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祖母が亡くなって、十年余りが過ぎようとしていた。祖母が晩年を過ごしたこの屋敷は郊外にあり、我が家からも自動車で数時間はかかる場所だ。積極的に訪れる者もなく、祖母の遺品のほとんどは手つかずのままだった。それが、四季のあるこの地域を保養地として使うべく、手入れをしようということになり、下調べに訪れることになった。年に数度、管理人が設備管理をしてくれていたおかげで、屋敷はそれほど傷んでもおらず、簡単な掃除をするだけですぐに生活が始められるようになっていた。
「大きなお屋敷ね。おばあさまはこんな広いところに一人で寂しくなかったのかしら」
広間で辺りを見回しながら私は思わず口にした。
「そうね、執事やメイドはいたから完全にひとりというわけではなかったけれど、家族は一緒にはいなかったから、寂しくないと言えばウソになるかもしれないわね。でも、それはおばあさま自身が望んだことだし」
母は家具にかかったクロスを丁寧にめくると愛おしげにそっと撫でた。それは、ここで過ごした思い出をたどっているかのようだった。
「別に仲たがいしていたわけではないし、連絡も取り合っていたのよ。お父様のお仕事の都合で今のところに引っ越すことになって、その時どうしてもここを離れたくないとおっしゃってね。おばあさまにとって、この土地はどうしても離れがたい場所だったのでしょうね」
正直なところ、幼いころに連れてこられたくらいでほとんど記憶にすら残っていないこの屋敷は、私にとっては何の思い入れもないただの古い屋敷でしかなかった。
「大昔はここで舞踏会や、貴族のパーティも開かれていたほど栄えていたのよ」
先祖代々引き継がれた立派な屋敷も、今では住む人を失くし、残された豪華な調度品の数々も意味を失っていた。物珍しさから辺りを見回すと、壁面に飾られた肖像画が目に留まった。美しいドレスを身をまとい、桜の花びらの中、幸せそうに微笑む女性のものだった。
「これはだあれ?」
私が尋ねると母は、少し小首をかしげて答えた。
「おばあさまじゃないかしら」
その答えを聴きながら、ふと疑問がわいた。
「でも、おばあさまの生きていた時代にこんなドレスを着る習慣はあったのかしら。舞踏会が開かれていたのはもっと昔の話でしょう?」
「いわれてみればそうね…でも、おばあさまにそっくりよ」
私は肖像画に近づいて見た。すると、キャンバスの左端に何か文字が書かれていた。
「エ…レ…ン?『エレンに捧ぐ』って書いてある」
私が読み上げると、母は眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「それじゃあ、ご先祖の方ね、きっと。おばあさまの名前はソフィアだもの」
肖像画に目を凝らしてみると、不自然な箇所があった。エレンと思われる女性の隣は明らかに不自然な空白があり、そこには誰かが描かれていたのではないかと思われるのだ。その瞳は何かを愛おしみ、微笑んでいるように思える。だが、その視線の先には何も描かれていないのだ。
「こうしてみると、あなたにもそっくりね」
ぼんやりと眺めながら彼女の視線の先にあるものに思いを馳せていると、母がそういった。
私は肖像画を見つめ、幸せそうなエレンの微笑みの意味を考えていた。
祖母は、医師として勤務する傍ら、何かに憑りつかれたように研究に没頭していた。祖母が研究していたのは、不老不死だった。決して老いることなく、決して死ぬことのない、そんな世界を実現しようとしていたのだった。しかしながら、倫理的な問題もあり、いろいろな面から、医学界では異端児扱いをされ、追いやられるようにこの別荘に来て研究を続けていた。
結婚しても研究をやめることなく、そんな状態だったから、祖父とはすれ違いが続き、母が幼いころに離婚していた。遺された財産は祖母方の先祖のものだった。
私が幼いころ、一度祖母に尋ねたことがあった。
「おばあさま、おばあさまは何を研究しているの?」
祖母はかけていた眼鏡をはずすと、机の上に置き、私をじっと見て言った。
「不老不死と言って、年も取らず、死なないことについて」
「ずーっと年を取らないで、ずーっと死なないでいられるってこと?」
「そうね」
「お父さまやお母さま、おばあさまとずっと一緒にいられるってこと?」
「そうよ」
「じゃあ、寂しくなることはないね」
「だったらいいのだけれど」
そういう祖母の顔は何かを思い出すような悲しげな表情だった。
その時のことを思い出しながら、祖母の書斎だった部屋のドアを開けた。まるでついさっきまでそこに祖母がいたかのように、部屋は記憶の中のままだった。少し埃っぽいにおいがして、私はカーテンを開け、窓を開けた。風が入ってきて、カーテンが揺れた。カーテンの揺れる先を見るともなく見ると、デスクの上の古ぼけたノートを見つけた。
そっと手に取り、ページをめくると、それは祖母の日記だった。