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黒の女王  作者: 神森由佳
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後編

   五章     カラトウガラシ亭


 そして、さらに二週間経ったある日。

 朝、ジェイルはいつものように扉を開け、ブライズとクレストにエサを持って行った。二頭は扉の外で待っていたものの、どうにも落ち着きがない。《漆黒の森》の奥を気にして、そわそわしている。エサを置いて頭を撫でてやっても、二頭は座ろうともしなかった。いつもなら、飛びかかってじゃれてくるというのに。

「どうかした?」

 森で何かあったのだろうか。二頭が気にしている方に視線を向けるが、《漆黒の森》は変わらず暗く木々が視界を遮っていて、異変など分からない。左目なら少し奥まで見えるが、見える範囲に異常はない。鳥のさえずりだけが、やけに響いて聞こえた。皆に知らせに行った方がいいかもしれない。

 ジェイルが館に戻ろうとすると、クレストがバゥウと低く吠えた。ブライズはジェイルの袖元を咥え、グイグイ引っ張ってきた。

「え、ちょ、ちょっと?」

 ジェイルは二頭に引きずられるようにして、森の中に連れ出されてしまった。あっという間に、館が見えなくなる。まだ森に慣れないジェイルは、血の気が引くのを感じた。戻れなかったら、大惨事では済まない。

 おろおろするジェイルにお構いなしで、ブライズとクレストは進んで行く。この二頭とはぐれては、本当に館へ戻れなくなりそうなので、嫌でも付いて行くしかない。

足元を見れば、薄らだが道のようなものがあるのに気付いた。獣道にしては、幅が広い。

「どこまで行くの?」

 二頭に問いかけても、もちろん答えは返って来ない。まさか、このまま森の外へ行くつもりなのだろうか。

 不安しかない中進んでいると、どこかでガサッと音がした。ブライズ、クレストそしてジェイルも音がした方を向く。

 がさがさと葉を揺すり、落ち葉を踏みしめる音はどんどん近付いて来る。ジェイルに分かるのは、音の主が複数いることと、大きい体をしているということだけだ。鳥や小動物はこんな大きな音を立てない。

 ジェイルは震える足で引き返そうとしたが、ブライズとクレストは変わらずジェイルを引っ張る。腕を引こうとささやかな抵抗を試みていると、ひと際近くで音がした。心臓がばくばく鳴っている。

 もう一度がさりと音がして、恐る恐る顔を向けると、

「あの、すみません。《黒の女王陛下》の使用人の方でしょうか?」

 現れたのは身なりの良い、二十代半ばくらいの女性だった。後ろには付き人らしき年配の男性が立っていた。


* * * *


「ようこそいらっしゃいました。私が《黒の女王》、アリシア・ハルフォードです」

 応接室のソファに座り、アリシアは静かに言った。いつも通り全身黒い服に身を包み、客人に向かって微笑む。

ジェイルはテーブルの上に紅茶をそっと並べた。その後どうしたらいいか分からず、ティーク、リディアと一緒にソファの後ろに並ぶ。ウェルはアリシアの足元に陣取って寝転んでいた。ノッテとマティーナはうたた寝をしていたので、そのまま部屋で寝かせている。

反対側のソファに座った女性は、切り揃えられた枯草色の髪を揺らして口を開いた。

「私はイザベラ・オークウッドと申します。こちらは執事のジョセフ・マーシャルです」

「この度は急な来訪、失礼いたしました」

 こちらもソファに座らず、イザベラの後ろに立っていた男性──ジョセフは頭を下げた。イザベラの身なりや、ジョセフが付き従っていることからして上流階級の人間だろうか。ジェイルのいた村では、村長の家にしか執事はいなかった。

「お噂通り、不思議な髪色ですね……」

 イザベラは感心したように、アリシアの様々な色に見える黒髪を見つめた。ジェイルの長い前髪も気になったようだが、イザベラは何も言わなかった。

「ふふ、この館に誰か訪ねて来るのは久々なので、歓迎いたします。こちらは助手のティーク・フォスター、弟子のリディア・カネルヴァ」

 アリシアに紹介され、ティークとリディアが会釈をした。ジェイルも前髪を撫でつけて、呼ばれるのを待つ。

「それから……」

 しかしそこで、アリシアは少し困った顔をした。考えてみれば、ジェイルの肩書きは何なのだろう。新入り、居候、もしくはイザベラが言ったように使用人だろうか。だが普段の要領の悪さからして、とても胸を張って使用人とは言えない。

「……雑用係」

 アリシアが何か言う前に、ぼそりとウェルが呟いた。

「はい?」

「え、えっと、彼は雑用係のジェイル・エリクソンです!」

 きょとんとするイザベラに、アリシアは猫の言葉を誤魔化すように言った。その後、申し訳なさそうにジェイルに視線を向けて来たので、気にしていないと首を振って見せた。それに、雑用係が一番しっくりする気がする。

「この子はウェルです」

 アリシアは紹介のどさくさに紛れて、ウェルの尻尾を軽くはたいた。

「よく迷わずにいらっしゃいましたね」

「迷いかけていたところを、エリクソンさんに案内していただいて、ここまで来れたんです」

 イザベラはありがとうございます、と言ったが案内したのはブライズとクレストだ。ジェイルは二頭に引きずられていただけにすぎない。

「それで、どのようなご用件でしょうか?」

「女王陛下に、ある物を……」

「アリシアで結構ですよ。単なる通り名ですから」

「は、はい。では私もイザベラで構いません。アリシアさんにある物を探していただきたいんです」

 イザベラは戸惑ったようだったが、すぐに言い直した。

「探し物、ですか」

「私が小さい頃、母方の曾祖母からもらったものなんです」

 一つ一つ思い出すように、イザベラは話し始めた。

「私の曾祖母はとても変わった人でした。楽しいことが好きで、いつも笑っていて。珍しいものを集めるのが趣味だったんです。そのせいか、親類からは嫌われていたようで」

 他と違うところがあったり変わっている人は、どこでも不当なことを言われてしまうんだな、とジェイルは思った。

「あれは、私が五歳の時でした。曾祖母は私に小さなビロードの巾着袋を渡して、『この中には不思議な力を持つものが入っている。大事にするんだよ』と言ったんです。でも、その巾着袋は私が中身を見る前に、祖父に没収されてしまったんです。その後すぐに、曾祖母は亡くなってしまって」

「お祖父様に?」

「祖父は婿入りで、曾祖母とは折り合いが悪かったようです。親類達と同じように、色々な物を集める曾祖母を嫌っていました。父は曾祖母の影響か、美術品を集めるのが趣味で。だから私まで巻きこんでは困る、と思ったのでしょう」

 目を伏せて、イザベラは紅茶を口にした。ティークは助手らしく、話を書き留めている。

「その祖父も一年前に亡くなって、遺品の整理をしていた時に、ふと巾着袋のことを思い出したんです。遺品の中にあるかもしれないと思って探してみたんですが、見つかりませんでした」

「お祖母様には聞いてみたんですか?」

 気になったジェイルが尋ねてみると、イザベラは首を横に振った。

「祖母は私が生まれる前に、病で亡くなっているんです。両親に聞いてみましたが、知らないと言われました」

 あらら、とジェイルの隣でリディアが呟いた。それでは、見つからないのも仕方ないだろう。

「家のどこかにあるのか、捨てられてしまったのかも分からなくて。途方に暮れていた時、アリシアさんの噂を聞いたんです。曾祖母の形見、探してはいただけませんか?私にとっては、色んな話を聞かせてくれる優しい人だったんです」

 頼みこむイザベラに、アリシアは少し考えこんだ。

「捨てられてしまっていた場合は、どうすることもできませんが……」

「そういった品の中には《魔法具》もございましたので、簡単には捨てられず人目につかぬよう、しまわれたものがございました。今回の品も、ひっそりどこかにしまわれている可能性が高いと思われます」

 しばらく黙っていたジョセフが、無表情で言った。

「家にないのであれば、諦めようと思っています。でももし、家のどこかにあるのなら、中身が何だったのか知りたいんです」

 イザベラは強い意志を持った瞳で、アリシアを見すえる。彼女の決意は固いようだ。アリシアは紅茶を一口飲むと、微笑んだ。

「分かりました。依頼、お受けしましょう」

「あ、ありがとうございます!」

 緊張の糸が切れたのか、イザベラは顔をほころばせた。こころなしか、ジョセフもほっとしたような表情をした。

「すみません。ということは、オークウッドさんのお宅に行って探し物をする、ということになりますがよろしいでしょうか?場合によっては、何日か滞在させていただくことになるかもしれません」

 ティークがペンを持っていた手を止めて、顔を上げる。イザベラは頷いた。

「はい。正確には、今は別荘にしている屋敷なんです。普段は都にいるもので。その分使用人は少ないですし、あちこち探して下さってかまいません。場所は、《ラヴィオスの丘》です」

「《ラヴィオスの丘》ですね。ではいつ頃、お伺いすればよろしいでしょうか?」

「私としては、いつでも。掃除だけはさせておきますね」

 イザベラの返答を聞き、ティークは視線をアリシアに向けた。アリシアは一瞬考えてから言った。

「四日後でいかがでしょうか」

「四日後ですね、分かりました。それではよろしくお願いいたします」

 イザベラとジョセフは深々と頭を下げ、立ち上がった。リディアはぱたぱたとドアに走り寄り、二人の退室のためにドアを開けた。一応見送るつもりなのか、ウェルものっそりとドアまで移動した。突っ立ってるわけにもいかないので、ジェイルもそれに続く。

「大人しい猫ちゃんですね」

 イザベラはそわそわとウェルの前にしゃがんだ。ジョセフはまだアリシア達と話していたが、ティークが地図を取りに行く、と走って出て行った。

「気紛れなだけですよ」

 リディアが言うと、不服だったのかウェルは尻尾をぱたりと動かした。

「そうなんですか?話をしている時もじっとしていたし」

 ふわりとイザベラが撫でると、いつもはアリシアにしか触らせないのに、されるがままだ。リディアはボスがいい子、と笑いを堪えていた。

「僕が触ろうとした時は、引っかかれてしまったんですが」

「そうなんですか?今日は機嫌がいいのかしら」

「それが、綺麗な女の人が好きみたいで。あたしも滅多に触らせてもらえないんです」

 初耳である。まさか、そんな中年男性のような理由でジェイルは引っかかれたというのか。イザベラは深く考えていないようで、まあ、と嬉しそうに笑った。ウェルはただの猫の振りを押し通し、しゃべることなく大人しくイザベラに撫でられている。そこへティークが駆け込んで来た。

「地図、取ってきました!」

「お、早いね」

 のんびりとリディアは言うが、二階のこの応接間から四階の図書室まで走り、ティークは息一つ切らしていない。驚きを通り越して、ジェイルも日常になりつつあるのが恐ろしい。

 アリシアは地図を見てジョセフと少し話すと、意外にもジェイルに声をかけてきた。

「ジェイル、お二人を森の入口まで送ってくれる?ブライズとクレストも外にいると思うから」

「ぼ、僕が?」

 思わず聞き返してしまう。来る時は不可抗力で案内することになっただけで、まだ森に慣れたわけではない。こういうことに慣れていそうなティークを見ると、難しい顔で地図と睨めっこしていた。アリシアはジェイルの不安を読んでくれたのか、

「大丈夫、ブライズもクレストも、あなたにすごく懐いてるもの」

 小声でそっと励ましてくれた。最近では、二頭は一番ジェイルに懐いているとノッテとマティーナにも言われた。ジェイルとて、なるべく役に立ちたい。

「……うん、分かったよ」

 意を決して、頷く。ブライズとクレスト頼みというのは、やっぱり情けないけれど。

「それでは、失礼いたします」

「じゃあね、猫ちゃん」

 イザベラに手を振られ、ウェルは猫らしい声でにゃあ、と鳴いた。ジェイルが驚きながら閉めたドアの向こうからは、リディアの抑えた笑い声が聞こえた。

 帰りも結局ブライズとクレストに案内され、ジェイルは二人を森の外まで送り届けた。目の前にあるならされた道を見て、やはり森の中は別世界のようだなと実感する。

「ここまで、ありがとうございました」

「いえ!ではお気をつけて下さいね」

 イザベラとジョセフを見送り、ジェイルは空を見上げた。村にいた頃は何とも思わなかったのに、とても広く感じられた。ふと道に視線を戻せば、しばらく前に動物でも通ったのか、泥が点々と落ちていた。


* * * *


 泊りがけ前提で出掛けるとあって、館の中は急に慌ただしくなった。

 アリシアは必要になりそうなものをあれこれ引っ張り出し、リディアはアリシアが散らかしたものを片付けるのに躍起になっている。ティークとジェイルは、中庭の整備やリディアでは手の回らない場所を掃除したりした。

 そして、各自の荷造り。とは言っても、ジェイルは渡されたカバンに数日分の服と洗面用具を詰めるくらいだったので、早々に終わってしまった。明日も準備は続くが、自分のことは気にしなくていいだろう。

「靴下が片方なかったとか、ないでしょうねぇ?」

「アタシ達がいないと心配だわァ」

 ノッテとマティーナがそわそわとカバンの周りをうろつく。

ここはジェイルの部屋というより、ほぼジェイルとノッテとマティーナの部屋と化していた。カバンのふたを閉め、ベッドに座る。

「もしかして、ノッテとマティーナは行かないの?」

 ジェイルはてっきり全員で行くものだと思っていた。白猫と黒猫はうろつくのを止め、ジェイルの膝に飛び乗った。暖かいが、二匹だと流石に重い。

「アタシ達は留守番よォ」

「ブライズとクレストの面倒と、畑の水遣り誰がやると思ってるわけぇ?」

「……畑の水遣り、できるの?」

 いつも注意をしてくれる二匹がいないのか、と思ったのもつかの間、ジェイルは聞き返してしまった。

「魔法が使えるのは、ボスだけじゃないのよぉ」

「ボスほど力は強くないけどねェ」

 二匹は顔を見合わせると、ヒョイとジェイルの膝から飛び降りた。途端、

「飛べ、飛べ、彼の元へ!」

 マティーナが唱え、枕が浮かび勢いよくジェイルの顔面を直撃した。

「ぶはっ!?」

「ニャハ、命中ぅ!」

「いきなり、ひどいよ……」

 柔らかい枕とは言え、それなりの強さでぶつかったので顔がジンジンと痛む。猫達は足元でニャフフと笑った。

「これでアタシ達の凄さ、分かってもらえたァ?」

「分かった、分かったよ。普段の水遣りも手伝ってくれればいいのに」

「嫌よぉ、あの如雨露重いから疲れるんだものぉ」

「魔法を使うのに、重いとかあるの?」

 確かに水を入れた如雨露の重さはジェイルも知っているが、直接持つわけでもないのに重さが関係あるのだろうか。

「大アリなんだからァ。力量を超えるものは、魔法でも飛ばせないのよォ」

「例えば、今ここでアンタを宙に浮かそうとしてもアタシ達には無理ねぇ。如雨露くらいが、関の山だわぁ」

 魔法も万能ではないらしい。

「アリシアなら、本気で怒った時にはそれくらいやるけどねェ」

 のんびりと白猫が言うが、それはそれで非常に怖い。

「……でも、僕より君達が行った方が役に立つと思うよ」

ジェイルはため息をつき、わしゃわしゃと二匹の頭を撫でた。

「勉強だと思って、行ってきなさぁい。大丈夫、そんなに難しい依頼じゃなさそうだものぉ」

「アリシアとボスの言うことをよく聞きのよォ。依頼人にご迷惑だけはかけないようにしなさいねェ」

 ここでの生活を考えると、一抹の不安がよぎる。何もないところで転んだりしないようにしなければ。

「そういえば、《ラヴィオスの丘》ってどこにあるの?」

 アリシアとティークは地図で場所を確認していたが、遠いのだろうか。白猫は一瞬考えてから口を開いた。

「《黄檗国》のはずだから、そんなに遠くはないと思うけどォ」

「《黄檗国》……?」

「アンタまさか、世界の国々を知らないんじゃないでしょうねぇ?」

 ジェイルの呟きに、黒猫もゆっくり顔を上げたので慌てて弁解する。

「ぜ、全部は知らないけど、いくつかは言えるよ。《翡翠国・クラントール》、《群青国・イクトシア》、《鉛丹国・ベルンスカン》でしょ」

 ジェイルがいた村は《クラントール》にあった。いくらなんでも、自分の国の名前くらいは知っている。知ってはいるが、本当に国名だけで国柄までは分からないので、強くは言えないのが悲しい。《翡翠国》と《鉛丹国》は隣国だったので、覚えていただけである。

