閃光の代償
171km/h それは代価として村山の指先の皮膚を奪いとっていた。アーム式ピッチングマシンのように指の付け根を使ってボールを弾き出す投法だった村山の指先は、他のプロ投手のそれとは違い、マメひとつない頭脳労働者のような柔らかさだった。そこにキツく締め上げられた縫い目が引っかかってスーパースローカメラでさえ数えられないほどのスピンがかけたのだ。当然といえば当然といえよう。球団職員からの知らせを受けて病院に駆けつけた星屋監督は苦虫を噛み潰したような顔となっていた。
「人差し指、中指が三針、薬指が二針の裂傷か……勝手なことをしやがって。辻に手綱を任せておいたのに―」
「でも、オールスターがあれだけ盛り上がったのは村山のパフォーマンスあってこそです。しかし171km./hか……夢を見てるみたいですね」
星屋の懸念がどこに向いているかも気づかないような発言をする西山バッテリーコーチに雷が落ちた。
「あんなお祭り騒ぎでいくら活躍しようと、ペナントレースは待ってはくれないんだ!顔を見る気にもならんっ! 村山によく言っておけ、最短の抹消期間で戻って来いとな」
西山は首をすくめ、殴られでもするかのようにきつく目を閉じた。身を翻し病院のエントランスを抜ける星屋の背中が見えなくなると、治療を終え、灯りの落ちた待合室でポツンと佇む村山の許へと足を向けた。
「申し訳ありません」
「なんだ聞こえていたのか? 監督はああいったが前半戦出ずっ張りだったお前だ、いい休養だと思っておけばいい。ペナントレースはまだ半分残ってるんだからな。タクシーを待たせてある。寮まで送ってやろう」
「お願いします」
伊都淵の台詞ではないが〝壁に耳あり――〟だ、東北の星を乗せてテンションの上がるタクシー運転手の前で迂闊な話は出来ない。西山は再びタクシーに待っているよう告げると、寮のロビーで村山と向き合う。
「で、医者は何と?」
「骨には異常なく、裂傷のみで全治7日から10日といったところだそうです。チェンジアップだけなら投げられます。登録抹消は待ってもらえませんか?」
「あのな、プロのピッチャーってのは投げる指には絆創膏を貼るのも許されないんだぞ。出血があればそれが止まるまでは投げられない。知ってるだろ? そんなくらい」
「ええ。ですから無色透明の水絆創膏で指先を固めて――」
食い下がる村山の前で大きく手を振って西山が言う。
「シーズンはまだ半分残ってるんだ、焦るこたあない。恥ずかしい話だが俺はあの171km/hを見てお前のファンになっちまった。きっちり治してこい。そしていつかまたあの彗星のようなボールを見せてくれ。今、無理をさせてお前を潰してしまえば俺は後悔してもし切れない。それに日本のプロ野球ファンから袋叩きに合うのもゴメンだ」
星屋のような野心家ではない。ただ野球が好きで好きで堪らないからバッテリーコーチといった曖昧なポストに甘んじてでも球界に身を置いていたい。そんな西山だった。彼の言葉は村山を納得させるのに充分な重さをもって届いた。
「分かりました。体を鈍らせないよう毎日走ることだけは欠かさないようにします。傷が塞がり治り次第、報告します」
「おう、楽しみにしてるぞ。監督の方針で、怪我の内容や登録抹消の理由は公開しないことになっている。あのかわい子ちゃんの記者にも話すなよ」
「分かりました」
大きく頷いた西山がじゃあ、と告げて寮を出て行くと、会談を遠巻きに眺めていたファームの選手達がそろそろと村山を取り囲むように集まって来た。
「凄かったです、明日から一緒に走らせてもらってもいいですか?」
「村山さんみたいにはなれないけど、俺も頑張って一軍に上がって仙台の野球好きの力になりたいと思いました。色々、教えて下さい」
「僕もです、傍で村山さんを見て吸収出来るものがあれば何でも吸収したいです」
球団経営はビジネスである。支配下選手の枠もあり、3~4年やって芽の出ない選手は新たな戦力補強のため、簡単に見限られる。村山を囲んだ若者達は、まだ高校や大学を出たばかりの若者が殆どだった。自分が彼等にとっての希望でもあるということを知らされた。
「訊かれれば何でも答えよう、一緒に走ることにも何の問題はない。だけど教えるような能力は僕にはない。歳は若くても君達の中には僕よりプロ経験の長い人だって居る。それでもよければ少し話をしよう。こんなところでとぐろを巻いていると他の人の迷惑になる。ミーティングルームを使わせてもらおう」
