母は未婚の悪役令嬢-だから、僕が幸せにする-
「勉強は大事なのよ」
と、少年の母親は言う。でも、勉強しなさい、という理由は、他の子の母とは違う。
「知識を身に付けておかないと、誰も助けてくれないの。誰に助けを求めればいいかもわからなくなる。騙されても、それが違うと言えないの。だから、自分を守るために、勉強をなさい」
そう言う母親の目はいつも遠くを見ていて、複雑そうな顔をしている。少年は、きゅっと胸を締め付けられるような気がしてしまう。どうすれば、こんな綺麗で、優しい人を幸せにできるだろうか、と少年はここのところ、よく考えている。
少年の母親は、若い。彼が通う学園の参観日には、欠かさず訪れる。母親が現れるたびに、教室がざわめく。母は他の保護者一人一人に頭を下げて、少年の方に微笑む。シンプルな黒いドレスに身を包んだ母は、本当にきれいだ。
少年はしばし授業も忘れて、母親の方に見とれてしまう。
お母さんにいいところを見せたいなら、勉強しなさーい、という教師の声で、慌てて我に返る。でも、どうしても、母親のほうが気になって仕方がない。
一方で、母親について聞かれても、少年は答えられない。誰もが若く、美人の少年の母について、どんな人なのか、どんな人生を送ってきたのかなどを聞きたがるのだが、いざ思い出そうにも思い出せない。まるで母親は、自分のことを隠すことに長けているかのようだった。
そんな母も、月に一度、見たこともないような上質の紙で書かれた手紙を必ず受け取る。憂鬱そうな顔をして、読み終えると、必ずマッチで焼いてしまう。母親は、どこかに旅してしまっているかのように、少年のことに気づけなくなる。
どうして僕は、あなたのことを、何も知ることができないんですかーー
少年は時々、そんな想いに駆られる。まるで騎士様みたいだね、と友達からからかわれて、そうなのかな、と首をひねる。母親に身を捧げる騎士なんていないけどね、と意地悪そうに付け加える子もいるけれど、少年の信念は揺るがない。
母を知り、母を守る。いつか、憂鬱そうなあの表情を晴らして、ずっと笑顔で暮らす。
信念というよりは、祈りに近いものだったのかもしれない。
彼らが7歳を迎えた頃、お宮参りがあった。ちょっとした遠足気分で向かうのは、国中の社を束ねる神殿の総本山。そこで彼らは、どのような守り神がついているか、直々に見てもらえる。
そして、神の子であると認められれば、神殿において特別な地位を与えられる。それは、この国で学舎に通う子どもたち全てに与えられる義務であり、権利でもあった。神殿に入る前にお清めをして、何度も頭を下げて、ある一室に通される。
そこには神がおわすとされ、何らかの異変が起こるらしい。同席する神官がその様子を記録して、それぞれの子供に与えられる加護や、神の子の判別を行うーーという話だった。
もちろんこの日が来ることは、少年の母も知っていた。いつもなら、彼の言葉には嬉しそうに相槌を打ってくれる母親は、なんだか疲れた顔をしていた。
「貴方が無事に帰ってきてくれるなら……それだけでいいわ」
あの言葉はどういう意味なのか、と考えている内に、少年の番がやってきた。
教えられた通り、引き戸を開け、膝で畳を押すようにして、座布団の上に座る。部屋の中心には鏡と勾玉、そして、老人のお面が飾られていた。
少年の後ろに座っている神官が、落ち着いた声で祝詞を上げる。少年は、自分の顔が歪んで見える鏡を、じっくりと見返した。部屋中にお香が焚かれていて、息をするたびにすうすうとした。
今目の前に向き合っているのは神様だ、と教えられていた。少年も何度か、母に連れられて神殿にお参りをしたことがある。しかし、ここまで神様の近くとされる場所に座ったことはなかった。
神の子となれば、お母さんはどうなるんだろう、と少年は考える。神様が父親となり、お母さんはお母さんのまま、そして、少年という、新たな家族の形になるのか。
父親について何度か聞いたことがある。そのたびにはぐらかされてきた。あまりにも若すぎる母は、本当に自分を生んでくれたのだろうか。
それでも少年が母と呼べるのは、あの綺麗な女性だけだ。そして、間違いなくあの人が好きだ。その思いは、神様の前でも変わらない。
ふと、鏡と面と、勾玉が置かれていた棚が、カタカタと震え始めた。その振動が、徐々に激しくなる。
すうっと、老人の面が、起き上がり、人の顔のようにこちらを向いた。粘土のようなもので固められたそれは、目尻が垂れていて、髭を伸ばし、微笑んでいる。
そのお面が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ええ子じゃ、ええ子じゃ。めでたい。めでたい」
