妻の考えた最強の復讐
「まあ、夜会にお一人なんてお気の毒ね」
夫に放置された妻シンシアに、ある夫人が話しかけた。
「そうなのです。旦那様は真に愛しい方の元へ行かれてしまって。まったく不甲斐なく恥ずかしいですわ」
ニコニコとさして気に病まない様子で、シンシアは答えた。
「あら。あなた、それでいいの?」
「嫌だと言ったところで、力ない女に何ができましょう」
シンシアは紫の目を細めた。
「愛するお相手に何やら問題があるらしく、お飾りの妻を娶らなければならなかった旦那様も不憫ですね。どなたか、旦那様にお知恵を授けてくださらない?」
「……平気なのですか?」
からかうつもりで話しかけてきた夫人は、後悔した。壁の花をしていた女性が、意外と気が強いことに気付いたのだ。
「平気というか……婚約と結婚式でしか関わっていないので、ほぼ他人ですわね。今日も別の馬車に乗せられて、ドレスと小物の色も合わせずに」
他人事のように口にするシンシアは、どこか狂っているようにも見えた。
「ということは、その、閨は……」
夫人のパートナーがそんな質問をして、夫人に肘鉄された。
「ええ。お飾りですから。白い結婚で離婚できる日が待ち遠しいですわ」
にこやかに答えるシンシア。
その周囲の人々は凍り付いた。
淑女が、こんな場でしゃべる内容ではない。
シンシアの嫁ぎ先、アシュフォード子爵家は、夫人が病気がちなためこの夜会は欠席している。
後継者のジャスパーは愛人とダンスを楽しみ、妻はただ惨めに立ち尽くしている。
そんな図式が、静かに崩れ始めた。
愚かなジャスパーと、会話を通じて静かに夫の品位を下げる妻。
ジャスパーと愛人のダンスが華やかであればあるほど、軽薄に見える。今夜、密やかに話題にされるのは、彼らに決まった。
今日、ジャスパーは妻のシンシアを甚振ろうと思っていた。
シンシアに古いドレスを着せ、夜会に放置した。そして、愛人をエスコートする。
泣くだろうか。屈辱に震えるだろうか。
抱いてくれと縋られたら、そろそろ抱いてやってもいい。
その前に、心を折っておきたかっただけだ。どちらが偉いかを教えるために。
ずっと冷たく無視していたから、優しくするきっかけが必要だったのかもしれない。
ところが、一人で壁の花をしているかと思えば、世間知らずの馬鹿はベラベラと家の内情をしゃべっていたらしい。なんてことをしてくれたんだ。
ジャスパーは両親に叱られ、廃嫡の憂き目に遭っている。
結婚は無効とされ、妻は弟のフレデリックと結婚させるという。
だから、心を入れ替えて、子作りをしようとしたんじゃないか。そう主張しても、信じてくれない。
「反省するから。ちゃんと夫婦をやるから、今回は許してください」
「謝る相手が違うでしょう。あなたがそんなに愚かだとは思わなかったわ」
母は涙目で吐き捨てるように言った。
「もう恥ずかしくて社交界に顔を出せないだろう。私たちは歯を食いしばって耐えるが、お前はもう自由になっていいぞ」
父の目に、もう愛情は感じられなかった。
あるのは、貴族の当主としての覚悟だけ。
「新婚だからと別邸を与えたら、何をやっているんだか……」
「一度だけでいいです。やり直すチャンスをください!」
もうなりふり構っていられない。ソファから降りて、土下座した。
「ああ、あなたは性根まで平民なのね」
「なっ……母上、ひどすぎます」
「……シンシアはあなたに跪くことなく、自分の待遇改善を成し遂げました。プライドを持ったまま、相手の隙を狙ってとどめを刺す。それが貴族です。けほっ」
病弱な母は、体力の限界のようだった。
背中をさすろうと立ち上がって手を伸ばしたが、父に手を撥ねのけられた。
「別邸に戻り、謹慎しておけ。シンシアは本館に泊まらせる。お前にこれ以上、見苦しいことをさせるわけにはいかない」
「なんでですか。本当の夫婦になれば、全て解決するじゃないですか」
「もう、遅い! 王族が出席する夜会に平民の愛人を連れて行くなど、気が狂っているとしか思えん。シンシアがお前を当てこすらなかったとしても、お前は常識がないと自分で宣伝したのだ」
そう言われてみれば、なぜ、夜会に愛人を連れて行ったのだろう。
愛人に強請られて、いいところを見せたかった?
シンシアに嫉妬されるのが気持ちよかった?
