第2話 『目的を果たす日』
放課後。
迷いに迷ったがようやく決心がついた。今日は彼女――小川琴美が目的を果たす日だ。
「よし」
鞄を肩にかけ、教室から出る。
放課後に入ってから友人と話していたため、琴美はまだ目的の人物が学校にいるのか少し不安だった。
それ以前に再開するのが不安だった。顔と名前は憶えているが、どんな人かはよくわからない。はっきりとしているのは、その人が命の恩人であるということ。
(ちゃんとお礼言わないと)
あの時のお礼がしたかった。
一応恩人が通っていると言っていたこの高校に入学する前に、お礼を言おうと何回か学校終わりに校門前まで来たことはあるのだが、運が悪かったのか一度も出会うことができなかった。だから彼女はここに入学してからお礼を言おうと心に決めた。はずだったのだが、入学しても緊張して、なかなか踏み出せずにいた。
入学から二週間とちょっと、なんとなく高校生活も落ち着き始めてきた頃、ようやく琴美は決心できたのだった。
「どこのクラスかわからないから聞いてみないと…」
人を助ける部活をやっていると言っていたが、部活紹介にそれらしい部活はなかった。
「…大丈夫かなぁ」
心配を胸の中に抱きつつ、二年生の教室が並ぶ階まで来た。どのクラスもショートホームルームを終えているようで、下校する生徒、友人と立ち話をする生徒、係の仕事をこなす生徒と様々な生徒がいた。
(――どうしよう)
来てみたはいいものの、上級生のフロアというのはどうも緊張してしまう。中学校の時も同じような感覚はあったが、今はその時よりも緊張が上回っていた。というのも彼女の通っていた中学校は私服登校であったため、制服を着た集団に慣れていないのだ。
「――あ」
しばらく歩きながら、視線を右往左往していると見知った顔が視界に入った。複数の男女と会話をしている女子生徒。向こうも気づいたようで、琴美に近づいてくる。
「やっぱり琴美だ! 久しぶり。ここ入学してるなんて知らなかったよ」
「お久しぶりです! 由紀先輩!」
このポニーテールの女子生徒は琴美と同じ中学の先輩――佐倉由紀である。
部活が同じだったので琴美は彼女によく面倒を見てもらっていた。
彼女がこの高校に進学したことを琴美はすっかり失念していた。
「由紀先輩、茶色に髪の毛染めたんですね」
「うん。最初は金髪もいいなって悩んだんだけど、流石に派手すぎると思ってね」
髪の色が変わった以外は何の変化もない。そう思ったが、現実は非常である。
(さらに胸が…)
明らかに大きくなっている。中学の時もそれなりに大きかったはずだが、由紀の胸はそこからにさらなる成長を果たしていた。思わず琴美は自分のものと見比べてしまう。
「うぅ…」
比べなければよかった。そう思った時には既に敗北感に叩きのめされていた。
(由紀先輩は一つ年上だから成長してるだけだ。私も伸びしろはある! よね…?)
「――? どうしたの?」
「い、いえ! なんでもないです!!」
胸はいずれ育つ。母親の申し訳程度の胸を思い出すと不安に襲われるが、きっと育つに違いないと父親の遺伝子を信じて自分を慰める琴美だった。
「そう? まあいいけど。それでなんで二年の階にいるの?」
今後の課題である胸部問題についてはひとまず置いておくとして本題に移る。琴美にとって由紀と出会えたのは幸運だった。彼女ならまず間違いなく力になってくれるからだ。
「あの、実は――」
「ゆきー、その子だれー?」
つい先程まで由紀と話していたメンバーの内の一人が声をかけてきた。
「私の後輩」
「えー! 可愛いじゃん!」
「でしょ?」
ポンと由紀は琴美の頭に手を置き、自慢げな顔をした。
中学の頃から何度も由紀から「可愛いなぁ」と言われている琴美ではあるが、未だにそう言われるのには慣れない。少し顔が赤くなってしまっている。
「ほんとだ。可愛いじゃん、ゆっきーの後輩」
「美人には美人の後輩がいるってことかねぇ」
「だなぁ」
「佐倉―。この子の名前はー?」
ぞろぞろと男女のグループが近づいてきて、あっという間に琴美は四方を囲まれた。
「あわわわ…」
パニックに陥る琴美。このままでは用件が聞けないと判断した由紀が群がってきた男女を押しのける。
「みんなちょっと黙ってて。琴美の話聞けないでしょ」
「「「えー」」」
「後で紹介するから! ほら、離れた離れた」
周りが静かになって琴美は少し冷静さを取り戻した。
「それで、なんでここ来たの?」
「じ、実は人を探してるんですよ」
「人? 二年生ってこと?」
「そうです」
琴美が中学三年生の時に桐原という人物が高一だと言っていた。つまり現在は高校二年生である。琴美が見たことのないほどのイケメンだったため、人脈の多い由紀なら知り合いだろうと彼女は踏んでいた。だから名前をなんの躊躇いもなく伝えた。
