復興へのパラダイム(規範)
前期の日程も終わりに近づいた68試合消化時、仙台パイレーツは二位ファイヤーズを4ゲーム離してペナントレースのトップを走っていた。その快進撃の立役者となったのは間違いなく村山一途。彼が積み上げたセーブはその数32、このままのペースで後半戦も投げ切るとすれば年間セーブ記録の更新は間違いのないところだった。そして驚嘆すべきはその投球内容だ。卓越したバットコントロール技術を持つプロの打者相手である。全てを三振で、という訳には行かなかったが、それでも〝ムラチェンジ〟とファンが名付けた150km/hを超えて動くボールにはバットに当てるのが精一杯。ゴロアウトとハーフライナーを含むフライアウトがそれぞれ4つずつ。セーフティバントを狙ったキャッチャーへのファールフライが1つあるだけだった。当然の如く被安打は0の与四球も0 防御率0.00奪三振77は驚異的を通り越して前代未聞未来永劫達成不可能な数字だったと言えよう。
POWの愛称はもらっていたが披露する場はなくなってしまった。塁上にランナーが残った場面での救援もあったのだが、村山の牽制を知っているランナーが離塁などするはずがない。いつしか彼はスコアブックに記される三振を意味するK――それをとってプロフェッサーKと呼ばれるようになっていた。
制球に問題のあったデンゼルも日本のストライクゾーンに慣れるに従い調子を上げてきており、7回までパイレーツにリードを保たせてしまった場合、対戦チームがその試合をモノに出来る可能性は限りなく0に近くなっていた。相乗効果で打線の方も上位から下位までムラなく当たりが出てきており、いうなれば盤石といった常勝チームのような安定感を羨む他球団は少なくなかった。
村山が登板する試合でバックネット裏にスピードガンを手にしたメジャーリーグのスカウトがずらりと並んだこともある。気の早いスポーツ誌は〝すわ、メジャー流出か〟と報じたものだった。しかし「僕はパイレーツ以外で野球をする気はありません」と広報を通じて村山の意思が明らかにされるに至り、胸を撫で下ろしたのはパイレーツファンばかりでもなかったろう。
村山の悩みは広く顔が知れ渡ってしまったことだ。観戦にきてくれた伊都淵達と食事に行けば彼等の素性とその関係をしつこく聞かれ、定宿にしていたビジネスホテルも嗅ぎつけられた時には出待ちの記者が列をなしてホテルから苦情を言われたこともある。ただ500万円の年俸では家など買えるはずもない。仕方なく球団の寮へと引越せざるを得ない状況となっていた。
東北に新たな希望を持たせたい。ただそれだけの情熱を秘めてのプロ入団だった。しかしそんな彼の意思とは関係なく周囲は度を越して過熱していった。
オールスターゲームにもダントツの得票数で選出が決まった。そんな或る日、東京への遠征を終え新幹線で帰路につく村山の携帯電話がメールの着信を告げた。
『未だに記者に囲まれて困っているのかい? それは自分のことを何一つ話さない君のせいでもある。ヒーローインタビューにも一度も顔を出さずなんてのは君の成績と同じく前代未聞の出来事だからな。プロフェッサーKの謎は深まるばかりで記者さん達への社からのプレッシャーも相当だろう。そこで提案がある。憶測も希望的観測もナシで記事を書いてくれる人が居る。彼女のインタビューを受けてやってくれないか?』
それは伊都淵から届いたものだった。
「本当に取材陣の数が減りますか?」
「ああ、多分。それとこのインタビューには別の目的もある」
ニヤリと笑う伊都淵だった。五ヶ月ぶりのボランティア宿舎は村山が去った時と何も変わっていない。しつこくついて回る報道陣を巻くために出動した四台の同型RV車で選手寮を同時に出発し、自動車道の乗り降りを数回繰り返した後に宿舎へとたどり着いていた。エンジン音が外で聞こえた。仲間たちが戻ってきたようだ。