お面が、すうっと近づいてくる。生温かな風が、少年のくせ毛を撫でた。
虚ろな面の向こうに、誰かがいるような気がした。
ガタン、と椅子をひっくり返した神官が、膝をつき、平伏していた。
「オオギノ様が、顕現なさったっ!」
震える声で、神官が叫ぶ。その声を聞きつけて、ドアが荒々しく開いた。
宙を浮かぶ老人のお面に、皆が息を呑む。
老人の顔は、狭い室内をぐるりと飛んだ。それから笑い声を降らしながら、元通り、棚の上に戻った。
かくして、神の子は決まった。少年こそが、神の子となった。
国中のあちこちが、少年と、彼の母を讃えた。父に代わって身銭を稼ぎ、少年を学舎に通わせるだけの生活を維持した母に、誰もが涙を流した。貴方がこの子を育てて、この子が神の子として認められた。あなた方だけでなく、この国の未来は、祝福されただろう、と、国民は湧いた。
しかし、その喜びに水を差す様に、隣国からの使者が異議を唱えた。彼らの言葉を聞かされた国王は、この親子に、直ちに王宮へ来るようにと、迎えをよこした。
「私は隣国の皇太子である」
少年を舐め回すように見下ろしてから、隣国の使者は身分を明かした。少年が母のドレスの後ろに隠れるようにすると、母親は、我が子を守るように前へ出た。
「恐れ多くも皇太子殿下、外務大臣が変わったという話は聞きませんでしたが」
「確かに、本来ならば外務大臣がこの場に来るべきであっただろう。しかし、2カ国の友好のため、混乱を最小限に防ぐため、皇族である私が直々にやってきたのだ」
「というと?」
「その子供は、我が国の子供で、お前が国外追放を受けてから、腹いせに誘拐したという嫌疑がかかっている。罪を認め、誘拐した子供を即刻我が国に引き渡してもらおうか」
居並ぶ王族、官僚たちに、動揺の色が広がる。ただ一人、落ち着いた様子の、嫌疑をかけられた少年の母親は、用意された椅子に少年を座らせた。続いて、優雅な所作で椅子に座る、彼の母親。
「殿下の要求はわかりました。では、今度は私の事情を説明させていただいても?」
こちらの国王が、重々しく頷く。髪をぱさりと翻し、母は口を開いた。
「私はかつて、そちらの皇太子殿下の元婚約者でありました。しかし、身に覚えのない罪を着せられ、その潔白を証明できぬまま、国外追放の処分を受け、隣国であるこの国で生きていこうと決めたのです」
「わかっている」
と、国王が頷いた。
「公爵家の娘として、早くから外交に、留学に精を出していたそなたの姿は、とても忘れられるものではない。ゆえに、私にはあのような末路と、国外追放という処遇に信じられぬ思いだった」
「恐れ入ります……婚約破棄をされ、国外追放ともなれば、これ以上、国の中枢に関わる実家に迷惑をかけるわけにはいかず、国境までの森の入口で、父や母と、別れを告げました。そして、この国に入国しようとした時、一人の捨て子を見つけたのです」
その赤ん坊はひどく弱っておりましたーー言いながら、少年の肩にそっと手が載せられる。反射的に、彼は、その言葉の先を理解した。
「私は今日まで、この子を自分の子供として、育て上げたのです」
「女手一人というのは、苦労があっただろう。ありもしない噂に、実家の伝手も当てにできぬ状況。それでもお主は、なぜその子を施設に預けなかったのか」
「父は外交のため、国のために尽くしておりました。表立った冤罪の証拠が見つからない限り、私を庇うことは叶いません。当時の私は感情的にも、その捨て子と、自分の境遇を重ねたのです。彼がのびのびと育ってくれれば、私が救われると。浅ましい願いから、彼を手放したくなかったのです」
「だがそれを証明する手段はあるのか」
間髪入れずに、皇太子が口を挟む。
「捨て子だったとしても、我が国の領土で捨てられていたのなら、その子供は我々の国に返還されるべきである。第一、そのような話を信じられるか」
「国外追放の処分を受けた者は、二度と引き返してはならない。故にこの子は、この国で育てるほかありませんでした。
仮にあなたの国で、施設で育てられたとしても、施設で育てられた子供は、加護の有無を確認する権利を与えられません。
殿下は、捨て子であったという事実を盾に、後で神の子に選ばれたことを知り、言いがかりをつけて取り上げようとしているだけにほかなりません」
「だがその子供は、我が国の民でーー」
「この子は、国境付近にいました。そのあたりは、専門家による解釈にお任せします」
「当時国境を警備していた者の記録によると」
と国王が控えていた兵士に目配せする。背筋を正した彼は、紙の資料を持ってきた。
