初登板
埼玉ビッグベアーズとの開幕戦は、初戦がパイレーツのエース大隈の完封シャットアウト、二戦目は若きエース候補田上が序盤で大量失点をして大敗と村山の出番はなかった。迎えた三戦目、四番荒井の満塁ホームランなどで6-3とリードした9回裏、クローザー候補の一人だったデンゼル投手をマウンドに送り出した星屋監督だったが、オープン戦から修正出来ずにいた制球力不足にエラーが絡んで2失点、なおも2アウト2・3塁と一打サヨナラの場面で、ようやく村山に登板のチャンスが廻ってきた。ベンチ入りメンバーに名前だけは連ねていたもののオープン戦はおろか紅白戦での登板もない。テレビ中継のアナウンサーの許に届いた資料も簡単なプロフィールだけという有様だった。
「村山 一途33歳、174cm、64kg、右投げ右打ち、背番号68、黄金水産高校から黄金信用金庫……ですか。ご存知ですか? 黒岩さん」
困ったアナウンサーが解説者に助け舟を求めた。
「開幕当日に支配下選手登録即一軍となっていますね。オープン戦も登板なしか……僕はてっきり偵察要員か何かだと思っていましたよ。33歳のルーキーか――これって日本記録じゃないですか?」
「ちょっと待って下さい……記録によりますと――」
アナウンサーは中継スタッフから手渡されたメモを読み上げる。その内容は伊都淵が村山に語って訊かせた通りのものだった。
「一リーグ制だったその頃ならともかく、この時代に33歳のルーキーですか……秘密兵器ってヤツなんでしょうか?」
「実戦経験が全くない訳でしょう? 漫画じゃないんだ、そんな奇策が通用するほどプロは甘くありません。体格も一般人とさして変わらない、秘密兵器は秘密兵器でも『出来ればずっと秘密にしておきたかった兵器』ってことにならないよう祈ります」
使い古されたジョークに手を叩いて自画自賛する黒岩だった。
「キャッチャーも代わるようですね、背番号52辻捕手が出てきました。何ですか? あのでかいキャッチャーミットは」
黒岩はモニタ画面を覗き込む。ベンチから走り出てきた。ダンプという愛称そのままの短躯のキャッチャーを呼び止め、アンパイヤが彼の持ったキャッチャーミットを両手にとって眺める。記録員を呼んでサイズを測らせるようだった。ウェブは広く深くサイズも15.5インチ以下という規定いっぱいで特注されたそれは小柄な辻捕手が持てば分厚い座布団を二つ折りにして抱えているようにも見えた。
「ウケ狙いのファンサービスならホームゲームのインターバルでやって欲しいもんですね、一打サヨナラの場面の緊張感が薄れますよ」
黒岩はやや憮然とした物言いになる。村山のウォーミングアップが始まりマウンド周辺に集まっていた野手が守備位置に戻る。三塁手の荒井が村山を指差して何事か塁審に話している。セットポジションから2~3球、キャッチボール程度の投球をしてアンパイアに「もう結構です」と、プレイ再開を申し出た。
なんだ、あのウォーミングアップは……ナックルボーラーなのか? ビッグベアーズの大城監督は首を捻る。スコアラーが何のデータも持っていない投手が登板するなど前代未聞のことだった。とにかくホームプレート上を通過する球は全部振ってゆけ、と言ってバッターを送り出す。俊足の三塁走者都築にはゴロGoのサインを出してあった。
プレイッ!主審のコールで村山がセットポジションに入る。するすると離塁する三塁走者を見据え一度プレートを外した。ランナーは歩いて三塁キャンバスに戻った。
「緊張してるんでしょうね。実践経験なしの初マウンドがサヨナラの場面では無理もない。ストライクが入ればいいんですが。なにせあの体では――」
プロ選手としても大柄な部類だった黒岩は、体のサイズイコール選手のパフォーマンスと信じるきらいがあり、このような発言が多い。彼の中では村山が打たれるか自滅するかが既に既定路線となっているようだった。三塁手から返されたボールを受け取った村山が再びセットポジションに入った時、中継スタッフの女性に飲み物を頼もうと、黒岩は一瞬グランドから目を逸らす。
