閃光の真実
村山が54個めのセーブを上げた試合でパイレーツのペナントレース優勝が決まった。シーズンも残すところ7試合。残り試合を考えてもメジャー記録の更新は絶望的となったが、50セーブ到達時試合数88、奪三振率22.2、被安打0、与四球0、通算防御率0.00は、この先、誰も達成し得ることが出来ない記録だと多くの解説者が口を揃えて言った。
特筆すべき成績を残した先発投手に送られる〝沢村賞〟こそ受賞は出来なかったが、ルーキーのシーズンそして日本シリーズのMVPダブル受賞もリーグはじまって以来の快挙だった。
オールスターゲームだったため公式記録とは認められなかった171km/hはメジャー最速記録A・チャップマンの169km/hを上回っている。記録には残らずとも、奇跡の瞬間を共有した全ての人々の記憶に鮮烈に焼き付いていた。
パイレーツはシーズン後半時の勢いそのままに日本シリーズでも東京ミリオンズを四立てで打ち破る。プロフェッサーKは、東北の至宝へとその愛称を昇華させていた。
秋季練習を前に特別休暇が与えられた村山は、懐かしい顔を求め私設ボランティア集団の宿舎へと足を運んだ。
秋の気配漂う海沿いのひなびた小さな街――ここが僕のスタート地点だったんだ――村山は深い感慨をもって二階建ての宿舎を見上げる。ヒビの入っていたガラスも歪んだ窓枠も全て新しくなっており、潮を被って変色していた壁はマリンブルーに塗り直されている。カジの号令のもと、仲間達が作業に勤しむ光景が目に浮かぶ。村山は胸中を過ぎる様々な想いを凝縮させた言葉を見つけた。それと共に玄関のドアを開ける。
「ただいま」
村山を最初に目にとめたのは本田正だった。内部にも模様替えが施されたのかロビーの中央右寄りに大きな柱が建てられており、また他の柱もふた周りほど太くなって部屋全体が狭く感じられた。極めつけはロビーの半分を占拠する2tトラックの荷台ほどの金属の桶、水槽なのだろうか? 沢山のチューブが繋げられたそれは小さく鈍い唸り音を立てていた。
「あっ!東北の至宝のお帰りだ。皆のもの頭が高い。控えおろう」
大仰に床にひれ伏す真似をする正に「止めてくれよ」と返す村山を、三人の男達が出迎える。夕食前の一時、宿舎のロビーには懐かしい顔が揃っていた。その賑わいに気づいたかおりと依子も調理室から出てきた。
「あっ、村山さんだあ。お帰りなさい」
〝お帰り〟今、そう言って自分を迎えてくれる場所はここをおいて他にはないのだな――再会の喜びと一抹の寂しさが交互に村山に訪れる。
それぞれと固い握手を交わし、無沙汰を詫びる言葉を短く告げる。
「雄一郎君は?」
その問い掛けにはカジが答えた。
「ジムのイベントに駆り出されている。明日には戻るはずだ」
「これが100万ドルの腕か、何か御利益があるかも知れないな」
軽口を叩く伊都淵の手を握った時、彼が眉根を寄せたように村山には見えた。だがそれもほんの一瞬で、腕に向けた目線を戻した伊都淵の顔には破顔一笑が張り付いている。気のせいか……一年間野球を続けたことなんてなかったから自覚はなくとも疲れが溜まっているのだろう――自身にそう言い聞かせると 「どうぞこちらへ」と正がおどけた調子で引いた椅子に腰掛ける。
「いっけない、焦げちゃう」依子が調理室へ駆け戻って行く。カレーの煮える香りがロビーまで漂ってきた。
「代わり映えのしない夕飯ではあるけど村山君の祝勝会を兼ねるとしよう。かおりちゃん、ビールはあったかな?」
村山の正面に座り直した伊都淵が言った。
「ええ、勿論。切らすと正が不機嫌になるんですもの。歩いて行ける距離にコンビニがあるのに、このモノグサ太郎ったら――」
少し顎を上げ、横目で睨むかおりに正はこう切り返す。
「俺は太郎じゃなくって正だってば」
宿舎のロビーは笑いに包まれた。
気のおけない仲間と過ごす一年ぶりの団欒は村山に魂の休息を運んでくる。食堂の壁の染みも、カジの手製のテーブルにも郷愁を誘われる。
「村山君、少し時間あるか?」
珍しく固い表情で伊都淵が言った。
「ええ、明後日までは秋季キャンプの準備ということで休暇を貰ってますし、遅くなるかも知れないから帰らない旨、寮長には伝えてあります。泊めてもらえますよね?」
それには答えず伊都淵が席を立つ。
「ちょっと外へ行こう。依子、海岸に居る。後で来てくれないか?」
「はい」
心得た顔で依子が頷く。正が腰を上げながら言った。
「俺も行くよ。いい機会だからプロ野球界秘話なんてのを聞かせてもらわないと」
伊都淵の様子が普段と違うことに気づいてないのは正だけのようだ。他にもついて行く者は居ないかと見回す正にかおりが小さく首を振って嗜める。
「やっぱ今度にしよう、BKA44魂を撮り溜めたのも見なきゃいけないし。行ってらっしゃい、お二人さん」
