自作小説のキャラが、職場と家族を救ってくれた話
〝Write what you know〟(自分の知っていることを書くべし)
という言葉をご存じでしょうか。
いわゆる、小説作家へのアドバイスとして使われる言葉の一つです。
自分がよく知らないことを書いてはいけない。日本語で似たような言葉を探すとしたら、「作者は自分が経験したことしか書けない」が近いでしょうか。
ただこの言葉は、プロ作家からも賛否両論です。
●賛同
・書くために沢山知ることが重要だ(P.D. James)
・自分の経験から、大事なことを巧く抽出する技術が肝要(Zoe Heller)
・自分が執着していることを書くことこそが、人の心を動かす(Meg Wolitzer)
●反論
・読者は作者の自伝が読みたいわけではない(カズオ・イシグロ)
・「知っていること」ではなく「感じたこと」を書くべきだ(Lee Child)
・あなたの知っていることは、他の誰かも知っている(Paul Muldoon)
これらはほんの一部です。
ただ、こういった賛否両論のいくつかの中で、私が強く実感したものが一つありました。
〝Write what you know. But also know you are being written.〟
自分の知っていることを書くべし。ただし、同時に『自分にも書き込まれていく』ということも知っておくべし。
――Mohsin Hamid
私がこれを強く実感したのは、自作小説のキャラが職場を、そして家族を救ってくれた時でした。
三つ、挙げます。
Ⅰ. 上司と同僚の仲を取り持ってくれた話
一昨年の暮れ、職場でとあるトラブルがありました。
上司が、私の同僚と口論していました。
同僚がとあるプロジェクトを提案したのですが、上司がそれを「お前にそれは無理だ」と一蹴したのです。
当然同僚は、「せっかくのチャンスなんだからやらせてくれ」と反論していました。
しかし上司は聞き入れません。
「お前には無理だ」
ただそういう旨の言葉を繰り返すだけです。
この上司がこういった態度を取ることは日常茶飯事です。なので、以前であれば私もいつものように『嫌な上司だな』と思っていただけだったでしょう。
しかし、この時は違いました。
自作小説『召還された召喚師』に出てくる主人公『テオ』が、私の頭の中で必死に、なにかを警告してきたような気がしたのです。
自作小説の中で、テオは感受性の高い少年でした。
常に他人の気持ちを考える。相手の感情に共感することに長け、時にそれに振り回されつつも、常に『相手の立場になって考える』ことを忘れないキャラでした。
そんなテオが、今この場で警告してきている。
ですが私はテオではありません。
相手の気持ちを敏感に汲み取るような超能力、私は持っていません。上司がなにを思ってプロジェクトを蹴ったのか、様子を見るだけでは私には判別のしようがありませんでした。
昼休憩時。
私は、思い切って上司に訊ねてみました。「なぜあそこまで頑なにプロジェクトを拒んだのですか」と。
その時の返答が、こうです。
「あいつは以前にもプロジェクトを提案して、それに失敗した」
以前に失敗したから、信用したくないということ?
一瞬そう思いました。が、そのあと吐き出すように続いた言葉に、私は息を呑みました。
「その後、飲み会で小耳にはさんだ。その時あいつは、嫁さんと口論になったらしい」
「毎晩夜遅くまでプロジェクトにかかりきりになっていて、新婚の嫁さんとの時間を取れなかったと。挙句、成果を挙げられなかった」
「女房と喧嘩になることがどれだけ辛いか、俺も身をもって知っている」
「次のプロジェクトも、素晴らしかったとは思っている。だがそのために、あいつが嫁さんとまた喧嘩したり、最悪離婚するリスクまで負わせるわけにはいかない」
衝撃でした。
嫌なだけの上司だとずっと思っていた。けれど、私は今までずっと勘違いしていたのかもしれないと思い始めたんです。
その後、同僚にも訊ねてみました。
終業時を捕まえ、初めて彼と一対一で話してみたんです。訝しがられましたが、お嫁さんとのことについて仏頂面でこう語っていました。
「たしかに、妻と口論になったよ」
「でも、その後じっくりと話をして、わかってもらえたんだ。あいつに楽をさせてやりたくて、給料を上げたくて色々やったってことも」
「最後には、あいつは応援すらしてくれたよ。〝次の時はしっかりやらないと、承知しないんだからね〟って」
