はじめ
この世界には竜がいる。強大な力を持つ竜の存在は、生き物に安然と恐怖を与えた。やがて人という生き物の中に、竜と心を通わせる者が現れる。共に生き、共に戦い、人と竜はかけがえのない絆で繋がり空を羽ばたいた。
これが現在、世界最強と名高い竜騎士団を作った創始者の話である。
一度、その力と信頼が地に落ちた竜騎士団だが、今では国を跨いで世界にも名の知られるようになった。落ちぶれた騎士団復権に尽力した人物がいる。それが現在、騎士団長の執務室に用意された重厚な机にうつぶせになっている私、ノア・ランドールである。
「もう、騎士団長辞めよっかなぁ…」
なぜこのような思考に至ったのか。事の発端は一日前に遡る。
竜騎士団在中所である王城で、王への報告を終わらせた私は執務室への道を歩いていた。前方に召使たちの姿が見え、私は思わず隠れてしまったのだ。
通常であれば隠れたりなどしない。
「ねぇ、竜騎士団長のノア様のことなんだけど」
しかし私の名前が聞こえて、つい近くの柱に身を顰めた。本人がいるなど梅雨も知らない召使たちは会話に花を咲かせる。
「えぇ!本当に?本当にそう聞いたの?!」
「確かな情報よ!竜騎士団の皆様が、ノア様のことを疎ましく思っているって話!」
「だってノア様って、腐敗した竜騎士団を再建した御方でしょ?どうしてそんな」
「陛下の信頼も厚く、高位貴族たちも腐敗に何かしら関わっていたから頭が上がらない。更に騎士団長の地位。高い権力を使って、無理難題を吹っ掛けるんですって!」
呆然となりながら、話だけはしっかりと耳に入る。
私の魔物討伐は他の騎士団員の手柄を横取りしているだとか。私が騎士団内の見目麗しい物だけを優遇し、側に侍らせているとか。実は騎士団に回されている経費に着服し、秘密裏に横領しているとか。
なんだか昔聞いたことのある話に頭が痛くなる。実は、ってなんだ。そんな事実はどこにもない。しかし一番私を苦しめたのは、事実無根の噂話よりも、騎士団員がそう言っているということだ。
「指示だけして自分は動かない、何様だーって仰ってたって。でもきっと、皆様思っていても言えないんだわ」
「そうよね、いくら思っていても身分が高い人には言いにくいわよね」
信頼していた部下たちにそんな風に思われていたなんて、と胸が苦しくなる。私の感情が伝わってしまい、竜舎の方から一匹の竜が飛んで来た。
召使たちは突然の竜に腰を抜かしてしまう。まだうら若い少女たちにとって、いくら国を守ってくれていても巨大な竜は恐怖の対象だろう。隠していた我が身を表し、私は愛する相棒へと手を伸ばす。
「レヴィ。幼い子供を睨むものではない」
後ろから悲鳴と小さな声で私の名前を呟く声が聞こえる。見れば震えた召使たちは顔を青くしてこちらを見ていた。恐怖の対象は私もらしい。影で竜騎士団長の悪い噂を流し、本人に聞かれた、となれば当然彼女たちに課せられるのは重い罰則だ。確かに罰を与えてくる人間は恐怖の対象以外の何物でもない。
「…安心しろ。私がお前たちを罰することはしない」
不満げな相棒を宥め、早く行けと召使たちを下がらせる。
流石に王城内の庭で竜を下ろすには場所が狭く、私はレヴィの背中に飛び乗った。
『なぜ捨て置いたのです。お前を悪しく言う者など我がブレスで灰にしてしまえば良い』
「子供の戯言だよ。一つ一つに目くじら立ててはキリがない」
空を飛ぶのは気持ちが良い。相棒の背中に乗り、剣を振るう。この国を守るために、ただそれだけを考えて生きてきた。腐敗しきった竜騎士団を正し、才能あふれる若者たちに自分が持つ全てを教え込んだ。彼らは面白いほど学び、吸収し、こちらの想像を超えるほどに成長してくれた。
「…潮時かもしれないな」
自分も良い歳だ。ここらで退いた方が、彼らにとっても、自分にとっても良いのかもしれない。そうして翌日である現在、私は机に突っ伏しているのである。気にかかるのは相棒のことだ。相棒である竜、レヴィースカは、王竜と呼ばれる存在だ。竜の中で最上の力を持ち、全ての竜を従える。それゆえ力はあるが、どうにもプライドが高く、幼少の頃より過ごしていた私以外の人間と反りが合わない。
だが彼女ももう長いことこの竜騎士団で共に過ごしてきた。例え反りが合わなくても、竜騎士団の数名、レヴィが認めるほどの優秀な人材がいる。
「よし、私ももう五十過ぎのババアだ!老害にはなりたくないからな!団長辞めようか!」
腐敗時代から支え合ってきた同期もまだいることだし、私が抜けたところで大した問題ではないだろう。最近は魔物の数も減り、ほとんど書類作業ばかりだったし。それにいつまでも年寄りが上にいては、若者の更なる成長の妨げになってしまうのかもしれない。
