閃光、舞う
伊都淵さんはあんなことを言ったけど減ってないじゃないか……球場入りした村山を待つ報道陣の数は倍増していた。いつものようにマイクやカメラを体にぶつけられながら揉みくちゃにされてロッカールームへと向かうことを覚悟したが、少し様子が違うことに気づいた。「頑張って下さい」「感動しました」 「村山さんは東北の星です」そんな声援を投げかけてくる地元の記者達が中央誌の記者のバリケードとなって立ち塞がってくれていた。戸惑いながらも胸に期するものを覚える。「ただ、ヒーローインタビューぐらいは受けてくださいね」その一言に取り囲む報道陣からどっと笑いが沸き起こる。声の主は仙道由里だった。
コンドルズとの三連戦を2勝1敗で終え、セーブも二つ積み上げた村山が次に挑むのはオールスターゲームのマウンドだ。昨年の日本シリーズの覇者東京ミリオンズからは首位打者とホームラン王の二冠に輝くゴンザレス選手、ルーキーながら今シーズンの首位打者争いをリードする上原選手らが選出されており、直前インタビューでも『ヒットだけ狙えば必ず打てます』と、リップサービスたっぷりでの仙台入りだったという。
「お前さんのお陰で、俺はすっかり悪役扱いだ。負けてても9回は行くからな」
オールアトランティック監督の新谷の声がかかる。
「申し訳ありません。私が言った訳では……」
「分かってるよ、そんなことは。とにかく今日はお前が出てきても試合が終わったという気にはさせられないで済む。最終回に監督が胃を痛めないで済むってことがどんなに楽だか分かるか? 星屋さんが太ったのはお前のせいだな」
そんな冗談を混じえ腹に含むものがないこと新谷は伝えてきた。
「私は与えられた仕事をこなすだけです」
「いっそ、お前に3イニングぐらい投げさせて後半戦にへばってもらいたいもんだが、それをやるとまた新聞に何を書かれるやら……」
豪放に笑って新谷が村山の背中を叩いた。
お祭り気分の球宴では、他チームの投手同士、情報交換をするものらしい。島根セネターズの若きエース前原が隣に下ろす。
「前原です。なんとか村山さんの出番までリードを保てるように頑張ります」
「宜しくお願いします」と言って、胸ポケットを探ろうとしたが銀行員時代の背広姿ではなく、名刺も持っていないことに気づき、村山は一人苦笑する。
「嫌だなあ、僕の方が年下なんだから、もっと砕けた感じでお願いします」
「しかし、前原君……は昨年の沢村賞受賞投手で、プロでの実勢も私より遥かに――」
年齢による上下関係が厳然としたプロ野球界だった。ただそれに未だ慣れることのない村山は26歳の前原を〝君〟と呼ぶのにも遠慮がある。
「だったら、昨年怪我で登板機会のなかった俺はどうなる?」
東京バーバリアンズのベテラン池田投手が前原の反対側に座って言った。
「いえ、池田さんは僕が銀行員だった頃から既にバリバリ活躍していらして――」
「だろう? 俺が言いたいのは、だ。そうしゃちほこばるなってことさ。今のお前は間違いなく球界一のストッパーなんだから」
恐縮する村山の肩をポンポンと叩いて池田はブルペンへと去って行った。
「あの牽制、教えてもらえませんか?」
「いい……よ」
人懐っこそうな笑みを浮かべる前原投手を伴って、村山もブルペンへと向かう。ポタバンドの演奏が始まる前に戻れるかな? そんなことを考えながら。種々のセレモニーが終わったグランドではホームラン競争が始まろうとしていた。
「無理だ――手首がどうにかなっちゃうよ、これ」
元より特殊な腕を持つ村山なればこその牽制である。キレのあるストレートイコールスピンのよくかかったボールというのが常識のプロ野球界に於いて、そのストレートが持ち味の前原だ。元祖に教えを乞うても容易に真似られるようなものではない。
「村山さんは一体どんなリストをしてるんですか?」
村山が真夏でも長袖のアンダーシャツを着ているのは、記事にあった通り縫い目だらけの腕を隠したかったからだ。それでも何故かこの時はすんなりとシャツをめくって見せた。
「うわあ、新聞にあった通りだ。痛くはなくは……ないですよね?」
「怪我をしてから病院で目覚めるまでは殆ど気を失っていたらしい。だからあまり覚えていない……かな。数本の腱だけで繋がっていた腕はくっついてるのが不思議なほどだったと医師に言われたよ」