「本ッ当にアンタは、予想の斜め上をいくわねェ……」

「ジェイルには読み書きだけじゃなくて、常識も教えなくっちゃいけなかったわぁ!」

「この間持ってきた本に、世界地図載ってたわよねぇ?」

 猫達にそこまで言われてしまうと、自覚していても人間として立つ瀬がない。ジェイルがここに来た時常識が通じないと思ったが、同じことを思われているとは。

「飛べ、飛べ、此方へ!」

 今度はノッテが唱えた。ジェイルの勉強用の机の上に並ぶ本から一冊、ふわりとジェイルの隣へ飛んでくる。二匹はベッドへ飛び乗って本を開くと、凄まじい速さでページをめくり始めた。さながら本は捕えられた獲物だ。お目当てのページはすぐ見つかったようで、二匹はピタリと動きを止めた。

「ほらジェイル、これ見なさぁい!」

「子供用の本だから、分かりやすいはずよォ」

「子供用だったの、それ……」

 軽い衝撃を受けながら、ジェイルは本を覗き込んだ。見開き一杯に世界が描かれ、それぞれの国の領土で線引きされている。子供用らしく細かい描写はなく、大きな山や有名らしい都市名だけがちらほら書かれていた。残念ながら、ジェイルはどの名前も聞いたことがない。

「村の周りの地図は見たことあるけど、世界地図なんて初めて見たよ」

 軽く目を走らせたが、かつていた村が、地図上のどの辺りなのかも分からなかった。《漆黒の森》に近い場所のはずだが、漠然としすぎていて場所を絞れない。

「そんな気がしたわぁ……」 

「《七大国》だけは覚えときなさァい。アンタが知ってた三国と、《紅緋国・アヴァランド》、《紫紺国・ハイスティ》、今回行く《黄檗国・シトローネ》よォ」

 マティーナがたし、と地図の真ん中より少し上に前足を置いた。その下に、飾り文字で《シトローネ》と書かれている。

「《七大国》って?」

「世界で特に大きく、力のある国々ねェ。国名全部は言えなくても、《七大国》って言葉はは覚えておきなさァい」

「……あれ、《七大国》なんだよね?六つしかないよ?」

 地図上でも大きな国は六つ、マティーナの言った国名を足しても七つにならない。一桁の足し算を間違えるほど、ジェイルは馬鹿ではないつもりだ。二桁は少し自信がない。

「百年くらい前までは、《青藍国・ラズワルト》があったのよぉ。内乱で滅んじゃったけどねぇ。この本は比較的最近のだから、《青藍国》は載ってないわぁ」

 ぺしぺしと前足で本を叩き、ノッテが答えた。

「今は六つなのに、《七大国》なの?」

「それぞれの国のお偉いさんは、《六大国》を広めたいみたいだけどねェ。当時の名残で、今でも《七大国》って言うのがほとんどなのよォ」

 複雑な心境なのは、ジェイルだけではないらしい。《紫紺国》と《群青国》の間にあったらしいわぁ、と黒猫に言われ、ジェイルは二ヵ国の国境の辺りに目を落とした。注釈も何もなく、そこに在ったという国の面影はどこにもない。

本を手に取りしばらく眺めていると、ドアが控えめにノックされた。

「はい?」

「ジェイル、荷物どう?全部詰められた?」

 顔を出したのはアリシアだった。足元にはウェルもいる。

「うん、ちょうど詰め終わったところだよ」

「あら。一回り大きいカバンが見つかったんだけど、必要なかったわね」

「だから言っただろ、お前の荷物が多すぎるんだよ」

 ウェルが言わんこっちゃない、とアリシアを見上げる。いつものことじゃないのォ、とマティーナがウェルを宥めた。アリシアは一回りどころか、二回りほど大きいカバンを手にしていた。小柄なリディアなら入れてしまいそうである。

「あの、本当に僕も一緒に行っていいの?」

 ジェイルはおずおずと尋ねた。

「小僧を置いてく方が心配だぜ。食糧庫が空になってそうだ」

 ジェイルは真面目な話のつもりだったのに、ばっさりとウェルに言い捨てられてしまった。アリシアはカバンを置いて、ジェイルの隣に座ると穏やかに笑った。

「ジェイルがいてくれて、随分助かってるのよ。だから心配しないで」

「言っておくけど、勧められない限り他所でおかわりしちゃだめよぉ」

ノッテにもとどめを刺されてしまった。普段のおかわりも、三回で止めるようにはしているのだ。

「行くの《黄檗国》だもんなぁ。食べるのは小僧だけじゃないかもしれないぞ」

「ちょっと、私を見て言わないでくれる?」

 アリシアが眉をひそめたが、ウェルは気にした様子もなくジェイルのカバンの上に寝そべった。

「どういうこと?」

「《黄檗国》は美食の国とも言われてるのよ」

アリシアは楽しそうに話してくれる。

「図書室にある料理の本も、《黄檗国》のものが多いの。盛り付けも綺麗なのよ。私も気を付けてるんだけど、ジェイルはそこもちゃんと見てくれてる?」

 悪戯っぽく顔を覗かれて、どぎまぎしてしまう。食べることに集中して、盛り付けに意識を向けたことはあまりなかった。

「小僧でも《黄檗国》は知ってるんだな。ま、常識中の常識か」

「いや、今さっきノッテとマティーナに教えてもらったばっかりで……」

「それで地図を見てたのね」

 ジェイルの手元を覗き、アリシアが言った。

「この子ったら、《七大国》って言葉すら知らなかったのよォ」

 マティーナの告げ口に、ウェルはぽかんとした顔で、機嫌よさげに立てていた尻尾をへにゃりと降ろした。

「マジかよ……。おかわりのことといい、今までどうやって生きてきたんだ?」

 そうは言われても、片田舎では国なんて規模が大きすぎる話は滅多に出ない。たまに隣村や、《漆黒の森》の話を聞いたくらいだ。もっと言うならば、ジェイルはばあちゃんと村人の会話をこっそり聞いていただけである。

「ウェルにとっての常識が、誰にとっても常識とは限らないでしょ」

「ケッ」

 ジェイルが返答できずにいると、アリシアがたしなめた。ウェルは不服そうだが、ノッテとマティーナにはジェイルのことだし、と悟ったようなことを言われてしまった。

「この地図には載ってないけど、《ラヴィオスの丘》はこの辺りよ」

 アリシアは《漆黒の森》から少し西を指差した。地名どころか、丘の絵もない。

「もっと詳しい地図なら、ちゃんと載ってるんだけど」

「これ、子供用みたいだからね」

ジェイルは小さく笑った。地図にはないだけで、どれだけの街や村があるのだろう。

「こうして見ると、《漆黒の森》って広いんだね」

 今自分がいるであろう場所に、ジェイルは視線を移した。《七大国》の一番小さい国の半分ほどだろうか。他は美しい飾り文字で書かれているのに、《漆黒の森》の字だけおどろおどろしい。

「そういえば、《漆黒の森》ってどこの国の領地なの?」

 《群青国》、《翡翠国》、《黄檗国》の三国の間にあるが、地図ではよく分からない。

「どこの国のものでもねぇよ」

 あくびをしていたウェルが答えた。驚いて、ジェイルは地図とアリシアを交互に見た。

「えっ、そうなの?」

「中立地帯みたいなものかしら。だからこそ、色んなところから依頼が来るんでしょうね」

 アリシアが苦笑する。逆に言えば、この森が一つの国ということだろうか。アリシアが《女王》と呼ばれているのは、あながち間違っていないのかもしれない。

「おい、そろそろ戻って片付けないと寝れねぇぞ」

「あっ、いけない!」

ウェルに言われ、アリシアは勢いよく立ち上がった。

「出したものは、ちゃんと仕舞わないとだめよォ」

「退かしただけじゃ、片付けたことにはならないんだからぁ」

 白猫と黒猫に注意され、アリシアはむくれた。

「んもう、分かってはいるのよ!それじゃ、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 使われなかったカバンを持って、アリシアとウェルは戻っていった。

 穏やかに時間を過ごした気がする、そんな夜だった。


* * * *


 約束の日を明日に控えた、夕暮れ時。

「忘れ物はないわね」

「こんな時間に出るの?」

 館の玄関で、ジェイルは立ち尽くした。《漆黒の森》はより一層暗く、暗闇が全てを飲みこもうとしているかのようだ。エントランスのシャンデリアが明々と照らしているが、森には届かない。これでは足元もおぼつかないだろう。

ウェルが言っていた通り、アリシアのカバンはやたら大きかった。ジェイルのカバンの二倍はありそうだ。リディアに至っては、箒も持って行くつもりらしい。こんな大荷物で、夜の森を歩くというのは辛いだろう。

「いつも、出かけるのは夜なのよ。その方が都合がいいから」

 ジェイルが初めてここに来た時に着ていた黒いローブを羽織り、アリシアが言った。秋の夜は冷える。ジェイルも上着の前をしっかりしめた。

 ブライズとクレストにはいつもより早めに夕食を出したが、森に戻らずジェイルの周りをうろついている。皆が玄関でばたばたしているのが気になるようだ。撫でてやると、「ワゥ~?」と少し情けない声で鳴いた。

「師匠、《ラヴィオスの丘》までどれくらい?」

「馬車で一日くらいだと思うわ」

 リディアに聞かれ、アリシアが答えた。遠いのか近いのか、いまいちジェイルには分からない。

「こんな時間に馬車が通るの?」

 森を出てから、乗合馬車を拾うつもりなのだろうか。馬車を見たことはあるが、乗るのは初めてだなと思っていると、エントランスの奥からティークの声がした。

「みなさーん、出しますから退いてくださーい!」

「はーい!」

「ほらジェイル、そんなとこにいると危ないよ!」

「え?」

 リディアに腕を引かれ、ジェイルは玄関のわきに移動した。すぐに蹄のような音と、ガラガラという音が聞こえてくる。犬達も音に反応し、脇に移動した。

 一瞬大きな影がシャンデリアの光をさえぎり、姿を現したのは二頭の馬と黒塗りの箱馬車だった。馬車はジェイル達全員が乗っても余裕がありそうだ。

「お待たせしました、荷物を先に乗せてしまいましょう」

「え、えぇ!」

 ジェイルは思わず叫んでしまった。館の一体どこに、馬車なんてしまわれていたのだろう。それより何より。

「馬なんていたんだ!全然知らなかったよ!」

 ジェイルが馬に近づくと、アリシアが小さく笑った。

「違うのジェイル、それ木馬なのよ」

「木馬!?」

 よく見れば、確かに精巧にできているが木馬だ。しかし、蹄の音が聞こえたのにどうなっているのだろう。

「その木馬にも魔法がかけてあるのよぉ」

「目的地へ馬車を引くように、ってねェ」

 馬車の後ろからノッテとマティーナが顔を出した。

「人に見られると驚かれるから、この木馬車は夜にしか出せないの。夜闇にまぎれれば、本物の馬に見えるでしょ」

 アリシアがさらに説明してくれた。さっき言っていた都合がいい、というのはこのことだったようだ。暗くてしっかりとは見えないが、木馬は滑らかな曲線で本物と見紛う作りをしている。それでも、日の光の下ではすぐに分かってしまうものなのだろうか。

「それじゃノッテ、マティーナ、留守番よろしくね」

「任せといてちょうだぁい」

「バッチリなんだからァ」

 留守番の二匹は軽く答えた。そのまま、とてとてジェイルの方へ来る。

「ジェイル、寝坊したりするんじゃないわよぉ」

「食べ過ぎないようにしなさいねェ」

「何かあったら、ボスかアリシアに言いなさぁい」

「分かってるよ……」

「本当かしらぁ?」

「ブライズとクレストも心配でしょォ?」

 白猫に話しかけられ、犬達は分かっているのかいないのか、鼻をスンスン鳴らした。

 ばあちゃんだってこんなに口うるさくなかったのに、と思う反面、自分はそんなに心配をかけているのだろうか、とも思ってしまう。聞いていたアリシアにクスリと笑われて、ジェイルはどうにもバツが悪い。

「こっちの荷物は乗せましたよ」

「ほら雑用係さん、あたしのカバンよろしく」

「えっ」

 リディアにずしりと重たいカバンを渡され、上半身が傾く。

「ぼやぼやしてんじゃねぇぞ、小僧」

 見ればすでに、ウェルはアリシアとティークの荷物と一緒に馬車の中にいた。馬車の中には館にあるのと同じランプがかけられていて、座席が向かい合うようになっているのが見える。

ジェイルは渡されたリディアのカバンと自分のカバンを中に入れた。

「ジェイルさんはそのまま乗って下さい」

「う、うん」

「リディアさん、シエロは?」

「自分で持って入る!」

ティークに言われ、ジェイルは馬車に乗りこんだ。赤い座席は思いのほか柔らかく、座り心地はいい。続いてリディアが箒を足元に置き、向かいに座った。長身のティークも背をかがめてリディアの隣に座る。最後にアリシアがジェイルの隣に乗り込んだ。

「行ってくるわね!」

「行ってらっしゃい!」

「バゥウ!」

 アリシアが手を振ると、動物達が答えた。ジェイルも横からそっと手を振ると、犬達に尻尾で返事をされた。ノッテとマティーナはまだもの言いたげだが、いい加減勘弁してほしい。

「それじゃ、出発!」

 アリシアが木馬に声をかけると、馬車はゆっくりと動き出した。森の地面は慣らされていないため、ガタガタと揺れるが走りは安定している。魔法で動くため、御者はいらないようだ。

「この馬車も《魔法具》なの?」

「はずれ!《魔法具》じゃなくて《大魔法具ソーサルム》だよ」

 前髪の間からしげしげと内装を眺めながら尋ねると、リディアが答えた。初めて聞く言葉にぽかんとするジェイルを見て、ウェルがわざとらしく二回もため息をつく。

「《大魔法具》は、使い方を知ってりゃ誰にでも使える《魔法具》と違って、魔法使いが自身のために使うもんだ」

「使い方が特殊だったり、組み込まれてる魔法が複雑だったりするの。道具に魔法が組み込まれてるっていうのは、《魔法具》と同じなんだけどね。扱いが難しくて危険なものもあるわ」

 アリシアが猫よりも詳しく説明してくれる。この馬車にも複雑な魔法が組み込まれているのだろうか。そう思うと、尻の辺りがムズムズしてくる。

「……言っとくけど、正確に言うと《大魔法具》は木馬の方だから。こっちはただの客車」

「え」

 リディアに半目で言われ、ジェイルは少しがっかりした。移動以外にも魔法があるのかと期待したのに、早々に裏切られてしまった。一気に気落ちしたジェイルに、ティークが慰めるように声をかける。

「木馬には危険な魔法はかかっていないので、きちんと手順を踏めばジェイルさんにも動かせますよ」

 お言葉は非常に嬉しいが、逆走させたりどこかにぶつけそうなので遠慮しておく。壊しでもしたら洒落にならない。

「ジェイルが知らなくて師匠が恥かくといけないから、有名な《大魔法具》は教えといてあげる!魔力を込めた金属の《輝金属オリハルコン》、土で出来た下僕の《泥人形ゴーレム》、高度な魔法を使う時に補助する《術式杖ロータスワンド》っていうのがあるんだよ。《輝金属》は扱いが難しいし、《泥人形》は質が悪いのだと辺りが泥だらけになっちゃうんだよね。《術式杖》は魔法使いがそれぞれ使いやすいように作るから、色んな種類があるの」

 真面目な顔をしてリディアが言うが、その視線は時折師を見ている。アリシアが小さく頷くと、リディアは誇らしそうな顔をした。説明が合っているということなのだろう。

「リディアの《大魔法具》もあるの?」

「あたしの力じゃ当分無理。でも、いつか作ってみたいなぁ」

「どうせ掃除用だろ?」

「あたしだって、掃除以外のこと考えてるよ!」

 猫にニヤリと言われ、弟子はむすりとした。ジェイルもてっきり掃除関係のものだと思っていた。むしろ他に何があるのだろう。

「このまま、ずっと馬車に乗って行くの?」

「明け方に町で宿を探して、一度休む予定です。長時間座っていると、辛いですからね」

 そう答えてティークは柳眉をひそめた。じっとしているのは苦手だと言っていたので、ただ座っている移動時間は誰より苦痛なのだろう。

「陽のある内は、だいたい宿でやりすごすのよ」

「宿まではガタンゴトン!」

 リディアは楽しげに足を揺らす。ジェイルも今更ながらドキドキしてきた。村と館以外を知らないので、実感がなかったのだ。

「そろそろ、食料の買い出しもしないといけないわ」

「冬服も出さないといけませんよ」

「一気に寒くなってきたよね」

 ひどく日常的な会話。

 《黒の女王》が仕事をしに行くとはとても思えない。ここで過ごす内に、ジェイルは噂なんて当てにならないことを実感していた。どんな風に言われていても、皆自分と同じ人間なのだ。

「俺は寒いの嫌いなんだ。早く準備しろよ、雑用係」

「え、僕が?」

「あっはは、頑張ってー」

 四人と一匹はとりとめのない話をしながら、夜の中を進んだ。


* * * *


「ジェイル、ジェイル!起きて、ジェイル!」

 ジェイルが夢うつつでいると、肩を揺すぶられた。ノッテとマティーナではない声に、ぼんやりと目を開く。まず視界に入ったのは、青く反射する黒髪だった。

「おはよう、ジェイル。着いたわよ」

「ん、アリシア……?お、おはよ!」

 目の前で微笑むアリシアを見て、ジェイルは一気に意識が覚醒した。ここが自分の部屋ではなく馬車の中で、依頼のために出かけたことを連鎖的に思い出す。座ったまま寝ていたため、背中と腰が痛い。アリシアが先に降りた後、軽く体を伸ばそうとして天井に腕をぶつけた。

