暁星(エオス)の刻
天球は夜の色に包まれていた。東側の稜線の一角が、あるかなきかの白い炎を燃やし始める。
――大陸公路、竜王国――竜王都は未明の終わりの刻。
気の遠くなるような断崖絶壁に築かれた、城壁を兼ねる軍用道路は、馬がすれ違える程の幅しか無い。そのうえ、落下防止のための安全柵などといった設備も無い。天空の回廊さながらの城壁ハイウェイだ。地形に沿って直線的に延びて行ったり、クネクネと折れ曲がったりしている。
未明の闇の中、その命取りな狭さの城壁の上を、疾風のように駆け抜けていく人馬一体の影。
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東天の最下層で燃える稜線の白い炎が、左右にゆっくりと延長して行く。
――もうじき、東雲の暁星の刻。
竜人の女武官「風のエメラルド」は、お気に入りの城壁の一角で、馬に合図を掛けて停止した。馬と言っても、竜人の馬だ。哺乳類の馬では無く、淡いアッシュグリーン色のトカゲである。俊足を誇る二足歩行タイプ。恐竜で言えば「オルニトミムス」類だ。
早朝の早駆けで、全身が気持ちよく火照っている。馬の方も同様だ。
女武官は、自らの背丈の高さほどの位置にある馬上の鞍でヒラリと身をひるがえし、地上に舞い降りた。ほとんど足音のしない、柔らかな着地。熟練の戦士ならではの、身のこなしだ。
――もう春も終わり。夜明け直前の空気は気持ちよくヒンヤリとしており、非番の日の楽しみとなっている早駆けをした後の熱を、適度に冷ましてくれる。
エメラルドは、頬を撫でる一陣の風に、暫し目を閉じた。
高い位置の武官仕様ポニーテールにまとめ上げている髪留めを外し、背中まで届く濃い緑色の髪を、風に晒す。その髪は緩やかなウェーブが掛かっていて、濃淡の色ムラはあるもののエメラルド色だ。
エメラルドは、竜王都の神殿に勤める武官、つまり神殿隊士だ。生命の根源パーツを成す《宿命図》において、四大エレメントのうち《風》をメインとする《風霊相》生まれとして示されているので、正式な名乗りも「風の――」となっている。
非番の日ではあるが、予期せぬ緊急出動に備えて、エメラルドは神殿隊士の制服をまとっていた。聖職に準じる立場に相応しく、白く漂白された武官服だ。なお、通常の武官服は、黒みを帯びたミリタリー・グリーンである。神殿では威信をかけて、これを物理的にも魔法的にも手間を掛けて白くしているのである。
エメラルドが佇んでいるのは、巨大山岳地帯――通称『魔の山』――の外縁部を成す断崖絶壁に、数多の尖塔と共に聳え立つ高い城壁の上だ。
城壁の上に一定距離ごとに並ぶ尖塔の上では、竜王国の黒い紋章旗が、威風堂々とひるがえっている。
再び目を開け、城壁の内側の方へと視線を巡らせる。闇に慣れたエメラルドの視界には、《地魔法》の粋を尽くした城館や尖塔、摩天楼といった高層建築物が入って来た。
竜王都の中でも、この辺りは富裕なエリアとあって、摩天楼が密集しているのだ。これらの建築物は、全体的に淡くグリーンを帯びた薄灰色の魔法建材で構成されている。
窓枠や扉、屋根と言った各ポイントは黒色や濃灰色がメインであるが、下町になるに従って、住民たちの習慣や趣味、或いは資金力に応じて、多彩な色合いをした天然素材の割合が増えていた。
*****
――竜王都の城壁の上から望む天球。夜明け直前の星図が広がっている。
エメラルドは笑みを含みつつ、早駆けの馬を務めた気の良い相棒の方を見やった。
竜人は素晴らしく夜目が利くのだ。その気になれば、闇夜でも或る程度ヘッチャラである。
