そして「僕」は埋没した
これは、ある医者の手記であった。ひどく汚れていた。 ページをめくるたび、どこか黒くにじんでいた。
僕は心の中にケルベロスを飼っているんだ。
右からポチ、タマ、アオと言うんだ。
そう言いふらすと、みんなが冷たい目で見てくる。
親でさえも、だ。
「あんた、そんなこと言ってないで勉強しな」と母は口癖のようにいつも言う。
「だから、俺はケルベロスを飼っているんだ。こいつなかなかいうことが聞かないんだよ」
「そんなこと言ってないで勉強しなさい。この前のテストの点、悪かったじゃないの」
「ケルベ…」
「勉強」
「わかったよ」
どうやらこの人は、僕の心より点数の方が好きらしい。
その夜、布団に潜り込むと、頬に冷たいものが流れた。
胸が凍り付いた。
翌日、母に連れられ病院へ行った。
「先生、私はどこか悪いのでしょうか」
「いや、悪くないね。どうして来たのさ」
「母親に連れてこられたんです。毎日、ケルベロスを飼っていると言っていたら」
「ケルベロス?」
医者は笑いをこらえて言った。
「そりゃ、親も心配するわ」
なぜか母と似たような響きだった。
その響きが心をひどく揺らした。
僕は診察室を飛び出した。
医者の目がにやけていた。
目を真っ赤にしながら家に着いた。
「母ちゃん、『僕』病気じゃないって」
「あんた、やっぱり変だよ。いつも俺って言うじゃないか」
僕は、母にいわれてから気づいた。
口に出ている言葉は、もう僕の言葉じゃない。
タマは暴走していた。
(こらタマ。ポチの邪魔するな)
返事は無かった。
聞こえたのはアオの鼻息だけだった。
ずっと映像を見せられている気分だった。
「あんた今日も遅いし、早く寝な」
僕は言われるままに布団に入った。
けれど、なぜか今日は寝てはいけない気がした。
そんな心と裏腹に、鼻息だけが強くなってきた。
それでも、次の日は来た。
タマは暴走することなくなった。
私は勉強をするようになった。
「あんた、やればできる子なのね。テスト満点じゃないの」
「私、勉強するから」
足早に自室に戻った。
母の機嫌は、日に日によくなっていった。
なぜか視界が歪んで見えた。
風景だけが連続して流れ、鼻息が僕を支配した。
僕の口癖が変わった。
ただ誰も気づかなかった。
あの子のカルテは、黒い線で塗りつぶされていた。 なぜか丸い形が、透けて見えた。手記はこのページが最後だった。