 馬車から降りると、ジェイルは朝の冷たい空気に首をすぼめた。吐く息はわずかに白く染まる。まだ辺りは薄暗く、日の出からそんなに時間は経っていないようだ。

 馬車の脇では、荷物の上で箱座りをしたウェルがリディアと話していた。

「あ、やっと起きたね。師匠が起こしてもダメなら、ボスが引っかきに行くって話してたとこだったんだよ」

「チッ、つまんねぇの。寒ぃんだからさっさとしやがれ」

「ご、ごめん……」

 リディアとウェルの話を聞き、ジェイルは早く目が覚めてよかった、と心の底から思った。初めて館に来た日のことは、地味に心に刺さっている。

 振り返って木馬を見ると、栗色に塗られたてがみもついているが、無機的だった。夜に見た時と違い置物のようだ。これが走っていれば、驚かれてしまうかもしれない。

 ジェイルは視線を周りに移すと、キョロキョロ見回した。

「えっと、町は……?」

 木がまばらに生えているだけで、林か何かのようだ。町どころか、建物すら見当たらない。

「少し先に《クムロク町》っていう町があるわ。馬車を人目のつかない所に置いておきたかったの」

「ティークは先に行って、宿取ってるよ」

 リディアが林の先を指差した。《漆黒の森》とは違い見通しはいいが、陽が昇り切っていないのでぼんやりとしか見えない。

「馬車を隠したら私達も行きましょ」

「隠す……?」

 町ではなく林に停めた時点で、隠しているのではないのか。言葉の意味を理解できずにいると、アリシアは馬車から一歩下がった。

「紛れて、隠せ」

 アリシアが唱えると、馬車はすぅと見えなくなった。手を伸ばせばちゃんと固い感触があり、叩くとカツカツ音がする。

「これ、無くなったわけじゃないんだよね?」

「一時的に目視できないようにしているだけよ。消えたわけじゃないわ」

 歩き出すと、アリシアは顔も髪も見えないよう、深くフードを被った。初めてジェイルが館で目を覚ました時と同じ格好だ。

「商人ってことで宿を取ってるから、それに合わせてね」

「商人?」

「《黒の女王》が来たなんてことになったら、大騒ぎになるでしょ。だからいつも商人とその使用人として泊まるの。ほら、師匠の荷物はジェイルが持って!」

「わ!」

 ジェイルはリディアにカバンを渡され、よろめいた。案の定アリシアのカバンは重い。カラカラカタカタ何かが音を立てているので、入っているのは服だけではないらしい。

「ごめんなさいね、できるだけ荷物は減らしたつもりなんだけど」

「割れ物も入ってんだから、気を付けろよ」

 先頭を歩くウェルが尻尾を揺らして言った。出先に持って行かなければならない割れ物とは何だ。

 十分ほど歩くと、建物が所狭しと並ぶ町並みが見えてきた。もう起きている家もあるのか、煙突から昇る煙が見える。砂利道が石畳に変わり、赤レンガの屋根を鳩が数羽歩いていた。まだ姿は見えないが、久々に沢山の人の気配を感じた。

道は細い裏路地まで続いていて、ジェイルのいた村よりずっと広く、家も見えているだけでもずっと多い。荷物の重さを忘れて町並みを見ていると、猫に遅いと怒られてしまった。

「ここが宿よ」

「……《宿屋・カラトウガラシ亭》?」

 アリシアが立ち止ったのは年季の入った、けれど小綺麗な建物の前だった。店の前には、同じように年季の入った看板が出されている。そこには店名と燃えるトウガラシの絵が描かれていた。何とも口の中が痛くなりそうな名前である。

「小僧、店自慢の《カラトウガラシ鍋》を一時間以内に食べ切れば、食費も宿泊費も無料になるらしいぞ」

 看板の下に書かれた文章を見てウェルが言った。

「辛いものは好きだけど、一時間はちょっと……」

 謳い文句にしているくらいだから、相当辛いのだろう。それにジェイルとしては、時間など気にせず美味しく楽しく食べたい。

「そういや、お前は何が苦手なんだ?」

「酸っぱいもの、かな。レモンとか」

 お菓子に少量入っているくらいなら食べられるが、丸かじりなどは無理だ。素直にそう答えると、ウェルは嬉々としてアリシアを見上げた。

「アリシア、酸っぱい料理を多くしたら食費を浮かせるかもしれねぇぞ!」

「えっ」

 さすがにそれは困る。ジェイルは助けを求め、リディアとアリシアに視線を向けた。

「あたし嫌いなものないから、大丈夫だよ」

「こーら。そもそも、そんなに酸っぱい料理のレシピがないわ。別に食費で困ってるわけでもないし。ティークも待ってるでしょうから、早く行きましょ」

 アリシアはウェルを抱き上げ、カラトウガラシ亭のドアを開けた。ドアに付いていたベルがカランと鳴り、カウンターに立っていたティークが振り向いた。

「皆さん、部屋取れましたよ」

「いらっしゃい!あんた達がこの男前なお兄さんの連れかい?」

 出迎えたのは、恰幅のいい女将だった。時間が時間なせいか、他に客はいない。女将はティークの方をチラチラ見ながら、にっこり笑った。

「そうです。早朝からすみません、よろしくお願いします」

 アリシアがフードを被ったまま挨拶をしているのを聞いていると、いい匂いがした。厨房では朝食の仕込みをしているのだろう。

「部屋は五号室と六号室だそうです。ジェイルさん、大丈夫ですか?荷物持ちますよ」

「ごめん、ありがとう」

 余程ジェイルが必死の形相をしていたのか、ティークが荷物持ちを代わってくれた。腕が震え出していたので、軽く伸ばしたり曲げたりして一息つく。その横で、ジェイルには重すぎた荷物をティークは片腕で担ぎ上げてしまった。

「夜通し来たなら疲れたろう。大したもんはないけどゆっくりしておいき。部屋は二階だよ」

 女将から鍵を受け取り、二階へ向かう。

「主の部屋と使用人の部屋ということで、二部屋借りたんですが、実質は女性陣の部屋とオレ達の部屋ですね。ボスは部屋を汚さないように、だそうです」

「分かってるよ、足拭けばいいんだろ」

「それじゃ二人とも、また後で」

 アリシア達が六号室に入り、ジェイルとティークは五号室に入った。

 部屋に入ると、窓からは朝陽が差し込み始めていた。ベッドに座ってみると、ジェイルの部屋のものより少し硬い。

「うぅ、ベッド見たら眠くなってきたよ」

「ジェイルさんは休まれますか?オレは一度外で運動してきますね」

「ティークさん元気だね」

 ジェイルがあくびをかみ殺すと、ティークは苦笑した。

「馬車の中でずっと座っていたので、体が固まってしまいまして。軽く動てからでないと、眠れそうにないんです」

「そっか、行ってらっしゃい」

 ティークを見送ってから、ジェイルはベッドに潜り込んだ。枕が高いような気がしたが何よりも眠かったので、ジェイルはそのまま意識を手放した。




   六章     厄日


 ぐぅ、ぐるるるぐぐぅ。

「おなかすいた……」

 どれくらい寝たのだろう、ジェイルは猛烈な空腹で飛び起きた。窓の外はすっかり明るいので、正午は過ぎただろうか。そうなると、朝食も昼食も食べていないことになる。

ティークのベッドは空なので、もう起きているようだ。素早く身支度を整え、隣の部屋にノックと共に小さく声をかける。

「アリシア、リディア、起きてる?」

「ジェイル?どうかした?」

 返事をしたのはアリシアだった。ドアの近くで物音がしているので、起こしてしまったわけではなさそうだ。そんなことを考えている間にも、腹の虫は鳴き続けている。

「えっと、ご飯ってどうすれば……」

 ジェイルがそっとドアを開けると、見慣れた光景が広がっていた。アリシアの自室でよく見る光景が。カバンは大きく口を開け、服が部屋中に散らばっている。流石に本はないが、当のアリシアは使い込まれた木箱と格闘していた。箱の中には瓶が見えるので、割れ物の正体はあの瓶のようだ。

「……どうしたの、これ」

「これは、その、荷物の確認をしようと思ったら収集がつかなくなっちゃったの!ご飯は下でリディアが食べてるはずだから、一緒に食べてて!」

「アリシアはいいの?」

「これをどうにかしないと、リディアに殺されちゃうわ……」

 怒り狂うリディアは想像に難くない。

「その箱は?」

「薬箱よ。持って来たのは、傷薬と胃薬くらいだけど。包帯を忘れちゃったわね……」

 乱雑に木箱を漁ってアリシアは言う。ジェイルが心配になるくらい、瓶が大きく音を立てた。

「私も片付いたら食べに行くわ。ウェルもリディアといるはずよ」

「うん、分かった」

 部屋の惨状は気になったが、食欲には勝てずジェイルはドアを閉めた。階段を降りて食堂を覗くと、ちらほら他の客がいる。その中の隅のテーブルで、リディアがサンドイッチを食べていた。

「リディア、僕も何か食べたいんだけど」

「あ、ジェイル起きたんだね。女将さんに頼んできなよ、メニューは壁に掛かってるから」

 リディアが入口の横を指したので見てみると、メニューが張り出されていた。宿の名前に反して、辛そうなものはカラトウガラシ鍋以外はない。

どれも美味しそうだが、ここに来てジェイルは壮大な壁にぶち当たった。こんなところで食事をするのは初めてなので、どうしたらいいのかさっぱりなのだ。女将に頼め、と言われたが忙しそうにしているのに声をかけていいものだろうか。

リディアに確認しようと振り返り、ジェイルは盛大に椅子に足をぶつけてしまった。挙動不審極まりない。その音で女将が気付いて笑いながら注文を聞いてくれたが、恥ずかしいやら痛いやらで、早々に帰りたくなった。

注文だけでどっと疲れて、リディアのいるテーブルに戻るとジェイルはへにゃりと突っ伏した。

「何やってんの、周りの人が笑ってたよ」

「だって、こういう所初めて来たから……どうするのか分からなくて……」

「そりゃごめん」

 微塵も詫びる気もなく、リディアはサンドイッチを小さな口に詰め込んだ。

「……ティークさんはどうしたの?」

「外を走ってくるって言ってたぜ」

「ボス?あれ、どこ?」

 足元から声がしたのでテーブルの下を覗けば、山吹色の目が見えた。ウェルもしっかりと自分のエサを食べている。

「ティークのあれも、一種の病気だよな」

 口元をペロリと舐めて、感心したような呆れたような様子で言った。

 そこへ、女将がサンドイッチ五つとトマトスープ、フライドポテト、チキンを頼んで来た。香辛料がふんだんに使われており、食欲をそそる刺激的な香りがする。

「はいよ、お待ちどうさま」

「ありがとうございます。わぁ、美味しそう!」

「……そんなに頼んだの?」

「これでも我慢したつもりなんだけど……」

 白い目でリディアが見てくるが、食べたい量よりいくらか減らしたのだ。それでも頼んでしまったし、何より空腹には勝てないので、ジェイルはサンドイッチに大きくかぶりついた。注文の失敗も、これで忘れることにする。

「あんた達も若いのに大変だねぇ、主人について行商だなんて」

「いえ、ご主人様はちょっと変わってますが、いい方なので」

 女将の言葉に、リディアが姿勢を正して言った。女将からすれば、フードを深く被っていたアリシアはちょっとどころではなく、大分変わって見えたに違いない。ジェイルは目元を見られないよう、俯いて黙々と咀嚼した。ウェルも大人しく丸くなっている。

「この先の《ラヴィオスの丘》まで行くんです。情報を集めたいんですが、何がご存じありませんか?」

 ジェイルとは対照的に、はきはきとリディアが話す。そういえば、イザベラの父は美術品を集めていると言っていた。

「あぁ、《園生邸》に行くのかい。あそこの旦那さん、気に入ったものには高値を出すって聞いたけどね」

「《園生邸》?」

 フライドポテトを摘まみつつ、ジェイルは顔を上げた。

「知らないのかい?亡くなった大旦那さんが園芸に凝ってたみたいで、すごい立派なお庭があるんだよ。辺り一面植物なもんだから、《園生邸》なんて呼ばれてるんだ」

「そうだったんですか。さぞ綺麗なんでしょうね」

「それが、大旦那さんが亡くなってからは荒れてるみたいだよ。変な噂もあるし」

「ありゃ、お手入れしてないんでしょうか」

 もったいないですね、とリディアは神妙な顔をした。噂というのが気になったので、ジェイルもポテトを置いて女将に話しかける。

「あの、変な噂ってなんですか?」

「私も聞きかじっただけだから、詳しくは知らないんだけどね。夜な夜な荒れてる庭を徘徊する大きな影があるとか、大旦那さんが亡くなったのは呪いだったんじゃないかとか」

「はっ?」

 イザベラはそんなことは一言も言っていなかった。内容が内容なので言い難かったのだろうか。

「これはもう、《黒の女王》に解決してもらうしかないんじゃないか、って言われたりしてるのさ」

「むぐっ」

 冗談めかして言った女将に、リディアが咽た。ジェイルは急いで背中をさすってやる。リディアは二、三度咳き込んだ後、コップの水を一気に煽った。

「おや、ごめんよ。お嬢ちゃんには怖い話になっちゃったかね」

「い、いえ、ありがとうございました……」

 涙目でリディアはどうにか答えた。ジェイルも曖昧に笑うしかない。ごゆっくり、と女将は気にした様子もなく厨房へ戻って行った。

「バレてないよね?」

「バレてはないと思う……」

「どうにもキナ臭くなってきやがったな」

ウェルが目を細めると、入口のベルがカランカランと鳴った。

「おや、みなさん起きてきたんですね」

 入ってきたのは、タオルを首にかけたティークだった。気のせいか、店の外で若い女性の歓声が聞こえたような。爽やかな笑顔が逆光のせいか、彼の容姿のせいか、やたら眩しく見える。同じことを思ったのか、リディアも「眩しっ」と目を擦った。

「ティークさん、ちゃんと寝たの?」

「四時間ほどは寝たと思います。走り込みをしていたんですが、ご婦人方に囲まれてしまったので戻ってきました」

「羨ましいこった。体鍛えることにしか興味ねぇ筋肉馬鹿なのにな」

「馬鹿とまで言わなくたっていいじゃないですか」

 ため息交じりのティークに、ウェルが外を見ながら言った。女将もティークを気にしていたようだし、エルフの美貌恐るべしである。

「あのね、ちょっと話を聞いたんだけど、イザベラさんのお家色々と噂があるんだって」

「噂ですか?」

 汗を拭き、ティークはリディアの隣に座った。

「夜に庭を歩き回る、大きな影があるらしいよ」

「他にも、祖父さんが亡くなったのは呪いだって言われてるみたいだね」

 リディアとジェイルの言葉に、ティークは眉根を寄せた。そしてそのまま眉を下げ、困り顔になる。

「大きな影……。幽霊、なんてことはありません……よね?」

「そこまでは俺達も聞いてないから、何とも言えねぇよ」

 急に弱気になったティークを見上げて、ウェルが言う。

「やだな、あたし夜は外に出ないようにしよう……」

 食べ終えたリディアが頬杖をついた。こちらもどこか怯えた色を顔に滲ませている。

「お前ら本当に、お化けだの幽霊だの怖がるよな」

「え、そうなの?」

 リディアはともかく、ティークもお化けの類が苦手とは意外だ。

「だって、わけ分かんないものって怖いじゃん!」

「だって、幽霊は殴ることができないじゃないですか!」

 リディアとティークがほぼ同時に言った。怖いと言っても、理由はそれぞれのようだ。何が起きているんだろう、くらいにしか思っていなかったジェイルも急に鳥肌が立ってきた。幽霊が出るかもしれないなんて、やはり帰りたい。

