、と。
しかし、やはりというか、一つ目の調査は難航を示していた。と言うのも、以前違う魔法使い達にも同じ事を頼んだのだが、見つけることは出来なかったのだ。全員、レジスタンスを探し出すことに成功した人物達であるのにも関わらず。
おそらく、向こうにも術者の協力者(今回の報告を聞くに、本人の可能性が高まってきたが)によって、妨害されているのではと言う結論に達した。そのため、この調査も不発に終わるだろうと予想していたので、落胆はない。
だが、今受けている報告を聞き、気分が高まってきた。
「……それは、確かなのだな?」
「はい」
報告に来ていた魔法使いに確認すると、彼は低頭して調べ上げた詳細を語ってくれた。
「どうやら義賊は、平民だけでなく、町外れの診療所や孤児院にも寄付していたみたいですね。いずれも、数ヶ月前の大火災の時、建物の修復などで経営が圧迫していた模様」
「ふむ……」
どうやら、魔法を使って調べ上げたようで、彼の表情にはやや疲労の色が窺えた。しかし、憎き義賊の足取りを掴んできたという高揚感によって、そのことに気づけなかった。
この街に一つしかないーー否、一つ”しか”ないようにした唯一の木材売り。それによって上げた利益を、他人に渡してやるものか。ウオンドの頭にあるのは、ただそのことだけだった。
「……一番最初に寄付されたのは、どこだ?」
よくよく考え、ウオンドはふと思いついた。そして眼前にいる魔法使いに聞いてみると、彼はある所の名前を言って見せた。
それを聞き、ウオンドはにんまりと笑みを浮かべた。
流石は英雄などと呼ばれている愚か者だ。弱き者には、とことん甘いとな。
彼はトン、トンと指で机を軽く叩きながら、あることを口に出した。
「……この街から、そうだな。二十人ぐらいの傭兵を雇え。それと、アルトの奴は解雇しておけ。奴は新たに雇う傭兵共には入れておくなよ」
「……ハッ」
その言葉で、彼が何をやろうとしているのか見当が付いた魔法使いは、不満を見せ、気が進まないような表情を浮かべて踵を返した。だが、幸いなことにウオンドはそのことに気がついていない。おめでたい奴である。
彼の心の中では、ようやく仇敵を捕まえられる。そんなどす黒い感情に支配されていた。
翌日ーーと言っても、実質的には数時間後だが。に、目を覚ましたトレイドは、ボーとした表情でそれを見ていた。
すなわち、自分のベットに寄りかかって眠っている、栗色の髪の毛の少女を。ユリアは、すーすーと和やかな寝息を立てて就寝中であった。
彼女の肩には毛布が掛けられており、寒さを感じさせずにすんだようだ。だが、一体誰が駆けてやったというのか。
「ようやく、気がついたか」
突如声をかけられ、トレイドは頭が完全に覚醒した。バッとそちらを見ると、黒髪の青年が壁により掛かって立っていた。彼の顔を見て、トレイドは思わず唸る。
「あ、アルトさん……」
アルトは名前を呼ばれても返事をせず、スタスタとこちらに向かって歩いてきた。その瞳は、昨日見たときと同様、威圧感を放つように細められている。
「トレイド、少し聞きたいことがある」
「いや、俺も聞きたいことがあるんですが……」
そう言って上半身を起こすと、何故か自分が半裸なのに気がついた。しばらくそのままでいたが、感触から、下の方もまっぱだろう。つまり、半裸ではなく全裸。
「……言っとくが、脱がせたのは俺じゃないぞ。俺が来たのは朝方だからな、その時にはもうなっていた」
「………」
しばらく硬直していたことから、そのことを見抜いたのであろう、彼は口元をつり上げながらそう言ってくれた。そして、トレイドの中にいるザイも、
(ちなみに、脱がせていたとき、顔を赤くして「もうお嫁に行けない」等と呟いていたが)
(なら脱がすなっ!!)
トレイド、全力の突っ込みである。
とまぁ、そのことは後で彼女に問い詰めておくこととして、今はアルトの(抱いているであろう)誤解を解こうと、口を開きかけた。
流石に、あれな関係だと誤解されたくないし。昨日とは変わって、顔色を赤くさせたトレイドは、どう説明しようかなと頭を悩ませる内、
「……”昨日負った怪我”は、どうなった?」
「っ!!」
全然違う、しかし明らかに疑っている事を質問され、彼はびくりと体を硬直させる。そのまま数秒、返答に困っていると、アルトはハアとため息をついた。
「お前なぁ、この程度のカマかけであっさり引っかかるなよ。それでも義賊かぁ?」
「うっ……」
どうやら、最終確認的な物だったらしい。見事に引っかかったトレイドは、彼の言葉に反論できず、押し黙ってしまう。やがて、髪の毛を掻きむしりながら、
「……どの辺で、気がついたんですか?」
「ん~、確信はなかったな。だけど、お前と目が合った瞬間、なんでかお前のことが頭に過ぎってね。思い切ってカマをかけてみたんだ」
まぁ、あっさり引っかかったけどな、と笑みを含ませながら言う。もうすでに、目つきも穏やかで、いつもよく目にするそれであった。そのことにトレイドもホッとし、彼に釣られる形で笑い始めた。
眠っているユリアを起こさぬよう、小さめの音量でひとしきり笑った後、アルトは椅子を持ってきてそこに座った。何か聞こうと口を開き駆けたとき、トレイドの胸を凝視して眉根を潜める。
「……お前の胸のその印章、もともとなかったよな?」
「ああ、これですね」
彼の視線を追うと、自身の左側の胸ーーちょうど心臓があるあたりに、円形の法陣が刻まれていた。これは、精霊と契約を交わしたときに刻まれた物で、精霊使いを象徴する物である。ちなみに、印章が刻まれるのは、人それぞれで違うらしい。
そのことを語ろうと思ったが、その前にまず精霊のことを語らなければならないことに気づき、小さくため息をついた。
「少し長くなるんですが、良いですか?」
「……いや、いい。この時間だと、あと少しでみんな起き出すだろうしな。……今日は、用事があるんだろ?」
「……はい」
少し考えた後、アルトは首を振り申し出を断った。そう、今日は用事がある。何事にも代えがたい用事が。
もう話は終わりとばかりに、アルトは立ち上がって、部屋を出ようとする。そんな彼の背中に、トレイドは目を見開いて一言問いかける。
「……捕まえないんですか、俺のこと」
彼からしてみれば、自分は盗賊である。ーーまぁ無論、用心棒だから盗賊を捕まえなければならないのではなく、トラヌスに雇われている用心棒である故に、捕まえなければならないのだが。
トレイドの言葉に、アルトは首を振って答えた。
「俺は捕まえたくないさ。ライもユリアも……サヤも悲しむだろうからさ。……命、大事にしろよ」
そう言って、彼は出て行った。トレイドの目から見てもわかるほど、その背中は悲痛に満ちていた。はてな、と首を傾げたが、すぐに違うことを思いだした。
「……誤解解いてねぇ」
(いや、あの態度だと大丈夫じゃないか?)
思わず呟いたその一言に、彼の中にいるザイが答えた。まぁ、彼の言う通りかも知れない。そう思い、トレイドはベットから起き上がり(無論、ユリアが寝ているのを確かめて)、衣装棚から服を取り出した。