アウトッ! ゲームセット! 声高に叫ぶ三塁塁審の須藤と呆然と立ち尽くす三塁走者、観客にも何が起こったのか分からなかったようで、パイレーツファンの陣取るレフト側スタンドからも歓声は上がらない。ただ、小さなざわめきのみが球場内を包んでいた。
「隠し球でしょうか――いや、ピッチャーはセットに入っていましたよね」
「すいません、見ていませんでした」
一塁側ベンチからは大城監督が走り出して三塁塁審に詰め寄る。
「プレートを踏んでいたろう? 隠し球ならボークじゃないか」
「牽制球です。ランナーが戻れずタッチアウトです」
リーグから報酬を得ている日本の審判員は監督の抗議に対して若干弱腰のところがある。しかし予め三塁手の荒井に「よく見ていて下さい」と言われた須藤塁審はボールの所在も村山の牽制動作にも注意を払っており、見たことのない牽制球に驚きながらも自信を持ってアウトをコールした。
「そうなのか?」大城に確認された三塁コーチャーが渋面で頷いた。
「スロービデオが出ます、ここですね。……え?」
放送席の黒岩が失態を取り戻すかのようにモニタを食い入るように見つめる。セットポジションに入った村山は左足を三塁に向け真っ直ぐ踏み出しながら右手に持ったボールを手首だけで弾くように荒井に投げていた。一見、ソフトボールの投げ方のようでもあったがテイクバックなしで彼の手から放たれたボールは、投手がバッターに投げるものと遜色ないスピードで荒井のグローブに収まる。ランナーのリードが大き過ぎた訳でもない。有り得ない動作からの有り得ない速さの牽制に唖然とし、ほんの1mほどが帰塁出来なかったのだ。タッチされたランナーのぽかんと開いた口がそれを物語っていた。
中継画面と同じものがスコアボードの大型ビジョンに映し出されると、レフト側のスタンドから大歓声と〝村山コール〟が起こる。塁審の説明をそれで確認した大城監督も引き下がらざるを得ない。「狐につままれたみたいだ」とボヤキながらグラウンドの土を蹴り上げた。
三塁ベンチの前ではパイレーツの歓喜の輪が出来ていた。星屋監督に肩を叩かれる村山、ハイタッチでベンチに戻ってくる選手を迎える面々そして数名の選手が村山の牽制動作を真似て笑い合っていた。
「あんな具合に牽制が出来るものなんですね、黒岩さん」
「いや……普通の投手には無理でしょう。村山……君ですか? 彼は手首を返すだけであんな速い牽制球を放っています。野手のスナップスローというのがありますが、あれだって体の回転と肘のしなりを使って初めて正確で素早い送球が可能なんです。異様に手首が強いんでしょうか――それにしてもあんな投げ方でよくコントロール出来たもんだ」
「えー、打者への投球をせずにセーブ――所謂0球セーブとなりますと1981年、当時南海ホークスの三浦投手以来ですね。この時は一塁走者を牽制でアウトにしています」
実況アナウンサーは再び中継スタッフから手渡されたメモを読み上げる。
「2リーグ分裂後最年長ルーキーの0球セーブ、おまけに前代未聞の牽制球と記録尽くめのビッグベアーズ対パイレーツの第三戦でした。ヒーローインタビューが始まるようですね。村山投手が出てくるんでしょうか、あ……荒井選手のようですね。聞きましょう」
「放送席、放送席、今日のヒーローは第2号ツーランホームランを含む3打点の荒井選手です。お見事でした」
「ありがとうございます」
「開幕三連戦で2ホームランに打点7。大活躍ですね」
形通りのヒーローインタビューにレフト側スタンドに陣取った応援団は歓声を上げるが、イマイチ盛り上がりに欠けるようだ。おそらく誰もが9回3アウト目となったマジックのような牽制球の種明かしを望んでいたのだろう。
「ところであの牽制球、あれは事前に打ち合わせていたのですか?」
球団広報を振り返った荒井は、彼が頷くのを見てからゆっくりと口を開いた。
「この時代ですから、すぐに各球団にビデオが届きます。いつまでも秘密にしておけるものでもないでしょうから話します。スタンドのお客さん、知りたいですかー」
