城壁と退魔樹林
すっかり姿を現した太陽が、竜王都を擁する『魔の山』の断崖絶壁の東側全体に、浅い角度の陽射しを投げかけている。
クラウン・トカゲは、まだ蝶を追いかけているらしく――或いは、他の楽しみ事を見つけたのか――城壁沿いの樹林の中から戻って来ない。
城壁の外側は魔物がはびこる魔境となっているのだが、魔物と遭遇してしまう事については、それ程、心配はしていない。元々クラウン・トカゲは、魔境を走り回っていたトカゲである。
エメラルドは、もう少しクラウン・トカゲを遊ばせておく事にした。こんな時だからこそ、気晴らしは大切だ。
――数日前まで、エメラルドも相棒のクラウン・トカゲも、竜王都を戦場とする紛争で前線に出ており、そこで運悪く『バーサーク竜』の群れによる無差別攻撃と遭遇し、その灼熱のドラゴン・ブレス空爆の中で、一歩間違えば死ぬような大変な状況にあったのだから。
エメラルドは、その激しい戦闘の内容を思い起こした。
――ストリートに並ぶ多数の高層建築の屋上や側壁を足場としてジャンプ移動する、人馬一体となった竜人武官とクラウン・トカゲ。双方の突撃部隊が激突していた前線の上空に、翼を大きく広げた竜体の影が現れ――
(まさに、竜体をした『狂戦士』。敵味方の区別なくドラゴン・ブレスを吐きまくるような、あんな理性を失った凶暴な奴らもまた、我々と同じ竜人だなんて、何という事だろう)
――前線は、尋常に雌雄を決するどころでは無くなった。正気を失った異形の竜体から放たれた灼熱のドラゴン・ブレス空爆によって、辺り一帯が大火事となり、双方ともに陣容が乱れた――
目下『バーサーク竜』は、一片の疑いも無く、即座に討伐すべき対象だ。だが、同族という事もあって、リスクの高さを無視して、生きたまま捕獲する方に力を入れているのが実情だ。強制的に竜体を解除して人体に戻すと、正気になるのである。しかし、余裕の無い戦場においては、どうしても『ドラゴン退治』さながらの討伐ケースが増える。
実際、数日前の戦場では、バーサーク竜によるドラゴン・ブレス空爆の範囲が野放図に拡大しかねないという危惧があり、エメラルドを含む神殿隊士の迎撃チームは、半数の重傷者を出しながらも、3体のバーサーク竜を討伐する羽目になっていた。重傷者の方は、次の機会にバーサーク化する可能性があり、今は傷を癒しながらも、厳重な監視下に置かれているところだ。
(竜体を解くと同時に、バーサーク状態も解けるだけに……なおさら理不尽だ)
エメラルドは、どうしようもない苦々しさを感じつつも、歯を食いしばるしか無い。
竜王都は、権力闘争の真っ最中である。新しく即位した竜王を中心とする王国派と、神殿を中心とする神殿派とに分かれて、竜王国を左右する『絶対権力(或いは、絶対正義か?)』を争っているのだ。
竜人ならではの尊大さや気の短さが災いし、将来を見据えての政治構造の組み換えプロセスにおいて、話し合いでは決着をみる事が出来なかった。竜王国の首脳部は、王国派(改革派)と神殿派(現状維持派)に、大きく分裂した。竜王国そのものの歴史の浅さ、政治力の未熟さも相まって、武力衝突のステージへと突入してしまったのである。
竜王都で、最も広い平坦スペースを独占するのが王宮エリアだ。岩山の頂上部に位置しており、4~5階層が密に連なった回廊である。その次が、幾つかの街区を挟んで王宮エリアと隣り合う神殿エリアだ。
目下、戦場となっているのが、王宮への攻略ルートとなっている諸街区と、神殿への攻略ルートとなっている諸街区で、前線となっているのが両方の街区が接触している所である。この運の悪いエリアが激戦区となっており、最も荒廃が激しい。一部は既に廃墟ストリートと化しており、治安悪化に乗じて、闇ギルドも跋扈し始めている。
