汝の敵を愛せ(前)
黒い翼、黒い鱗――黒いバーサーク竜は、咆哮した。その咆哮は、だが、同族たる竜人にとっては言葉である。
『私に近づかないで!』
黒いエーテルをまとったドラゴン・ブレスが、エメラルドの方向を襲う。
エメラルドは持ち前の身のこなしで横っ飛びし、綺麗にかわした。エメラルドの立っていた位置の石畳が、ドラゴン・ブレスの衝撃で、後方へと盛大に弾け飛ぶ。
大重量と大衝撃を伴う、《地》の攻撃魔法の威力は、実に恐るべきものであった。
石畳の破片は、超音速の石礫となって飛び散り、三本角車の停車ポールに掛かっていた掲示板を穴だらけにし、停車ポールを傾けた。その余波で、停車ポール下の転移魔法陣も傾く。
8人のベテラン隊士がチームを組み、総がかりで対応しても苦戦するレベルだ。4人の下級魔法神官が加勢していたが、武官より遥かに身体能力に劣る下級魔法神官(人体)は、バーサーク竜にとっては倒しやすい相手と言えた。
バーサーク竜は、細長い漆黒の瞳孔を持つ薄い金色の目を、ギラリと光らせた。
《雷攻撃》魔法の切れ間を逃さず、黒い竜尾を猛烈な速度で振り払う。その竜尾は、《地霊相》にとっては最も適性の高い《地》の攻撃魔法《石礫》をまとっていた。
3人の下級魔法神官が、黒い竜尾になぎ倒され、次々に吹っ飛ばされていく。《石礫》に対する防衛が間に合わず、3人はそろってズダボロになり、そのまま城壁へと叩き付けられた。
長い竜尾を高速で振るったため、その遠心力で、バーサーク竜の足が一瞬、地上から浮く。
それは間違いなく好機だった。
エメラルドは、先輩のベテラン隊士と共に、最大限の長さにした長物を構えてバーサーク竜の足元に迫った。
――不安定になっている竜体の足元を、渾身の力で薙ぎ払う。強い手応えが来た。
バーサーク竜は身体をふら付かせ、遂に黒く光る拘束魔法陣に足を突っ込んだ。
「やったか!?」
しかし、バーサーク竜は拘束魔法陣に捉えられたにも関わらず、死に物狂いで魔法に抵抗した。
「いかん!」
最も年かさのベテランたる下級魔法神官が、真っ青になった。
バーサーク竜は、その圧倒的なドラゴン・ブレスで、拘束魔法陣がセットされていた石畳を粉砕した。自身の鱗が砕けるのも構わずに。
普通のバーサーク竜は、拘束魔法陣に捕捉された段階で諦観の気分が湧くのか、若干、狂乱が収まるのだが――
――だが、この女のバーサーク竜は――
(何故だ!? 何が、この女を、これ程までに頑なにさせているのだ!?)
最初は些細な物であった違和感が、エメラルドの中で急に膨れ上がった。
咆哮の中で聞こえて来た言葉。バーサーク化の狂乱の中にある竜体としては、意外な程に、決然と拒絶するという冷静な気配があった。そもそも、今日は『バーサーク危険日』では無いのだ。では、何故――
――改めて広場の状況を確認したエメラルドは、西側に珍しい看板が掲示されているのに気付いた。四色の『卵』を描いた、妙に女性向けを思わせる繊細なフレームデザインの看板だ。
(――まさか!?)
或る可能性に思い至り、エメラルドは、ハッと息を呑んだ。
年かさの下級魔法神官は、流石にベテランだ。バーサーク竜の再びの攻撃魔法を、ギリギリでかわす。しかし、高速の竜尾には意表を突かれ、城壁にしたたかに叩き付けられる羽目となった。
そこで下級魔法神官は、失神した。打ち所が悪かったのは明らかだ。
――バーサーク竜を取り逃がしてしまう――もはや、討伐しか無いのか。
戦闘モードに対応できる強い拘束魔法陣を扱う魔法神官が、1人も居ない。エメラルドを含め、隊士の全員が真っ青になった。
「と……、討伐に移行!」
臨時チーム代表を務めるベテラン隊士が叫んだ。上級魔法神官は、まだ到着していない。
バーサーク竜が、素早く身構える。竜体を取り巻くエーテルのモヤの中で、《地魔法》のエーテル流束が激しく閃いた。「討伐」という言葉に反応したかのようだ。
(――やはり、この女は!)