裏表のない真っ直ぐな青年である正だった。伊都淵の真意は分からずとも、引くべき時であることは理解したようだ。
水産加工場群を挟んで建つ宿舎から海までは、歩いて2分と離れていない。振り向きもせず大股で進む伊都淵の背中に村山は続いた。「ここらでいいか」そう言うと伊都淵は防潮堤に無造作に座り込む。大きな満月と満点の星が海面を照らし出していた。本来なら潮風が薫るはずの海岸は、未だ魚の腐臭とヘドロの匂いが漂ってくる。それに苛つくかのように海鳥が長く一声が鳴いた。
ボランティア集団に合流したての頃、村山はここで家族の思い出を伊都淵に語った。声を詰まらせながら話す彼を、慰めるでもなく励ますでもなくただ黙って伊都淵は聞いた。その時、永遠に塞がることなどなく思えた深い傷を薄い瘡蓋が覆ってゆくような感覚になったことを村山は思い出していた。
「お疲れさん、凄い成績だったな。万年Bクラスだったパイレーツに日本シリーズのチャンピオンフラッグまで獲得させたのは君の頑張りあってこそだな」
「ありがとうございます。これもあなた方のお陰です」
「謙虚でよろしい、と言いたいところだが君の血の滲むような努力がなければ成し得なかったことも事実だ。有言実行、大したものだよ」
防潮堤から垂らす伊都淵の足先が海面に触れそうだった。震災前はもっと距離があったはずだが……ガレキが片付き産業の復興が進んでも、沈下した地盤が浮き上がってくることはないのだろう。失った家族が戻らぬように――村山は胸に小さな痛みを感じた。
「どうだ、目的は達成したことだし我々の許へ戻ってこないか? 契約は単年なんだろう? 100万ドルは無理でも今年の年俸プラスアルファぐらいは出してやれる。ちょっと思いついたことがあって起業も考えているんだ。生憎、俺達の仲間は金勘定に疎いのばかりでな、気心の知れた元銀行員の君が加わってくれれば、こんな心強いことはない」
「どういうことでしょう?」
村山は急にそんなことを言い出す伊都淵の真意を図りかねた。あれほど親身になってパイレーツ入団の後押しをしてくれた彼が何故、今になって……遠く水平線を眺めていた伊都淵が村山に目線を移して言った。
「君の腕は限界だ。これ以上酷使すれば取り返しのつかないことになる」
握手した時の伊都淵の表情が気のせいでなかったことを村山は悟った。しかし、医者でもない伊都淵に何が分かると言うのだろう。伊都淵の言う通り、当初の目標には到達した。しかし人間には欲がある。言い換えれば向上心というものだ。公式記録に球速の最高位を刻みたい。セーブ記録の更新も故障さえなければ可能だったはずだ。確かに疲労は溜まってはいるが、右腕には充分な静養を与えて来季に望むつもりだったのだ。疑問そのままを村山は口にする。
「医者ではないが、医者にも分からないことを解する人間も居るんだよ。世の中にはな」
伊都淵は大きく一つ息を吐き「仕方ないな」といった様子で続けた。
「今もその腕が人工筋肉だと思っているのかい? 移動の飛行機で、空港のセキュリティチェックに引っかからなかったことを変だとは思わなかったのか?」
知っていたのか……伊都淵の言葉に村山は愕然とした。しかし「思っているのかい?」というのは何なのだ――確かにセキュリティチェックで止められなかったことは不思議にだったが、医療用の金属にはそういった免責もあるのだろう、と自分に言い聞かせていた。
「ですが、医療用のボルトやワイヤーは許されるときいています」
「あれは感度が下げてあるんだよ。ヘアピンやガムの包み紙までをも感知してたら空港業務が滞ってしまうから。君が言った医療用のボルトやワイヤーに関してもそうだ。申告しておけば、このサイズならそうなのだろうと解釈されるんだ。ただ網目SMA人口筋肉で前腕を形成したとすればそうは行かない、なにせ500MPaもの応力を発生するんだからな。飛行機の窓を叩き割ったり椅子を引きちぎったりされたら航空会社だって困るだろう?」
――案ずることは何もない。心の奥底まで見透かしてしまいそうな目で伊都淵はそう笑った。
「それなら軟式野球の経験しかなかった僕に何故あんな球が投げられるようになったのでしょう? リハビリについていただいた看護師さんは僕の腕は特別なんだとおっしゃいました」
そう言ってから、自分自身で秘密を明かしてしまったことに村山は気づく。さもありなんといった顔で見返す伊都淵から視線を引き剥がすようにして海に向けた。
「その看護師さんの名前は所梓だろう? 彼女は俺の友人だよ」
誰にも告げたことのない看護師の名前を言い当てる伊都淵だった。村山は横っ面を張られたように顔を戻す。どうやって調べたのだろう――そして誰にも言わない、と言った梓さんの言葉は嘘だったのか……