幸い、竜王都の全体を巻き込むような戦争には発展していないが、混乱が長引くに従って、バーサーク竜が急激に増加した。急激に増えたバーサーク竜は、今や、竜王都の治安維持に関して、第一級の懸案となりつつある。
一度、バーサーク竜と化した竜人は、その後は、監視などの処置を必要とする『ハイリスク竜人』として扱われる。『バーサーク危険日』が到来したタイミングで『変身魔法』を使うたびに、繰り返しバーサーク化するためだ。しかもバーサーク化は、武官に付き物の創傷を通じて伝染する。竜体に伴うドラゴン・パワーが上昇すればする程に、強大なバーサーク竜になる。
――いつ、何処で、誰がバーサーク化するのか。バーサーク竜が発生するのか。
これについては、神殿の上級魔法神官による『神祇占術』方面からの研究の進展があって、まだ理論レベルながら、或る程度は予測が付くようになって来ている。だが、一定以上のドラゴン・パワーを備えている竜人武官にとっては、特に自身の将来の破滅に直結する、最も恐るべき不吉な疫病と言えた。
更に、社会不安も急上昇したせいか、不穏な噂が回り始めている。正常な竜人を無理矢理にバーサーク化するような、まさに同族を生物兵器と化す『禁断の魔法』が横行し始めているのでは無いか――という噂が。
バーサーク竜の出現は、今のところは紛争エリアに限られているが、このまま権力闘争が長引き、対策が遅れてしまうと、未来は分からない。
*****
エメラルドは、かぶりを強く振ってモヤモヤした思いを振り払うと、足元に置いていた刀剣を手に取った。柳葉刀に似た反り返った太刀で、竜人が使う最も標準的な武器だ。
刀剣を片手正眼に構える。
呼吸を整えて無心になり、最初の荘重な一振りを決める。
その一振りに続いて、素早い二振り。
朝の体操代わりの演武を、ひとくさりこなす。緩急自在。身体の調子は良い。
――そろそろ、朝食の頃合いだ。
エメラルドは城壁の端に立つと、今まで刀剣だった物を魔法の杖に変化させ、更にそれを『笛』に変化させた。そして、城壁直下から城壁の上まで聳え立つ巨木の樹林に向かって、その魔法の笛を吹いた。
クラウン・トカゲだって腹が空く頃合いなのだ。樹林帯から遠く離れていたとしても、笛の音が届かない距離にまでは離れて行かないし、それ程しないうちに帰還して来る筈。
エメラルドは魔法の笛を、再び基本形である魔法の杖に戻した。
この『魔法の杖』の見た目は、単純な警棒タイプの杖だ。戦闘用の機能が強化されていて、様々な武器への変化が特にスムーズになっている。武官に支給される標準的な品で、特に『戦闘用の魔法の杖』と但し書きが付くケースが多い。
相棒の帰還を待つ間、エメラルドは、魔法の杖を手元でもてあそびつつ、朝の陽光を浴びる樹林を改めて見やった。
城壁に沿って街路樹さながらに並ぶ『退魔樹林』は、摩天楼の如き樹高を誇る、成長の早い巨木の一種だ。
全面、緑色をした大きな樹形は、一見して、巨大な竹によく似ている。つるりとした翡翠のような光沢、竹を思わせる規則的な多数の節目、鋼のような硬度と、しなやかさ。濃い緑色をした葉の表と裏には、虹色の光を反射する不思議な斑点――曜変天目――が散らばっている。
退魔樹林というネーミングが明らかに示す通り、その巨木全体から発散する或る種の樹香によって、城壁の外側に広がる魔境からやって来る魔物の接近を、或る程度、防いでくれる。非常に特徴のある巨木だから、魔境の中でも良く目立ち、安全圏の位置を示す手頃なサインとなるスグレモノだ。
風にさやぐ葉群れを彩る、虹色の不思議な斑点――曜変天目は、光の透過率・反射率が極めて良い。曜変天目を透かし、下方に向かって透過と反射を繰り返した陽光は、鬱蒼とした巨木が林立する樹林の中、まるで光の雨のように地上に降り注いでいる。