「当時こちらの令嬢が赤ん坊を抱えていた姿が目撃され、記録されている。彼女は、つまり今ここに出席している母君のことだが――彼女は国境付近でこの捨て子を拾った、と申告している。不憫に思い連れてきたのは良いが、自分の生活もままならない状態だ、と記録にある。なお、彼女の言葉に同情した当時の兵士の家族が、ミルクを与えてやった、という記録もある」
「それがなにか……」
「わかりませぬか、殿下。捨て子を拾ったのは事実。そして彼女が、神の子と認定されるくらいにまで、無事に、満足ゆく生活を与えたのは、あなたが国外に追放した彼女の功績ということになる。こちらとしては、彼女の肩を持たざるを得ませんな」
「だが、誘拐は誘拐だ」
「しかし育てたのは彼女です。誘拐だと主張されるのなら、生みの親を連れてくればよろしい。そもそも、子供を捨てるのは貴国でもわが国でも禁止されております。そして……法律的には、孤児院などの子供は国家の子供として育てられる。新たに親が見つかれば、その親に養育権が移動する……殿下。まだ、彼を自分の国に引き取ると仰いますか?」
一瞬、まだ若い端正な顔立ちの皇太子が、白目をむいた。
「子供は騙されておるのだ!」
「は……?」
「その女は我が国の秩序を乱し、己の家の権力を笠に着て、婚約者としても相応しくない振る舞いをしたのだ!そのような女が、どうしてまともに子供を育てることができようか!」
「殿下!言っていいこととならぬことがありますぞ!」
色を失った国王が叫ぶ。隣国の皇太子はうるさい、と怒鳴りちらした。母親に指を突き付けたまま、座ったままの母と少年との方へ、足音荒く近づいてくる。
ぱちん、と母親が、扇を閉じた。
鋭く空気を切った。扇で顔を叩かれた皇太子が、呆然と少女を見上げる。
「いい加減になさいませ、殿下」
「な、な、な……」
「ここはあなたの国ではありません。どのように振舞おうとも、もう醜態は隠せませんわよ?」
「やかましい!お前こそ、皇族である俺に手を上げたのだぞ!?実家の人間が、どうなってもいいのだな!?」
「父も母も、国の中枢にいる以上、お上の反感を買って首を失うことくらい、とうの昔から覚悟しております。あなたが家族を盾にとって婚約破棄や国外追放を迫ってきた時点で、それでもなお国に尽くすと決めていました。あなたのような、生まれつきの家柄を笠に着て、人の上に立つものとしてふさわしくない者を、もう二度と許さぬように、です。私は既に公爵令嬢でもなんでもありません。ただの一児の母、姓も持たぬ平民です。公爵家となど、とうに切れております。どうかこれ以上、無辜の民を傷つけるような真似はおやめください」
完全に我を失った隣国の皇太子は、腕を振りかぶった。諦めたように、母が目をつぶる。咄嗟に少年は立ち上がっていた。
「触れるな!」
次の瞬間、風が吹き荒れた。大の大人である皇太子が吹っ飛んで、壁に叩きつけられる。誘拐された被害者のはずの少年を睨みつけようとして、みるみるうちに、彼の顔から血の気が引いた。
「よくない。よくない」
どこからともなく現れた、老人の面が呟いていた。応接間をぐるぐると回りながら、よくない、と繰り返している。それから彼は、ぴたり、と皇太子を見据えて、微笑を湛えたまま言った。
「悪い子じゃ。悪い子じゃ」
皇太子が悲鳴と共に、自分の体を抱え込み、丸くなって、蹲った。老人のお面は、ぱん、と乾いた音と共に消え、ひらひらと紫色の花弁が一枚、少年の頭を撫でるようにぽつりと落ちた。
「ごめんなさいね。あんな……見苦しい姿を見せるつもりはなかったの」
疲れた顔をした母が、切り出した。
錯乱した隣国の皇太子を国王らに任せ、二人は家まで帰ってきた。
「僕は……お母さんの、実の子供じゃないの?」
「……そう。あんな風に、あなたに、伝えるような真似は……したくなかったのに」
ごめんなさい、と母親が抱きしめてくれる。
「……お母さんは、誰とも結婚してないの?」
「結婚の約束をしていた人はいたわ。でも、お互いに、合わなくて。その話もなくなった。そうね。そういう意味で、お母さんは結婚したことがないわ」
「だったら!」
少年は、勢い込んで言った。絆を求めるため、よくある子供の夢、神の子である自分のわがままは、ある程度通るだろう、という打算から。
「だったら!僕がお母さんと結婚する!お嫁さんにしてあげる。ぜったい、ぜったいに、幸せにして見せる!」
しばらく、年若い母親はぽかんとしていた。やがて笑みを浮かべて、少年の頭を撫でた。そっと少年を抱きしめた母親は、彼がどんな顔をして、どれほどの勇気をもって、どれほど本気でこれを宣言したのか、ついぞ知ることはなかった。