「詳しくイザベラさんに聞いてみないとなー」

 リディアはむぅ、と口を尖らせた。依頼とは関係ないかもしれないが、無視できる話ではない。

「ケッ、幽霊が存在するなら話をしてみたいもんだぜ」

 実にウェルらしい言い分である。できれば話をする以前に、遭遇したくないのだが。

「とりあえず、師匠に話してくるね。ティークも何か食べたら?」

「そうさせていただきます」

 一度話を打ち切り、二人が立ち上がった。ジェイルもスープに手を付け、食事を続ける。いくらか温くなってしまったが、十分美味しい。

「……もがっ!」

「何だ小僧、火傷でもしたか」

 残っていたウェルが、ジェイルの奇声にうろんげな視線をよこした。どんな猫舌でも、温くなったスープで火傷はしないだろう。

「いや、アリシア達の部屋が凄いことになってたの思い出して……」

「あァ?」

「カバンの中身、全部出してたみたい」

「……何やってんだアイツは。わざわざリディアに怒られるようなこと、しなくったっていいだろうに」

 猫がぼやいた直後、リディアの怒声が二階から聞こえた。


* * * *


「で、何で俺様がお前らと買い物に行かなきゃならねぇんだ」

 文句たらたらで、ウェルはジェイル横を歩いていた。

「部屋があの状態じゃ、あたし達いる場所ないじゃん!あたしだって、出先で片付けなんかしたくないよ!」

 リディアは手提げカバンを持ち、これまたしかめっ面で文句を垂れた。部屋の状況を思い出すと、ジェイルもアリシアを弁護できない。

 そんなこんなで、ジェイルとリディアとウェルで買い出しに来たのだ。ティークは食事がまだだったのと、ご婦人に囲まれてしまうという理由で《カラトウガラシ亭》に残った。何人かの女性は店にも突撃していたようだが、それは考えないことにする。

「まぁ、言いたいことは分かるけどよ……」

「ちょうどいいじゃん。出発まで時間あるし、いくつか足りないものあるみたいだし」

昼食後の時間とあって、町は賑わっている。走り回るリディアより小さい子供、街角で話し込む女性達、行き交う人々。通りに並ぶ店では呼び込みをしていたり、《カラトウガラシ亭》のように個性的な看板が出されている。どれも、かつていた村では遠くから眺めるだけだった光景だ。

前髪を少し気にしながら、ジェイルはキョロキョロと辺りを見回した。町の喧噪のせいか、誰も猫がしゃべっていることに気付いていない。

「お前ら二人だけじゃ、確かに心配だな」

「あたしとジェイルを一緒にしないでよ!」

「お前らなんて、二人合わせてやっと半人前じゃねぇか」

 向かい側の通りを見ると、洒落た店に女性達が詰めかけていた。看板だけでは分からないが、綺麗な小箱が並んでいるのが見えた。化粧品にしては随分種類が少ない。その数軒先では、縦長の瓶に長い管が付いたものが置かれていた。子供が触ろうとして、怒られている。一体何の店なのだろう。

「んで、何を買うんだ?」

「包帯と、非常食と……ジェイルの服も買って来なさいって言われたよ」

「僕の服?特に困ってないけど」

 謎の店から視線を戻し、ジェイルはクローゼットの中身を思い浮かべた。微妙に大きさが合わないものもあるが、着れないことはない。

「このままじゃ、碌な冬服がないけど」

 それは困る。上着も着てきた一枚しかないので、洗濯に出してしまうと着回しがきかない。リディアがしっかり店の場所を女将に聞いていたので、まず洋服屋に行くことになった。その前に、ジェイルはさっきの店を指差す。

「ねぇ、さっきの女の人がたくさんいたお店って何?」

「あれは付けぼくろ屋さんじゃない?最近流行ってるらしいよ」

「あっちは?」

「水タバコ屋だ。《紅緋国》の趣向品だな」

 どちらも聞いたことのない店だ。気にはなったが、通りの先からいい匂いがしてジェイルの意識は全てそちらに持っていかれた。甘く香ばしい匂いからして、お菓子だろう。ふらふらと匂いがする方へ足が動いたが、すぐに後ろから背中を捕まれた。

「ちょっとジェイル、どこ行く気!」

「ごめん、いい匂いがしたからつい……」

「さっきご飯食べたばっかでしょ!まだ食べる気なの!」

 そう言えばそうだった。リディアに服を捕まれたまま、ジェイルは幸せな匂いとは反対方向にずるずると引っ張られる。せめてどんなお菓子か、正体だけでも知りたかったというのに。結局、洋服屋に辿り着くまで手を放してもらえず、上着が皺になっていると猫に言われてしまった。

 服屋の主人は大柄な愛想のいい人物で、暖かい冬服が欲しいと告げるとすぐに数着用意してくれた。ジェイルが試着して大きさや着心地を確認している間、リディアはウェルと一緒に軒先のどぎつい柄物のシャツを見ていた。安売りしていたらしい。

 外套、セーターで気に入ったものを選び、最終的にはリディアの許可が下りた少し大きめのものを買った。背が伸びるだろうから、とアリシアに言い含められたようだ。

「しっかりした妹さんですね」

「えっ、はぁ、どうも……」

 店主は掛け値なしに言ってくれたのだろうが、ジェイルとリディアでは髪の色といい性格と言い、似てなさすぎるだろう。かと言って、自分達の関係を分かりやすく言う言葉が分からない。

 次に肉屋で干し肉を買ったが、今度はジェイルが店の前で待たされた。見たら食べそうだから、と言われたが、ジェイルとて未調理の肉に手を出したりしない。余程空腹でなければ。

 最後に薬屋に寄り、包帯と館にはない数種類の薬草を買った。店に入る前に、珍しくウェルが薬草はジェイルに任せるように言ったので、事情を話していないリディアは怪訝な顔をしていた。それでも深く気にした様子はなく、手提げカバンから財布を渡してくれた。

「結構買ったね」

「服はどうしたってかさ張るからな」

「……全部持ってるの、僕なんだけど」

 ジェイルは弱々しく抗議した。ほとんどが服なので重くはないが、大きな麻袋を両手に持つと歩きにくい。ちなみに、麻袋はリディアの手提げカバンに折り畳まれて入っていた。

「部屋、片付いてるかな」

「最悪カバンに全部突っ込みゃいいじゃねぇか」

「そういう問題じゃないよ!」

 ウェルの提案に、リディアが噛み付いた。全部とは言わないが、半分は片付いていてほしいものだ。

日が暮れてきて、町の人通りは大分減ってきた。館のようにあちこちにランプが置かれているわけではないので、細い路地にはほとんど光が入っていない。夜目のきく左目でようやく物の輪郭が分かる程度だ。来た道をリディアの後ろに付いて歩くが、昼頃と雰囲気が違うので不安になる。

「あ!」

 何かを見つけ、リディアが急に駆け出した。ウェルが続いて走り、ジェイルもよたよたと後を追う。明るい色で可愛らしい絵の看板が飾られたそこは、おもちゃ屋だった。リディアは展示窓に並べられたぬいぐるみを食い入るように見つめている。他には木製の小さなや剣、チェスが置かれていた。

「さっきは見向きもしなかったのに、何だってんだ」

「あの兎のぬいぐるみ、さっきはなかったんだもん!」

 リディアが指したのは、白くてモコモコした兎のぬいぐるみだった。しっかりしているようでやっぱり子供だな、とジェイルは口元を緩める。

「あのモコモコした布を雑巾にしたら、汚れがよく取れそうじゃない?」

 前言撤回。リディアはどこまでもリディアだった。だがぬいぐるみが気になっているのは事実なようで、余ってる布で師匠に作ってもらお、と呟いた。

「アリシアってぬいぐるみも作れるの?」

「あたしの部屋に、作ってもらった熊と羊のぬいぐるみがあるよ」

「羊はデカいタワシにしか見えねぇぞ」

「ひどーい!可愛いじゃん!」

 リディアは頬を膨らませて、店から離れた。年相応な面は少なからずあるようだ。

 ようやく最初に来た通りまで来ると、水タバコ屋で老人が煙を燻らせていた。その動作がとても優雅に見えて、ジェイルつい足を止めてしまった。瓶は形がデコボコしていて特徴的な上に、美しい模様が描かれていてそれだけで調度品のようだ。

ぼんやりと眺めていると、老人は黄色い歯を見せてニカッと笑った。

「兄ちゃんにコイツはまだ早いぞ」

「え、えっと、ごめんなさい!」

 物珍しくて見ていただけだったが、悪いことをした気分になったジェイルは意味もなく謝った。

「あれ、リディア?ボス?」

 振り返れば、店の前にはジェイルしかいない。置いて行かれてしまったようだ。焦燥感に駆られ、ジェイルは足早に歩き出した。道はおぼろげに覚えているが、自信はない。曲がるのはそこの角だったか、もう一つ先だっただろうか。

確認のため路地を覗くと、ヒゲを無造作に生やした男二人が行く手を阻んだ。こんな時間から酒を飲んでいたらしく、匂いが酷い。

「よぉ兄ちゃん、大荷物じゃねぇか」

「旅行かい?」

「あの、えっと、すみません、道を間違えました」

 そこは宿のある通りではなく、路地裏だった。二人に謝り、踵を返そうとして──腕を強く捕まれた。

「兄ちゃん、そんなに買い物してるってことは金持ってんだろ?俺達酒代がもう無くってさ」

「ちょっと分けてくんねぇかな。全部よこせとは言わねぇからよ」

 ジェイルは一気に血の気が失せた。腕をほどこうにも、かなりの握力で握られてしまっている。置いて行かれただけでも精神的に来ているのに、何故こんな目に合わねばならないのだろう。膝が笑ってしまっていて、立っているので精一杯だ。

「は、離して下さい、お金はないんです!」

 震えた声で、どうにか言う。財布はリディアが持っているし、お金はアリシアのものなので、どのみち渡すことはできない。男二人は納得してくれるわけもなく、表情を険しくした。

「いいじゃねぇか、瓶一本分だけだからよ!」

「それとも、オカイモノで使い切っちまったのか?」

「だいたい何だよ、その長ったらしい前髪は」

 酔いのせいか、二人はジェイルに難癖をつけ始めた。腕が痛いので、本当にもう離してほしい。

「俺達とは目を合わせられねぇってか?」

「人と話す時は、目を見て話せって言われなかったのかよ」

 破落戸に言われたくはない。余程ジェイルの前髪が気に障ったのか、腕を掴んでいない方の男はジェイルの前髪をグイっと上げた。

「止めて下さい!」

 空いている方の腕で抵抗するが、二対一に荷物があっては分が悪い。かといって、大事な荷物を放り出すわけにもいかないのが辛いところだ。

「ほーれ、これでちゃんと見え……」

「……うん?兄ちゃん、あんた」

急に男性がジェイルの顔を覗き込んで来た。強烈な酒の匂いが漂ってきたので、思わず顔を背ける。機嫌の悪そうだった男達の表情が、怯えに変わった。

「ヒッ、両目の色が違う!?」

「うわ、気味悪りぃ!何だコイツ!」

 男は大声を上げると、ジェイルを突き飛ばし数歩下がった。ジェイルは倒れ込んだ際、咄嗟に麻袋を死守したが、腕や背中を石畳に打ち付けた。割れ物がなかったのは、不幸中の幸いだ。

「おい、コイツ化け物か何かじゃ……」

 ジェイルが起き上がろうとすると、

「高く浮かび上がり、空中を漂え!」

 背後から幼くも力強いが聞こえた。途端、辺りに転がっていた酒瓶やバケツ、植木鉢が宙を舞った。そのまま、狭い路地を縦横無尽に勢いよく飛び回り出した。

ぎょっとする男達の頭スレスレをバケツが掠める。ジェイルの肩口も植木鉢が掠める。

「な、何だこれ!」

「魔法だ、そのガキ魔女だ!」

 立ち尽くす男達の足元を、飛び交う障害物を避けて小さな影が駆けた。リディアとバケツに目が行っているため、男達はウェルに気付いていない。容赦なく、ウェルは彼らの足に爪を立てた。ジェイルは思わず目を瞑ったが、耳をつんざく絶叫は嫌でも聞く羽目になった。前にジェイルが引っかかれた時よりも、数倍は痛そうだ。

 男達は足をさすりながら、喚いて去って行った。ほっとしたのもつかの間、浮いていた物が落下し出したのでジェイルは身を縮こませた。植木鉢は無事だったが、酒瓶が次々と割れる。

「リディア!危ねぇだろ!」

「ごめんごめん。それにしても、何なのアイツら!」

 リディアは眉を吊り上げて、男達が去って行った方にあっかんべーをした。落下が終わったのを確認して、ジェイルは壁に手をつきながら立ち上がった。

「ボス、リディア、ありがと……」

「小僧、勝手にいなくなってんじゃねぇ!」

 ウェルは全身の毛を逆立てて怒鳴った。尻尾の毛まで大きく膨れている。先ほど男達よりずっと小さいというのに、ずっと気迫がある。

「ごめん……ちょっとお店眺めてて……」

「道間違えた挙句、破落戸に絡まれるなんてどんだけ馬鹿なんだよ!」

「ご、ごめんなさい……」

 怒り狂う猫に平謝りしていると、背中をぽんと叩かれた。

「ジェイルがいなくなったのに、気付かなかったあたし達も悪かったよ。色々言われてたけど、大丈夫?」

「うん、荷物は大丈夫だよ」

 ジェイルは意気揚々と麻袋をリディアに見せた。袋に多少の汚れはあるが、中身は無事なはずだ。奪われたりせずに済んでよかった。

「違うよ!荷物もだけど、酷いこと言われてたじゃん!」

「え?」

 憤っているリディアに、ジェイルはきょとんとする。目を見て話せ、と言われたことだろうか。

「目の色の話と、化け物だ何だってのは聞こえたぞ」

 ようやく毛を元通りにしたウェルが言った。まだ怒りは収まっていないらしく、言い方がぶっきらぼうだ。

「そうそう!目の色はジェイルの唯一面白いところなのに、失礼すぎだよ!」

 それを取ったら、雑用係しか残らないじゃん!と、リディアは鼻息も荒く言うが、あまり援護してもらえているように聞こえない。確かに雑用係しか残らないのだけれど。

「……お前は悪態の一つでもないのか」

「悪態?何で?」

「あんなこと言われて、言い返したいことないの?」

「だって、当たり前の反応じゃないか」

 絡まれたことに関してはジェイルも思う所があるが、彼らの反応は至極当然だ。村にいた頃はもっと酷い言われ方をしょっちゅうされていたし、今更どうということはない。殴られなかっただけマシだ。だいたい、怒ろうが悪態を吐こうが何の意味もないというのに。

麻袋を持ち直すジェイルを、リディアとウェルは何とも言えない顔で見ていた。

「あれ、どうしたの?」

「あのさ、ジェイルはもっと怒ったりしていいと思うよ!」

「うん?」

 別段、我慢をしているつもりはないのだが。

「小僧、お前……」

 何をどれだけ諦めてきたんだ、と猫は小さく呟いた。


* * * *


 《カラトウガラシ亭》に戻ると、予想に反して落ち着いていた。ティークに尋ねると、何人か若い女性が来たが女将が追い払ったらしい。

「女の人って怖いね……」

「お前だって女だろうが」

 思わず零したリディアに、ウェルがすかさず言う。ああはなりたくない、と少女はため息をついた。

 アリシアの部屋は半分以上片付いていたが、まだ時間が掛かりそうだった。もうちょっと待ってて、と言われたので、一階で飲み物を頼んで一息つくことにする。ジェイルは紅茶を、リディアはオレンジジュースを、ティークはコーヒーを。猫には水しかなかった。

「でね、ジェイルが破落戸に絡まれてたから、あたしの魔法とボスで追っ払ってやったの!」

 手を大げさに振って、リディアが自慢げに話す。助けられたことは間違いないが、植木鉢がぶつかりそうになって冷やりとしたのも事実だ。

「お前はもっとうまく制御できるようになれよ。ガラスで肉球切ったらどうしてくれんだ」

 同じことを思ったのか、ウェルが前足を確認するように舐めた。

「路地裏は治安が悪いことが多いですからね。ジェイルさん、大丈夫でしたか?」

「絡まれた時はどうしようかと思ったけど、リディアとボスのおかげで何ともないよ。ティークさんはずっと走ってたの?」

「いえ、腹筋と腕立て伏せをしていました」

 ティークは他にも鍛錬の種類を述べたが、ジェイルはそっか、とだけ返した。名称だけ聞いても、どういうものなのか分からなかったのだ。

「小僧も少しは体鍛えたらどうだ。モヤシだから、あんな破落戸からも逃げられねぇんだよ」

「そうかな……」

 どちらかというと、今回は精神的な要因が大きかった、とジェイルは自分に言い訳をする。それから荷物も。

「よろしければ、これから一緒に走りに行きますか?腹筋でもいいですよ!」

急にティークがテーブルに身を乗り出した。心なしか、目が生き生きとしている。罪悪感を抱きながら、ジェイルはティークから目を逸らした。

「……ごめん、僕は遠慮しておくよ」

きっとどちらも、ジェイルなら十分足らずで力尽きるのだろう。それより、目下の問題がある。

「買った服はどうしたらいい?僕が持って来たカバンには入らないよ」

「んー、馬車に放り込んでおけばいいんじゃない?」

 リディアはジュースを飲みながら、足をバタバタさせた。行儀が悪いですよ、とティークに注意され渋々足を止める。

 すると、宿のすぐ裏から何かがガラガラと崩れるような大きな音がした。ジェイルは驚いて椅子から数センチ飛び上がる。珍しくウェルも驚いたようで、水皿を引っくり返していた。

