第9話 新たな隣人
信託基金の騒動から数日後の夕方。鈴原桜は夜の講義を終え、マンションに帰ってきたところだった。彼女が鍵を取り出そうとした瞬間、それまでずっと空室だったはずの隣の部屋のドアが、中から開いた。
彼女の動作が止まる。その部屋から出てきた人物を見て、桜は微かに息を呑んだ。
一条竜也だった。
彼は今日、トレードマークの黒いスーツではなく、ダークグレーのカジュアルな服装に身を包んでいた。殺伐とした雰囲気がいくらか和らぎ、「日常」の気安さが加わっているが、その存在感はやはり強烈で、無視できるものではない。彼の背後では、黒いトレーニングウェア姿の若い組員二人が、手際よく重そうなスーツケースを部屋の中に運び込んでいる。
「貴方は……」桜は一瞬言葉に詰まり、目の前の状況を理解できなかった。
一条竜也は、背中でドアを閉め、部下に作業を続けるよう促すと、彼女の方へと歩み寄ってきた。彼女の目の前で立ち止まった彼の長身が、廊下の暖かい照明の下に一片の影を落とす。その眼差しはごく自然に彼女に注がれ、口調はまるで既定の事実を述べるかのように平静だった。
「この部屋を、借りた」
桜は瞬きし、まだ状況を飲み込みきれないでいた。「どうして?」
「最近、物騒だ」彼は簡潔に説明し、微かに疲労を滲ませた彼女の顔を一瞥した。「山口組の方で、少し不穏な動きがある。近くに住んでいる方が、都合がいい」
その理由は、もっともだ。彼らは今、緊密な**「協力者」であり、彼女の安全は計画の進行に直結している。だが、桜には、それだけではない気がした。
彼は彼女の思考を読み取ったかのように、さらに一歩、前へと身を乗り出した。二人の距離が縮まり、彼の声が一段と低くなる。それは、何とも言えない磁性を帯びた声だった。
「それに」彼の視線が彼女の瞳を捉える。その奥には、彼女にも完全には読み解けない感情が渦巻いていた。「俺はよく眠れない。お前の近くにいれば、少しは良くなるかもしれん」
その一言は、まるで羽根のように、彼女の心の奥を優しくくすぐった。彼女は、彼の瞳の奥に隠された微かな疲労と、その言葉の背後に潜む前世の悪夢の影を、見逃さなかった。彼は、心の安寧を求めているのだ。彼女が手の届く場所にいるという、現実の確認を。
桜の心が僅かに和らぎ、抱いていたわずかな疑問は霧散した。彼女は頷き、この手配を受け入れた。「……わかりました」
彼女が反対しなかったことで、竜也の眼差しは一瞬だけ和らいだように見えた。彼は何かを思い出したように、ポケットから開封されていない真新しい携帯電話を取り出し、彼女に差し出した。
「これを使え」彼は言った。「暗号化された回線だ。今後はこれを使って連絡する。安全だ」
桜は携帯を受け取る。冷たい金属の筐体は、手に触れると温かさを持つ。彼女は、これが単なる通信ツールではなく、彼らの強固な同盟の象徴であり、彼の絶え間ない保護であると理解した。
「ありがとう」彼女は携帯を握りしめた。
竜也は、彼女が携帯をしっかりと受け取ったのを見届け、ほとんど気づかれない程度に頷いた。「ゆっくり休め」
そう言い残し、彼は自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。
鈴原桜は、静かな廊下に立ち尽くし、隣の固く閉ざされたドアを見つめた後、手の中の新しい携帯電話に目を落とした。複雑でありながら、深く安堵した感情が、ゆっくりと彼女の中に広がっていく。
彼らの運命は、この瞬間から、戦略上だけでなく、物理的な空間においても、密接に繋がったのだ。