「桐原陸っていう人なんですけど…」
すぐに何かしらの応答があるかと思っていたが、そんなことはなかった。
むしろ逆だった。訪れたのは沈黙だ。
「――陸…」
由紀の目が細まった。
彼女が何かを口にしようとした瞬間、琴美を囲んでいた女子生徒の一人が困ったように言葉を放った。
「…えーっとね、後輩ちゃん。桐原には近づかない方がいいよ?」
「へ?」
気づけば二年生のワイワイとしたムードは消えてしまっていた。そのことに琴美は当然困惑する。そこへ別の男子生徒が言葉を続けた。
「あいつな、よくない噂が流れてるんだよ。それでこの学年では嫌われ者」
「噂…?」
「うん。一年の三学期前半ぐらいまでは、顔がよくて、勉強もできて、性格がいいってすごい人気者だったんだ。でも、実は全部演技でな。裏で喧嘩とかよくしてたらしいんだよ。酷い時は相手を半殺しにしたなんて時もあったらしい」
他の女子生徒がさらに続ける。
「しかもそれだけじゃないの。気に入った可愛い女子を見つけたらお持ち帰り。飽きたらポイだって」
「なんなら学校で乱交してるなんて噂も…って痛ッ!?」
由紀が男子生徒の一人に思いきり拳を振り下ろす。
「この子になに聞かせてんの」
呆れたように言い放った由紀は、どこかつまらなさそうな顔をしていた。
「まあ、一応全部噂だけど近づかないほうがいいっていうのは確かだよ」
「――――」
とても琴美にはあの時の彼がそのような噂をされる人物には思えなかった。しかしこの二年生たちが冗談で言っているようにも見えない。
「――琴美。陸……じゃなくて、桐原くんに用ってなに?」
由紀が琴美の肩に手を回して、彼女以外には聞き取ることのできないであろう小さな声を呟いた。
「えっと…、その…中三の時に助けてもらったことがあって…。だから、お礼を言いたいんですよ」
「ふぅん…。助けてもらった、ね。――ならどこにいるか教えてあげるよ」
「え?」
またやめておけと言われるかと思ったが予想とは異なった。
「――東棟三階、一番端にある空き部屋。この時間ならまだいると思う。何も書かれてない白いプレートがあるからそれを見つけて」
「あ、あの…」
「東棟の三階、一番端だからね。これ覚えないと行けないだろうから気を付けて」
それを言うと由紀は琴美の肩から手を退けて離れた。
「用件はこれだけ?」
何事もなかったかのように由紀は尋ねる。
「は、はい。これだけです」
「そ、ならさっさと行ってきな」
「ありがとうございました!」
お辞儀をして、琴美は早速由紀から聞いた場所へと向かった。
今のやり取りの内容を知らない他の二年生たちは、何を話していたのだろうと顔を見合わせていた。由紀は琴美が廊下の角を曲がるところまで見送ると教室へと戻っていった。
***
噂を聞いたからか、琴美の足取りは少し重くなっていた。
全て根も葉もない噂だと思っているが、耳にしてしまったからにはどうにも気になってしまう。
(東棟三階、一番端の部屋…)
何度も脳内で教えられた場所を再生し、しばらく歩いた。
「と、ここかな。…多分」
真っ白なプレートの掛けられた部屋の前に琴美は立つ。
まだ校内の構造をすべて把握しきれているわけではないのであまり自信はないが、琴美的には言われた通りの場所に来たつもりだった。
「よし…」
扉に近づく。ある程度の距離が縮まってところで音が聞こえてきた。中からしている声だ。扉との距離を縮めるたびに聞こえる声は大きくなっていく。
もう手が届くというところで、ようやく内容まで聞こえてきた。
「――り、りく…。それは…ダメだって…、ぁ…」
「!?」
思わず一歩引いた。そして、まさか今の声は…と淫らな想像を琴美は想像してしまう。
(いやいや、そんなことないでしょ…。ここ学校だよ? まさかね…)
聞き間違いだと自分に言い聞かせて下がってしまった分、前に進む。
「何言ってんだよ。遠慮するな。…俺とお前の仲だろ? なぁ、楓」
「!?!?」
今度はさらに二歩の後退をした。
(もしかして学校で――という噂は本当なのかもしれない…?)
さらに過激な妄想が彼女の脳内をぐるぐるする。
「い、いや違う! きっと聞き間違い!」
頬を叩き、脳内で行われていた想像をすべて消し去る。
「行こう!」
こんなところで入るか入らないかをいつまでも逡巡していても時間の無駄だ。
どうせ入るつもりではいるのだ。ならばさっさと入ってしまおう。行為中だったらすぐに閉めてごめんなさいだ。
そんな感じでなぜか急に肝が据わる琴美だった。
「ふぅ…」
深呼吸後、手を掛け、目を瞑った状態で勢いよく扉を開く。
そして、恐る恐る瞼を上げた。
琴美の目にした部屋の中。そこでは――