「な、何?」

「裏の方から音がしましたね」

「うへぇ、猫の繊細な耳に今の爆音はキツイぜ……」

周りの客も立ち上がって、騒然とし始める。厨房から女将も飛び出して来た。

「な、何だい、今の音!」

 そこへ、さっきのヒゲの破落戸二人が駆け込んで来た。

「大変だ女将、裏の薪置き場が急に崩れたんだ!」

「し、しかもどっかから火がついて、燃え出しちまってるんだよ!」

「何てことだい!」

 女将は顔面蒼白で持っていたお玉を取り落した。外から段々と焦げ臭いが匂い漂ってきている。客達も立ち尽くしたり、足早に出て行こうとしていた。リディアはそのどちらでもなく、ズカズカと破落戸に詰め寄った。

「何でアンタ達がここにいるの!まさか、アンタ達が火を点けたんじゃないでしょうね!」

「違う、オレ達じゃない!」

「お前らにちょっと仕返ししてやろうって、後を付けただけなんだ!」

 男達は泣きそうな顔で否定する。彼らも魔法で脅かされ、猫に引っ掻かれた上にこんな場面に出くわすとは災難だ。被害者であるジェイルが同情するくらい、ひどく取り乱して弁解している。

「店の横で話してたらすげぇ音がして、見に行ったらもう火の手が上がっててよ」

「そもそも俺達、マッチを持ってねぇんだって!」

「そんなことはどうでもいいよ!上のお客さんに知らせてこなくっちゃ!」

 女将が二階へ行こうとするので、ティークが立ち上がった。

「一緒に行きましょう、うちの主にも知らせないといけません!」

「アンタ達は早く火消しを呼んで来なさい!」

「お、おう」

 破落戸はリディアに尻を叩かれ、わたわたと店を出て行った。この辺りは建物が密集しているからもうダメだ、と嘆く者もいる。混乱が極まる中、ウェルはテーブルに飛び乗った。

「ぼさっとしてんじゃねぇ、多少なりとも消火しに行くぞ!」

 ウェルの声を聞いた近くの客がぎょっとしてこちらを見たものの、何も言うことはなかった。

「そうだね!ほらジェイル、早く!」

「えっ」

 リディアにも急かされ、ジェイルは戸惑った。こんな事態に鉢合わせたことなどないので、頭がまるで働かない。逃げることは頭にあっても、消火することなど思いつきもしなかった。

 外に出ると、黒い煙と薪の燃える匂いが立ち込めていた。逃げ惑う人と野次馬とでこちらも大騒ぎになっている。ウェルとリディアについて裏手に回ると、火は薪の半分近くまで燃え広がっていた。熱気が凄まじいが、まだ宿には燃え移っていない。

「煙を吸うなよ!くそ、思いの外火がデカいな……。火を消せそうなもんはねぇか!」

 ウェルが声を張り上げ、ジェイルは前髪を払って辺りを見回す。煙で視界が悪いが、奥に井戸が見えた。

「ボス、あっちに井戸があるよ!」

 ジェイルは井戸に駆け寄り、蓋を乱暴に開けて釣瓶を投げ入れた。水がたっぷり入ったのを確認し、体重をかけて一気に引き上げる。毎日の畑の水遣りで、ここまでは慣れたものだ。脇に桶があったので手を伸ばすと、リディアに背中をど突かれてしまった。

「一々そんなことしてたら、宿に燃え移っちゃうよ!どいて!」

 リディアはジェイルを押しのけて、井戸の前に立った。

「水よ、浮かび上がり燃え盛る火を消せ!」

 リディアが唱えると、桶数杯分の水が井戸から飛び出した。水のかかった部分はジュ、と音を立てて水蒸気が昇る。それでも、火の勢いが強くて効果は見込めない。

「あたしの魔力じゃ、水が足りないか……。風の魔法だと、狭いし悪化させそう……シエロ持って来るんだったよもう!」

 リディアがぼやくが、箒で火は消せないだろう。ジェイルも桶に水を移し、比較的火の弱い場所にかけるが結果は一緒だった。

「だ、駄目なのかな」

「いや、何もしないよりいい。店に燃え移らないようにするんだ!俺はアリシアを呼んで来る!」

 ウェルの指示に従い、ジェイルは再び水を汲み上げた。リディアは真剣な顔で、もう一度呪文を唱える。必死に井戸と薪置き場を往復するが、煙は目に滲み、炎の熱で顔は熱くなりジェイルは腕で顔を覆った。リディアも辛いのだろう、何度か唱えると咳き込んだ。懸命の消火も虚しく、じわじわと火は広がり、辺りに火の粉が舞い散る。ジェイルが釣瓶を投げようとすると、燃え尽きた一部の薪が爆ぜて崩れた。

「リディア!」

 呪文を唱えていたリディアの腕を引き、井戸の陰に隠れる。魔法で浮きかけていた水がバシャリと落ちたが、それどころではない。背後では薪が次々転がる音がした。恐々顔を出せば、火の点いた薪がそこら中に散らばっていた。

「あ、ありがと、ジェイル」

「どういたしまして。でもこれ、どうしたら……」

 か細い声でリディアが言うが、これでは身動きが取れなくなってしまった。火が強まったのか、ゴォと熱風が二人を襲い身を固くした。

 すると、凛と涼やかな声がした。

「鎮まり凍てつけ」

 肌で感じていた熱は急になくなり、代わりに冷たい空気がジェイルの頬を撫でた。顔を上げると、薪置き場は完全に凍りついていた。白い煙が出ているが、あれは水蒸気なのか冷気なのかどちらだろう。宿の壁は煤で黒くなってしまっているが、火が移るのは阻止できたようだ。

「二人共、大丈夫?」

「し、師匠ぉ!」

 ジェイルの横を飛び出し、リディアはアリシアに抱きついた。その拍子に、アリシアが被っていたフードがはずれる。

「す、すごいね……」

 ジェイルは大きく息をついて、へなへなと座り込んだ。今日は助けられてばかりだ。

「火が思ったほど広がってなくてよかったわ、二人共頑張ってくれたのね。ケガはしてない?」

「たぶん平気……」

 心臓はバクバク鳴っているが、火傷はしていないはずだ。リディアもアリシアに抱きついたまま頷いた。

「おい、煤で顔が黒くなってんぞ」

「え、本当?」

 アリシアの後ろにいたウェルに声をかけられ、ジェイルは袖で顔をゴシゴシ拭いた。後から、ティークと女将が走って来る。

「どうやら、無事消せたようですね」

「こりゃ、一体……。あれ、あんたその髪色……まさか!」

 女将はアリシアを見るなり、目をまん丸にした。凍りついた薪置き場とアリシアを交互に見て、女将は立ち尽くしていた。

「すみません、この氷は今崩しますね」

 そう言ってアリシアが指を鳴らすと、薪置き場を覆っていた氷は粉々になって消えた。燃え尽きた薪が、がらりと崩れ落ちる。

「あんたはもしかして《黒の女王》……?あ、ありがとうございました!なんとお礼を申し上げればいいのか!」

「確かにそう呼ばれていますが、今はただの客ですから。お気になさらないで下さい」

 平伏する女将に、アリシアは穏やかに言った。

「うちの看板は燃えるトウガラシだけど、店が燃えちゃシャレにならないところだったよ……」

 薪置き場と店の壁を見て、女将は引きつった声を出した。

「とにかく、一度中に戻りましょう。ジェイルさんとリディアさんは、顔を洗った方がよさそうですね」

「火消しも来たみたいね」

 表の方から、状況を尋ねる声が近付いて来る。破落戸達はちゃんと火消しを呼んできてくれたようだ。鎮火してしまったので、仕事はあまりないけれど。

「ったく、今日は厄日だぜ」

「薪の匂いが服に移っちゃったから、あたし着替えたい……」

 皆が歩き出したので、ジェイルも立ち上がる。最後にもう一度薪置き場に目をやると、ジェイル達が水をかけた覚えのない場所に泥が落ちていた。




   七章     園生邸


 その後、女将に何度もお礼を言われ、陽が完全に暮れてきた頃ジェイル達は出発した。

 再び木馬車に乗り、《ラヴィオスの丘》に着いたのは、かろうじて就寝には早い程度の時間だった。半分より少し欠けた月が、真っ黒に塗りつぶされたような空を照らしている。

「ここで間違いないの?」

「聞いた通り、立派なお庭ですね」

 暗いためよくは見えないが、広い庭に植物が生い茂っているのは分かる。屋敷の窓には明かりが灯っており、夜の中窓が浮いているかのように見えた。窓の明かりからして、二階建てだろうか。

「こりゃガッツリ報酬がもらえそうだな」

「こら、ウェル!」

 にしし、と笑うウェルを抱き上げ、アリシアがたしなめた。

 ジェイル達は屋敷の玄関まで来ると、アリシアがノッカーをカツカツ、と鳴らした。すぐにぎぃ、と蝶番を軋ませながら扉が開く。

「はい」

 出て来たのは、イザベラ本人だった。

「こんばんは、遅くなって申し訳ありません」

「アリシアさん!お待ちしておりました、中へどうぞ」

 アリシアがフードをはずし挨拶をすると、イザベラはにこやかにジェイル達を招き入れた。エントランスは館に比べれば落ち着いているが、立派な甲冑が二体飾られていた。

「おじゃまします」

「おじゃましまーす」

 ジェイルとティークで、荷物を運び込んだ。アリシアのカバンを持ち上げた時、みしみしと怪しい音がしたが大丈夫なのだろうか。外が真っ暗だったせいで、明かりが眩しい。

「荷物はそこに置いてもらって構いません。うちの使用人に運ばせますね」

「お任せ下さい」

 すっと音もなくジョセフが現れ、頭を下げた。どこにいたのだろう、ジェイルは全く気が付かなかった。

「す、すみません、お願いします」

 荷物は任せることにし、四人と一匹は屋敷の奥へと案内された。リディアは箒を持ったまま。

「猫ちゃんも来てくれたんですね」

 歩きながら、イザベラがアリシアに抱えられているウェルを撫でた。暴れることもなく、猫は大人しくしている。

「この子は寂しがり屋なので、連れて来ないと怒るんです。探し物は得意なので、お役に立てると思いますよ」

 アリシアの返答に、ジェイルとリディアは笑いを堪えた。見れば、ティークも口元を押さえていた。

「両親は都の方にいるので、今は使用人達と父の友人の方しかいないんです。なので、気にせず探して下さい。それと、できれば両親にこのことは内緒にしておきたいんです」

「お父様のご友人の方というのは……?」

 アリシアが控えめに尋ねた。両親に秘密にしておきたいというのに、父親の友人がいるというのはどういうことだろう。

「その方、魔法に興味があるみたいで。困っていた私に、アリシアさんのことを教えてくれたのもその方なんです。ぜひアリシアさんにお会いしてみたいと言って、色々協力してくれて。ご迷惑でしょうか?」

「いえ、構いませんよ」

 アリシアが言うと、イザベラはほっとした表情を浮かべた。

 歩き出すと、壁にはあちこち絵や壺が飾られていた。種類も大きさもまちまちだが、かなりの数がある。絵の具が塗りたくられただけのような絵もあり、ジェイルには何が描かれているのかまるで分からない。

「それは抽象画なんです」

「抽象……ですか?」

「心の風景を描いたもの、らしいです。題名は《奇人達の団欒》だったかしら」

 首を捻るジェイルに、イザベラが説明してくれた。前髪を払ってよく見るが、ジェイルにはどこに人がいるのかさっぱりだ。

「こちらです」

 美術品を見ながら廊下を歩いていると、ジェイル達は応接間に通された。中には既に、眼鏡をかけた男性がソファに腰かけていた。男性はジェイル達に気付くと立ち上がり、人のいい笑みを浮かべた。

「こちらがさっきお話しした、父の友人のライナス・コートニーさんです」

「初めまして」

 ライナスはイザベラより五歳ほど年上だろうか。父親の友人にしては若い気がする。

「ライナスさん、この方が《黒の女王》アリシア・ハルフォードさんです」

「始めまして、コートニーさん」

「これはこれは、光栄です!」

 ライナスが手を差し出して来たのを見て、アリシアは一瞬固まった。だが本当に一瞬で、すぐにウェルを左手で抱え、右手を伸ばし握手に応えた。ウェルは片手で持つにはかなり重いのか、アリシアの左腕が震えている。

「こんなに若いお嬢さんが、噂に名高い《黒の女王陛下》だったとはね!驚きましたよ」

 少しおどけてライナスが言う。

「それはただの通り名ですから、アリシアで構いません。こちらは助手のティーク・フォスター、弟子のリディア・カネルヴァ、雑用係のジェイル・エリクソン、この子はウェルです」

 アリシアもウェルを両手で抱え直し、笑顔でジェイル達を紹介した。心なしか、安堵したように見えた。

「立ち話もなんですから、皆さんどうぞ座って下さい」

 イザベラに勧められ、五人はそれぞれソファに座った。すぐさま使用人の女性が、ジェイル達に紅茶を並べてくれる。

「コートニーさんは、イザベラさんのお父様のご友人だそうですね」

「僕のことも、ライナスで結構ですよ。僕はイザベラさんのお父さんと同じく、収集家でしてね。彼ともその関係で知り合ったんです」

 ライナスは足を組んで言った。ティークとは違い、紳士的な雰囲気の人である。ティークが紳士でないとは言わないが、どちらかというと武人だろう。

「ライナスさんは、魔法に興味がおありだと聞きましたが」

 ジェイルがそんなことを考えているとも知らず、ティークが話を切り出した。

「はい。《魔法具》をいくつか所有しているものでして」

「ランプとか、ポストですか?」

 ジェイルが聞くと、ライナスは頷いた。《魔法具》にどんなものがあるのか、ジェイルはあまり多くを知らない。

「ええ、そうです。ただ、僕が集めているのは美術品としても優れたものなんですよ」

「美術品として……?」

 ジェイルがオウム返しに言うと、隣に座るリディアに肘で小突かれた。余計なことを言ったらしい。これ以上下手なことを言わないよう、大人しく話を聞く。

「気に入っているのは、絵柄が毎日変わる花瓶、描かれた花の香りのする絵画なんかですね。美術品に限らず、珍しいものには目がないんですよ」

「そういった物は、組み込まれた魔法が粗悪だったりすることもあるので、気を付けて下さいね」

 専門家として、アリシアが意見を述べる。ジェイルの知る《魔法具》は便利品ばかりで、そんな趣向のものがあるとは夢にも思わなかった。

「もちろん、ガラクタを掴まされたことも何度かありまして。お祖父さんが毛嫌いしたから、ここには今《魔法具》はないんだったね、イザベラ」

「あっ、はい、そうなんです!曾祖母がどこかに隠していたら、それは分からないんですが……」

 ライナスに話しかけられ、イザベラは頬を赤らめ早口に答えた。不思議に思いつつ紅茶を飲むと、控えめにノックがされた。

「失礼致します。お嬢様、お客様のお部屋の支度が整いました」

 ジョセフがドアを開け、無表情に告げた。ジェイルはどうにもこの人が苦手だ。何を考えているのか、まるで分からない。

「分かったわ。ではみなさん、ご案内します」

 ジェイル達は二階に一人一部屋ずつ宛がわれ、ライナスはいつも来た時に使うという部屋へ、ジョセフが案内して行った。頻繁にここを訪ねて来ているようだ。

 案内された部屋はジェイルの部屋と同じくらいだが、クローゼットがないせいで広く感じられた。壁には川の風景画が一枚飾られている。ベッドの横に、慎ましくジェイルのカバンが置かれていた。

「今日はゆっくりお休みください。明日は朝食の時間になったら、起こしに来ますね。猫ちゃんもお休みなさい」

 イザベラは最後にウェルを撫でてから、去って行った。イザベラが完全に見えなくなると、ウェルは大きく伸びをした。

「うーん、猫を被るのも楽じゃないぜ!」

「まさに借りてきた猫だったわね?」

「うるせぇよ」

 アリシアがクスクス笑いながら言うと、ウェルはぶっきらぼうに言った。猫が猫を被るとはどういう原理だろう。

「どうしてボスは、イザベラさんの前で普通の猫のフリをしてるの?」

 町では混乱を呼ぶかもしれないが、依頼人に隠す必要はない気がする。

「あァ?そんなの、いちいち説明すんのが面倒だからに決まってんだろ。それに俺は依頼人だからって、ヘコヘコする気もねぇしな。可愛い猫でいるのが一番楽なんだよ」

「可愛い……?」

 ジェイルが呟くと、ウェルは前足の爪を出したので慌てて数歩下がった。ウェルらしい理由ではある。

「今日は皆さん疲れたでしょうから、休みましょう。明日はイザベラさんに宿で聞いた噂について、尋ねてみないといけませんね」

「やめてよ、ティーク!あたしせっかく忘れかけてたのに……」

 リディアは大きくため息をついた。部屋の窓からは、暗くて星空しか見えない。カーテンを閉めてしまえば、例え何かが庭に現れても見ずに済むだろう。

「そういえば、結局《カラトウガラシ亭》の火事は何が原因だったんだろう?」

「自分達じゃないって言ってたけど、ヒゲのオッサン達がうっかりタバコでも落としたんじゃない?」

「そうかもしれませんね」

 リディアの考えに、ティークが同意する。

「とにかく、細かいことは明日にしましょう。それじゃ、お休みなさい」

「お休みー」

「お休みなさい」

 少なくとも、ベッドは《カラトウガラシ亭》より柔らかそうだった。


* * * *


 翌朝、朝食の席でティークが口を開いた。

「すみません。イザベラさんに、いくつかお聞きしたいことがあるんです」

「何でしょう?」

「ここへ来る途中、夜に庭を歩く大きな影があると聞いたのですが」

 ずばりティークが言うと、イザベラはカプチーノを飲む手を止めた。それから、困ったように笑った。

「おっしゃる通りです。ただ、影のようなものを見たという使用人は数人いるのですが、当人達も何かと見間違えたのかもしれないと言っていて」

 ジェイルはドライフルーツの入ったパウンドケーキを齧りつつ、耳を傾けた。使用人達に見られている気がして、前髪を撫でつける。同じようにアリシアとティークも視線を集めているが、慣れているのか堂々としていた。