「ムラさん、お久しぶり」
最初に入ってきたのは鈴木雄一郎と依子だった。一つ目的に汗を流しあった者同士が離れていた時間を埋めるのに多くの言葉は要らない。ただ笑顔を交わすだけで空白は消え去る。ほどなくして残りの二台が戻ったようだ。カジに続いて入ってきた女性は球場で何度か見たことのある記者だった。最後に入ってきた本田正が言った。
「俺が最後か……テレビ仙台だっけ? あそこはしつこい。隣に並びかける度、後部座席のかおりをなんとかカメラに収めようと『窓を開けて下さい』って怒鳴るんだ。代わりに俺が窓を開けて文句を言ってやった。村山さんと彼女の密会だとでも思ってたのかな? 俺を見た時の顔ったらなかったよ。なあ」
とはいえ、二人の表情は楽しくて仕方がないといった様子だ。
「宮城スポーツの仙道由里さん、別嬪さんだけどこれまたイケメン君の彼氏が居る。変な気は起こさないようにな」
勿論、村山にそんなつもりはない。取材陣に悩まされる機会が減れば助かる――ただただ、それを願っての取材の受諾だった。
「早速ですが、よろしくお願いします」
伊都淵に紹介されて頭を下げる仙道に、村山も会釈で返した。ICレコーダーのRECボタンが押され取材が始まった。
地震と津波で妻子を亡くしたこと、その時に大怪我を負ったこと、何故パイレーツに入りたかったかを或る一点を除いてあまねく語り尽くした。
「これで終わりです、どうもありがとうございました」
仙道の声に、ラップトップパソコンを真剣な表情で覗き込んでいた伊都淵が顔を上げる。彼が金融派生商品の取引でボランティア活動の資金を稼いでいることを村山は知っていた。
「どうですか? 調子は」
「君の年俸ぐらいは稼いだよ。送ろう、仙道さんも」
伊都淵は壁にかけられたRV車のキーを手に取る。後ろ髪を惹かれる思いではあったが、懐かしい仲間達と握手をして村山は宿舎を後にした。
「どうかしてんじゃないのか、この新首相。『福島の再建なくして日本の再建なし』だと? 宮城も岩手も忘れちゃいませんかってんだい」
カーラジオから流れるニュースに伊都淵が顔をしかめる。
「原稿は秘書が書いているんでしょうが、それをそのまま読んでしまう首相も首相ですね」
信用金庫マンだったら頃からデタラメな国の政策には諦観を向けていた村山だった。大震災以来の迷走ぶりを挙げれば枚挙に遑なしといった感さえある。最早、国になんとかしてもらえるなどといった妄想は抱かない方がいい、落胆を招くだけだ。伊都淵と仙道の話をそんな思いで聞いていた。
「そこで君の出番だ」
急に水を向けられ〝君〟が自分であることに気づくのに少々時間がかかった。
「え……僕ですか?」
「ああ、仙道さんの記事と君の快投が東北を救うんだ。球宴後も頑張ってくれよな。記事が載った途端、急降下では彼女も立つ瀬がなくなってしまう」
「言われるまでもなく頑張るつもりですが……」
どんな記事になるのだろう。村山はミラー越しに自信ありげな表情を浮かべる伊都淵を見つめた。
〝プロフェッサーKの真実に迫る〟
そんな見出しのついた仙台スポーツの記事には、次のように書かれていた。
『一切のインタビューを拒絶する仙台パイレーツの村山一途投手。彼も東北に住む多くの人々同様、あの大震災の被害者だった。
2011年3月11日14時46分 その時間、勤務先である黄金信用金庫に居た彼は地震の第一報を聞くと自宅のあった女川町へと7kmの距離を走って戻った。高台にあった彼の自宅は地震による被害を免れていたのだが、数分後に襲った大津波で流されてきた電車に家屋もろとも押し潰されてしまう。妻の菜穂子さん(29)と長女のひとみちゃん(3)はその時に亡くなられたようで、自宅にたどり着いた村山は変わり果てた妻子を抱きしめたまま悲嘆にくれていて、余震に気を回す余裕はなかったのだろう。数分後に襲った余震と呼ぶにはまりにも激しい揺れが、骨組みの脆くなっていた自宅の軒庇を崩落させ、彼の右腕はその下敷きとなった。あの混乱の中、翌日自衛隊員に発見されるまで、彼は無事だった左腕で家族を抱き寄せ、庇うように覆い被さっていたという。
