第3話 最初の密談
木陰での沈黙は、長くは続かなかった。
一条竜也が先に抱擁を解いた。彼の瞳に激しく渦巻いていた感情は、すでに無理矢理抑え込まれ、再び冷徹な抑制の層で覆われている。しかし、その眼差しだけは、未だ実体を持つかのように、鈴原桜にしっかりと固定されていた。
「ついて来い」彼は言葉少なで、拒否を許さない。再び彼女の手首を掴むが、その力は先ほどよりずっと優しくなっており、それは有無を言わせぬエスコートのようだった。
桜に異論はなかった。彼女には情報が必要であり、現状を確認しなければならない。そして、彼はそれら全てを提供できる唯一の人間だ。
彼は彼女を連れ、慣れた様子で幾つかの小径を抜け、キャンパスの奥まったところにある、静かで客の少ない、雰囲気の良いカフェへとやって来た。彼はここに詳しそうで、迷わず最も奥にあるボックス席へと向かう。そこは壁を背にし、視界が開けており、カフェの入口と大半のエリアを見渡せる、密談には絶好の位置だった。
席に着くと、エプロン姿の給仕がやってくる。竜也はメニューすら見ず、ブラックコーヒーを二つ注文し、それから桜を見た。
「好みか?」彼は尋ねた。それは問いというより、確認に近い口調だった。
桜は小さく頷いた。やはり、知っている。前世、彼女は彼に自分の好みを大して表に出してはいなかったはずだが、彼は覚えていた。その無言の気遣いは、今味わうと、微かな酸味を伴った温かさを帯びていた。
給仕が立ち去り、狭いボックス席には二人きりになった。空気にはコーヒー豆の芳醇な香りと、目に見えない、早急に解決すべき緊張感が漂っている。
竜也はわずかに身体を前傾させ、両腕をテーブルの上で組み重ねた。それは、強い威圧感を持ちながらも、会話に集中していることを示す姿勢だ。彼が先に沈黙を破る。その声は低かった。
「俺が戻ったのは、三日前だ」
非常に直接的で、情報が明確な切り出しだった。彼の方が、この時間軸に早く覚醒していたのだ。
桜は、給仕が運んできたばかりのグラスの水を手に取った。グラスの冷たさを指先に感じながら、内面の波立ちを落ち着かせる。
「私は今日、チャイムが鳴った時」彼女は一瞬言葉を切り、彼を見据える。その眼差しは澄んで鋭く、直接核心へと切り込んだ。「それで、父と伊藤商事の件は……」
「接触は始まっている」彼が彼女の言葉を引き取り、その瞳が冷たく光る。その冷たさは、周囲の空気を凍らせるほどだった。「『以前』と、同じだ」
やはり。運命の歯車は再起動したとはいえ、いくつかの既定の軌跡は頑として前進を続けている。父親は地位を固めるため強力な後ろ盾を渇望し、悪名高いが財力は豊かな伊藤商事が、依然として彼の最優先候補なのだろう。そして、彼女自身は、相変わらず犠牲にされるべき駒のままなのだ。
膝に置いた彼女の手が無言で固く握りしめられる。知ってしまった以上、前世の悲劇を二度と繰り返すわけにはいかない。
「貴方のプランは?」彼女は尋ねた。それは質問ではなく、同盟者としての情報同期を求めるものだ。
一条竜也は彼女を見つめ、ごくわずかな**「称賛」の色を目に走らせた。彼は、彼女が即座に状況を把握し、核心を突くこの冷静さが気に入っていた。
「基礎的な布陣は既に敷いた」彼は簡潔に述べた。「だが、核心に切り込むには、お前が頻繁に俺のそばに出入りできる、筋の通った理由が必要だ」
彼は一呼吸置き、彼女の清楚だがどこか疎外感を帯びた顔を見渡した。
「鈴原家の令嬢が、一条組の若頭と近づきすぎるのは、不必要な厄介事と憶測を呼ぶ。お前の現状には不利だろう」
鈴原桜は、彼の意図をすぐに理解した。彼らは、「共犯者」という本質を隠蔽するための、「公的で」かつ「論理的な口実」を必要としているのだ。
彼女は少し考えを巡らせ、脳裏にいくつかの案が閃いた後、一つの案に絞り込んだ。
「母が亡くなる前、私に小さな信託基金を残しました。名義は私ですが、家族が代理で管理しており、主な投資先は比較的保守的な債券です」彼女はゆっくりと話し、その眼差しが徐々に鋭くなる。「これを口実に、貴方に**『投資助言』を求める、もしくは、もっと直接的に、資金の一部を貴方傘下の『一条アセットマネジメント』に運用委託したいと申し出ることができます」
完璧な突破口だった。それは、「世間知らず」な令嬢が起こしうる「気まぐれな決定」という立場に合致し、彼女が彼や彼の勢力と頻繁に接触するための最高のカモフラージュを提供する。さらに、この小さな基金は、彼らの将来的な行動のための、初期資金源の一つともなり得る。
一条竜也の口元が、ほとんど見えないほどにわずかに持ち上がった。それは、「満足」に近い弧を描いていた。
「いい口実だ」彼は肯定した。「では、鈴原嬢、貴方の**『投資顧問』は今日から正式に着任、というわけだ」
彼は、運ばれてきたばかりのコーヒーカップを、盟約を結ぶための杯のように、彼女に向けて持ち上げた。
鈴原桜は、彼の視線に応じ、自らのカップを取り、静かに彼と軽く触れ合わせた。
磁器のカップがぶつかり、清澄な微かな音を立てる。
「協力できて光栄です、一条さま」




