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彼の世界

作者: 雉白書屋

 ある日、彼はふと『世界を一周しよう』と思い立った。立ち上がり、世界の端に手を触れ、ゆっくりと歩き始める。彼の小さな歩幅でも、一周するのに一分とかからなかった。

 巨大な瓶のようなガラスの部屋。そこが彼の“世界”だった。

 食事を与えるための小窓が一つあるが、彼の側からは開けられない。部屋の上部には通気口があり、そこから数本のパイプが壁に向かって伸びている。外から見れば、それはまるで植物を生けた瓶のようだった。ともすれば、彼はその中に沈む種子なのかもしれない。

 彼は生まれたときからこの部屋にいた。それを疑問に思うことも、不満に感じることもない。なぜなら、彼はそれを知らないのだから。

 彼の世界の外には、白い服を着た人々がいた。

 彼はそれが『白』であることを知っている。白い人たちが与えてくれた絵本で学んだから。絵本には、穏やかな色ばかりが描かれ、暴力的な色は存在しなかった。白い人たちが彼に与えるものは、すべて調和と平和に満ちていた。


 彼は虫を殺さない。なぜなら、彼の世界に虫が存在しないから。

 何も殺さない。なぜなら、彼の世界には彼以外に生き物が存在しないから。

 殺さない。なぜなら、彼は『殺す』という概念を知らないから。

 彼は嘘も知らない。その透明な世界では誰かを騙すことなどできないから。

 彼は外の世界に存在するあらゆる暴力的なものから隔離され、育てられてきた。

 もしも『虫を一匹でも殺せば天国へ行けない』のだとしたら。もしも『一度でも人に嘘をついたら天国へ行けない』のだとしたら、天国に行けるのは彼だけだろう。

 人間の本性が善であるのならば、外の世界の汚れに触れない彼は、この先もずっと善のままでいられるだろう。

 これは、地上から神のもとへやっと一人、人間を送るための計画。あるいは、透明な世界に閉じ込めた魚が色を変えるか試す実験。

 彼にはわからない。何かを疑うことも、知りたいと思うこともないのだから。

 あるときまでは……。


 突然、彼は世界の外に出された。

 抵抗も、泣き喚くこともしなかった。外の世界も彼の知る色、『黒』に満たされていたからだ。

 暗闇の中で、白い服の人が彼を抱きかかえながら走っていた。白い服の人の焦燥感が腕越しに伝わってくる。だが、不安に思わなかった。彼は、初めて『抱きかかえられる』という感覚を知り、不規則に揺れる世界に高揚していた。

 しかし、突如世界が赤く染また瞬間、彼は初めて動揺を覚えた。

 彼は『赤』を知っている。以前、転んで鼻を打ったときに流れた血の色。それが記憶の奥から浮かび上がり、胸に不安の種が発芽した。

 警報音が鳴り響いた。ランプの赤に染まる廊下に、複数の足音が響き渡る。彼を取り巻くすべてが、彼の不安を急速に育てていく。喉と目の奥が熱くなり、彼は口を開いた。だが、何を言えばいいのかわからなかった。

 すると、彼を抱きかかえる白い服の人が、そっと囁いた。


 ――大丈夫よ。


 その声は優しかった。不安は少しずつ静まり、彼は身を委ねることにした。

 そして今日、彼は新しい色を知った。朝焼けに染まる雲。空の色が少しずつ移り変わり、大地に息づくものたちがそれぞれの色を取り戻していく。

 彼は外の世界に多くの色があることを知った。そして、白い服の人が防護服を脱ぎ捨てたとき、彼はそれが自分と同じ『人間』であることを知った。

 彼はまだ多くのことを知らない。

 世界に蔓延する暴力やウイルスの存在。世界から隔離されていたのは、自分自身であったということ。そして、自分が特別な抗体を持つ存在であり、そのための実験が行われる予定だったことも。自分が犠牲になることも。


 ――私はあなたのお母さんよ。


 彼女が震える声で告げた。

 その言葉の意味はまだわからない。ただ、彼は初めて知った。

 抱きしめ合うことの温かさと、喜びを。

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