汝の敵を愛せ(後)
「無茶だ!」
隊士たちが茫然として叫ぶ間にも、上級魔法神官は素早く魔法陣を展開した。
上級魔法神官の手前の石畳の上、漆黒に艶めく光を放つ、黒い檻の如き拘束魔法陣が展開する。そこに、強制的な竜体解除を施す金色の魔法陣が重なって輝き始めた。通常の2倍の明るさだ。
2竜体をカバーする大きさとエネルギーを備えた魔法陣は、上級魔法神官の魔法の杖の動きに応じて、破壊を免れた滑らかな石畳の上を、滑るように移動して行った。バーサーク竜とエメラルド竜を目指して、着実にスライドして行く。
バーサーク竜は絶望と拒否を込めた鳴き声を上げ、拘束魔法陣から遠ざかろうと、身体をくねらせる。実に奇妙な反応であり、行動と言えた。
エメラルド竜は、先程から感じていた違和感を確かめるべく、尻尾でバーサーク竜のお腹を捉えた。
(――妊娠している!)
この竜体は、卵を抱えているのだ。しかも、お腹が大きく膨らんでいる――臨月であるのは明らかだ。
バーサーク竜の妙な行動にも納得がいく。広場の西側には、この女が叩こうとしていた『卵』の看板が掛かっていたのだ――この辺りでは唯一の、産婦人科を専門とする医療局の看板が!
その気になって感覚の焦点を合わせてみれば、バーサーク竜には母親としての意識があり、その妙な鳴き声の中に、ハッキリとした訴えが混ざっているのが分かる。
(私、絶対この子を産む! お願いだから、邪魔しないで! 人体化は、今はイヤ!)
竜体で無いと出産できない。メスのバーサーク竜は本能で、竜体解除の魔法による強制的な人体化に抵抗していた。今にも産卵しようとしているところで、陣痛の痛みで、いっそう荒ぶっている。
別の最寄りの産婦人科は、魔境を幾つも連ねた先の回廊にある。竜人の出生率が低い事もあり、産婦人科の数は少なく、分散していた。いつ出産するか分からない臨月状態では、竜体のまま、魔境を通って行かなければならない。
――転移魔法陣は、魔境に分断されて孤立している回廊同士を連結する重要な交通手段だ。しかし、平坦スペースに限りのある竜王都では、ほとんどの転移魔法陣が、戦闘モードたる竜体状態に対応していないのだ。自力飛行できない小型竜体は、クラウン・トカゲの協力が無ければ魔境を突っ切る事は不可能だ。だが、クラウン・トカゲは、手足に鋭い爪を持つ竜体を乗せて、長く走る事は出来ない――
ホールドした箇所から激痛と流血が広がり、エメラルド竜の鱗がボロボロになって行くが、構わず抑え込む。そして、バーサーク竜に対する下半身の締め付けを緩めた。
『産みなさい! 私が抑えてやるから!』
バーサーク化している竜体の意識に、その語り掛けが通じるかどうかは、未知数だ。しかも陣痛が始まれば、妊婦は、一切の感覚が弾け飛んでしまうと聞く。
一方で、上級魔法神官は、舗装状態が乱れた石畳に苦労していた。滑らかな平面で無いと、正確な形の魔法陣を維持し続けるのは難しいのだ。
しかし、程なくして、地上に展開された二重の魔法陣は、ようやく難所を通過した。今まさにバーサーク竜とエメラルド竜が折り重なっているポイントに潜り込もうとする。
――エメラルド竜は、死に物狂いで叫んだ。
『止めて! 彼女、卵を産もうとしている!』
それは竜体ならではの咆哮ではあったが、同じ竜人である面々には、ちゃんと言葉として伝わった。
その場にいた全員が真っ青になる。上級魔法神官は唖然として、魔法陣の移動を停止させた。判断の付かない状況に直面し、上級魔法神官の表情は迷いで歪んでいる。
「まともな産婦人科にかからなかったのか!? 鎮静効果のある妊婦用の丸薬がある筈だが」
臨月に入った妊婦は、気が立っていて危険な状態だ。戦闘モードたる竜体であり続ける時間が長びくからだ。妊婦がバーサーク化していた場合、ほぼ例外なく、卵をあきらめて強制的に竜体を人体に戻すのが暗黙のルールになっている。つまり卵は変身魔法に伴うエーテル凝縮で砕け、中のヒナは死ぬのだ。割合こそ少ないが、竜人の出生率の低さに直結している原因の一つだ。
上級魔法神官は暫し口元を引きつらせていたが、決心は早かった。魔法の杖が再び赤く光る。
「水の精霊王の御名の下に……《調整》!」
黒い檻の如き拘束魔法陣の上で金色に輝いていた竜体解除の陣が、姿を変えた。青い光に輝く、全く異なる魔法陣が展開する。青い魔法陣は、円周に囲まれたヘキサグラムを何種類もの円環が彩るという、複雑なパターンだ。その黒と青の魔法陣の組み合わせが、改めてバーサーク竜とエメラルド竜の真下の地面に潜り込んで行った。