素敵なお話でした。
ですが同時に、悲しくなりました。
次の企画……つまり今回のプロジェクトに、彼はお嫁さんとの『約束』を賭けていたのでしょう。それを、上司に蹴られてしまったんです。
その晩。
帰宅してからも、私は悶々と言い訳していました。
これは私の役目じゃない。
私にそんな仲裁能力はない。私は、そんなに優秀じゃないんだ、と。
その時。
私の頭の中に、「もう一人の主人公」の言葉が浮かびました。
私が書いた『召還された召喚師』、実はダブル主人公です。
テオはその片割れにすぎません。
もう一人の主人公は、テオとは正反対な性格ながらも、彼なりの『座右の銘』を大切にして生きるキャラクターでした(どんな座右の銘かはナイショです。ごくごくシンプルな一言です)。
あの座右の銘を思い出し、私は勇気を出してみることにしたんです。
翌朝。
むすっとした同僚が、本日の報告のために上司の机まで歩み寄っていきました。
タイミングを見計らって、私もそこに混ざったんです。例のプロジェクトについて、やってみてはどうかと二人に提案してみました。
あの話を蒸し返す気か。
そんな表情で二人から睨まれましたが、私はなんとか上司に語り掛けました。
「○○さん(同僚)は、奥さんにむしろエールを送られたんです」
「ただ奥さんとの約束を守りたくて、今度こそ迷惑をかけずに成功させたくて、だから頑張っていたんだと思うんです」
「そのことは、わかってあげてください」
上司は茫然としていました。
続いて私は、同僚にも言いました。
「○○さん。上司さんは、あなたにはできないと本当に思って言ってたわけじゃないんです」
「奥さんとの口論のことを聞きつけて、だから○○さんと奥さんの仲を心配して反対してたんだそうです」
「ただ、その優しさをひけらかしたくなかっただけだったと思うんですよ」
今度は同僚が上司を見つめていました。
上司は顔を背けるだけ。
どっちも、驚きというより不機嫌そうな表情でした。
失敗しちゃったかな。
お互いのプライドを傷つけちゃったかもしれない。もっといい方法があったのかもしれない。
そう、自分の判断を疑い始めてたその時。
「今度こそ、ちゃんとやれるのか」
顔を背けたまま、上司が言いました。
「奥さんとの約束を守って、仕事と家庭、両立できるのか。今はお子さんもいるんだろう」
「はい」
「なら、やってみろ」
おお、と小さな感嘆が、職場のあちこちから漏れていました。
それから。
同僚は、例のプロジェクトリーダーを今も続けています。活き活きとした雰囲気を周りに振りまいていました。
上司と態度はさほど変わりません。ですが、職場全体の雰囲気は、以前ほどピリピリしたものではなくなりました。
もし、テオの警告がなかったら。
もう一人の主人公が口癖のように言っていた言葉を、あの時思い出さなかったら。
今のこの和気藹々とした職場は、なかったかもしれません。
〝自分の知っていることを書くべし。ただし、同時に『自分にも書き込まれていく』ということも知っておくべし〟
この言葉を言ったイギリス作家Mohsin Hamid氏は、このように補足しています。
「人の『知っていること』とは、いつまでも変わらぬ伝統工芸ではありません。書かれることで変わっていきます」
「物語を語ることは、語り手を変えます。そして物語もまた、語られることで変わっていくのです」
私が『召還された召喚師』で書いた、二人の主人公。
どちらも、私とはまったく違う人物でした。
それでも私は、彼らの人生を書きました。彼らの生き方を書き続けた結果、それが書き手である私自身をも変えてくれた。私の職場を、救ってくれたんです。
さらに。
Mohsin Hamid氏は、このようにも言っています。
「物語の遺伝子とは、人間の遺伝子と同じ。二つの糸が絡まり合った、二重らせん構造なのです」
「糸の一本は、作家自身が経験したこと」
「そしてもう一本は――」
「作者が、『知るために』書こうとしていること」
この二本目の糸を、私自身も体感していました。
それが、今度は私の家族を救ってくれていたかもしれません。それが、二つ目です。
Ⅱ. 兄とカルチャーショックの話
私が書いた『召還された召喚師』。
その第一章を纏めてしまえば、もう一人の主人公が体感した〝カルチャーショック〟の話でした。
なぜ、カルチャーショックを書いたのか?
