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新たなる旅立ち

「おはようございます」

 ロビーに降りてきた村山に、かおりが明るく声をかける。

「あ、おはようございます。皆さんは?」

 呆然としたまま海岸から戻った昨夜、真新しいシーツが敷かれたベッドに腰を下ろした途端、突如として襲ってきた疲労感に抗う術なく眠りに落ちていたのだった。壁の時計は九時を少し回っている。規則正しい生活を送るここの住人達は既にそれぞれの活動を始めているのだろう。宿舎は静まり返っていた。

「雄ちゃんから朝一番の新幹線で帰るって連絡があって迎えに行ったわ。カジさんは産廃業者と打ち合わせ。あたしは村山さんの食事を作るために残ったの」

「そうでしたか……申し訳ありません」

「またあ、たった一年留守にしただけでそんなに他人行儀な言葉遣いになっちゃうんだから。仲間でしょ? 遠慮しないで。二人共、奥に行っちゃうと誰か来ても分からないからここへ運んであげる。テレビでも観てて」

「すみません」

「ほらまた」と言ってパチンと村山の背中を叩いたかおりが調理室に姿を消す。伊都淵と依子が見せた不思議な力をこの人達は知っているのだろうか? そんな思いで彼女の背中を見送った。 

 めまぐるしく過ぎた昨夜を振り返ってみる。ひょっとしたら夢だったのかも知れない――それとも大掛かりな悪戯で僕を脅かそうとしたのかも――だが、沈錘が持ち上げられなかったのは事実だ。指を曲げ伸ばししてみる。傷跡が引き攣れるような感じがした。

「お待たせー」一人分の膳を持ってかおりが戻ってくる。村山の前に置いた膳から自分の湯のみを持ち上げて正面に腰を下ろした。

「目の前に海と水産加工場があって何も手に入らないってのは絶対におかしいわよね。政府は原発にかかりきりで岩手や宮城の水産業には手が回らないとでも言うのかしら。その干物もスーパーで買ってきたのよ」

 小あじの一夜干しに揚げと豆腐の味噌汁、高菜の漬物にご飯といった朝食の定番のようなメニューだ。湯気の上がる椀から味噌汁をすすると口の中に懐かしさが広がった。

「中小ばかりの地場産業では数ヶ月仕事が出来ないだけで致命的なダメージを受けま……るんだ」

 硬い言い回しを再度指摘されることのないよう、村山は途中で気づいて言い直す。

「ふうん、それで?」

 かおりが先を促す。

「公務員報酬もこの数年横ばい状態の景気であるこの国で、長期且つ低金利での融資程度では元通りの活気を取り戻すのは難しいのかも知れないね。円高は歯止めなく進み、アメリカは職員の一時解雇をした市がある。元に戻そうとする程度の努力では何も変わらないんじゃないだろうか。あれからもう一年と七ヶ月が過ぎてこの有様なんだから」

「村山さんが総理大臣だったらどうする?」

「沈下した場所を避け港を陸地まで広げ、サルベージ船を用意して海をきれいにすることから始める。そうなると当分漁業はできなくなるから、漁師さん達をそこで雇用する。先は長いけど泥縄的補修では「また地震が来たら」という不安を抱えながら暮らすことになる。急がば回れって言葉もあるしね」

「さっすが元銀行員。経済はお手の物って訳ね。じゃあ水産工場で働いていた人達や農地を失った人達はどうすればいいの?」

「さあ、そこまでは……伊都淵さんなら何か考えているのかも知れないけど」

 そう行って村山は昨夜から気になっていた金属製の桶に目をやった。かおりは即座に村山の意図を汲み取って答えた。

「あれはタッキ……伊都淵さんの研究みたいよ。あの柱もそう。どんどん狭くなっていっちゃう」

「何か作っているのかな?」

 聞き返しながら、ここの住人は一様に勘が鋭く感情の機微を読み取るのにも長けていることを思い出していた。ただ一人、そこ抜けの明るさで周囲を和ましてくれる正を除いて。

「バイオなんとかって言ってたかな? 培養なんとかかも――あたし、そっち方面はちんぷんかんぷんだから」

 おどけて舌を出すかおりに、思い切って訊ねてみた。

「あの二人……伊都淵さんと依子さんは以前からあんな力を?」

 〝力〟どうとでもとれる言葉を用いて。

「ああ、あれ? 驚いたでしょ? でも安心して。あの人達は自分自身に厳格なルールを敷いているの。やむを得ない場合以外、あの力は決して使わない。村山さんに最初に逢った時もそうだったでしょ? やって見せてはくれないけど倒れた電柱ぐらい一人で持ち上げちゃうんじゃないかしら。勿体ないわよね、あの力があればカジノで大儲けだって出来るでしょうに。総理大臣にだってなれちゃうんじゃない?」

