雄飛のために
その歳の暮れ、日本における格闘技の殿堂と呼ばれる会場で、世界フェザー級タイトルマッチ――雄一郎の防衛戦は行われた。私設ボランティアの仲間と共に招待を受け、リングサイドから眩い光芒の中に立つ雄一郎を見上げる村山の胸中には或る期待があった。雄一郎君がKOで勝てば自分もきっとやれる――己を信じることで試合に望む自信を高める――そう言った雄一郎の言葉の中に村山のおかれた現在と通ずるものを感じ重ね合わせていたのだった。
1ラウンドのゴングが鳴り、慎重に間合いを詰める雄一郎とランキング一位の指名挑戦者。どちらも無敗同士の対戦だった。中学生時代、カジにその才能を見い出され〝練習は裏切らない〟の信念のもと、ストイックにボクシングを追究してきた雄一郎だった。左へ回りながらジャブで距離を計る。片やメキシコの貧民街の出身で、ボクシングでしか成り上がる術のないことを自覚していた挑戦者。その目に宿す光は飢えた野生の怒りがあった。雄一郎のジャブを汚らわしいものであるかのように乱暴なパーリングで払う。苦戦するのかな、村山がそう思った刹那、挑戦者はマットに沈み込んでいた。
クリーンヒットすれば確実に肋の数本は持ってゆく雄一郎の左フックを警戒し過ぎたのだろう、彼がスイッチしたのにも気づかなかったようだ。軽く出した雄一郎の右のショートストレートがカウンター気味に挑戦者の顎先をとらえると、脳を揺らされた挑戦者は完全に平衡感覚を失って尻餅をついた。カウント7で立ち上がったものの、笑う膝がよく絞り込んだ125パウンドの体重を支えきれない。ロープにもたれかかったまま続けられるカウントを聞いた挑戦者は、レフリーが手を大きく交差させた瞬間、がっくりと項垂れてキャンバスに膝をついた。
試合開始から1分17秒、なんとも呆気ない幕切れだった。勝者のコールを受けた雄一郎が、グローブをはめた手を客席に向かってぐっと差し出す。スタンディングオベイションを贈るファンは、それが自分に向けられたものだと信じて疑わない。歓声が一段と大きくなった。村山はそのメッセージをこうとらえた「俺に続け」と。
「あの球団はシブちんだとは訊いていたけど、随分と叩かれちゃったもんだな」
契約書の控えを手に伊都淵が呆れたような声を上げる。支度金300万円、年棒の220万円は、支配下選手として登録した時点でそれぞれ契約金1000万円と年棒500万円と変更されるという条件だったが、パイレーツの戦力になることが目標だった村山にとって金額は問題ではなかった。
「食べさせなきゃいけない家族も居ませんし、遠征の時は交通費も食事代も球団持ちですから。契約金はお世話になったここに置いて行くつもりです。ガレキ撤去の資金にでも役立てて下さい」
「気持ちはありがたいがスポーツ選手は体が資本だ。公傷扱いにならない怪我は自己負担になる。幸い、ここは伊都淵君のお陰で金には困っていない。それは持っていなさい」
「そうそう、こう見えて俺には金儲けの才覚があってね」
カジの発言に軽い調子で伊都淵が言い添える。背後で洗濯物を畳んでいた依子がクスリと笑う。
「しかし私はここにおいていただいた間、部屋代も食事代も払っていません。みなさんのお陰で念願叶ってパイレーツに入団することが出来たんです。他にお礼をする方法も思いつきませんし……」
村山が避難所暮らしだったことを知った伊都淵が、企業の保養施設を借り上げて宿舎にしていたここにほぼ強制的に住まわせたのだった。
「君は労力で充分購ってくれた。年棒500万は世間一般のサラリーマンと比べても決して高い数字ではない。専属のトレーナーなどを雇えばすぐに足が出るぞ。いいから金は持っていなさい」
カジに強く諭され、やっと村山は提案を取り下げた。
ボランティア集団にも休暇は必要だ。雄一郎と正、かおりの三人は作並温泉へと出掛け、私設ボランティアの事務所兼宿舎には村山を含め4人だけという静かな午後だった。
「昨年5位のパイレーツはいきなり埼玉へロードって訳か……登録は開幕当日の明後日になるんだろ? オープン戦も練習試合の登板もなしでぶっつけ本番で大丈夫なのかい?」