荒井の呼び掛けにライト側スタンドに残るビッグベアーズの応援団までもが拍手で応じてきた。
「あれはシーズン前に練習を重ねてきたプレイです。とはいえ僕が受けることが出来なかっただけで、村山は入団当初からさっきのような正確な牽制球を投げていました。塁審の方が見落とすことのないよう、それとボークと判断されないよう予めピッチャーの動作を注視するようにお願いはしておきましたけどね」
「その村山投手ですがどんな経歴の持ち主なんでしょう。こちらには何の資料もないものでして」
「あまり自分の事を話したがらないヤツでしてね。まあいいじゃないですか、野球で判断してやって下さい。あいつが投げる度、皆さんを驚かせること請け合いです」
思わせぶりな荒井の発言に再びレフト側スタンドから歓声が上がる。
「今日みたいなトリックプレーがまだ他にも?」
「それは彼の登板を楽しみにしていて下さい。僕の仕事は打って打点を上げ、最終回にリードを保って村山をマウンドに送り出せるようにすることです。テレビをご覧の地元ファンの皆さん、明後日はネピアスタジアムの開幕戦になります。多くの皆さんに球場に足を運んでいただき、応援をお願いしたいと思います。がんばっぺー東北―」
チームキャプテンがそう締めくくると応援団は拍手と鳴り物で呼応する。ベンチ裏では勝利監督インタビューが始まろうとしている。上機嫌な星屋の顔が映し出された。
「おめでとうございます。ビジターでの開幕三連戦、2勝1敗の勝ち越しとなりましたね」
「ありがとうございます。選手がよくやってくれました」
こちらも先発投手の出来と中心選手の活躍に触れる形通りのスタイルで始まった。しかしインタビュアーの様子には興味の対象が村山であることがありありと伺える。星屋にも聞かれるのを待っているような感があった。
「ところで0球セーブとなった村山投手、オープン戦も練習試合でも登板がなかったのは秘密兵器だったと考えてよろしのでしょうか?」
「デンゼルの調子が上がってきませんでしたからね。実は村山をクローザーにすることは開幕前からの既定路線でした。長いシーズンです。ダブルストッパーという構想も踏まえて戦ってゆきますよ」
新戦力をベールに包み続けたことへの返答はなかったが否定もしない。想像にお任せしますといったところだろう。
「次回の村山投手登板はやはりランナー三塁といった状況になりますか?」
「あいつを牽制だけのピッチャーだと思われたら困ります。シーズンを通して上に居れば最優秀救援投手だって狙える、いや、セーブ記録を塗り替えるかも知れません。この先は企業秘密、今後のパイレーツの戦いを見ていて下さい」
星屋は口チャックの動作をしてカメラの前から姿を消した。
これで暫くは観客動員も見込めるだろう。先発は揃っているし抑えの目処もついた。打線次第ではあるが優勝だって夢じゃない。両リーグ通じて選手年俸合計の一番低い球団の優勝か――面白いじゃないか――ひとりほくそ笑む星屋だった。
「すっげー、これタッキーが教えてやったんだろ?」
テレビのスポーツニュースを観ていた正は興奮を隠しきれない様子でそう言った。
「だからタッキーは止めろってば。教えたと言えばその通りなんだけど、村山君だから実現できたプレイでもある。次回から三塁走者はベースに張り付いたままになるだろうしこれっきりだよ」
「え? もう一つあったじゃん、あれはボークとかになるのかい?」
「しーっ、壁に意味ありだぞ。135試合を戦い抜くペナントレースだ。戦略ってものもある、星屋監督が村山君の起用をどうするかだよ。見せなくて済むものはギリギリまで仕舞っておく。例年みたいに打線が途中で息切れすることがなければ……」
「なければ?」
「あるぞ、優勝も」
朝の早い私設ボランティア集団の宿舎、ロビーに残っているのは正と伊都淵の二人だけだった。
「そっかあ……俺も負けてらんないな。来年こそはワークスチームのシートを奪い返してやる」
「その意気だ。俺は先に寝るからな。戸締り宜しく」
「あいよー」
しかし、すげえなムラさん――呟く正を残し、伊都淵は階段を上がっていった。