第七話
黄昏が校舎の壁に影を落とす中、蓮は上位カーストの篠崎颯に呼び出された。
颯の冷徹な視線が蓮を射抜く。
「下位の者にやられたらしいな。序列のリーダーとして、その体たらくはどうなんだ?」
蓮の目が一瞬揺れ、唇をかむ。
颯が冷たく続ける。
「文化祭に特設ステージを用意した。お前の拳で過去も未来も守ってみせろ」
蓮は拳を握り、黄昏の空に誓った。
「はい、必ず倒してみせます」
学校は文化祭ムードに包まれていた。
健太は木材を教室の模擬店に運び汗を拭う。
健太が圭を倒したことで、イベント参加を拒む者は大きく減っていた。
「今年は絶対失敗しないぞ」
そこへ蓮が現れ、ボクシンググローブを健太に投げつけた。
「文化祭で公開対決だ。俺の誇りにかけて、お前を正面からぶちのめす」
見物する生徒たちがざわめいた。
「一発KOして、カーストの差を見せつけてくれよ!」
だが、圭戦を見ていた生徒が囁く。
「圭を一発で倒したよな……蓮、大丈夫か?」
優斗が息を切らして駆け寄り、スマホを手に言った。
「どうするんだ? 受けるのか?」
健太は目を閉じる。
去年の文化祭、クラスの出し物に失敗し、笑いものにされた記憶。
底辺カーストに落とされ、誰も助けてくれなかったあの孤独。
「もうあの頃には戻らない」と心で呟いた。
「分かった! この勝負受けるよ!」
教室がざわめきで満たされる。
蓮の顔からにやけが消え、鋭い目つきで睨みつけた。
「じゃあ一か月後、楽しみに待ってるぜ」
そういうと蓮は教室から出て行った。
校舎の屋上、美咲が腕を組み、厳しい目で健太と優斗を見据えた。
「はっきり言う。このままじゃ絶対勝てない」
二人が目を丸くする。
「え、なんで……?」
健太が呟くと、彼女が冷たく続ける。
「お前の反応速度は悪くない。だが、技術の差は圧倒的だ。相手は多彩なコンビネーションを正確に打ち分ける。お前の経験値では、何を喰らったかも判断できずマットに沈むだろうな」
二人は唖然とし、言葉を失う。
「でも、この間はパンチを見て避けられたので」
「バカ。ボクサーが素手で本気出すわけないだろ。それに、お前が反撃することを想定してなかったから当たっただけだ。そういうのラッキーパンチっていうんだよ」
彼が震える声で言う。
「じゃ、じゃあ……どうすれば……?」
「まぁ。次何やるかはもう決めてたんだ」
「ドンッ!」とリュックサックが置かれる。
「30kgの重りを担いで、アヒル歩きをやってもらう」
健太が首を傾げる。
「アヒル歩き? あの、グワグワってやつ?」
「ちげーよ!」
美咲が笑い、続ける。
「これはブラジリアン柔術でも使われる基礎トレだ。反応速度を活かしつつ、攻撃の的を小さくするんだ。まず見せてやる」
彼女は膝を深く曲げ、両腕を顔の前に構えてピーカブーガードの姿勢を取り、しゃがんだまま屋上の10メートルをスムーズに往復した。
まるで地を這う獣のようだった。
「これがアヒル歩き。身を低くして移動する基礎だ。どの武術にも似た動きがあるが、この練習は勝率を大きく引き上げる」
健太はリュックサックを背負い、30kgの重さに体がグラリと揺れる。
膝を深く曲げ、しゃがみ込むが、肩に食い込む重さに顔を歪める。
「動けません……!」
彼女が鋭く言う。
「うるさい動け。すり足でもいいから動け。膝は絶対につくな。手はこうだ!」
彼女はガードの姿勢を見せる。
健太は重さに耐え、多少前傾になりながらガードを構える。
膝がガクガクと震え、汗が地面に滴り落ちた。
彼女が続ける。
「とにかく顎を守れ。命いっぱいしゃがめ。的が低けりゃ殴るとこがなくなる。その状態で毎日、10メートルを50往復しろ」
彼は息を切らし、重量に押し潰されながら低姿勢で前進を始める。
アヒル歩きで1歩進むごとに太ももが燃えるようだ。
5往復目で脚が震え、10往復目で汗が目に入り視界が滲む。
ガードを固め、よろめきながら前進。
15往復目で脚が折れそうになるが、歯を食いしばる。
50往復を達成し、コンクリートに倒れ込む。
肩紐が食い込み、息が上がる。
「絶対……倒してやる……!」
汗と涙が混ざり、地面に黒い染みを広げた。
「おい、今から普通にスパーリングやるぞ」
彼は息を切らし抗議する。
「もう……フラフラなんですけど……!」
彼女が冷たく返す。
「それ、リングの上でも言うのか? リュックを外せ」
30kgのリュックを下ろすと、肩の重しが消え、体が羽のように軽くなる。
まるで地面から浮くような感覚に、健太は一瞬、目を見開いた。
彼女が優斗に言う。
「動画を撮っとけ。後で分析だ」
「はっはい!」
彼女が続ける。
「次はタックルの練習だ」
健太が驚く。
「え、タックル? パンチの練習じゃないんですか?」
「やってることは一緒だよ」
彼女が一蹴して言う。
「立って構えろ」
彼女はピーカブースタイルで深くしゃがみ、片足を前に突き出し、顔を両拳でガッチリ守る。
「ストレート当ててみろ」
健太はふらつきながらストレートを放とうとするが、彼女の前に出された足が邪魔で狙いが定まらない。