淡いアッシュグリーン色を全身にまとったトカゲ姿の相棒は、今は手綱を外されて、城壁を兼ねた軍用道路の各所を気の赴くままにウロチョロしている所だ。時折、路面に鼻を近付けてヒクヒクさせ、恐らくは仲間の同種のトカゲが残した謎の印――トカゲ同士の間だけで通じるサイン――を読み取り、長い首を傾げたり、自身でも『フンフーン♪』と鼻を鳴らして、謎の印を残したりしている。
エメラルドは確信していた。
この相棒は、鼻歌を歌えるに違いない。
竜人の馬となっているトカゲは、『クラウン・トカゲ』と言う。その顔形は可愛らしい。おっとりした楕円形で、トカゲにしては愛嬌のあるつぶらな目がチャームポイントだ。
クラウン・トカゲは元々、断崖絶壁の魔境に棲息していた。断崖絶壁を縦横する優れた脚力を持っており、魔境にはびこる魔物と張り合える程の猛烈な速度で長く走り続ける事も出来るので、竜王都の創建の頃に竜人の軍馬として早くも活用され、以来、重宝されている。頭頂部にフッサフサとした、合歓の花冠のような繊細な色合いと形をしたフサフサの飾りが生えているため、ユーモアと洒落を込めて、「王冠トカゲ」と名付けられているのだ。
目の前をヒラヒラと飛び交う夜行性の蝶を見つけると、クラウン・トカゲは、面白そうな鳴き声を上げながら蝶を追いかけて行った。蝶とトカゲは、目もくらむような高さの城壁を軽々と飛び降りて、城壁に沿って並ぶ、鬱蒼とした樹林へと消えて行った。蝶は今まさに、樹林にある寝床へと戻って行くところだったろうに、災難である。
エメラルドは、ひとしきり笑い声を立てた後、頭上を振り仰いだ。一陣の風が再び吹き、女武官のエメラルド色の髪が流れる。
夢のようなラベンダー色をした一つ星、暁星が輝きを強めた。
夜と朝が入れ替わる、ほんの少しの間だけ、天球の中で最も輝く不思議な星だ。
暁闇の空の中、見る見るうちに、ラベンダー色のオーロラさながらのエーテル光が燃え上がった。じっと観察していると、そのラベンダー色の薄明光線は、天上と地上を結びつつも、天球に、不思議な魔法陣の幻影を描いているように見える。
(本当に、何らかの天然の魔法陣を描いているのかも知れない。例えば、はるかな宇宙のメッセージを伝えようとして)
――暁星。
その正体は、物理的な意味での星では無く、エーテルで出来た未知の天体だと言われている。いずれにしても、その不思議な有り様には興味が尽きる事が無く、エメラルドの最もお気に入りの星である。
たまゆらの、幻の刻だ。暁星の刻は、とても短い。
東側を白々と縁取っていた薄明は次第に金色を帯びて行った。未明の闇に沈んでいた天球も、やがて炎のような紫と紅に彩られて行く。
払暁のまばゆい陽光に取り巻かれた暁星は、見る間にラベンダー色を失い、赤らみを増す空の中に解けるように、かき消えて行った。
――まるで、ラベンダー色の砂糖細工が、熱い紅茶の中でサッと溶けるように……
エメラルドは、もう一ヶ月ほど前になろうか、この一瞬をモデルにしたと言う紅茶のメニューを試した時の事を思い出した。あの紅茶のメニューの名前も、「暁星」だった。
恋人とのデートの一環で、滅多に着ないような華やかな色彩の下裳を重ね、高級レストランで初めて食事をした時――メニューで見かけて興味を持って、食後の紅茶として頼んでいたのだ。このレストランは、王宮や神殿の御用達として外交パーティー会場にもなる、メインストリートの高級レストランである。
(四大エレメントのエーテルに満ちた、この世界の、魔訶不思議の一つだ)
エメラルドは一つ息をつき、伸びをした。エメラルドが選んだビューポイントからは、摩天楼の如き高層建築が多いこのエリアの中でも、天球で繰り広げられる星と光の華麗な舞踏劇が、建物の影に邪魔される事なしに鑑賞できたのだった。