その状況を想像したのだろう、前原は腕から目を逸らすと大きく顔をしかめた。
「でも、骨折すると却ってその部分は強くなるっていいませんか? ほら、キャッスルズのキャッチャーの谷さん、あの人も小さい頃に鉄棒から落ちて手首を折ってるそうです。だから、あんな歳になっても盗塁を刺せるのはそのお陰だって言ってましたよ」
若い頃から強肩で鳴らした38歳の谷捕手が未だ衰えを見せないスローイングの持ち主であることは村山も知っていた。ただ……自分はそれとは違うのだ。「そうなんですか」と積極的に話したがらない様子の村山を見て、前原は災禍を思い出させてしまったのではないのかと話をまとめにかかる。
「じゃあお前も骨折してみるか、なんて言われたらゴメンです。僕は僕の持っているものを磨くようにします。ありがとうございました」
気のいい青年なのだろう。プロとして7年も後輩にあたる村山に深々と頭を下げ、ブルペンを出ていった。
「それでは、最後にこの曲を村山投手と東北地方の皆さんにお贈りしたいと思います」
ポンタバンドのヴォーカルNAOがミニライブの最後に選んだのはエリック・クラプトンのチェンジ・ザ・ワールドだった。歌い終えた彼がマイクを手に満員のスタンドに向けて言った。。
「我々が目に見えるのは地震や津波の爪痕だけです。皆さんの心の中の闘いがどれほどのものであるかは想像することしか出来ません。頑張れ、負けるなという言葉が如何に無責任なものであるか、僕は三ヵ月の災害派遣で思い知らされました」
先ほどまでの黄色い声援は鳴り止んで球場内が静寂に包まれる。全ての人がセカンドベース近辺に立つNAOの声に耳を傾けているようだ。
「大切な人を失った哀しみが皆さんの心から去ることはないでしょう。僕も父とも呼べる恩人を亡くしました」
バックスクリーン横の大型ビジョンに大大写しになったNAOの頬には幾筋もの涙が流れ出ている。
「それでも前に進むのを止めてはいけません。諦めないことがどんなに尊く、どれほど力強いものであるかを村山投手は行動をもって示してくれています。我々は一つのチームです。普段、敵味方に別れて戦っておられるそれぞれのリーグのみなさんが、今日は勝利という一つの目標に向かって力を結集されます。チーム日本もそれに倣いましょう。がんばっぺー!東北」
大きな拍手が起こる中、方々ですすり泣きが混じる。たくさんの報道陣を引き連れて避難所を回っていた芸能人には反発も感じた村山だったが、この時だけはベンチで目頭を熱くしていた。
NAOの言葉が選手を奮い立たせたのか、オールスターゲームらしからぬ真剣勝負が繰り広げられた。スパイダーマンの異名をとるセネターズの雨宮外野手がフェンスをよじ登ってホームランを阻止すれば、ファイヤーズの足のスペシャリスト福島も果敢なヘッドスライディングで塁を奪う。ペナントレースさながらの白熱した展開に観客も息を呑んで試合を見つめていた。
「負けてても行く」その言葉通り、1-3とオールアトランティックリーグが2点ビハインドの9回表、ブルペンで入念なストレッチをしていた村山に声がかかった。他球団のセットアッパー、クローザーに拍手で送られてリリーフカーに乗り込む。これもオールスターゲームならではだろう。すっかりお馴染みとなった村山のテーマ曲21Gunsが場内に流れると拍手を歓声が沸き起こり、そしてグランドに村山の姿が見えた途端、そのボルテージは最高潮となった。スタンドのあちこちで〝プロフェッサーK〟のプラカードが躍動する。舞台は整っていた。
迎え撃つオールオーシャンリーグは2番からの好打順。三年連続首位打者、名古屋ドルフィンズの安打製造器こと野上、そして「ヒット狙いなら必ず打てる」と豪語した東京ミリオンズの上原、ゴンザレスへと続く打線は、日本シリーズを見据えた格好の試金石ともいえる。
交流戦が廃止されたこのシーズン、リーグに違う選手の対戦はオープン戦以外にはない。開幕直前まで登録を引き伸ばされた村山の生きたボールを見るのは、オーシャンズリーグの打者全員にとって初めてのことだった。