「そろそろ、君に全てを話す時が来たようだな。梓の名誉のために言っておくが彼女は君について何も語ってはいない。俺は人の意識を読むことが出来る。操作もだ。詳しく話すと長くなるから今はこの説明でいいだろう。」
話が深刻にならないようにとの配慮なのだろう、それにしても意識が読めるなんて、と村山は口元を緩めるが見返す伊都淵の顔は真剣そのものだった。
「俺はここに来る前、梓と――正確には所夫妻とひと悶着あった。自分の身を守るため、俺はやむを得ず彼女の意識を読んだ。その時に人工筋肉・東北の青年という言葉を断片的に拾い上げていて、君を見たときの急激な電位の変化を短絡的にそこに結びつけてしまったようだ。先入観ってのは怖いもんだな」
村山は混乱した。伊都淵の話がどう続いて行くのか、その先には何が待ち受けているのかがさっぱり分からなかった。
「彼女を恨むなよ、嘘も方便ってやつだ。それを信じようが信じまいが君が治ってくれればよし、そんな判断だったと思う。ただ、何故か君はそんな途方もない話を信じてしまった」
伊都淵はそこでポケットからタバコを取り出すとブラス製のジッポーで火を点け、大きく一服目を吸い込む。
「そろそろ依子が来るな、結論を急ごう。火事場の馬鹿力ってヤツを知ってるかい? ほら、小柄な奥さんがタンスを持ち上げたりするって話だ。ここから少しこ難しい話になる、よく聞いていてくれ。そもそも人間は筋力の70パーセント程度しか日常生活に於いて使っていない。筋繊維や骨格を傷めることのないように脳の運動野が制限をかけているんだ。ただ成人男子の大腿筋は1tの伸縮に耐えることが出来る。これは他の部分も同様だ。筋力ってヤツは筋肉の断面積に比例するものなんだ。優れたアスリートはそのパフォーマンスを100パーセントに近づける術を追い求め、日夜努力を重ねている。そして君はそれを開放する能力を、自分の腕は人口筋肉なんだと信じることで身につけたんだ」
村山は息を呑んで伊都淵の口元を見つめ続ける。
「考えてみろよ。例えばプロ野球の選手、同じような体格でも長打力のある選手とフェンス際までは飛ばせるがそこまでの選手がいる。ピッチャーもそうだ、同じような体格でもせいぜい135km/h止まりのも居れば150km/hをゆうに超えるボールを投げるのも居る。勿論、全身を上手く使えているとかいう問題もあるがそれだけではない。誘発脳波を使えているかいないかが、その差として現れているんだ」
その時、背後で足音が聞こえて伊都淵が振り返った。
「来たな」
依子の小柄な体が長い影を引き連れて月灯りの下に現れる。
「話は済んだの?」
「ああ、ここからが仕上げだ。頼む」
そう言うと、伊都淵は周囲をきょろきょろと見回し「それでいいだろう」と、津波でうちあげられたままになっている沈錘を指差した。優に100――いや、200キロはあろうかというサイズだった。
「錆だらけじゃない、手袋をしてくるんだったわ」
「後で、俺がキレイに洗ってあげるよ。用意はいいか?」
コクリと首を振り小さく握りこぶしを掲げる依子を見て村山が訊ねる。
「何をするんです?」
怪訝な表情で聞き返す村山に「いいから見てろ」といった感じで依子に向けて掌を差し出した。
掌の指し示す方向、沈錘を前にした依子がニコリと笑うと、よいしょ、と言ってそれを持ち上げた。目の錯覚ではない、浮き上がった沈錘の下から依子の足が覗いて見えていた。幽霊でも目にしたかのように村山の顔から表情が抜け落ちた。
「もういい?」
「ああ、お疲れさん。先に帰っていてくれ」
パンパンと手を払いながら宿舎の方角へと背を向けた依子の手から、夜目にもハッキリと錆の粉が舞っていた。
「言葉にした途端、聴いた側が構築するイメージは自身の理解の及ぶ範囲で形を成す。さっき言った通り先入観にはそういう害悪が伴うものなんだよ。だから見てもらった。どうだい? あれが運動野の制限を取り払った人間の筋力だ」
村山はじっと自分の右手を眺めていた。
「勿論、あんな真似をしょっちゅうしてれば間違いなく筋組織や関節を傷める。君の腕はそれを1シーズン続けてきたんだ。もう休ませてやってもいい頃だろう。パイレーツの日本シリーズ制覇でこの土地は活気づき、闘う君の姿は人々に勇気を与えた。次はそれぞれが自分の足で歩き出すのを待とうじゃないか」
懸命に言葉を探すが、真っ白になった頭の中に浮かぶものなど何もない。「ですが……」「しかし」口をついて出るのはそんな接続詞ばかり。よもやと思って手を添えてみる沈錘はビクともしない。どうなってしまったんだ僕の腕は……
「少し考えさせて下さい」
打ちひしがれた様子の村山は、それだけを言うのが精一杯だった。