私は、帰国子女です。
幼少時、両親の仕事の都合で渡米し、二年間ほど現地の小学校に通っていました。
とはいえ。
アメリカの生活に、私はすぐに馴染むことができました。カルチャーショックなど感じず、すぐにあちらの生活に慣れて、どんどん友達も増えていきました。
それも当然。
渡米した当時の私は、七歳。後で調べてわかったのですが、異国に行ってもまだまだ簡単に新しい言語に、そして異文化に馴染むことができる余地がある年齢だったんです。
しかし、五つ上の兄はそうはいきませんでした。
日に日に不機嫌になり、やつれていく兄。
寝つきも悪くなっていました。食欲もなくなっているようで、聞くところによると友人(現地、そして日本にいる友人両方)とのトラブルなどもあったようです。
当時、私には馴染めぬ兄のことが理解できませんでした。
自分は簡単に馴染めている。だから、お兄ちゃんにできないことが自分にできることが、誇らしい。そんな残酷な優越感にすら浸っていたんです。
ある日。
授業中、私は別の先生に呼ばれ、兄の教室へと連れていかれました。そして衝撃を受けました。
兄が、机に突っ伏して号泣していたんです。
周囲の生徒たちも、おろおろした様子でそれを見つめているのみ。
兄の担任らしい先生は、
「突然泣き出したんだ。日本語で話しかけて、何があったのか聞いてもらえないか」
と、困り切った顔で私に言ってきました。
私も兄が心配だったので、そっと色々と訊ねてみたんです。しかし、日本語で話しかけてなお、兄は更に号泣したり脈絡のない言葉を吐き捨てたりと、手の施しようがありませんでした。
今、思うと。
兄は、屈辱だったのではないでしょうか。
自分の方がお兄ちゃんだというのに、アメリカの生活に馴染めず、あまつさえ年下の私に気遣われてしまったのですから。
私は、ただ運よく年齢が良かったというだけだったのに。
そして、現在。
就職もした私は、Web小説発の創作群と出会い、ひょんなきっかけから自分も執筆することになりました。
その時選んだテーマが、「カルチャーショック」でした。
私は、兄が苦しんでいた姿を知っています。
それを、書いてみました。当時の様子や、兄が後年に笑い話として語っていた当時の経験、そして私自身が色々調べてまとめたものを、小説にぶつけてみたんです。
その一連のシーンを書ききって……
私は、初めてカルチャーショックを『体感』できたように思えました。
カルチャーショックに苦しむ人間。
自分の信じていたものがない世界。
常識が通用しない。今まで学んできたことが否定される。自分の苦しんでいることが、周囲には理解されない。
そういう人の視点で、物語を書く。
私があの小説を書いて、私にもカルチャーショックの経験が書き込まれた。
初めて私は、当時の兄の苦しみを、自分のことのようにしっかりと理解できたような気がしたんです。
第一章の下書きを書ききった後。
私は、兄夫婦を旅行に招待しました。「懸賞に当たったから」ということにして、大学時代に温泉巡りが趣味だった兄のために、温泉旅行券をプレゼントしたんです。
無駄なことだとはわかっています。
ですが、カルチャーショックに苦しんでいた兄の気持ちが理解できた今、何かしてあげたかったんです。何もできなかった、幼少時の私自身に代わって。
「急にどうした」
兄は当初、そんなふうに訝しんではいました。
が、温泉の誘惑には勝てなかったのか、苦笑しつつそれを素直に受け取ってくれました。
息子さん(つまり私の甥っ子)と一緒に、私も運転手として温泉旅館へと向かいました。
まだ遊びさかりの甥っ子。温泉旅館にはあまり興味がなく、退屈そうなご様子。なので私は、甥っ子を連れて近くにあったテーマパークへと一緒に行きました。
兄夫婦が、やんちゃな息子の相手に疲れ切っていたことも、私は知っていたんです。
――そのせいで、兄と甥っ子の仲が悪くなりかかっていることも。
その日の夕方。
甥っ子を連れて旅館に帰ると、さっぱりした様子の兄と義姉がいました。
子育てや家事からも少しだけ解放されたからか、とても清々しそうな顔をしていたことを、今でもよく覚えています。
少しだけ。
本当に少しだけ、私も肩の荷が下りたような気がしました。
ですが……
甥っ子は、サプライズプレゼントを用意していました。
自分の両親のお土産にと、そのテーマパークの帽子を買ってきたんです。
それを、自分の両親の頭に被せていました。兄夫婦もまた、満面の笑顔でそれを受け取っていました。
仲が悪くなりかかっていた兄と甥っ子が、また笑顔で接していました。
今、その時のことを頭に浮かべると、改めて思うんです。
ああ。
やっぱりこの二人も、息子さんの『雷』が大事なんだな、と。
なぜ雷なんだ、ですか?