「庭も荒れてきてしまっていますし、木がそういう風に見えたのかもしれません」

「目撃されるようになったのは、いつ頃から?」

「一年くらい前、だと思います」

 イザベラは思い出すように言い、安心させようとしてか笑みを見せた。

「でも、ここしばらくは誰も見ていないようです。きっと勘違いか何かでしょう。庭には明かりもないですから」

「一晩中見ていたわけではありませんが、少なくとも昨夜は出なかったようですね」

 アリシアが静かに言った。ライナスが驚いたように、飲んでいたカップを置いた。使用人は少し間を置いてから紅茶を注ぎ、すぐに下がった。

「アリシアさん、見張ってたんですか?」

「もしかしたら、依頼されたことと関係があるかもしれないと思いまして」

 笑顔でアリシアは言うが、実際見張っていたのはウェルらしい。さっき、眠いだの猫使いが荒いだの散々文句を言っていた。今はアリシアの膝の上で寝息を立てている。

「お庭、どうして荒れちゃったんですか?」

 クロワッサンをちぎり、リディアが聞いた。使用人は何人もいるのに、庭師はいないのだろうか。

「庭の手入れは、ずっと祖父が全て一人でやっていたんです。なので、私も両親もどうしたらいいのか分からなくて。今も庭師を雇うか悩んでいるんです。祖父が大事にしていた庭に、他の人の手を入れていいものなのか……」

 イザベラはどこか悲しげに言った。もう一つの噂について聞こうとしていたティークも、イザベラの表情を見て口をつぐんだ。

「あっ、すみません!どうでもいい話でしたね」

「こちらこそ込み入った事情だったみたいで、すみません!」

 リディアはブンブン首を振って言った。質問はここまでにしたらしく、アリシアが本題を切り出した。

「今日はまず、お祖父様とひいお祖母様のお部屋を見せていただこうと思っているのですが」

「分かりました。曾祖母の部屋は祖父が色々片付けてしまったようですが、祖父の部屋はなるべくそのままにしてあります」

 強く頷くイザベラの前に、ジョセフがデザートのプディングを置いた。ジェイルもプディングに手をつける。

「このプディング美味しいね」

「あたしもこれ好き!帰ったら師匠作ってくれないかなー」

 話の邪魔にならないよう、小声でリディアが言った。アリシアのことだから、材料さえ分かれば作れそうだ。二人揃ってかなりの速さで食べ進める。

「実は祖父の部屋は、私もあまり入ったことがないんです」

「そうなんですか?」

「おっとりしている私は、祖父に嫌われていたみたいなんです。昔誕生日に贈った花冠も、すぐに捨てられてしまったようで」

 部屋をこっそり覗いた時にどこにもなかったので、とイザベラは苦笑した。


 ジェイルも意気込み、探し物を手伝うつもり──だったのだが。

「何で、僕がボスの面倒見ることに……?」

「違ぇよ、俺様がお前の面倒見てやってんだ」

 使用人に気付かれないよう、小声で猫は言った。アリシアが仕事に集中するため、その間ウェルのことを頼むと言われたのだ。

一階の廊下を、ウェルの後ろについて歩く。使用人とすれ違うとお辞儀をされたので返していたが、もしかしてウェルに興味があるだけなのではないだろうか。

「その分、屋敷を好きに回れるしいいじゃねぇか。二手に分かれた方が効率もいい」

「そういうものかな」

 ジェイルには怪しい場所も、探し方も分からないのでウェルについて行くしかない。

「どう、何かありそう?」

「薄いけど、魔法の匂いはするんだよな……。姉ちゃんのもらったモンが、魔法に関するものかは分からねぇけど」

「イザベラさんがもらったものって、何だろうね。やっぱり《魔法具》かな」

「俺が知るか。でも《魔法具》なら、『不思議な力を持つもの』なんて遠回しな言い方しねぇ気がするけどな」

 ふんふんとあちこちの匂いを嗅ぐウェルを横目に、ジェイルは美術品を鑑賞した。絵画は風景画がほとんどで、昨日見たような抽象画とやらは少ない。壺や花瓶は落ち着いた色合いで、派手さはなく上品な感じがする。こういうものがあると家の中が華やかになるが、掃除が大変そうなのでリディアは嫌がりそうだ。

 見入っていると、ウェルが急に歩調を速めた。

「ちょっとボス、どこ行く気?」

「庭」

 実に簡潔な答えだ。

「待ってよ、どこから行けるか分からないのに!」

「こっちから風の匂いがする」

 ウェルはすたすた歩いていたかと思うと、突き当りのドアの前で止まり、不機嫌そうにジェイルを見上げた。

「小僧、さっさと開けろ」

「う、うん」

 ここには猫用の潜り戸などないことをすっかり忘れていた。ドアノブを回すと、ぶわっと風が吹きこんできた。目の前に広がるのは、一面にこれでもかと植物が植えられた庭だった。庭全体を生け垣がぐるりと囲み、季節柄花はあまりないが、紅葉した葉が彩りを添えている。庭の中央に立つ木は、丸くドーム状に刈りこまれていた。

 だが噂通りしばらく整えられていないようで、あちこち雑草が生えたり形が崩れかけてしまっている。花壇は曲がっていた。中央の木にも、ツタが絡みついている。

「いい庭じゃねぇか、荒れてきてるのがもったいねぇな」

「本当だね」

 ドアを閉め、ジェイルとウェルは庭に踏み込んだ。本来なら綺麗に手入れがされ、春には色とりどりの花が咲く、《園生邸》と呼ばれるにふさわしい場所だったのだろう。

「大きな影ってなんだろう。昨日は出なかったんだよね?」

「おう。アリシアのヤツ、『ウェルは昼寝できるんだから、見張ってて』なんて言いやがって!」

 腹いせにか、ウェルは近くに生えていた雑草にパンチを食らわせた。庭を見回せば背の高い木がいくつかあったので、見間違いとしたらそれかもしれない。

「気のせいか、魔法の匂いは外の方が強いな。草と土の匂いで分かりにくいが」

「幽霊の匂いはしない?」

「そもそもどんな匂いだよ!」

 ジェイルは純粋に尋ねたのだが、怒られてしまった。庭は歩いてみると意外に地面がデコボコしている。雨風によるものだろう。

「そもそも、誰の幽霊なんだろう?」

「一年前からって言ってたな。祖父さんが亡くなったのもそれくらいじゃなかったか?」

「え、じゃあ、まさか……?」

「呪い殺されて祟ってやる~、とかだったりしてな」

 ウェルはわざとらしく恨めしそうな声音を出した。リディアなら本気で怒り出しそうだ。

荒れているせいか、《漆黒の森》に慣れてしまったせいか、庭は寂しげに見えた。森は全てを飲み込む力強さがあるが、ここは人の手があってこそ成り立っている気がする。

「ここにも怪しいところはなさそうだね」

「そうだな。寒くなってきたし戻るか」

 庭を一回りし、屋敷に戻ろうとドアを開けると、目の前にジョセフが立っていた。

「何か見つかりましたか?」

「わわわ、執事さん!え、えっと、特には……」

 思わず後退り、ジェイルはどもりながら答えた。ウェルとの会話は聞かれていなかっただろうか。

「ハルフォード様のところへ行かれるのなら、ご案内いたしますが」

「あ、はい、お願いします……」

 チラリと猫を見ると、わずかに頷いた気がしたので案内してもらうことにした。

「執事さんは長くここにいらっしゃるんですか?」

「はい。お嬢様がお生まれになる前から、大旦那様に仕えておりました」

「そんなにですか!」

「大旦那様にはご恩もありますし、今の旦那様にもお世話になっておりますので」

表情を変えずジョセフは言う。そうなるとかなりの年齢になるのだろうが、ジョセフの動きは無駄がなく年を感じさせない。階段の下まで来ると、ライナスが立っていた。

「おや、雑用係君と猫君」

 ジェイルは名前ではなく、雑用係という肩書きで覚えられているらしい。

「ライナスさん。こんなところでどうしたんですか?」

「いやね、アリシアさんの仕事を見ていたんだが、僕はどうにもお邪魔な気がして」

 ハハ、とライナスは苦笑した。ジェイルと似たような状況らしい。お互い、部外者に近い立ち位置である。

「そういう君こそ、どうしたんだい?」

「えっと、この子の世話をまかされていて。散歩は気が済んだみたいなので、アリシア達のところに戻ろうとしてたんです」

 足元のウェルを見ながら、ジェイルは説明した。猫は我関せずと顔を洗っている。

「猫君のお散歩か。この屋敷は広いから、猫君の気まぐれで迷子にならないようにね。僕もたまに迷うんだ。今回は三ヶ月ぶりに来たしね」

 ライナスは冗談めかして言った。館で何度も迷子になりかけたジェイルにとっては、冗談では済まない。

「気をつけます」

 昨日の《クムロク町》でのこともあるので、ジェイルは激しく頷いた。通りかかった使用人が、ジェイル達を見て足早に通り過ぎて行く。対応に困ったのかもしれない。

「さてと、アリシアさんの方はそろそろ落ち着いたかな」

「では、コートニー様もご一緒にどうぞ」

 ジョセフは一礼した。


「こちらになります」

 ジョセフがノックし、ひいお祖母さんが使っていたという部屋のドアを開けた。

「あ、足元に気をつけて!」

 リディアの声にジェイルは立ち止まり、ウェルは突き進み、ライナスは一歩下がった。ジョセフは無表情のまま後ろで待機している。

「これは、また……」

 部屋の中はまたとんでもないことになっていた。戸棚や机の引き出しは全て開け放たれ、中身が部屋中に転がっていた。ティークはこめかみを押さえ、リディアはてきぱきと片付けている。考えるまでもなく、犯人はアリシアだろう。

「すみません、せっかくですからどれが《魔法具》か見てもらっていたら、散らかってしまって」

 イザベラが足元の本をどけてくれたが、視線はライナスの方を向いていた。

「……頑張ってたみたいだね」

「アリシアさんは散らかす名人なんですから、全く!」

 ティークは足元の鋏を拾い上げ、小声で言った。名人を通り越してもはや超人の域だろう。しかも本人が目指したわけではないという。

「《魔法具》はあったの?」

「この部屋には、雨が降ったら色が変わる長ぐつとか、歌うブローチしかなかったよ」

 ジェイルが聞くと、リディアが机の上を指した。長ぐつとブローチの他に、羽ペンやボタンも置かれている。だが、イザベラの探し物はないようだ。

「へぇ、見せてもらっても?」

「危険そうなものはなかったので、どうぞ」

 ライナスは興味を引くものがあったのか、アリシアの許可を取ると机に近付いた。歌うブローチはジェイルも気になる。

「ほら、ジェイルも片付けるの手伝って!」

「はい……」

 掃除の名人には逆らえない。

ひいお祖母さんは変わった人だと聞いていたので、奇妙奇天烈なものばかりあるのかと思ったが、そうでもない。ガラスのペンに、埃をかぶったインク壺。色褪せたレースの切れ端に精巧な蝋燭立てという、ごく普通の品々だ。アリシアの部屋にあったものの方が、よほど奇妙だとジェイルは思う。

「あの、後は使用人にやらせますので……」

 イザベラが立ち上がって、ジョセフに人を呼びに行かせようとした。それをアリシアがやんわり止める。

「他にもあるかもしれないので、片付けながら探してみます。イザベラさんとライナスさんは休んでいて下さい」

「ですが……」

「アリシアさんの邪魔をしてはいけないよ、イザベラ。見つかった《魔法具》をどうするか考えよう」

 ライナスに声をかけられ、イザベラはほわんとした表情で部屋を出て行った。最後にジョセフが何かあればお呼び下さい、と言ってドアを閉めた。

「で、本当に怪しいモンはなかったのか?」

 足音が遠ざかるのを待ってから、ウェルが口を開いた。

「ないわ、少なくともこの部屋には。そっちこそ、何か発見はあった?」

「庭を見てきたが、荒れてるだけで大きな影とやらの痕跡はなかったぜ」

「広いお庭だったよ。お祖父さん一人で手入れするの、大変だったんじゃないかな」

 ジェイルは率直な感想を述べた。

「なら、使用人の方の見間違いでしょうね!」

「きっとそうだよ!」

 ティークとリディアは、空元気に言った。

「お祖父さんの呪いの方は?」

「まだ話を聞いてないないから、何とも言えないわ。でも、魔法の気配はするのよね」

「大方、《魔法具》だろうけどな。どうせ依頼とは関係ないだろうし、それはいいんじゃねぇの」

 ウェルが薄情なことを言う。

「間取りからして、隠し部屋もなさそうだぜ。大きな影が出るようになったのは祖父さんが亡くなった時期と近いみてぇだし、呪われた祖父さんが祟ってるんじゃねぇの」

「ちょっと、止めてよボス!」

「そうですよ!より怖い話になった上に、筋が通ってしまったじゃないですか!」

 リディアとティークの総攻撃に、ウェルは机の下に逃亡した。それもきっと楽しんでいるのだろう。

 ジェイルは机の上の、口を開けたアヒルの置物を手に取ってみた。随分精巧な作りをしている。金属でできているのか、ずっしりと重い。

「これは何?置物?」

「あ、ダメ!」

「え?っいたたたたたた!」

 くちばしをつつくと、思い切りアヒルに指を噛まれてしまった。しかも引っ張ってもはずれない。

「ダメよジェイル!それはアヒルの口に紙を挟む、ペーパースタンドの《魔法具》なの」

 アリシアがアヒルの背をなでると、ジェイルの指はようやく解放された。不用意に《魔法具》に触ってはいけないというのを、身を持って実感する。指にくちばしの痕が綺麗についてしまった。

 部屋中調べ、片付けも終わる頃には外は群青色になっていた。

「何もなかったね」

「明日はお祖父様の部屋を見せてもらいましょ」

「……あたし、気が重いな」

「オレもです……」

「おうおう、しっかりやれよ!」

 ウェルだけはやたら元気で、ジェイル達は重い足取りのまま部屋を出た。


* * * *


 美味しい夕食をいただき、風呂を借りるとジェイルは大分スッキリした。浴室は館のものより広く、ジェイルにしては長湯してしまった。部屋に戻り、着替えを詰め替えていると、

「ボスこっちにいる?」

 ノックもなしにリディアがドアを開けた。もう風呂を済ませたからか、いつもの三つ編みはほどかれている。

「ボスは来てないけど……」

 とにかく服をカバンに詰めこみ、ジェイルは答えた。

「あれ、じゃあどこ行ったんだろ?探しに行かないとダメかー。ほらジェイル、行くよ」

 ジェイルに拒否権はないらしい。リディアに背を押され、廊下を歩き出す。

「アリシアとティークさんは?」

「師匠は荷物の整理してるよ。ティークは逆立ちしてた」

「ティークさんは相変わらずだね……」

 あまりぐいぐい押さないでほしいと思いながら、ジェイルは言った。

「そういえばイザベラさん、ライナスさんのこと好きだよね」

「まぁ、嫌いってことはないと思うけど」

 リディアに言われ、ジェイルは首を捻った。

「そういうことを言ってるんじゃないよ!イザベラさんは、ライナスさんに恋をしてるみたいってこと!」

 いきなりバシンと強く背中を叩かれ、ジェイルは転びそうになった。

 恋と言われても、ジェイルにはよく分からない。物語に出てくるものとして知識はあるが、実際の話は聞いたことすらないのだ。

「だってさ、ティークを見ても反応なかったし!後で師匠に言ってみよっと」

 そういえば、依頼をしに館に来た時からティークに特別な反応はしていなかった。《カラトウガラシ亭》の女将や、町の女性はかなり露骨だったというのに。彼女達が特殊、という考え方もできなくはないが。