「ええ、僕を秘密兵器にする予定と監督は言っておられました。だから支配下選手登録も一軍登録もギリギリにするのだと。どうせど真ん中狙って放り続けるだけです。連係プレーは屋内練習場で嫌というほどこなしました。緊張する性分でもないですし、みなさんの期待を裏切ることはないと思います。背番号も69がもらえます」
村山がサラリと言った言葉は、軟式野球しか経験のない男ではなかなか口に出来るものではない。彼なりの自信の現れだったのだろう。
「秘密兵器の割りには重い番号だな……まあシーズンが終われば、年棒も背番号も見直さざるを得なくなるさ。頑張ってこいよ、仙台駅まで送ろう。買い物に行くなら君も一緒にどうだい?」
伊都淵は依子に声をかける。
「じゃあお願いしようかしら。支度してくるわ、十分待ってて」
「仙台ボーイにナンパされないよう、化粧は控えめにするんだぜ」
「十分じゃ眉毛しか書けないわよ」
「はは、それもそうだ。さあ村山君も荷物をまとめろ」
だが村山は「はあ」と答えたまま席を立つ様子はない。
「どうした? やはり多少は気後れするものがあるのか? あの雄一郎でさえ試合前は毎回膝が震えると言っている。プロ初参戦の君がそうでも何の不思議もないぞ」
珍しくカジが軽い調子で言った。
「そうじゃないんです。僕はここへ出て行かないといけませんか? 仙台でのホームの試合の時とか、ここから通ってはいけませんか?」
カジと伊都淵は顔を見合わせる。
「いけなくはないが、君が有名になればここにも記者達が押し寄せる。彼等に遠慮会釈などないから地元の方々に迷惑がかかる。それは君にとっても不本意なのではないかな」
「そうですね……」
カジのやんわりとした拒絶に村山は視線を落とした。
「ネピアスタジアムの近くにパイレーツファンの叔父さんが居るんだろう? コンディション維持のためにも市内に住んだ方がいいよ。デーゲームは無理でもナイターはみんなで応援に行く。俺達が仲間を忘れると思うかい?」
「そんな心配をしているのではありません。では、野球を辞めることがあれば戻ってもいいですか?」
「おいおい、これから人生の晴れ舞台に立とうって男がもう引退の話か? 弱気過ぎるだろう。それに……」
言葉を続けようとする伊都淵をカジが遮った。
「戻ってきたければいつでも歓迎する。但しシーズン中はだめだ。君がここを気に入ってくれているのは嬉しいが球団から報酬をもらう以上、君の主戦場はマウンドだ。シーズン中に軽い気持ちでボランティアに臨んで怪我でもしたらどうする? そして我々にもなすべき事がある。ここには現役世界フェザーチャンピオンの雄一郎が居て、所属チームの政治的戦略でシート争奪戦に敗れはしたものの返り咲きを狙っているグランプリライダーの正も居る。目端の利くライターがそれに気づけば何度追い払っても齧り付いてくるだろう、それは我々の本意ではない」
口にせずともそういうカジ自身が世界を嘱望された天才ボクサーだったことも伊都淵から訊いて知っていた。あれだけ世話になった上に迷惑はかけられない。反論の余地がないことを知った村山は荷物をまとめに部屋へと向かった。
「多少、クラウディングの傾向があるようですね。避難所生活の影響でしょう」
「ああ、ただ彼も一人前の男だ。いつまでも君の庇護下においておく訳にも行くまい。取り除いてやれそうかな?」
「私にそんなつもりはありませんでしたが……治療は依子にさせます」
「彼はいつかここに戻ってくるのだろうか?」
誰にともなく呟いたカジの問い掛けは答えを求めてのものではなかった。
「開幕3連戦はデーゲームか、残念だな、アレを見たかったのに……と、いっても9回の頭からいけばそんな機会はないか」
「伊都淵さんに教えてもらわなければ僕がアレに気づくことはありませんでした。何でしたら、ホームのナイターまでとっておきましょうか?」
「カジさんが言っていたろう? 報酬を受け取る以上、チームのために全力を尽くせと。スポーツニュースででも見せてもらうよ。それと俺の思いつきを現実に出来たのは君の能力あってのことだ。変な義理を感じる必要はないさ」
「はあ……」