それが三つ目です。
Ⅲ. 私と、従弟の心を救ってくれたかもしれない話
何度も挙げている私の小説。
実は、改稿版です。
もちろん、改稿前の作品も完結まで書ききり、今でも残してあります。
で。
改稿にあたって、私は一つ『設定』を付け加えました。
その世界の宗教観として、『雷』と『闇』をそれぞれ、あるものに例えたんです。
雷は、『希望』。
闇は……ネタバレにつき伏せます(『絶望』ではないです。念のため)
プロットに書いた当初は、「はて、私はなぜこんな設定を?」と自分でも首を傾げていました。
が。
「まあ、下書きまでとりあえず書いてみて、不要そうなら投稿時に消せばいいや」
という、改稿前作品の時もやっていた作戦で、とりあえず下書きまで書いてみたんです。
ところが。
その設定を語るシーンで、解説役の女性キャラが勝手に走りはじめました。
雷と闇を、ある自然現象になぞらえ、私が思ってもいなかった解釈を導き出してみせたんです。
そのシーンを執筆しながら、私自身も「あっ!」と声を上げてしましました。
なぜなら。
その新しい解釈は、改稿前作品では私自身も少しだけ引っかかっていた、『とあるサイドキャラクターの事情』を見事に説明してくれる概念だったから。
そして、あるキャラクターの『死』に、新たな光を差し込ませるものだったからです。
この新しい解釈は、後に『私の心』も救ってくれました。
昨年の暮れ。
叔父が、急逝しました。
末期がんでした。以前から既に余命いくばくもないと、主治医に言われていたんです。
私の幼少時、叔父はよく遊んでくださいました。
渡米の時もそうです。英語の練習にも付き合ったり、海外留学経験を生かしていろいろアドバイスもしてくれました。帰国後も、私の就職の時などはいろいろとお世話をしてくれていたんです。
私は、叔父が大好きでした。
そんな叔父が亡くなった。
葬儀の時、私は後悔ばかりしていました。喪主である従弟(叔父の息子さん)も、呂律が回らない状態で葬儀を進めておられました。
なんでもっと、孝行しなかったんだろう。
お返しがしたかったのに。
今までのお礼だって、もっとちゃんとしてあげたかったのに。
余命のことを聞いても、まだきっと余裕はあるだろうと高を括っていた以前の私を、殴りつけたい気持ちでいっぱいでした。
ですが。
その時、先に話した『雷と闇』のことを思い出しました。
まだ、ある。
今からでも、叔父のために私にできることが。
新しい闇をもって、叔父に、私の雷を見せればいいんだ。
そう考えた私は、涙を拭きました。
葬儀の合間を縫って、喪主の従弟と話をしました。例の『雷と闇』のことを、少しぼかしながら伝えたんです。
その瞬間。
従弟の表情が、にわかに引き締まりました。
以後、彼はしっかりとした口調で、きっちりと喪主としての仕事を最後までやり遂げていました。
従弟もまた、叔父に『自分の雷』を見せたんです。
私が書いた物語。
それは同時に、私自身にもたくさん書き込んでくれました。私が書いたキャラクター達が、私にさまざまな助言をしてくれていたんです。
今回、このエッセイで紹介した三例は、そのほんの一握りにすぎません。
改稿版は、改稿前よりもポイントでは奮いませんでした。
同じ物語を読むのが嫌だったのかもしれません。
あるいは、好んでいた『改稿前の物語』が否定されたような気持ちになられたのかもしれません。
もしかしたら、改稿などしないほうが良かったのかもしれません。実際、今後はもう改稿など絶対にするまいと固く誓っています。
ですが。
改稿前も改稿後も、それぞれ私に新しいことを書きこんでくれました。そのことだけは、私も無かったことにはしたくありません。
だから……
ブクマ、評価してくださった読者の皆様に感謝しつつ、どちらも残していこうと思います。
語られるべき物語として。
私を助けてくれたキャラ達へのお礼として。
他ならぬ私自身が、他人のことを『理解』できるようになったきっかけとして。
〝Perhaps the most important function literature serves is to enable us to see the world through someone else's eyes.〟
文学の最も重要な役割とは、『他人の目を通して世界を見ることができるようになる』という点にあるのかもしれません。
――Mary Bartling
1月21日追記:
たくさんの評価をいただけました! 件の小説を、評価ポイント数だけなら上回ってしまいましたw
「いいね」も六件もいただけました。本当にありがとうございます!
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