連係プレーの基礎やトレーニングのための座学を学ぶ、選手寮における教室のような部屋がある。黒板とテーブル、パイプ椅子だけが並べられた殺風景な部屋に彼等を伴って村山は入った。暫くは動かさないようにと裂傷を折った三本の指はまとめて包帯で巻かれている。一つの椅子を引いて背もたれを抱え込むように座った。
「新聞には書いてなかったことがある。僕の腕がちぎれそうになっていたことは本当だ。そんな状態の腕が再び動くようになるものか、実は半信半疑だったんだ。少し曲げようとするだけで脳天を突き抜けるような痛みがあった。そんな状態でいくらなんでもパイレーツに入ろうなんて思わないだろう? あれは記者さんの演出もあったんだ」
神妙な面持ちで村山の話に聞き入る若者達の目は真剣そのものだった。
「腕の繋がった僕についてくれたのは、ボランティアで井ノ口市というところから派遣されていた看護師さんだった。痛みに耐えかねて、もう放っておいて下さいと言った僕に看護師さんはこう言われた。あなたをここへ運んだ自衛隊の人たち、あなたのその腕を繋いだ先生の努力を無駄にするのか、甘えるんじゃない。とね」
脳裏に蘇ったその光景を見つめるかのような眼差しで村山は続けた。
「そして私の仕事はあなたの腕に機能を取り戻させること、あなたのためにやってるんじゃない。自分自身に後悔を残したくないからこうしているんだ。だから逃げようったって逃がしてあげない。きれいな看護師さんだったけど、その時ばかりは鬼に見えたよ」
若者達の間にかすかな笑いが起こった。
「リハビリは死ぬほど辛かったけど、多くの人の支えがあって取り戻すことのできた腕を無駄にしてはいけない。この腕で何が出来るのかを僕は考えた。銀行業務に戻ろうにも社屋は地震で半壊、書類関係は全て水浸しで業務再開の目処すら立たない。悩んだよ。名前も分からない自衛隊員の人や腕を繋げてくれた先生、弱音を吐く僕をしかり続けてくれた看護師さんに、どうすれば元気になった僕を伝えられるのだろう、とね。そして僕は今ここにいる。君達だってそうじゃないか? ご両親や友人、チームの仲間が居てくれたからこそプロへの道も開けたんだと思う。僕が幾ら頑張ったって野球を知らない人には何も伝わらないかも知れない。だけど支えてくれた人達の努力には応える義務がある」
プロ入り三年目の吉田という青年がボソリと言った。パンチ力はあるものの確実性に欠ける打撃のせいで未だ一軍未昇格の立派なガタイの内野手だった。
「うちのオヤジは、俺のバッティングセンター通いのためにタバコと酒を止めたっておふくろが言ってた」
「それで君はお父さんの努力に報いられていると思うかい?」
吉田は大きく首を横に振った。
「全然、足りてないと思います。才能の差は埋められないものだと諦めていたところがありました」
「テスト生入団の僕と違って、君達はパイレーツに請われて入ってきている。球団からも期待されているってことじゃないか? 僕の体格を見ろよ、そこいらの一般人と変わらない。記事にあった通り硬式野球の経験もないんだ。才能という点では君達より遥かに劣っている」
村山の言葉に数名が目を伏せた。吉田と同じ思いを感じたのだろう。
「僕自身、君達と同じくらいの年齢の時には、上手く行かないことがあると自分以外に理由を探したものだよ。それを――21歳だったかな? その若さで気づいた吉田君は凄い」
吉田が照れくさそうに頭を掻いた。
「常に自分が納得出来ているか、それを考えて練習しろってことですか?」
大卒ルーキーの胡桃沢が訊ねる。同意を求めるという行為が些か心許ない。
「どうしろなんて偉そうなことは言えない。僕は僕自身の話をしているだけなんだから」
「何でも教えてもらおうとすることが既に間違っているのだと分かりました。自分の特徴である足と肩をアピールしながら、課題の打撃を向上させる練習方法を探し出します」
社会人チームから入って二年目の青山が立ち上がって言った。
「俺も」「それぞれ個性が違うんだから練習方法は人に教わるものじゃないってことか」と口々に決意を述べる。
鐘を振り鳴らし就寝を告げる寮長の声が廊下に響いた。
「明日もファームの試合があるんだろう? よく寝るのも練習のうちだよ」
村山が〝お開き〟を告げる。ミーティングルームを出てゆく若者達の目には熱く滾るものが見てとれた。