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そして「僕」は埋没した

作者: 基次郎
掲載日:2026/01/17

これは、ある医者の手記であった。ひどく汚れていた。            ページをめくるたび、どこか黒くにじんでいた。                               

僕は心の中にケルベロスを飼っているんだ。

右からポチ、タマ、アオと言うんだ。


そう言いふらすと、みんなが冷たい目で見てくる。

親でさえも、だ。


「あんた、そんなこと言ってないで勉強しな」と母は口癖のようにいつも言う。


「だから、俺はケルベロスを飼っているんだ。こいつなかなかいうことが聞かないんだよ」


「そんなこと言ってないで勉強しなさい。この前のテストの点、悪かったじゃないの」


「ケルベ…」

「勉強」

「わかったよ」


どうやらこの人は、僕の心より点数の方が好きらしい。


その夜、布団に潜り込むと、頬に冷たいものが流れた。

胸が凍り付いた。


翌日、母に連れられ病院へ行った。


「先生、私はどこか悪いのでしょうか」

「いや、悪くないね。どうして来たのさ」

「母親に連れてこられたんです。毎日、ケルベロスを飼っていると言っていたら」

「ケルベロス?」


医者は笑いをこらえて言った。

「そりゃ、親も心配するわ」


なぜか母と似たような響きだった。

その響きが心をひどく揺らした。


僕は診察室を飛び出した。

医者の目がにやけていた。


目を真っ赤にしながら家に着いた。


「母ちゃん、『僕』病気じゃないって」

「あんた、やっぱり変だよ。いつも俺って言うじゃないか」


僕は、母にいわれてから気づいた。

口に出ている言葉は、もう僕の言葉じゃない。


タマは暴走していた。

(こらタマ。ポチの邪魔するな)


返事は無かった。

聞こえたのはアオの鼻息だけだった。

ずっと映像を見せられている気分だった。


「あんた今日も遅いし、早く寝な」


僕は言われるままに布団に入った。

けれど、なぜか今日は寝てはいけない気がした。

そんな心と裏腹に、鼻息だけが強くなってきた。


それでも、次の日は来た。

タマは暴走することなくなった。

私は勉強をするようになった。


「あんた、やればできる子なのね。テスト満点じゃないの」

「私、勉強するから」


足早に自室に戻った。


母の機嫌は、日に日によくなっていった。

なぜか視界が歪んで見えた。

風景だけが連続して流れ、鼻息が僕を支配した。


僕の口癖が変わった。

ただ誰も気づかなかった。



あの子のカルテは、黒い線で塗りつぶされていた。              なぜか丸い形が、透けて見えた。手記はこのページが最後だった。

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