「メジャーリーグに42歳でルーキーデビューしたサチェル・ペイジというピッチャーがいる。知ってるかい?」
「42歳! そんな歳でですか?」
プロを志しそれが叶ってプロに入ってくる選手達が意外にプロ野球事情に疎いことは知られている。少年時代より野球漬けの毎日でテレビでの観戦や球場に足を運ぶ時間などないのだろう。それが1948年、彼が生まれる30年以上も前の出来事なら知らなくて当然だ。伊都淵は続けた。
「ああ、ニグロ・リーグで2000勝、ノーヒットノーラン55試合という伝説のピッチャーだよ。9イングで28奪三振なんて嘘みたいな記録も持っている。かつてメジャーリーグにはカラーラインってのがあった。平たく言えば人種差別だな。つまらん白人至上主義で全盛期の彼とベーブ・ルースの対戦を見損なったんだから奴等も損をしたもんだ。スピードガンのない時代だから信憑性には欠けるが170km/hを投げていたとも言われている」
「2000勝ですか――バケモノみたいな人だったんですね」
ほんの一瞬、伊都淵が顔をしかめたように見えた。村山が続ける。
「僕が最年長ルーキーになると思っていました」
「日本だと……えっと」
伊都淵は脳内ウィキにアクセスする。
「1950年、毎日オリオンズの湯浅貞夫さんが47歳での選手登録になってるな。まだアマチュアとの境界が曖昧だった頃だ。消化試合1試合きりの登板だから参考にはならないな。同じくその年、松竹ロビンスの大岡虎雄さんが37歳での入団となっている。こちらは野手で〝水爆打線〟と呼ばれたクリーンアップを形成したそうだ。いずれにせよ戦後間なしの選手が圧倒的に少ない頃の話だよ。君が日本のサッチモ(サチェル・ペイジの愛称)になってやれ」
「いつもながら伊都淵さんの博識には驚かされます。一体、頭の中はどうなっているんですか?」
村山は目を丸くして訊ねる。
「頭蓋の中には一般人に比べてやや小さめの新大脳皮質があり、間脳、中脳、小脳と欠損なく揃っている。視床下部付近に僅かな夾雑物があるようだが機能はすこぶる正常だ」
視線を前方に向けたまま真顔で語る伊都淵だったが、ほどなくして横目でウィンクを送ってきた。ようやくジョークだと理解した村山は声を上げて笑った。
伊都淵の駆る白いRV車は仙台南部道路を下り、ネピアスタジアムへと向かっていた。
<終わったかい?>
後部座席の依子へと意識を送る。
<ええ、村山さんはあなたの話に夢中になっていたみたい。意識操作には何も気づいていないと思うわ。でもプロ野球選手の遠征ってホテル住まいなんでしょう? クラウディングの影響を心配する必要があるの?>
<機械設計と医療機器販売の経験しかなく、今やプロのボランティアになってしまった俺にプロ野球選手の宿舎がどうなっているかまでは分からないよ。ただ、彼は今後行く先々で人々に囲まれ揉みくちゃにされる。それが原因で持てる力を発揮出来ないのは気の毒だと思ってね、それで君に頼んだんだ>
<あなたなら、もっと上手く出来たでしょうに>
<作られた俺が他人の意識に介入するのは最低限にしておきたい、いつもそう言っているだろう? 君が神に遣わされたセラピストだとしたら俺は偽医者なんだよ>
<まだ、そんなこと言ってる>
<長く話さないでいると村山君が怪しむ、この話はいずれまた>
そこで思考を閉ざした伊都淵に、依子は渋々従った。丁度そのタイミングで村山が言葉を発する。
「ここで結構です。全体練習はプレスに公開してますから僕は屋内練習場に直行です。歩いて体を温めておきます」
「そうか、じゃあここでお別れだ。応援してるぞ、しっかりな」
施設ボランティアの仲間から餞別に贈られた真新しいスーツケースを荷室から出した村山はドア越しに握手を求めてきた。依子ともしっかり握手を交わし車を離れて歩きだす村山だったが、名残惜しそうに何度も白いRV車を振り返っていた。
<そういうことだったのね>
<分かったろう? 彼は心配ない>
<ええ、あなたも間違うことがあるのね。安心したわ>
<しょっちゅうだって言ったろう? 元来、俺は平凡な男なんだよ>
伊都淵は車を市街地に向かって発進させた。