「何がヒット狙いなら打てるだよ、人気先行のオーシャンズリーグが――3アウト全部、三振で取ってやろうぜ」
村山の投げるボールを受けることが出来る捕手はこの辻をおいて他に居らず、仕方なく監督推薦で選出される形での出場だったが、これが初選出となるダンプの鼻息は荒い。例によって3球だけキャッチボール程度のウォーミングアップを行うと主審に右手を上げプレイを申し出た。
初球、154km/hのムラチェンジがど真ん中に決まる。安打製造器の野上といえど、初めて見る球筋のそれにバットを振ることも忘れて見逃した。二球目、同じくど真ん中めがけて村山が投げた151km/hのボールはインコーズ低めへの軌跡を描いたと思った途端、真横に滑ってアウトローへと流れる。空を切ったバットをじっと見つめる野上に辻がマスク越しに言った。
「見たことねえだろ、こんな球。どうだ? ヒット狙いなら当てられそうか?」
「それを言ったのは僕ではありません」
生真面目な返事を返す野上だったが、彼の闘志に火が着いたのは間違いなさそうだ。
三球目、やはりど真ん中目指して投げるムラチェンジは打者との中間付近で大きく揺れて野上のバットをかすめキャッチャ―ミットへと収まった。スコアボードの球速表示は156km/hを表示していた。
「ストライーク、バッターアウトー!」
球審のコールにも呆然と立ち尽くす野上がボソリと呟いた。
「有り得ない……ボールが膨らんだ」
「揺れてるからな。でも初対戦でかするなんて、やっぱ大したもんだよオーシャンリーグの安打製造器は」
呆然とした表情でバッターボックスを引き上げる野上にネクストバッターズサークルに居た上原が声をかける。
「どんなでした? そこそこ速いみたいだけどチェンジアップ系だから縦の変化ですよね?」
「すべる、軌道を変える、膨らむ……」
「はあ?」
「打席に立ってみりゃわかるよ。ヒット狙いなら打てるって? あれが打てるなら今年の首位打者はお前に決まりだな。あいつがアトランティックリーグでよかったよ。あんなのとしょっちゅう対戦してたらバッティングそのものまで狂わされちまう」
そう言ってベンチに戻ってゆく野上の背中を眺め、上原は思った。早々に白旗を上げておいて俺を油断させようって魂胆か? その手には乗るもんか。体はないピッチャーだ、引きつけて右狙い。ミートさえすれば内野の頭は越すさ。
だが、その思惑は村山の投じた三球で粉砕される。引きつけて打つつもりでは所謂着払いとなり、変化を予測して振り出すバットとは30cmも離れてボールが通過する。せめて球道を見極めてやろうと待球に出た三球目、地を這うような軌道のボールはホームプレート直前で浮き上がって上原をあざ笑うかのようにど真ん中に収まった。村山の手を離れた瞬間から運動エネルギーを失いながらキャッチャーミットへと届くそのボールが再び浮き上がるなどということは物理学上、有り得る話ではない。しかし強烈なバックスピンのかかったボールは時として打者の予測した軌跡を裏切ることがある。これが〝伸び〟というヤツだ。スコアボードに163km/hが表示されると観客席からは大きなどよめきが起こった。
辻がマウンドに駆け寄る。長打力のあるゴンザレスを迎え注意を促しに行ったようにも見えたが、マスクを取った顔に浮かぶのは危惧の表情だった。
「すげえ伸びだったな、日本新記録だぞ163km/hは。でも大丈夫か? 指に掛けちゃいけなかったんだろ?」
「付け根から滑って第二関節辺りにひっかかったようです。五本揃えていたから指には異常ありません。心配をおかけしてすみません」
「ほお、つまり球種が増えたってことか――ますます手がつけられんようになってゆくなお前は。ただ後半戦もあるんだ、怪我だけは勘弁してくれよな。ようやく俺にサインを出せる機会が訪れたって訳だ。相変わらずボールはなしでいいのか?」
「はい、今のがストレート。それ以外はチェンジアップのサインでお願いします」
「メジャーリーガーかよ……まあいい、お前が居る限り俺はクビの心配をしなくて済むんだからな。東北の星は俺の星でもあるって訳だ――おっと、ウェブの紐が切れてやがる」
アンパイヤに走り寄りミットの修理のためのタイムを要請した辻がベンチ裏へと姿を消して行く。
