第17話 竜也の護衛
晩餐会が半分ほど進んだ頃、鈴原桜は竜也に「お手洗いへ行ってきます」と低声で告げ、優雅にスカートの裾を捌きながら宴会場のメインエリアを離れた。
竜也はそのままの位置に留まり、一見無関心を装いながら、その視線で会場の要人たちの動きを捉えていた。彼は長く待つ必要はなかった。伊藤健が、手にシャンパングラスをぶら下げ、いかにも胡散臭い笑みを浮かべながら、まっすぐに彼の方へとやって来た。
「一条先生、このような場で貴方にお目にかかるとは珍しい」伊藤健の口調には、隠しきれない挑発が含まれていた。「鈴原小姐のためとはいえ、ずいぶん**『屈折』して参加されるのですね」
竜也は、その侮辱的な言葉に反応せず、冷淡な眼差しで、彼に一瞥もくれなかった。
伊藤健はそれを気にせず、低い声で囁き、まるで獲物について談笑する男同士のような、ぞっとする笑みを浮かべた。
「取引をしませんか?鈴原桜のような女は、確かに魅力的な玩具だが、長くは遊べないでしょう。彼女を私に譲ってくだされば、伊藤家は関東での貴方の事業転換に、港湾、不動産など、あらゆる便宜を図ることを約束します。一人の女のために、リスクを負う価値はありませんよ?」
その言葉が発せられた瞬間、竜也の身体から、凝固した殺気が爆発した。周囲の空気が、まるで急降下したかのように冷え込む。
竜也は猛然と一歩前進し、瞬時に伊藤健との距離を詰めた。彼は伊藤健よりも頭一つ分背が高く、見下ろす視線には、恐ろしいほどの嵐が渦巻いていた。その声は低く、まるで地獄の底から響くように冷酷だった。
「伊藤」彼は歯の隙間から、一語一語を絞り出した。「貴様は、生きて帰りたいのなら、その汚い口を閉じ、俺の女から遠ざかれ」
彼の全身から放たれる圧倒的な威圧感に、伊藤健は顔を青ざめさせ、呼吸が一瞬止まった。喉にすべての言葉が詰まり、彼は一言も発することができない。この場でなければ、この男は間違いなく自分の首をへし折るだろうと、本能的に理解した。
「さもなければ」竜也は、恐怖で収縮した伊藤健の瞳を射抜いた。それが、最後の警告だった。「伊藤商事の継承者が変わっても、俺は構わない」
まさにその時、鈴原桜がお手洗いの方向から戻ってきた。彼女は、二人が対峙していること、そして伊藤健が魂を抜かれたように立ち尽くしている様子を一目で把握した。
彼女の顔に動揺の色はなかった。冷静な足取りで竜也の元へと進み、ごく自然に手を伸ばし、彼の緊張で硬くなっている腕に絡ませた。それは、まるで日常的な動作に過ぎないかのように見えた。
「帰りましょう?」彼女は、上目遣いで竜也に問いかけた。その声は優しく、不思議な鎮静作用を伴っていた。
竜也の周身に立ち込めていた恐ろしい殺気は、彼女の視線と、腕に触れる柔らかな感触によって、潮が引くように収束した。彼は彼女を見下ろし、瞳の奥に渦巻いていた暴力的な感情を無理やり押し込めた。顔にはいつもの冷徹な硬さが戻った。
「ああ」彼はそれだけ応じ、伊藤健を二度と見ることなく、彼女に導かれるまま宴会場を後にした。
伊藤健は、二人の背中が見えなくなるまで、その場に棒立ちのままだった。ようやく呼吸を再開すると、背中は冷や汗でびっしょり濡れていた。彼が二人を見送る眼差しには、恐怖の後に、さらに深く陰湿な怨念が取って代わった。
帰りの車中、竜也は終始無言だった。窓の外のネオンサインの光が、彼の冷徹な横顔を明滅させている。彼は、鈴原桜の手を握りしめていた。その力は尋常ではなく、彼女の骨が軋むほどだった。まるで、少しでも緩めれば、彼女が消えてしまうのを恐れているかのようだった。
鈴原桜は、彼の荒々しい独占欲と、掌から伝わるまだ収まりきらない熱と微かな震えを黙って受け止めた。彼女は抵抗せず、彼の感情が落ち着くのを静かに待っていた。
(あなたは、私のためなら、世界を敵に回すことも厭わないのね。)
その握られた手の痛みの中に、彼女は前世の終焉で彼女を救えなかった男の、深い悔恨と、今生での絶対的な守護の誓いを感じ取っていた。




