二○三号室
喉が渇いた。
いつもこの時間だ。三時半。
僕は用を足して、キッチンに向かい、コップにお茶を注ぐ。
非常灯がコップに入ったお茶を照らし、ノックが聞こえる。
コン、コココン。
隣の部屋からだ。こんな真夜中に一度だけリズミカルに鳴るのだ。
「スリッパの音で起こしてしまったのかも」
パタパタと鳴らさないよう、しかしズリズリとすり足が響かないよう気をつけてはいるのだが、これは僕にはわからない。
隣人は不思議な人だ。
白い頬は血管すら見えていて、青い唇が一文字に結ばれている。生気のない表情で、いつも同じ時間に出くわすのだ。
もし、彼女が幽霊で僕の部屋に来て、目の前に現れても、僕は納得してしまうくらいには不思議な雰囲気をまとった人だった。
そんな隣人が毎夜、壁にノックしている。
壁から現れて、僕の首を締めることもない。ただ、一度だけ弾むようなノックを繰り返すのだ。
コップに水を汲んで、僕は寝室に戻っていく。睡眠薬を一粒飲んで、空になったコップをキャビネットの上に置いた。
「ああ、そうだよな。そんなこともあるよな」
リズミカルなノックを脳内で再生しながら、僕は眠りについた。
翌朝。
会社に行くためにドアを開くと、同じタイミングで二◯三号室から音が聞こえる。
「…………」こくり。
彼女は無言で会釈する。それに倣って僕も会釈を返す。
相変わらず、幽霊のような佇まいだ。スカートから覗く足なんて白いタイツを穿いているみたいだ。彼女が右足を出して左足を出す。そんな歩く動作が信じられない。足音だって聞こえないのに。
僕はゴミ袋と鞄を持っているが、彼女は手に何も持ってない。
ダストボックスにゴミ袋を入れると、そのまま駅に向かった。
会社には今日は昼から早退すると伝えてある。
「石川さん、また早退ですって」
「うつなんて、絶対嘘よね」
昼から心療内科で診察がある。それだけのことなのだが……。
「……お疲れ様でした」
言葉は壁に跳ね返って、消えていった。
二週に一度、先生の診察。他の週はカウンセリング。
「二週間、どう過ごされていましたか」
「いつものように、会社と家の往復です」
「なにか変わったこととかもありませんか」
「……ありません」
嘘をつく。
僕は知っている。この先生は幽霊なんて信じていない。
いつかの診察の時も、幽霊とか信じてますかと聞いたら「あれは幻覚や幻聴のたぐいですよ。人はストレスにさらされると、そういうものを作り出してしまうんです」と言っていた。
だから、隣人の話もしない。彼は気のせいだと一蹴するんだろう。
その晩もあのノックが聞こえてきた。
コンコン。
僕もノックを返してみたが、返事はない。
そりゃそうだ。彼女がノックしているなんて確証はない。本当は僕の部屋から幽霊がノックしているのかもしれないのだから。それなら、返事はしそうではあるが。
翌朝の会釈にも変化はない。
ただ、見知らぬ男に警戒している女の所作だった。いやいや、それは穿ち過ぎか。でも、警戒するには十分だろうし。
毎朝、同じ時間に出る。でもいつ帰っているのかわからない。なにをしているのかも、声すら知らない。
都会の生活は僕には向いていたはずだった。ダストボックスにいる大きなゴキブリも、側溝から出ていて走り回るネズミも、みんな独りで生きている。
僕だけ少し、世間と歯車のスピードが違っていた。
そしたらあとは早かった。
蔑んだ流し目を送る同僚、「石川くんはゆっくり休んでね」と腫れ物を扱う張り付いた笑顔の上司。
田舎の両親には言えない。ただ、僕は都会に出てきて順風満帆な子どもでありたいんだ。
コン、コココン。
これは孤独な僕への、隣人からのメッセージなのだろうか。
頬を伝う涙を拭うのは、僕でしかないのだけれど。少し忘れて憐憫に浸ろうか。
しぃんとしたキッチンを時計回りに歩く。
返事のない三時半のノック。非常灯のヴーンという音。食器洗剤のツンとしたかおり。
まばたきを忘れてぐるぐる、ぐるぐる歩き回る。
――その時だった。
コン、コン、ココン。
違ったリズムでノックされる。
僕もコンコンと返したが、返事は五分経っても来なかった。
「やっぱり、そうだよな」
僕は〝納得〟した。
こんなこと、誰にも理解できっこない。
だから話すつもりはない。
これは僕の秘密なのだから。




