第257話 ~私を忘れないで~
今回は少し短めです!
何事もなく無事に船に戻った俺たちは船に運び込んだモルテで助けた人たちがおそらくアメリアの『強制睡眠』によって穏やかな顔で眠っているのを確認したあと、リンガたちに関する説明は明日することにして早々に各自与えられた部屋に重い足を進めた。この世界には魔法があるのだから少なくとも心理的ストレスによる睡眠障害については気にしなくてもいいかもしれない。逆に魔法があるからこその病気とかあるんだろうな。確かレイティス城の蔵書室にも何冊かあったような……。ダメだ、頭が回らない。
体の疲労ではなく精神的に疲れてしまった。ぼーっとしたままベッドに倒れこむ。
瞬きで目を閉じるだけで眠りそうだなと思うと同時に引きずり込まれるように意識が遠のいていった。
気づくと俺は真っ白な空間に立っていた。腰にはベッドに入る前にベッド脇の棚の上に置いたはずの“夜刀神”の重みがある。夢だと感じているのに目が覚めているように思考がクリアだ。
前にアメリアに強制的に眠らされた時は海の中に沈んでいるような景色だったが、今回はどこまでも続いているようにも見える真っ白な空間にいた。夢の中で『危機察知』が働いているのかは分からないが危険なものではなく安全な空間だとなんとなく感じる。
と、空間がどこまで続いているのか目を凝らしていた俺の前に小さな青い炎がどこからか飛んできた。炎なのに熱は感じない。
「人魂?」
とても人間には見えないそれだったが、なぜか会ったことのあるような懐かしい気配がして首を傾げる。
ふよふよと俺の周りを飛んでいる人魂が俺の額に触れた瞬間、それは一人の老人の姿に形が変わった。
「お前は……」
最後に見た時はやせ細り亡羊とした目をしていたが、目の前に現れた老人は血の気が通って温かみのあるふっくらとした頬に、強い意志を持った黒曜石のような瞳がしっかりと俺を見ていた。モルテで俺が最初に殺した老人、カガミ・カミナリだ。
「帰れなかったのか?」
問いかけると、カガミはゆるりと首を振って微笑む。目元に皺が寄って優し気な表情になった。
カガミが視線を俺の背後に向ける。
「お父様」
涼やかな声に振り返ると、教科書で見たような鮮やかな色合いの十二単に身を包んだ一人の女性が立っていた。おそらく俺の母と同じくらいの年の人だろうか。濡れ羽色の髪に金色の飾りがわずかに揺れている。ゆっくりと動き出したカガミの体が俺をすり抜け、その女性に近づいた。差し出された手をカガミは嬉しそうに握る。
「おかえりなさい」
その瞬間、白一色だった空間が一気に色付いた。
地面には石畳の道が舗装され、道の左右には満開の桜が風に吹かれて巻き上がっている。雲一つない青空の下で微笑む女性の背後には真っ白な鳥居と神社がいつの間にか建っていた。俺の背後には無数の階段がありその下には太陽の光に照らされてキラキラと輝く湖が広がっている。とても美しい景色だ。
俺の記憶にはないその景色を見て、なぜか“帰ってきた”と感じた。記憶をなくしてしまっても、どれほど自分の身が傷ついても帰りたいとカガミが願った場所。必ず帰ると約束した場所。肉体という枷を解いてようやく辿りついたのだ。
「遅くなってすまない。……ただいま」
カガミがそう言って破顔する。初めて聞く年齢を重ねた低い声が響いた瞬間、水から引き上げられるように意識が覚醒した。
「そうか、あんたは帰れたんだな」
日の光が窓から入り、ベッドの上の俺の顔を照らしている。
昨夜は顔を顰めるほどの痛みを発していた頭痛が一切なくなった代わりにこめかみにまで流れている涙を拳で拭った。
「アキラ、起きてる? 入っていい?」
「ああ、いいぞ」
アメリアが扉を開けて入ってくる。そしてベッドの上で体を起こした俺の顔を見て目を見開いた。
「アキラ、泣いてる」
「ああ」
自分では制御できず拭っても拭っても涙が溢れてきて止まらない。
乱暴に拭う俺の手を緩く止めて、俺の隣に腰かけたアメリアの手がそっと目の下をなぞった。
「悲しいの? どこか痛い?」
「いや、たぶん嬉し泣きだ。というか俺の涙じゃない」
俺の意志とは別に勝手に流れる涙を止めようとするのを諦めて、アメリアの指の感触を堪能することにする。ほっそりとした指は朝食を作るために水に触れたのかしっとりと冷たかった。
頭はすっきりとしているのに涙が止まらない。この涙はきっと俺の体を通してカガミの流した涙だろう。
「そっか。良かったね」
言葉が少なすぎてアメリアにとってはわけが分からないだろうに、嬉しそうに笑ってくれる。
俺はその細い腰を抱き寄せて肩に額を乗せた。
「……そうだな」
あの夢の光景が俺の願望が作りだしたものだったのだとしても、俺の意思とは関係なく流れるこの涙は本物だ。
帰れて良かったな。