第20話 理由なき苛立ち
黒いセダンの車内は、重苦しい空気が漂っていた。
鈴原桜はシートベルトを締めながら、隣にいる男の全身から放たれる低気圧をはっきりと感じ取っていた。竜也はハンドルを握り、視線は前方に固定され、顎のラインは固く引き締まっている。
車がある程度の距離を走った後、竜也はまるで、気の無いフリをするかのように口を開いた。彼の声は、普段よりも数段低く、沈んでいた。
「さっきの男は誰だ?」
「経済学部の杉山学長です。課題について議論しただけです」鈴原桜は、特に深く考えることなく正直に答えた。
竜也は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、それ以上言葉を続けなかった。しかし、彼がハンドルを握る手の指の関節は、微かに締め付けられていた。
(あの、陽の当たる世界で生きる優等生……)
その思いが、彼の内側で制御不能に湧き上がり、彼自身も未だ自覚していない、奇妙な酸味と焦燥感をもたらした。清潔なシャツを着て、礼儀正しく、彼女と同じ帝大の学識を持つ男。彼らが並んで学術について話し合っている光景は、竜也にとって、あまりにも目に障り、苛立たしかった。
彼は、桜が自分にとって特別であり、生死を共有する共犯者であることを明確に理解している。それなのに、彼女が**「正常」で、彼女のいる世界に属する男性といるのを見ると、説明のつかない占有欲と、潜在的な不安が混ざり合った感情が湧き上がり、彼をひどく不快にさせた。
(あの手の男は、結局、俺のような影の存在と違って、彼女の足枷になる。彼女の安全を保障できない)彼は、この感情を幼稚な嫉妬と認めることを拒否し、「彼女の未来への懸念」という理屈で、それを押し込めた。
鈴原桜は、彼の感情が普段と違うことを敏感に察知したが、彼が固く口を閉じ、多くを語りたがらない様子を見て、疑問を飲み込み、窓の外を流れる街の景色へと視線を移した。
(彼は、機嫌が悪い?なぜ?杉山学長と話したから?)
その推測は、彼女にとって少し意外で、かすかな滑稽さすら感じさせた。一条竜也。関東の極道社会で恐れられる若頭が、一介の学長如きに不満を抱くなど、あり得ないことのように思えた。
***
二人は、その夜、沈黙したままマンションへ戻った。
その晩、一条組本部。竜也が組の事務処理を行う執務室は、息苦しいほどの低気圧に満たされていた。報告に来た数名の中堅幹部は、例外なく些細なミスを指摘され、冷や汗を流しながら叱責を受けた。
心腹の黒田が、「桜華信貸」が〇〇物産を陥れる資金トラップが順調に進んでいることを報告した際も、竜也はただ冷たく「ああ」と頷いただけだった。普段であれば、細部まで鋭く尋ねるはずなのに。
「若頭は今日……随分とご機嫌が悪いようですが?」ある幹部が、退室後、恐る恐る黒田に尋ねた。
黒田は、固く閉ざされた執務室のドアを見つめ、内心で全てを察していた。彼は夕方、小林から鈴原小姐が男子学生と並んで帰宅したという報告を受けていたのだ。
彼は静かにため息をつき、これから数日、若頭の超高基準の厳格な要求に晒されるであろう組員たちに、心の中で哀悼の意を表した。
一方、マンションの隣室。浴槽に浸かっていた鈴原桜は、車内での竜也の拗ねたような沈黙を思い返し、思わず口元を微かに緩ませた。
「まったく……意外な一面をお持ちなのね」彼女は、自分でも気づかないうちに、親密な笑みを浮かべ、静かに呟いた。