人間である以上、後押ししてくれる声援や自身の精神状態がパフォーマンスに大きな影響を与えることは否めない。冷静に――そうは思うのだが、この投げ方で何km/hが出せるのだろう? 第一関節では? 指を四本揃えたらどうなる? 疑問への挑戦は耐え難い誘惑のように村山を責め立てた。
オーシャンリーグの4番打者ゴンザレス選手への第一球、チェンジアップのサインに首を振ると渾身のストレートを投げ込む。
「ストライーク!」
明らかに高めに外れるボールをゴンザレスは強振して尻餅をつく。球速は164km/hが表示されていた。
一つの球種を会得するにはプロの投手でも相当な練習量を必要とするものだ。そのためにフォームを崩し他の球種にまで悪影響を及ぼすことも少なくない。それを試合中にこなしてしまう村山が相手では、強者揃いのオールオーシャンリーグといえど為す術はない。尻尾を丸めて退散する訳にも行かず、苦し紛れに振り出すゴンザレスのバットはあえなく二球目も空を切る。167km/h、このピッチャーはどこまで進化してゆくのだろう。観客もベンチも声を上げるのを忘れ、固唾を呑んでマウンドを見守る。数万を超える目は村山の一挙一投足に釘付けにされていた。
まだいける――村山は自身の可能性をとことん追い求めてみたい衝動に駆られる。最後は四本の指を縫い目にかけてみよう。今度こそチェンジアップ、辻のそのサインに首を振り、プロテストの時以来誰にも見せたことのないワインドアップの投球動作に入った。
171km/h
見逃せば間違いなくボールだった。外角高めに大きく外れたそれを、ゴンザレスも球威に負けじとばかりに渾身のスイングで迎え撃とうとしたのだがかすりもしない。辻がミットの土手に当て大きくはじかれたボールは数メートル後方へと転がった。慌てて拾いに行きファーストへと送球し三つ目のアウトが宣告される。振り逃げが成立する場面ではあったがバッターボックスのゴンザレスは「Jesus , Crazy-Rocket」と呟くばかりで走り出そうともしなかった。
9回裏、アトランティックリーグの攻撃を残してはいたが、プレス席の記者達が一斉に忙しく動き始める。スポーツ誌一面の記事は決まった、大見出しに続く記事を頭の中でタイプしながらカメラマン席と社への連絡を取る。試合展開がどうなろうと奇跡の瞬間を目に焼き付けた彼等のターゲットは、とぼとぼとベンチに向かう村山以外にはなかった。
バックスクリーン横の大型ビジョンでスロー再生された最後の一球は真ん中低めへの軌道を描きながら鎌首を持ち上げた毒蛇のように大きく伸び上がる。
「171km/hか……閃光だなまるで――瞬きする間にミットに収まっているようなのをどうやって打てと言うんだ」
ボソリと声を洩らす三塁側ベンチの野上、それは全ての打者の気持ちを代弁するかのようだった。
スタジアムは異様なムードに包まれたまま、アトランティックリーグの9回裏の攻撃に移って行く。それはオーシャンリーグを代表するストッパー藤城投手がマウンドに上がっても変わることはなかった。今しがた目にしたばかりの奇跡にスタジアム全体が魅了され、三塁側からレフト側スタンドにかけて陣取ったオーシャンリーグ各球団の応援団でさえ鳴くのを忘れたカナリアのように静まりかえっている。バックネット裏で起こった小さな拍手が伝播し、大歓声へと変化するのには数分を要した。
生来の負けん気を発揮してアトランティックリーグ最終回の攻撃を三者凡退に切ってとった藤代投手に対してもパラパラとした拍手が起こるだけ。観衆は試合の行方に対する興味を完全に失っていたようだ。少なくとも優秀選手賞はもらうだろう、今日こそは村山のインタビューが――肉声が聞けると期待し、彼の再登場を今や遅しと待ち構えていた。
その期待通り、大型ビジョンには優秀選手として表彰される村山の名前が上がったが、この日も観客に彼の肉声が届くことはなかった。
「村山投手は指の怪我のため、病院に向かいました。表彰は辻捕手が代わって――」
そう場内アナウンスが流れると、期待感は大きなため息へと変わってスタンドにこだました。
テレビでそれを観戦していた伊都淵がポツリと呟いた。
「錯覚が人をあれほどまでに輝かすものなのか――」