無理やり右ストレートを振ると、角度が付き過ぎて体が前傾。
瞬間、美咲が健太を吹き飛ばす。
彼はコンクリートに転がり、うめき声を上げた。
彼女はすっと立ち上がり、言う。
「これをマスターしろ。仕上がれば、最後に立ってるのはお前だ」
彼はうずくまり、胸を押さえながら呟く。
「これで……蓮を……!」
夕暮れの空に健太の意地が燃えた。
文化祭当日、広場の特設舞台は生徒や教師、外部の観客で埋め尽くされていた。
屋台の焼きそばの匂いと夕暮れの空気が場内を包み、スマホのフラッシュが光る。
蓮が舞台に上がり、拳を振ると、生徒たちがどよめく。
応援団が叫んだ。
観衆の視線が彼に集まる。
ざわめきが一瞬静まり、好奇と嘲笑が入り混じった空気が漂う。
「アイツの体、変わったな……」
「素人が蓮に勝てるわけねえ」
そんな囁きが客席から漏れる。
健太はリング中央に立ち、深く息を吸った。
去年の文化祭での失敗、底辺カーストの屈辱――その全てを振り払うように、背筋を伸ばす。
対する蓮は、鋭い目で健太を睨みつけ、グローブを打ち合わせる。
「準備はいいか、底辺?」
その挑発に、健太は静かに頷く。
言葉ではなく、拳で答えようと心に決めた。
レフェリーが中央に立ち、両者を呼び寄せる。
「ルールはシンプルだ。3分3ラウンド、KOかポイントで決着。クリーンファイトを心がけろ!」
観衆の歓声が一気に高まる。
スマホのライトが揺れ、まるで夜空の星のように会場を照らす。
ゴングが鳴った。
瞬間、健太は膝を深く曲げ、片足を前に突き出した低姿勢のピーカブーガードを取る。
両拳を顔の前に固め、まるで地を這う獣のような構え。
見物人がざわつく。
「なんだ、アイツの構え!?」
蓮が目を剥き、怒りをあらわにする。
「なんだその構え! やる気あんのか!」
生徒たちから「なんだよそれ。戦う気あんのか?」と冷ややかな笑い声が上がる。
だが、颯は「はっはっは! 上等じゃないか!」と笑う。
蓮がレフェリーに詰め寄る。
「あんな構え、試合じゃねえ! 反則だろ!」
レフェリーは冷静に答える。
「まだ戦闘拒否とは認められない。試合を続行する」
健太は身を低くしたまま、蓮を挑発した。
「ビビってるのか?」
「なんだ、てめぇ!」
蓮はキレ気味にグローブを握り直し、向き合う。
だが、健太の前に突き出された足と低い構えに、ジャブが空を切る。
蓮の左ジャブ2発が矢のように飛ぶが、パンチが届かない。
無理やり踏み込むと、健太はアヒル歩きでスッと横に移動、相手の右ストレートが空振り。
ギャラリーがどよめく。
「なんだその動き!」
蓮は苛立ちを抑え、冷静さを取り戻す。
「……あぁ、そうかよ」
その瞬間、蓮のフットワークが変わる。
ボクサー特有の小刻みなリズムに切り替え、舞台を軽やかに跳ねる。
健太は相手に合わせ、出した足の位置を微調整する。
だが、素早い左右の動きに惑わされ、視線が追いつかない。
蓮が左にピボットし、健太の右側面に滑り込む。
瞬間、右ショートフックが健太の頭を捉え、「ドン!」と吹き飛ぶ。
生徒たちが「おお!」と沸く。
だが、重しで鍛えた体幹が唸り、足の遠心力でクルリと姿勢を戻す。
即座に屈伸レベルのピーカブーガードを再構築し、蓮を睨む。
中位カーストの応援団が叫ぶ。
「手を出せ! やる気が無いなら帰れ!」
「帰れ! 帰れ! 帰れ!」
会場がブーイングに包まれる中、健太はいたって冷静に蓮を見据える。
蓮は再びフットワークを駆使し、左右に振って惑わす。
右にステップし、健太の左側面に滑り込む。
その瞬間、健太はしゃがみながら前に出した足を引いた。
そして拳を突き出し、全身のバネを解放してジャンプした。
蓮の右ショートフックが健太の肩をかすめ、同時に健太の右拳が蓮の頬をかすめた。
観衆がざわめく。
「カエルパンチ!?」
健太の着地時、ガードが一瞬緩む。
蓮が吠える。
「これが実力の差だ!」
左ジャブが健太の顔を捉え、右ストレートが追い打ちをかける。
健太がのけ反るが、蓮は一気に踏み込み、ショートアッパーを顎に叩き込む。
「バチッ!」
健太の頭がガクンと揺れ、観衆が「うおお!」と沸く。
美咲が冷静に言う。
「さすがボクサーだ。付け焼刃の戦術なんて、簡単に攻略されるな」
優斗が焦る。
「いいんですか! このままじゃ、負けちゃうんじゃ!?」
彼女はニヤリと笑う。
「大丈夫だ。これくらい想定内。蓮は立派なボクサーだよ。だからこそ勝てる」
健太は顎の痛みに耐え、血の味を感じながらピーカブーガードを固め直した。
ゴングが鳴り、1ラウンドが終了。
健太はリングサイドにフラフラで戻り、息を切らす。
「美咲さん……蓮、強いです……!」
汗と血が混ざり、コンクリートに滴った。
彼女は鋭い目で言う。
「しっかり足を休ませろ。フットワークにやられたが、お前も一瞬あいつを捉えたろ。次のラウンドはアレをやるぞ。狙える時に一気に仕掛けろ」
彼はうなずき、震える足を抑えながら水を含んで吐き出した。




