ガラスの心8
ふらふらと歩いて、船縁に手を着いた時だった。
「――何泣いてんだ」
突然声をかけられ、凄く驚いたあまりに、怒鳴られた時並に肩を竦めてしまった。
「何かあったのか?」
耳元に軽く握った手を当て、恐る恐る反対側から聞こえる声の方を振り向いたら、夜に甲板を照らす淡いライトのおかげで、派手な髪色が見えた。太陽を思わせるそれは。
「ユリウス……様」
久々だった。ユリウスが正反対側の船縁に座り、片膝に顎を乗せて苦々しげな顔をしている。
不定期に彼がこの船を勝手気ままに訪れるので、見張りもユリウスの姿を見ても特に何も反応せず、甘んじて自由にさせていた。もう二ヶ月くらい、姿を見ていない気がする。
涙を拭いていつもの表情を取り戻そうと必死なレティの様子を見て、ユリウスがまた静かに尋ねた。
「何か嫌なことでもあったのか?」
「いえ……。その、これは目にゴミが」
泣やもうとしても、拭いきれない涙。リックのことでなければ、きっとこんなに悲しく無かった。
「自力で取れないなら取ってやる。来い」
ユリウスが手の平をレティに向け、緩々と指先だけで手招きする。
それでも動かないレティ。誤魔化しだとすぐにばれてしまうから。
そんな様子を見てため息をつき、甲板にトンと軽く飛び降りる足音がして、その後此方に向かって来た。すぐ側で止まる。
「――ったくお前は。言ってることと行動がずれてんだよ。騙せない嘘や誤魔化しならつくな。目を見りゃわかる」
ふわり。ユリウスの大きな手がレティの頭を掴み、自分の胸に引き寄せる。それから子どもを宥めるように、わしゃわしゃと大きく撫でられ続けた。
「ほら。我慢しないで泣け」
「ひっく、っく。うえぇー」
我慢しきれず、彼のシャツを掴んで泣いてしまった。
(リック様、リック様、リック様……!)
「しょーがねぇなぁー」
最初に会ったときには想像もできなかった、ユリウスの優しい声。苦しい想いは透明な雫となり、瞳から溢れ出て行った。
感情に素直になり、泣いてしまった方が泣きやめた。涙や嗚咽、呼吸のリズムが落ち着き、ユリウスは言った。
「お前が元気ないと、あいつも心配すんだよ」
「あいつ?」
首を傾げたら、ユリウスが親指を船の外側に向ける。
彼と一緒に船縁へ移動し、下を覗き込んだら雪狼が自分のところだけ海面を氷に固めて大人しく座り、小さくクーンクーンと喉を鳴らしていた。
「ちょっと、気晴らしに出るか?」
「でも……」
船の仲間に心配かけるかもしれない。そんな心の内は見透かされ、ユリウスは見張り台に続く金属の筒まで歩き、ポケットに手を突っ込んで僅かに身を屈め、そこに話した。
「おーい。聞こえっかー?」
「ユリウスさん?」
「そーそー。ちょっとレティ連れて出るから。すぐ戻す」
「分かったっす。船長はご存知で?」
「あー。リック兄には言っといてくれ。じゃーなぁー」
「え?ちょ、ちょっとユリウスさん!」
見張り当番が何か言っていたがもう聞かず、レティの所に戻ってくると船縁に軽々と飛び乗る。そしてしゃがんで此方に向けられた手を掴み、レティも船縁に引き上げられた。
その後はユリウスがレティの腰に腕を回し、飛び降りて雪狼の背中に着地。レティを前に座らせ、その後ろにユリウスがついて雪狼が立ち上がって走り出した。
暗い海面に白い雪狼の姿だけが、淡い光のように目立って見えた。
足元を瞬時に固めて移動できる雪狼は、陸で走るのと変わらず波の上も違和感なしに移動する。
「……冷たくない」
いつか、無理矢理連れ去られたときはとても冷たく感じた雪狼の背中。今は全然感じない。
リックが死傀儡になるのを食い止めるために乗ったときは、それどころではなくて気づかなかった。
「こいつが受け入れたからだよ。心を許されたやつは、冷たく感じない。な?」
ユリウスの問いかけに、雪狼が鳴いてこたえた。