肘頭骨・橈骨を含む四箇所の骨折、橈側手根屈筋腱など三箇所の筋断裂で彼の腕は回復不可能なほど破壊され尽くしていた。最初に彼の腕を診た医師の所見は〝切断やむ無し〟だったそうだ。多くの医療機関が被災し満足な治療など期待出来ない中、自衛隊のヘリで専門医のいた茨城県へと搬送され、なんとか切断は免れることが出来た。そして彼は或る決意を胸に、ツギハギだらけの腕で懸命にリハビリに励んだ。その機能回復を東北の復興と重ね合わすかのように。それは想像を絶するものだったに違いない。
軟式野球の経験しかなかった彼が目指したものは、驚くことに仙台パイレーツのマウンドだった。一度は諦めた右腕だ、それが取り戻せたのなら世の中に手の届かないものなどない。自身が復興のパラダイム(規範)になってやろうと決意したのである。だが、それを口にすれば笑われるだけ。胸中に掲げた目標に向け、雪の中を雨の中を彼はひたすら走り続けた。思い描いたゴールへの道程は果てしなく遠大で、また、平坦でもなかった。球界に知名度がなくプロテストは年齢制限によって受験資格さえ与えられない。あまたの障害が立ち塞がる中、幾度も胸に去来する諦観を振り払ってあらゆる途を探り続けた。そして彼は今、かつて誰も成し得なかった成績を引っ下げ、そのマウンドに立っている。
スピットボール疑惑をぶち上げた人物も居た。自身の理解を超えたボールなら反則投球であるといった発想は唯我独尊を地で行くようなものだろう。プロフェッサーKの真実が明らかにされた今、彼には素直に過ちを認め、一刻も早い猛省を期待するものである。
諦めてはいけない。援助のみに縋っていては、願う明日は果てしなく遠い。未来を手繰り寄せるのは一人一人が踏み出す一歩なのだと言うことを、彼は投げ続けることによって我々に伝えようとしているのではないだろうか。
村山投手の契約金は1000万円、年俸も500万円と一軍最低レベルである。片や一度も一軍経験のないドラフト一位の長嶺選手に支払われた契約金は一億円。それでも彼は文句一つ口にせず日夜パイレーツの試合を締め括り続ける。用具メーカーからのスポンサードもアドバイザリー契約も受けてはいない。今時ネーム刺繍の入ってない古びたグローブを持ってマウンドに上る投手などいない時代に、である。記者が紹介しようといった時、彼はこう答えた。「まだ充分使えます。僕にくれる物があるなら東北の子供達に配ってあげて下さい」
ネピアスタジアムで行われる今年のオールスターゲーム、村山一途投手の生き様に感銘を受けたポンタバンドが試合前に登場、ミニライブを行うと発表があった。より多くのファンがスタジアムに駆けつけ、村山投手に――東北地方へと声援を送ってくれることを切に願うものである。 記事:仙道 』
弱気になった時のことは書いてないのだな――誌面上の制約でもあったのかな? 寮のロビーで仙台スポーツを読んだ村山は面映ゆさに一人頬を緩ませる。
ポンタバンドか……本当に仲間だったんだ。人気の最盛期に活動を休止、そのギター兼ヴォーカルのNAOが自衛官となってこの東北で復興活動にあたっていたことを写真週刊誌がすっぱ抜いたのは記憶に新しい。記事を読むより早く『と、いう訳だ』と短いメールが伊都淵から届いていた。彼の言った通り話したままを書いてくれた仙道に感謝したい気持ちになり、その旨を書いたメールを伊都淵に送信して球場行きのマイクロバスに乗り込んだ。オールスターゲーム前、最後の三連戦は博多コンドルズを迎えての地元ゲームだった。