二人で歩き回っていると、廊下の真ん中で使用人の女性達が座り込んで話をしていた。なぜか声をひそめて話しているので、ジェイル達も大きな壺の影に隠れる。

「お嬢様は騙されてるのよ!……あんな、胡散臭い……」

「でも……気付いてないみたいだし、どうしたら……」

「そうね……何を考えてるんだか……。ジョセフさんも、どういうつもりなのかしら……」

 距離があるため、会話は断片的にしか聞こえない。

「やっぱり、幽霊は大旦那様じゃ……」

「私見たのよ……三か月前に……!」

「見間違いよ……ありえないわ……」

しばらく話すと、満足したのか女性達は去って行った。

「胡散臭いって、僕達のこと……だよね?」

「騙してるって失礼だなぁ」

 リディアはむすりとしたが、それ以上悪態をつくことはなかった。後半は、庭に出る影とやらの話だったようだ。元々の目的を再開しようとすると、何かがこちらに歩いて来るのが見えた。キジトラ模様の、毛玉が。

「リディア……あれ」

「ボス!どこ行ってたの!」

「小僧とリディアか。夜の散歩してたんだ」

 ウェルは毛並みが乱れ、不機嫌そうだ。

「さっきの使用人達に、撫で回されてよ……。何で人間はやたら撫でたがるんだ」

「だって、撫でたくなるじゃん」

 きっぱりリディアが言った。

「使用人達は、途中からおしゃべりに夢中だったけどな」

 ウェルは体を震わせて言った。さっきの使用人達は、ジェイル達が通りかかる前から随分長く話していたようだ。

「使用人達も、庭に出るのは祖父さんの霊だと思ってるみたいだぞ」

「そ、そうなんだ……」

「止めて、聞きたくない!」

 庭を気にして、リディアは再びジェイルの背中を押した。ウェルも見つかったので、足早に廊下を戻る。角を曲がろうとすると、ジョセフと鉢合わせた。

「し、執事さん!」

「びっくりした!」

「エリクソン様、カネルヴァ様。いかがされました?」

 驚いた様子もなく、ジョセフは言う。

「すみません、ちょっと散歩を。でも、もう戻るので」

「ではお部屋までご案内いたしましょう」

 有無を言わせない雰囲気のジョセフに、ジェイルとリディアは頷くしかなかった。


* * * *


 翌朝、ジェイル達は気合を入れなおし、お祖父さんの部屋へと足を踏み入れた。

「ここが祖父の部屋です」

 部屋の中は綺麗に整えられており、機能的に家具が置かれていた。藍色の絨毯にも染み一つない。よほど几帳面な人だったのだろう。ただ、本棚だけ変に大きくて装飾ばかりついている気がした。その分高価なものなのだろうか。

「アリシアさんの部屋もこんなに綺麗なら、困らないんですが……」

 早速ティークが呟く。アリシアの部屋は物が多いのも散らかる要因の一つだろう。それを無視して、アリシアはイザベラに向き合った。

「気分を害されたらすみません。お祖父様が亡くなったのは呪いだ、なんて聞いたのですが……」

 イザベラは幽霊の話を聞いた時点で予想していたのだろう、驚く様子もなく答えた。。

「体は丈夫な方だったんですが、亡くなる前に急に体調を崩たり、きつい性格から嫌われることも多かったようなので、そんな噂が流れているのでしょう」

「僕も何度かお会いしたけど、厳格な人だったよ。少しでも服装が乱れていると、怒られてしまってね」

 ライナスは襟元を正して言った。ご存命だったなら、ジェイルの前髪も何か言われてしまいそうだ。

「自分にも他人にも厳しい方でした。でも、庭の手入れをする時だけは楽しそうだったんです」

 窓の外の庭に目をやり、イザベラは言葉を切った。

「……そうでしたか、では始めましょう」

 アリシアは書き物机に歩み寄った。ジェイルはこっそりリディアに聞く。

「具体的に、何をすればいいの?」

「昨日と同じで、怪しいものがないか探すの。でもこの部屋あんまり物がないし、魔法の気配もしないんだよね……」

 リディアはこんなに綺麗だとやりくいなぁ、とぼやいた。昨夜も庭の見張りをさせられたらしく、ウェルは窓辺でうとうとしている。昨日の教訓を活かし、散らかしすぎないように始めた。

「……この部屋にもないみたいね」

 あっさりアリシアが言い放った。

 部屋中くまなく探したが、ビロードの巾着袋はおろか《魔法具》も見つからない。必要最低限の日用品と、園芸の本しか置かれていなかった。

「やはり、捨てられてしまったのでしょうか……」

 イザベラはひどく落ち込んだ顔をした。

「も、もう少し探してみましょう!ほら、ジェイル!」

 リディアに名指しで呼ばれ、ジェイルはとりあえず絨毯の端をめくってみた。もちろんそこには木の床があるだけだ。すると、ジェイル達が必死に探すのを窓際で見ていただけだったウェルが、本棚の前に降りてきた。近くにいたジェイルにだけ聞こえるような声で言う。

「おい、ここ絨毯に跡みたいなのないか?」

「え?」

 言われてみれば、そこだけ絨毯がへこんでいるように見える。まるで、本棚を頻繁に動かしていたかのように。

「どうかした、ジェイル?」

「いや、あの、ここだけ絨毯に跡があって……」

 アリシアに聞かれ、ジェイルは絨毯を指した。

「本当ね。この本棚、何かあるのかしら……。ティーク」

「はい。皆さん、危ないので離れていて下さい」

 ティークが跡に合わせるように、本棚を扇状に動かす。埃がかなり舞ったので、ジェイルはくしゃみが出そうになった。

「あら、これは……!」

「日記帳、かな?」

 何と、本棚の裏側も本棚、つまり裏表で本が置けるようになっていた。他の家具と比べて大きい本棚だと思っていたが、こんなウラがあるとは。

裏側は背表紙に日付けが書かれた本が並んでいるので、日記帳か何かだろう。イザベラが駆け寄って一冊手に取った。

「間違いありません、祖父の日記です!日記を書いているところは見たことがあったのに、日記が見当たらないと思っていたんです……!」

「でも、何でこんなところに日記を?」

「大旦那様は本当に大事なものは、人目につかぬ所に置くようになさっていました」

 いつからいたのか、部屋の入口にジョセフが立っていた。

「うーん、でもここには日記しかないね」

 本棚をじっくり見て、リディアが言った。何年分の日記があるのか、上から下までぎっしり並んでいる。

「もしかしたら、どこかに手がかりになるようなことが書いてあるかもしれません」

「そうね……イザベラさん、よろしいですか?」

 アリシアの言葉に、イザベラは頷いた。

「ティーク、お願い」

「はい」

 ティークは上の段から順番通り、日記を取り出した。その際、すさまじい量の埃がジェイル達を襲った。さっきの比ではない。

「うわわ!ジェイル、窓開けて!」

「う、うん!」

「これは……ごほっ、ごほほ!」

「ライナスさん、大丈夫ですか?」

 部屋の端にいたウェルも、くしゃみの発作を起こしていた。埃が落ち着いてから見ると、日記は全てコバルトブルーの同じものだが、古さによって微妙に色合いが異なっている。リディアはジョセフが持ってきた雑巾で本棚を拭いていた。

「一年で一冊でしょうから、長く日記をつけていらっしゃったんですね」

「冊数が冊数だから、分担して読みましょう」

「僕も手伝おう。人様の日記を読むのは気が引けるけど、皆さんのお役に立てるのはこれくらいみたいだ」

「私も、少し怖いですが……見つけたいですから」

 ライナスとイザベラも申し出たので、日記を数冊ずつに分け、それぞれ受け取る。ジェイルが渡されたのは最近のものらしく、日記の表紙の色が鮮やかだ。

「俺様が教えた読み書きが、ここで大いに役に立ったな」

 くしゃみが収まったウェルが、ジェイルの背後に来て言った。

「こんなことになるとは、思わなかったよ……」

 ジェイルは小声で返した。お祖父さんの字は部屋同様見やすく、とても読みやすい。時々難しい言葉が出てきたが、ウェルに教わったものがほとんどだった。

日付けを見ると、ほぼ毎日書いていたようだ。食事は何で、一日にどんなことがあったのか、その日の天気まで事細かに書かれている。だが、あまりに色んなことがつらつら書かれているので、ジェイルは頭が痛くなってきた。物語と日記は違うものだな、と思った矢先に、気になる一文が目に付いた。

《あの男があの品について、しつこく聞いてくる》

《うっかり話したりするのではなかった》

 前髪を払ってよく読んでみると、初めは信頼していたこの人物に、だんだん警戒心を抱いていったようだ。誰のことなのだろう、この人物の名前は書かれていない。さらにページをめくろうとすると、リディアが声を上げた。

「師匠、これ!」

 皆がリディアの周りに集まり、ジェイルとウェルもそちらへ移動する。

「ほら、この日の日記」

 リディアが指したページには、《イザベラが義母に何か渡されたようなので、預かることにした。危ないものでなければいいのだが》と書かれている。

「これは、巾着袋を取り上げられた日の日記です!」

「どこにしまったか、書いてない?」

「それがね……」

 アリシアに聞かれ、リディアはその先の文章を指した。《こんなものを一体どこで手に入れたのだろう。とにかく、あの場所で保管することにした》とある。

「巾着袋の中身も、場所もはっきり書かれてないみたい」

「でも、かなり前進したわ。捨てられていない可能性が高くなったもの」

 アリシアの言葉に、イザベラは表情を明るくした。

「別の日記に書かれているかもしれないわ、読み進めましょう」

「このままの体勢だと辛いので、椅子を持ってきましょう」

「それならば、わたくしが……」

「いえ、オレも行きます!」

 ジョセフの申し出を遮り、ティークはそそくさと部屋を出て行った。早くも、じっと本を読んでいるのが辛くなったようだ。


* * * *


 一日中目を皿にして日記を読み進めたが、肝心の隠し場所は読んだどの日記にも書かれていなかった。まだ読み終わっていない日記もあるので、そちらに書かれているのだろうか。

 一気に読んだので、ジェイルは頭痛が酷くなってしまった。ティークはアリシアに日記を渡して、ジョセフと掃除を始めたくらいだ。アリシアとリディアは読み進めるのが早く、アリシアはティークに渡された分も苦もなく読んでいた。最近読み書きを会得したばかりのジェイルと違って、日頃から多くの本を読んでいるのだろう。

「まだあと二冊もあるのか……」

 借りている部屋のベッドに転がり、読み終わっていない日記を指ではじいた。すでに夕食を食べたので、することもない。読む気は起きないが、パラパラめくってみた。すると、ある一文が目に飛びこんできた。

《あの男は、私を殺すつもりなのかもしれない》

 ジェイルは前髪を払って、前後のページを見た。《最近どうにも調子が悪い》、《あの男が何かしたに違いない、恩を仇で返す気か》と、少し歪んだ字で書かれていた。何かについて聞いてきたという人物と、おそらく同じだろう。

 イザベラの探し物とは無関係かもしれないし、他人の家のことに首をつっこむのは野暮かもしれないが、アリシアに話した方がいいだろう。アリシアの部屋まで小走りで行き、ノックをする。

「アリシア、アリシア!」

 けれど、返事がない。ウェルもいないようだ。仕方ないので、隣のティークの部屋をノックした。

「ティークさん、いる?」

「はい?」

 今度は返答があったので、ドアを開けた。ティークは逆立ちではなく、短剣の手入れをしているところだった。

「短剣なんて持って来てたんだね」

「前に、依頼先で熊に襲われたことがありまして。それから護身用に持ち歩くようにしているんですよ」

 ティークは爽やかに笑って言った。しかし、熊と対峙するとは一体どんな依頼だったのだろう。

「それで、何かご用ですか?」

「あっ、そうだった!アリシアがいないんだけど、どこに行ったか知らない?話があって」

「アリシアさんなら、出歩いているボスを探しに行きましたよ。今夜は天気も悪くなってきましたし、早く見つけないと、と言っていました」

「そっか、ありがとう」

 ティークにお礼を言い、ジェイルは廊下を歩き出した。天気はかなり荒れてきているようで、風が鳴り窓がガタガタ音を立てている。アリシアかウェルの、どちらか見つからないか探していると、背後から声をかけられた。

「どうかしました?」

「えっ、あ、イザベラさん……」

 またジョセフかと思ったが、今回はイザベラだった。

「アリシアを探していて……見ませんでしたか?」

「アリシアさんですか?ごめんなさい、見かけませんでした」

 どこへ行ったのだろう。さすがにイザベラに話すわけにはいかないので、別の話題を考える。

「あの、廊下を歩いていると、よく執事さんと会うので今も一瞬そうかと思ってしまいました」

「ジョセフはいつも屋敷の見回りをしているんです。私も時々、鉢合わせて驚くことがあります」

 イザベラはふふふ、と笑った。

「このまま見つかるといいですね、探し物」

「はい。皆さんのおかげで、助かりました。私一人では日記すら見つけられなかったでしょうから。……ライナスさんも、一緒に手伝って下さっていますし」

 最後は独り言のように言って、イザベラは嬉しそうな、どこか切なそうな顔をした。リディアが言っていたことは本当なのだろうか。

「イザベラさんは、ライナスさんのことが好きなんですか?」

「えっ、え、えぇ!」

 イザベラはみるみる赤くなり、両手で顔を押さえた。大げさなイザベラの反応に、ジェイルがうろたえてしまう。言ってはいけないことだったのだろうか。

「……ですか?」

「え、はい?」

「どうして……分かったんですか?」

 林檎のように赤い顔で、イザベラは言った。どうして、と言われても気付いたのはリディアなのでジェイルは答えに詰まった。外から、風の音だけが聞こえてくる。

「ライナスさんは、その、知識も豊富で機知に富んだ方で!今では父の友人ですが、最初は祖父と知り合ったらしいんです!」

 沈黙に耐えかねたのか、イザベラは口早に言った。

「なんでも、ライナスさんが偽物の美術品を非難したら、相手に開き直られてしまって、困っていたところを居合わせた祖父が助けたそうなんです」

「そうだったんですか」

 お祖父さんは厳しい人だったようだから、不正が許せなかったのだろう。

「す、すみません、どうでもいいことをペラペラと……。アリシアさんを探していたんですよね、お会いしたらジェイルさんが探していたと言っておきます」

「すみません、お願いします」

 イザベラと別れ、ジェイルはもう一度部屋の近くを歩き回ってみたが、アリシアはいなかった。これ以上歩き回って迷子になっては困るので、部屋に戻る。

 雨も降ってきて、窓にたたきつける音が響いた。

「誰のことなんだろう……」

 もう一度日記を読み返そうとして、ジェイルは日記が見当たらないことに気付いた。ベッドの上に置いておいたはずなのに、ない。ベッドの下もカバンの中も引っくり返すが、どこにもない。一気に冷や汗が背中を流れる。遺品を失くしたとなれば、大目玉では済まないだろう。

 ジェイルは部屋を飛び出し、さっき通った辺りを目を皿にして探した。そっと絵画の裏も見てみたが、そんなところにあるはずもない。ここまで探してないということは、ジェイルが失くしたというより、誰かが持ち去ったのかもしれない。

案外、リディアが日記の先が気になって持って行ったのかも、とジェイルは自分を落ち着かせた。大きく深呼吸をする。するとバタン、とドアが強く閉まる音がして飛び上がった。そっと見に行けば、庭へと続くドアの下が雨で濡れていた。

アリシアが外に出たのだろうか。気になったジェイルは、ドアを開けて庭に出てみた。

「うっわ!」

 雨と風が顔面に襲い掛かる。暗闇の中、風に揺らされる植物達はまるで踊っているかのようだ。庭の真ん中辺りまで来てみたが、誰もいない。濡れて張り付いた前髪を横に流すと、点々と地面に落ちている泥に気付いた。泥の先を見ると、夜目が利く左目が蠢く何かをとらえた。風に関係なく、木の高さほどある何かが庭を歩いている。

「庭を歩く大きな影……!」

 今度は誰でもいい、呼びに行かなくては! ジェイルが走り出そうとすると、突然背中を突き飛ばされた。

「おわっ!?」

足元もぬかるんでいたため、勢いよく茂みに倒れこんだ。しかもそのまま、体はごろごろ転がっていく。

「うわあああああ!」

 天と地が何度も入れ替わり、全身を痛みが走る。永遠に続くかと思われたが、ドンと強く背中を打ちつけて、体の回転は止まった。見上げると、闇の中階段のようなものが見える。ジェイルは薄れていく意識の中、大きな何かが動き回る地響きを聞いたような気がした。