貴族失格。そう言われて反論できないことに、ようやく気がついた。
だが、だからと言って、追い出さなくてもいいだろう。
何日か謹慎して、反省すれば……。
数日後には、二歳下の弟が……凡庸で顔も平凡なスペアが、後継者になった。
夜会の会場で取り押さえられた愛人は、別邸に戻ってこなかった。
もう、探しに行く気力もない。自分の身の振り方を考えなければならないのだ。
一年後、元妻シンシアが、俺が働く酒場にやって来た。
「見てください、このワンピース。庶民の街に着ていけるようにフレデリックが仕立ててくれましたの。
あなたに着せられた、センスの悪いドレスよりも素敵でしょう? いえ、比べものにもならないわね。うふふふ」
元妻は、頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
「兄さん。元気でやっているようでよかったよ」
弟は一年でずいぶん跡取りらしい、頼れそうな雰囲気になった。シンシアをエスコートする姿も様になっている。
自分は、何回シンシアをエスコートしただろう。会場に着くと手を振り払っていた。
領地で山崩れが起き、借金まみれになったシンシアの家。
そんな家の娘と婚約させられたのが気に入らなかった。どうせうちの金目当てだろうと。
山を整備したら、借金など十年もあれば返せる。そんな鉱山だなんて、知らなかった。
「ここで一番人気のお料理と、ビールを二杯くださいな」
元妻は小さなポーチから、小銭入れを出した。
カウンターで注文し、先に会計をすませるスタイルの店だ。
普通、貴族がこんなところで食事をするか?
シンシアの服は、平民のようなデザインにしているが、素材が違って浮きまくっている。
だいたい汚れていない新品なんか、この界隈では誰も着ていないんだ。
常連客たちが萎縮して、ひそひそ話をしながらこっちを見ているじゃないか。
とっとと帰ってくれ。
だが、店の親父は金払いが良さそうだと、張り切っている。
油を取り替えないから、ベタっとした揚げ物。
野菜はしなびてはいないものの、張りがない。
新鮮な生野菜など手に入らないから、サラダなどメニューにない。
きょろきょろと店を見回す元妻を、「みっともないから大人しくしていろ」と叱りつけたかった。
平民になった俺が、貴族の夫人にそんな口を利くのは許されないが。
弟は尻に敷かれているのか、落ち着きのない元妻をニコニコと眺めている。
「ビール、温いのですね」
「下町では常温が普通だよ」
弟がそう教えてやっている。俺だって、そんなことくらい説明できるぞ。
「あなたは物知りね。……もしかして、あなたも下町に『いい人』がいるのかしら?」
「やめてくれ。僕の愛は君に捧ぐ分しかないよ」
「そう?」
可愛く嫉妬する元妻は、なんというか……かわいい。そんな顔は見たことがないぞ。
何をしに来たんだ。
わざわざ服まであつらえて。
惨めな俺を嘲笑いに来たのか。
「もう、来ない方がいいですよ」
俺は彼らが帰るときに、忠告のつもりでそう言った。
笑顔だったシンシアが、すっと真面目な顔になる。
「わたくし、あなたに蔑ろにされて悲しかったの。辛かったの。
自分の何が悪かったんだろうって、悩んだわ。駄目な部分があるなら直そうと考えた。
だけど、そういうお話すらさせてもらえなかったわね。
今、あなたがそれなりに幸せだなんて、許せないの。あの愛人と暮らしているの?」
元妻は、弟の腕に手を置いている。
貴族のエスコートだ。久しぶりに見た、きれいな所作。
平民が腕を組むのとは違い、腕の角度まで美しい。
「いや。俺が貴族じゃなくなったら、いなくなったよ」
「……そうなの。よかったわ」
そう言うということは、俺に未練があるのか。
一瞬、期待してしまった。
「未だに苦しいのよ。
復讐は何も生まないと言われたわ。許して、忘れて、幸せになりなさいと言う人もいる。
ならば、どうやったら忘れられるのか、教えてよ。許せなくて、苦しいのは、どうしたら消えてくれるの?」
怒りを隠さず、顔がほんのり赤くなっている。力強い目が、ギラギラと俺を射貫く。
「好きでこんな気持ちを引きずっているわけじゃないわ。
だから、あなたがのうのうと暮らしているのが許せない。復讐しなければ、腹の虫が治まらないのかもしれない」
泣きそうな声は、艶めかしかった。ごくりと喉が鳴る。
「だから、わたくしの気がすむまで、ときどきお邪魔するわ」
きっぱりとそう言うと、シンシアは深呼吸をした。
「よく言えたね」
弟が、自分の腕に置かれたシンシアの手を優しく包んだ。
ほっとした表情を浮かべる彼女に、唇を噛む。
弟に守られるようにして、元妻は帰っていった。
ふと気がつくと、店中の視線が俺に注がれていた。
俺の素性など知らずに接してくれた人たちが、遠巻きに見ている。
誰も気安く話しかけてこない。
薄汚れた窓に、俺の顔が映っている。
感情が抜け落ちた表情は、夜会で壁の花をしていた彼女を思い出させた。