決意をした私は早速辞表を書こうとしたが、執務室の扉が開かれて慌てて辞表の紙を隠す。
追加分の書類が机に置かれ、騎士が部屋を出てから安堵の息を吐いた。別に悪いことをしているわけではないのだが、いざ辞めるとなると緊張してしまう。
先に書類を片付けようともう慣れた書類処理をしていく。
まずは国王陛下への報告だ。そして部下たちへの引継ぎを終わらせて、身の回りの整理を行う。
「ここ数十年、ずっと騎士として国に尽くしてきたからな…。いっそ、国外でのんびり旅をするのもいいかもしれない」
使わず溜まった報奨金や給料がある。言ってもまだ五十代だ。剣を振るうことはできるから、自分の身は守れる。
旅行のことを考えるのは存外楽しいものだった。書類整理を行いながら旅先で何を食べるか、何を見るかと考えた。
陛下へ退職を願い出たところ、アッサリと承諾された。今まで苦労を掛けたことへの感謝を受け、泣きそうになった。歳だろうか。
出立を聞かれ、まだいつにするかは決めていないことを伝えると、今日の晩にでも出ると良いと言われる。流石に引継ぎが済んでいないと首を振ったが、陛下は今日が良いだろうと意見を曲げない。
「そもそも竜騎士の者たちが、簡単に団長の座を譲り受けると思うか?」
皆意欲が高い者たちばかりだ。そして私への不満も合わせて、喜んで譲り受けるだろう。そう思うのだが、今まで私に思うところがあっても言い出さなかった優しい彼らのことだ。私に気を使い、引き留めてくるかもしれない。
迷い、しかし団長の座を引き継ぐことなく無理やり押し付けるのは、無責任だ。
「なに、お前のことだ。引き継ぎ書はきちんと作っているのであろう?それがあれば十分よ」
諸々の手続きは陛下が済ませてくれるとのことで、私は今晩中に国を出ることになった。話が進むのが早い。竜騎士団がかつて腐っていた時、国もボロボロだった。先代王が自堕落な生活を送り、民が苦しむ様に立ち上がり、あの時代を共に戦った同士だ。
「たまには手紙を送れ、ノア」
かつての友人の顔で手を振る陛下に、私は頷いた。
「お前も達者でな、ジーク」
まだ夜深い時間。軽い荷物を手に、私は執務室を後にする。机には辞表と部下たちへの手紙、そして引き継ぎ書が置かれている。およそ三十年世話になった場所から離れるのは悲しく、しかし新しい場所への旅立ちに沸き立つ心もあった。
「五十のババアにまだこんな心があったとは、驚きだ」
ローブを頭からかぶった私は、執務室の窓に足をかける。廊下には巡回の騎士団員、そして門や敷地内には見張りの団員がいる。正規ルートではこっそり出ていくことは出来ない。一応、脱出用のルートとして、陛下から王族しか知らない隠し通路を教えてもらっているが、まずそこまで辿り着けるかが問題だ。私の愛弟子たちは優秀過ぎるからな。
それに今日は月が出ている。
光の中隠れるのは大変だと息を吐いた私を影が覆う。月が隠れた今がチャンスだ、と外に飛び出ようとした時、強い風が吹きつける。急になんだと見上げれば、見知った顔と目があった。
「レ、レヴィ?!」
思わず出た大きい声に慌てて口を塞ぐ。なぜそんなところにいるんだと見れば、凄く強く睨まれた。あからさまに不機嫌な態度に、私はつい噴き出す。
「そうだな、今までずっと一緒だったものな。一緒に来てくれるか?レヴィースカ」
『私を置いていこうとするなど有り得ないこと。それにお前は目を離すとすぐに死にかけます。私がそばにいなければなりません』
窓枠を力強く踏み、私はレヴィに手を伸ばす。落ちるかもしれないという不安は一切なかった。レヴィも落とすという考えはなく、私はその背に静かに乗る。今までずっと一緒だった相棒が共にいてくれるなら、例え見知らぬ場所だとしても怖いものなど何もない。
私たちは一瞬の月の雲となり、王国を後にする。どこに行くかなど決めていない。一先ず一度遠征で見たカジャ海に行ってみることにする。
『食べた魚の舌上で弾ける感覚…もう一度味わいたいものです』
「あれ毒魚だった気がするんだが」
砂漠で食べそこねた蠍、見つけた古代遺跡の探索、深い森奥に隠された泉。行き先は浮かんできりがない。時間はまだたくさん残っているのだから、焦らずゆっくり旅をしよう。
「うん。楽しみだ!」
朝日が昇り、私たちの門出を祝ってくれた。
しかし私はきちんと自分の行いを理解できていなかったのだ。その一週間後、街の看板に張り出されたのはとある人物の指名手配書。
「竜騎士団長、ノア・ランドールの、指名手配書…。…って私か?!」
生きて連れてくるようにと書かれた手配書には、連れてきた人間に巨額の達成金を設定している。誰がこんなものを、と依頼主欄を見て、私は血の気が引いた。
“王国竜騎士団”
私と竜騎士団の追いかけっこが始まったのである。