 人の意識を読み、操作することが出来るならそれも可能だったろう。何故そうしないのだろう? 自分なら……と考えて村山ははっとした。

 僕が野球をする理由は支えてくれた人々への感謝の表明、東北復興の規範をなることだったはずだ。それがいつのまにか記録を追い求め歴史に名を刻むことにすり替わっている。

 愚かだった……

 襲い来る自己嫌悪に黙り込んだ村山を置いて、かおりは膳を持って席を立つ。「役目は果たしたわよ」調理室の流し台に水を貯めながら、口の中でそう呟いた。


<どうするのかしら? 村山さん>

<さあね、後は彼次第だ。意識を操作して仕事を手伝わせる訳にも行かないだろう? ただ、自分の体の真実に気づいた今――つまり拠り所を失った彼に、もうあのボールは投げられない。よく走り込んだ下半身だったからなんとかシーズンを持ち堪えたものの、彼の肉体は腕だけでなく全身がボロボロになっている。車椅子や介助が必要となる前に野球を止めさせることが俺達の役目だったんだよ>

 意識だけで会話を交わず伊都淵と依子に正の不平を上げる。

「また二人だけで話してるだろう。俺にも教えてくれってば」

 雄一郎が乗った新幹線を待つ改札は、平日の早朝でも出張のビジネスマンやツアー客でそこそこの賑わいを見せている。今や東北の至宝とも謳われる村山の来シーズンの去就をうかうかと口にする訳には行かない。正にもそれは分かっているようだ。「言葉にしてくれよ」とは言わない。

「いいよ、用意しろ。頭をクリアにするんだ」

 ごくりと唾を呑んで正が身構える。

<2番線にやまびこ271号が到着します>

「なんだ?これ」

 きょとんとした顔で正が呟く。

「リハーサルだよ、続きは雄一郎君を拾った車の中でな」

 依子が声を上げて笑った。


「何だよ、じゃあムラさんのあの腕は人口筋肉なんかじゃなかったってことかい?」

 息せき切って後部席から身を乗り出す正に反して、雄一郎は落ち着き払ったものだ。

「あれだけのボールを投げ続けて、上体を支える下半身が根を上げないのはおかしいなと思っていました。シーズン終了までもたせることが出来たのはあの休養があったからですね?」

「さすが、一流のアスリートだな。目の付け所が違う」

「どうせ、俺はシート争いに敗れた二流ですよ、だ」

 膨れっ面になった正には取り合わず、伊都淵は続ける。彼等の乗ったRV車は石巻港ICを下りようとしていた。

「村山君を担当した看護師は彼の腕を人工筋肉だと信じ込ませることで回復に一縷の望みを賭けた。だがそれは彼への呪縛でもあった。人より優れた能力があると知れば誰だってそれに貪欲になるもんだろう? 彼は肉体の限界を超えてそれを追い求めようとした。残酷なようだが、俺は彼に死刑判決ともいえる宣告をせざるを得なかったんだ」

 苦悩に満ちた表情で伊都淵が言った。

<あなたの気持ちはいつか必ず伝わるわ>

「村山さんのことです、いつかは分かってくれますよ」

 依子の思考と雄一郎の言葉が同時に届く。車は女川街道に入り、宿舎の青い壁が近づいてきていた。


「お帰りなさい」

 玄関を抜けた伊都淵達を出迎えたのは、やけに明るい村山の言葉だった。

「踏ん切りがつきました。新事業の財務担当、僕に務まるかどうかは分かりませんが、是非やらせてください」

 伊都淵の顔がぱっと輝く。背後の三人にも笑顔が広がった。

「そうか、その気になってくれたか――その培養槽に入っているのはバイオ流体緩衝材、まだ名前はつけていないが画期的な製品になると思う。何せどんな応力も分散してくれるんだからな。事業が軌道に乗れば雇用も広がる。俺は地震にも津波にも負けない街を作りたい。組成に粗のある材料なら――」

 口角泡を飛ばす勢いでまくし立てる伊都淵と真剣な眼差しでそれを聞き入る村山の周囲を仲間達が取り囲んでいた。


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