ベテランとは言え、まだ独身と言った年頃の若い隊士が目を丸くする。
「何ですか、あれ?」
「いつか、結婚したら覚えておきたまえ。エーテル循環を整える医療用の魔法陣の一種で、女性のヒステリー、特に妊婦の気分を落ち着ける効果が入っている――バーサーク状態の妊婦に効くかどうかまでは分からんが」
上級魔法神官の身体は、疲労で震えていた。言葉の切れ目ごとに、激しい息遣いが入る。上級魔法神官と言えども、即席かつ遠隔スタイルで最高難度の《水魔法》を発動するには、大いに体力を使うのである。
魔法神官が懸念した通り、バーサーク状態の妊婦には効果は薄い――と言えた。普通の妊婦なら、リラックスの余りウトウトとしてしまう程の反応を示すのだが――
バーサーク竜は相変わらず大暴れして、刃物魔法を繰り出していた。竜体を取り巻くエーテルのモヤと化した魔法の杖を、全力で振り回しているのは明らかだ。エメラルド竜は何度も致命傷を負いかけるが、防刃魔法で本能的にしのいで行く。
2つの竜体がうねる度に魔法の杖に相当するエーテルのモヤが光り、鋭い剣戟音が響く。意外な事に、真下に展開された青い魔法陣は、バーサーク傷の激痛で錯乱しかねないエメラルド竜に、冷静な判断力を与えていた。
やがて、バーサーク竜はカッと目を見開き、身体を細かく震わせた。前腕が2本ともパタリと地面に落ちる。竜の手で石畳をガリガリとかきむしり出した。妙に人の声に似ている呻き声が続く。陣痛の痛みがひときわ強くなり、魔法を繰り出すどころでは無くなったのだ。
――ついにバーサーク竜は出産した。大きく竜体をくねらせると、赤い色の卵が転がり出す。
卵の大きさは、人の両手に乗る程度だ。クラウン・トカゲやダチョウの卵を、ほんの少し上回るサイズである。サイズが小さすぎるために拘束魔法陣の影響を受けず、その領域の外に転がって行った。
特に素早い隊士が卵を拾い上げ、三本角車の停車ポールの台座の上に卵を安置する。台座は石畳の乱れに伴って少し傾いていたが、その上には苔が生えており、卵の手頃なクッションになっていた。
上級魔法神官は、即座に青い魔法陣を竜体解除の魔法陣に変えた。
金色の魔法陣が放射する四色のエーテル光が周囲をグルリと巡り、2つの竜体を人体に変えてゆく。
やがて四色のエーテル光が消え、役目を終えた魔法陣は、砂時計の砂のようにサラリとした微粒子となり、空中に蒸発していった。
そこは、血みどろの人体――2人の女武官が横たわる場となっていた。
エメラルドの全身は、血にまみれて無残な状態である。かねてから担架を用意していた隊士たちが駆け付けて、エメラルドの身体を担架に移すと共に、武官の間では一般的な、一時的に激痛を緩和する鎮痛魔法を施した。
バーサーク化していた方の竜体は、人体になった後も出産のショックで頭がフラフラしたまま横たわっている状態だ。
上級魔法神官はその隙をついて、女の首に素早く拘束具を嵌めた。竜体への変身を禁じる拘束具は、幅広のチョーカーの形をしている。首輪のように、喉元にある逆鱗を、すっぽりとカバーするのだ。
今までバーサーク竜だった女武官は、人体の姿になってみると、意外に美女だ。返り血を浴びた武官服、艶やかな黒い髪、薄い金色の目――見る間に、目の焦点が合って行く。
チョーカー型の拘束具を装着させられたばかりの女は、ギョッとしたようにお腹に手を当てた。当然、卵の感触が無い。口をポカンと開けて素早く身を起こし、辺りをサッと見回す。
三本角車の停車ポールの台座に置かれていた赤い卵に気付くなり、女は異様に折れ曲がった片足を引きずりながらも、ダッシュで駆け寄って行く。赤い卵を抱き締め、卵の中から確かな鼓動と身動きの気配を感じると、女の目に涙が溢れた。
「私の赤ちゃん……!」
広場にはひとしきり、念願の母親となった女の号泣が響いた。
意識を取り戻したばかりの、ベテランの下級魔法神官が、驚き覚めやらぬと言ったように頭を振った。半分意識を取り戻したばかりで朦朧としては居たが、出産の瞬間を確かに目撃していたのである。
「全く何という……ひとつ間違えていれば、貴殿の地位も危うかったろうに――火のライアス殿」
赤の神官服をまとう上級魔法神官は、すっかり疲れ果てて魔法の杖にすがってはいたが、そのワインレッド色の目には、ホッとしたような薄い笑みが浮かんでいた。注意して見れば、ベテラン下級魔法神官と同じくらいの、中堅の年齢層である。
「汝の敵を愛せ――とは、この事だよ」
上級魔法神官は、呆けたまま担架に乗せられているエメラルドを、感嘆の眼差しで見つめた。