そういう訳で、退魔樹林の根元には、意外に下生えが密集している。こうした下生えは、多種類の昆虫や動植物の揺り籠でもある。
やがて、エメラルドの魔法の笛を聞き付けたクラウン・トカゲが、頭頂部のフッサフサを風になびかせつつ、断崖絶壁の下に姿を現した。持ち前のジャンプ力で、樹林帯の先でいきなり切れ落ちている急峻な断崖絶壁を登って来る。
クラウン・トカゲの後方から、不気味な海綿に似ている異形の魔物が4体、現れた。いずれも、驚く程に大きい。1個体が、1つの民家に匹敵するサイズだ。ご丁寧に、赤・青・白・黒のフルセット・チームである。それぞれ、人の頭の大きさ程もある球体を連ねた、数珠のような4色の極彩色の長い触手を振り回して、猛スピードで追いかけて来る。
しかし、淡いアッシュグリーン色をした相棒は、魔物から食料と目された状態にも関わらず、少しも意に介していない。
退魔樹林の樹香が強くなる範囲に接近するや、不気味な海綿に似た異形の魔物は、揃って、その移動スピードを鈍らせた。その隙に、賢い相棒は、グンと距離を引き離した。明らかに駆け引きのスリルを楽しんでいる様子だ。
魔物のうち1体――黒色の海綿が、なおも油断のならないスピードで退魔樹林の根元の下生えに向かって大きく身を躍らせて、見事、着地する。クラウン・トカゲの行く手を塞ぐ形である。
クラウン・トカゲは次の一瞬、巨木の間を縫って、惚れ惚れする程の大ジャンプを見せた。
――高く分厚い城壁となると、その重量も凄まじい。傾斜の激しい断崖絶壁の上で城壁を安定させるため、城壁の外側には、一定の間隔を置いて、巨大な空中アーチ構造をした梁――フライング・バットレス風の壮大な幾何学的構造体が並んでいる。
大ジャンプしたクラウン・トカゲは、唖然とした様子の黒い海綿状の魔物を差し置いて、巨木の中間層を横断している、その幾何学的構造体に足を掛けたのだ。
斜めになっているとは言え、断崖絶壁の急峻な地形に沿って、急速に立ち上がったラインを描いている梁だ。最高レベルの《地魔法》が施された、恐らくこの世で最も理想的な強靭さを実現している建材である。かなり登りにくい筈だが、充分に勢いの付いていたクラウン・トカゲの脚は、軽業師も同然に、その恐るべき急傾斜を軽々と駆け上がって行った。
一瞬、道のりのショートカットのために逆様になって駆け切ったところなど、魔物で無くても、『貴様には"重力"という、この世で最も重要な物理的感覚が無いのか』と叫びたくなる光景である。
結局、クラウン・トカゲは、モノの数秒で城壁の上に到着した。
――城壁ハイウェイの上には、ハイウェイをまたぐアーチを脚部とした尖塔が、一定距離ごとに並ぶ。
1つ先の尖塔の下、アーチ通路をくぐって、朝の巡回当番の神殿隊士2人が現れた。各々、2匹のクラウン・トカゲにまたがっている。白い武官服をまとった2人は、それぞれの手に、『槍』に変化させた魔法の杖を携えていた。
城壁直下までカバーする初歩的な『探知魔法』を展開していた巡回当番の神殿隊士2人は、早速、城壁直下に集結した4色の海綿状の魔物を見つけて目を丸くした。次いで、魔物を脅すため、『槍』を振り回し、魔法の火花を次々に落とす。魔物はそそくさと、退魔樹林の向こう側へと退散して行った。
「また新しい芸を開発したんじゃ無いの、相棒?」
エメラルドも、流石に呆れが止まらない。
トカゲの姿をした相棒は、『スゴイでしょ、褒めて』と言わんばかりに、つぶらな目をきらめかせて、エメラルドの手の届くところに長い首を下げて来た。
巡回中の神殿隊士2人もまた、呆れたような訳知り顔で、各々のクラウン・トカゲの上からエメラルドに手を挙げて挨拶して来た。
エメラルドも苦笑しつつ、手を挙げて応える。その後、淡いアッシュグリーン色をした相棒のおねだりに応え、頭頂部の繊細なフッサフサを、丁寧にモフモフしてやった。