エメラルドの中で、半分以上の確信が固まった。
同時に、バーサーク竜が絶望的なまでに強烈な攻撃魔法――ドラゴン・ブレスを放つ。
その方向は――やはり、エメラルドが推測した通りのものだった。
「東はダメだ!」
エメラルドの警告に従い、広場の東側に集結していた隊士たちは、死に物狂いで散開した――広場の西へと。
《地魔法》の《石礫》の大群が、今まで隊士たちが立っていた石畳をえぐり取って行った。量を倍増した《石礫》の嵐は、燃え残った屋台を完膚なきまでに粉みじんにした。
そして、運悪くも、新人隊士の手引きで、その先に通じるストリートへと避難していた一般人に、襲い掛かる。
「防壁!」
ベテラン隊士の1人が、咄嗟に初歩的な守護魔法を放ったが、余りにも壮絶なドラゴン・ブレスの前には無力だった。
魔法でできた淡いグレーの防壁は、火山弾さながらの暴威の中、見る間に粉砕していった。
――絶体絶命だ!
次の瞬間。
空気が――エーテルが、ビシリと音を立てた。
死の絶望に立ち尽くした新人隊士と一般人たちの目の前で、ドラゴン・ブレスは黒い火花となって激しく爆ぜ、さえぎる物の無い遥かな上空へと跳ね返っていった。まるで、見えない鏡に全反射を食らったかのようだ。
「なッ、何だ!?」
その疑問のどよめきは、すぐに収まった。
三本角車の停車ポールの下で、新しく出現した1人の男が、魔法の杖を掲げていたのだ。その魔法の杖は、強力な《四大》エーテル魔法が発動した事実を証明するべく、赤く明るく輝いている。
――ドラゴン・ブレスによる黒い煤煙が、ひとしきり収まる。
そこには、《火》エーテルで合成された赤い盾が展開していた。
ドラゴン・ブレスを全て弾きおおせた《盾魔法》。火を象徴する金色のシンボルが刻まれたシンプルな半透明の赤い《防壁》だが、その圧倒的な防衛力は、今まさに示されたばかりだ。
その男の衣服は、一見して街着さながらの高い襟の淡色の上衣と濃色の下衣およびショートブーツという、よく見かける組み合わせだ。その上に、文官風の、長いスリット裾付き羽織。それは、特別な伝統装飾とされる赤い鱗紋様に彩られていた。
「――《火》の上級魔法神官だ!」
新人隊士が叫んだ。黒いバーサーク竜は再び、薄い金色の目をギラリとさせた。
上級魔法神官は、強い魔法を発動したばかりで息切れが収まっていない。恐らく、此処へ転移する時にも、かなり体力を使った筈だ。三本角車の停車ポール下の石畳はひどく乱れていて、そこにあった転移魔法陣の形がズレていたのだから。
一瞬の、隙。
上級魔法神官の息が整う前に、バーサーク竜の攻撃態勢が整った。バーサーク竜は黒い翼を広げ、手裏剣の嵐を巻き上げようとしている。
「――ダメ!」
エメラルドはバーサーク竜を抑えようと、本能的に動いた。先輩隊士の1人が何か叫んだが、もはやエメラルドの耳には入らない。体内の《宿命図》エーテル魔法が燃え、エメラルドの身体は、見る間に竜体へと変じる。
バーサーク竜はギョッとしたように口を開け、長い首を巡らせた。《地魔法》の轟音が一瞬、収まる。
――漆黒の翼を持つ黒色の地竜と、純白の翼を持つエメラルド色の風竜が対峙した。
そして、瞬く間に竜体同士ならではの、くんずほぐれつの戦いになった。バーサーク竜がエメラルド竜の首に噛み付こうとする。
エメラルド竜はバーサーク竜の足元がガラ空きになったのを狙い、自慢の足技を振るい、渾身の力でバーサーク竜の膝を蹴り砕いた。
バーサーク竜が痛みにひるんだ隙に背中を捉え、バーサーク竜をうつ伏せにして組み敷く。黒い翼がボンヤリと上がっていたままだったので、その隙間に潜り込めた形だ。
そのまま、竜体バージョンのレスリング技さながらに、頭部と両肩のポイント、無事な方の片脚をガッチリとホールドする。
バーサーク竜は激しく抵抗した。長い尻尾を振り回し、エメラルド竜の足元を攻撃する。
瞬く間に、エメラルド竜の鱗が光沢を失い、ボロボロになって行く。バーサーク竜の有棘性の鱗のせいだ。バーサーク毒が含まれている棘は鋭く、身悶えするたびにエメラルド竜の鱗を突き刺し、中の肉を貫いた。
足首のみならず、鱗の弱い腹部をこれでもかと突き刺される形になり、エメラルド竜は激痛に呻いた。バーサーク毒は、気が遠くなるような激痛をもたらすのだ。
バーサーク毒に汚染された血液が鱗の外へ溢れ出し、直下の石畳を染めて行った。