   八章     嵐の朝


 嵐が収まらない翌朝、中々起きてこないジェイルにリディアはいら立っていた。

「もう、ノッテとマティーナがいないとダメなんだから!」

リディアは問答無用で部屋のドアを開け──叫んだ。

「師匠、ジェイルいないよ!」


「どこに行ったのかしら……」

 アリシアは応接室のソファに座り、大きくため息をついた。

「トイレや浴室も調べさせたんですが、いないようです」

 おろおろとイザベラが報告する。リディアは箒を握り締めたまま黙り込み、ティークは無意味に部屋を歩き回っていた。

「俺も探してみたが、あいつ匂いが薄いから分かんねぇんだよ」

ウェルはアリシアの膝の上で、イザベラに聞こえないよう小声で言った。

「こんな天気だっていうのに、雑用係君はどうしたんだろうね」

 ライナスが肩をすくめた。予想外なジェイルの失踪に、誰も何と言っていいのか分からない。少ない荷物も、そのまま部屋に置かれていた。

「もしかしたら、私が最後にジェイルさんにお会いしたのかもしれません。夜、アリシアさんを探していらっしゃいました」

 震える声でイザベラが言った。

「ウェルを探すのに手間取ってしまったけど、ジェイルには会わなかったわ」

「オレも、アリシアさんがどこへ行ったか聞かれました。話があると言っていましたが……」

「師匠を探しに行って、自分が行方不明じゃ意味ないじゃん」

 リディアがそっけなく言うが、その声は掠れている。全員が再び黙った時、ジョセフが駆け込んできた。

「皆様、庭にエリクソン様のものと思われる足跡が!」

 アリシアはぱっと立ち上がった。あまりにも勢いよく立ち上がったので、膝に乗っていたウェルが転げ落ちたが、気にも留めない。抗議するようにウェルがフシャーと鳴いた。

「行きましょう!」

 傘もささず、アリシア達は庭へ飛び出した。荒れ狂う風の中、ジョセフが「こちらです!」と声を張り上げた。

 庭の中央にある、ドーム型に刈られた木の脇。そこでジェイルの足跡は急に途絶えていた。

「アリシアさん、この辺りの茂みの枝が折れたり葉が落ちたりしています!」

「よく探して!」

 ティークが木の下の茂みをかきわけると、ジェイルの代わりに違うものが見つかった。

「これ……階段でしょうか?」

 木の根元から少しずれるように、狭く急な階段が下へと続いていた。苔と落ち葉がひどい。アリシアにだけ聞こえるよう、ウェルがささやいた。

「下の方から、小僧と血の匂いがするぜ」

 アリシアはティークとジョセフが止める声も聞かず、真っ先に階段を駆け降りた。途中壁にあった蝋燭立てに、「灯りを!」とだけ唱えて火を点ける。明るくなったことで、階段はそう長くないことを知った。行き止まりにある、木の扉の前。そこに、ぐったりとジェイルが横たわっていた。


* * * *


「……イル、ジェイル!」

 自分を呼ぶアリシアの声に、ジェイルは寝坊しただろうか、とぼんやり思った。起き上がろうとして、全身を襲う痛みに顔をしかめた。

「っいつつつつ……」

「ジェイル!よかった……!」

 アリシアが抱きついてくるが、痛みが増すので止めてもらいたい。そして寒い。

「アリシア、痛い……」

「ご、ごめんなさい!」

 くらくらする頭で状況を把握しようとすると、今度はリディアに小突かれた。

「こんなとこで何やってんの!泥だらけじゃん!」

 ぐぅぎゅるるぐぐぅ。

「ジェイルさん、ご無事なようでよかったです……!」

「腹の虫共々、元気そうだな」

 ティークとウェルも近づいて来て、ほっとした表情を浮かべた。アリシアはジェイルのケガの様子を見て、打ち身と切り傷だけみたいね、と呟いた。下に積っている落ち葉が衝撃を和らげてくれたようだ。

「えーと、僕、どうしたんだっけ……?」

「夜、師匠を探しに行った後、いなくなっちゃったんだよ!」

 リディアが怒鳴った。アリシアがハンカチでジェイルの顔をふいてくれる。そこでジェイルも、庭を歩く大きな影を見たのを思い出した。

「僕、庭を動き回る大きな影を見たんだ!それで、背中を突き飛ばされて……。木の高さくらいあったし、地響きみたいのもしてたよ!跡が残ってるんじゃないかな?」

「えっ!あたし、昨日早めに寝ててよかった……」

「どうでしょう、オレ達の足跡で消してしまったかもしれません」

 申し訳なさそうにティークが言った。

「皆さん、大丈夫ですかー?」

 そこへ、イザベラとライナス、ジョセフが降りて来た。

「ジェイルさん、よかった!こんなところにいらっしゃったんですね!」

「何だか、すみません……」

 アリシアに支えられ、立ち上がる。足を捻ったりはしていないようだ。

「ところで、ここは……?イザベラは知っていたかい?」

 ライナスが後ろの扉を指した。

「いえ、私もこんな場所は初めて知りました」

「わたくしもです」

 イザベラとジョセフも知らないようだ。入れないのかな、とジェイルが言うとアリシアが驚いた顔をした。

「まずはケガの手当てをしないと!」

「僕は大丈夫だよ。もしかしたら、ここにイザベラさんの探し物があるかもしれないよ」

 どうにか笑って見せると、アリシアはため息をついた。

「では、開けてみますね」

 ティークがドアノブを回し扉を押すと、蝶番が耳障りな音をたてた。部屋の中は真っ暗で何も見えない。

「真っ暗だね……」

「ティーク、そこに落ちてる木の枝をちょうだい」

 アリシアはティークから木の枝を受け取ると、「灯し火をここに」と唱えて枝の先に火をつけた。

「倉庫……でしょうか」

 部屋は思ったよりも広く、棚が並んでいた。奥には大きな袋がいくつも積み上げてある。壁には庭の整備に使われていたであろう、シャベルや鋏がかけられていた。一同は部屋の中に入り、見回した。

「埃だらけだなぁ」

 開口一番にリディアが言う。

「こっちの袋は、肥料と土みたいだね」

 袋にかかった埃を払い、ライナスが言った。ウェルは、床に転がっていたシャベルをつついている。棚には使っていないらしい食器と小物が置かれている。油は入っていないが、ランプもあった。

「小物はどれも魔法具みたいですね」

 アリシアは陶器の人形を手に取って言った。

「ジェイル、そっちには変わったものない?」

「例えば?」

「河童のカップとか、めくじら立てるクジラの置物とか!」

 リディアに聞かれ棚を見るが、そもそもそんなものは存在するのだろうか。隣のアリシアは、リディアの言葉でようやく表情を緩ませた。

「……これ、何でしょう?」

 棚の上の方を見ていたティークが、動きを止めた。抱えるようにしてティークがおろしたのは、大きな木箱だった。埃を払うと、精巧な花の模様が彫られている。ティークが蓋を持ち上げようとするが、開かない。

「鍵がついているようです」

 ジョセフが指した先には、小さな鍵穴があった。お祖父さんの部屋には、鍵などなかったというのに。

「ここまで来て……」

 ジェイルが嘆くと、リディアが横で挙手をした。

「あたし、やってみる!」

 リディアは木箱に手をかざすと、「秘密を開示し、護りを解け」と唱えた。しかし、何も起こらない。

「あれ?特殊な作りにでもなってるのかな……」

 首を傾げながらリディアはもう一度唱えたが、木箱は沈黙したままである。アリシアも不思議そうに木箱を見ている。

「イザベラさん、少し無理に開けてしまってもいいですか?」

「は、はい。箱が壊れなければ……」

 ティークは両手に力を込めると、鍵の部分を強く引っ張った。中でガゴッと金具がはずれるような音がして、蓋が浮く。

「開いたようです」

 かなり強引な開け方になってしまったが、イザベラはゆっくりと蓋を持ち上げた。中には、マゼンタ色をしたビロードの巾着袋と、ドライフラワーのようなもの、手紙、そして指輪が入っていた。箱の大きさに反して、中身は少ない。

「これ!これです!これが、曾祖母から小さい頃にもらった袋です!」

「やっと見つかりましたね」

 ティークから木箱を受け取り、イザベラはアリシアに笑顔を向けた。

 次の瞬間、部屋は暗闇に包まれた。アリシアが持っていた火が突然消えたのだ。

「きゃあ!?」

 続いてイザベラの悲鳴が聞こえ、ガタガタと棚が揺れる音、食器が落ちて割れる音が一度にした。

「なっなに!」

 前髪を払ってみるが、そこには闇が広がっているだけで、何が起きているのかまるで分からない。ジェイルが混乱しかけると、すぐ隣から冷静な声が聞こえた。

「闇を払う光よ灯れ」

 アリシアの言葉で、部屋に明るさが戻った。光源は、空のランプのようだ。ジェイルはほっとしたが、目の前の光景を見てぎょっとした。ライナスが木箱を抱え、扉の前に立っていた。その足をジョセフが掴み、イザベラはひたすら立ち尽くしている。

「……これは、どういうことですか?」

 聞いたことのない低い声で、ティークが凄んだ。殺気のようなものを感じて、ジェイルは固まった。しかしライナスは臆せず、せせら笑った。

「見たままだよ。僕もずっとこれを探していたんだ」

「何それ、意味分かんないよ!」リディアが叫ぶ。

「なら、言い方を変えよう。僕はずっとこれを狙っていたんだ」

「コートニー様、返して下さい!」

 ジョセフが取りすがったが、ライナスに蹴り飛ばされて呻いた。イザベラは顔面蒼白で、何故、どうして、とうわ言のように繰り返している。

その時、ジェイルはお祖父さんの日記の一文を思い出した。《あの男があの品について、しつこく聞いてくる》。まさか。

「もしかして、お祖父さんにしつこく話を聞いていたのは……」

「おや、日記に書いてあったかな?わざわざ君がいない時に持ち出したのに、意味がなかったね」

 ジェイルの部屋から日記を持ち出したのも、ライナスだったようだ。

「日記を読んでみたら、あの爺さんあんまり事細かに書いてるんだもんな。僕のことも書いてるんじゃないかって焦ったよ。その反応から、名前までは書いてなかったようだね」

「……亡くなる前、お祖父さんが急に体調を崩したのは」

「僕は魔法を使えないからね、呪いではなく毒を使わせてもらったよ。中々口を割らないから、体調が悪くなれば誰かに話すと思ったんだ」

「なっ、人殺し!」

 噛みつきそうな勢いでリディアが声を張り上げる。イザベラはとうとう床にへたり込んでしまった。

「残念ながらそれは違う。致死量は盛っていないよ。死んでしまっては、これの場所が分からなくなってしまうじゃないか。全く、急に亡くなったと聞いた時は困ったよ。今となってはどうでもいいけれどね」

 やれやれ、とライナスは肩をすくめた。それでも、お年だったために毒が予想以上に強く働いてしまったのかもしれない。

「それで、私に依頼するようイザベラさんに勧めたんですね」

「あぁ、そうさ。こんな若い娘がちゃんと見つけられるのか、冷や冷やしたよ。僕自身、何度もあちこち探したからね。《漆黒の森》に様子を見に行ったりまでしたんだ」

「どうして、あなたがそれを欲しがるんです?」

「爺さんの話が正しければ、これは相当に珍しいものだからさ」

 それじゃ、と言ってライナスは扉に手をかけた。

「行かせません!」

 ティークがライナスに向かって、素早く駆け出した。力強くティークが振り下ろした腕を、ライナスは横に一歩動いてかわした。

「こら、待てー!」

 リディアも箒を振り上げ何か唱えようとしたが、ライナスは笑みを浮かべたまま叫んだ。

「〝我が呼び声に応えよ、《泥人形》!〟」

 え、とジェイルが呟くと、肥料と一緒に並べられていた土の袋が破け、動き出した。さすがにアリシアも表情を強張らせる。

「そんな、魔法を使えないライナスさんがどうして……。皆、そこから離れて!」

 未だにぼうぜんとしているイザベラをリディアが立ち上がらせ、ジョセフは腹をおさえて起き上がった。ティークもライナスと距離を取る。ウェルはいつの間にか、棚の上に乗って毛を逆立てていた。

土はどんどん大きく膨らんでいき、手足と頭らしき形ができあがっていた。大きくなりすぎて、とうとう部屋の天井を押し上げ始めている。よく見れば、頭には何か書かれた紙が貼られていた。その姿に、ジェイルは見覚えがあった。

「アリシア、あれだよ!僕が昨日の夜、庭で見た動く大きな影!あれ、何なの?」

「《泥人形》、泥や土でできた巨大な下僕よ。使い魔の代わりに使われることもある《大魔法具》なの!」

 埃っぽい黒髪を後ろに流し、アリシアは答えた。《大魔法具》。魔法使いが自身のために使う特別な《魔法具》、だったはずだ。ライナスは魔法使いではないというのに、どういうことだろう。

「《泥人形》!?どうしよう、師匠!」

 箒を抱え、リディアはおろおろと壁まで下がった。

《泥人形》はライナスに歩み寄り、ライナスを腕に乗せた。

「彼の《黒の女王》も驚いたようだね!こいつも僕の収集品の一つさ!僕の言うことを聞くよう、魔法使いに作らせたんだ!高かったんだよ!」

 高笑いするライナスをよそに、アリシアは怒りに声を震わせた。

「頭についている羊皮紙に、魔法が書かれているの。それが本体みたいなものなんだけど……《大魔法具》を魔法を使えない人に売るなんて!危険すぎるわ!」

 同じ魔法使いとして、許せないことだったようだ。けれど、今はそれどころではない。

「幽霊でないのなら、お相手しましょう!」

こちらに向かって来た《泥人形》に、ふところから短剣を出してティークが応戦する。

「そんなもので、《泥人形》は止められないよ!」

 棚や肥料を薙ぎ払うように振られた《泥人形》の腕を、ティークは素早く避けたがライナスに近付くのは難しい。倒れた棚から、次々に食器が割れる音がする。イザベラを背に庇い、リディアも果敢に箒を振りかざした。

「彼方へ漂い流れよ!」

 すぐにガラスや陶器の破片が部屋の隅の方へふわりと流れて行った。これなら下手に踏んでケガをすることもないだろう。

今まで無表情だったジョセフは信じられない、という顔で《泥人形》を見ている。

「悪いけど、失礼させてもらうよ。《泥人形》!」

 ライナスが指示を出すと、《泥人形》は腕を天井に突き上げた。ぐぐ、と両腕で天井を押し上げる。

「ちょ、ちょっとまさか!」

 ジェイルが叫んだのと同時に、天井にヒビが入った。そのまま砕ける音がして《泥人形》の腕は天井を貫いた。落ちてくる瓦礫や土に、頭を抱えて蹲る。このままでは生き埋めだ。

「整え!」

 声をした方を見れば、アリシアが真っ直ぐ《泥人形》を見据えていた。ゴォ、とすさまじい突風が吹き抜けジェイルは顔を押さえた。まるで、外の嵐がこの地下まで入り込んできたようだ。風が収まってからゆっくり腕を離せば、部屋は随分明るくなっていた。

大きな穴が開いた天井から空が見え、木の根や枝がぶら下がっている。外からは雨が吹き込んできていた。アリシアが瓦礫を外に吹き飛ばしてくれたようだ。《泥人形》が動いた後には、雨の量以上に点々と泥が落ちていた。

「な、何だ、宿の時はこんな魔法使わなかったくせに!くそっ!」

 ほっとしたのもつかの間、ライナスの指示で《泥人形》の腕がこちらに向かってきた。唐突すぎて、避けることなどできない。身を固くしていると、

「ジェイル!」

後ろから強く引っ張られた。勢いよく床に倒れたものの、思ったより衝撃は少ない。起き上がれば、目の前には見慣れた黒。

「ぅ、くっ……」

「あ、アリシア!大丈夫!」

 どうやらアリシアが、ジェイルを庇ってくれたようだ。咄嗟のことで、呪文も唱えられなかったのだろう。申し訳なくて、唇を強く噛む。

「人の心配をしている場合かい?」

「ジェイル危ない!」

 イザベラとジョセフを階段の方に避難させていたリディアが叫んだ。振り向くこともできず脇腹を殴られ、ジェイルは今度こそ埃だらけの床に力なく転がった。一緒に壁に掛かっていたシャベルが落ちたらしく、足元に転がっていた。

「惨めじゃないか、雑用係君!」

 ティークをあしらい、《泥人形》はズン、とジェイルに近付いた。ジェイルはこんな時こそ何か言い返してやろうと顔を上げたが、声が出ない。仕方なく、前髪の間から睨むだけにする。

「どうだい、君は僕と一緒に来る気はないかい?」

「……?」

 突然何を言い出すのだろう。ライナスは見下すようにニィ、と笑った。

「君のように両目の色が違うなんて珍しいからね。高く売り飛ばせそうだ!」

「なっ、なにを……げほ、がはっ!」

 出なかった声を無理に出そうとして、ジェイルは咽た。それだけで、全身に痛みが走る。

「宿で《黒の女王》の実力を測ろうとした時、君を見て驚いたよ!こんな人間がいるのかってね!」

「《カラトウガラシ亭》の騒ぎも、アンタだったのか……!」

 そういえば、薪置き場にも《泥人形》が動いた後と同じように泥が落ちていた。もしあの時火が宿に燃え移っていたら、どうなっていただろう。

「……ふざけるなよ!」

 ジェイルは自分でも驚くくらい大きな声で怒鳴った。喉と脇腹が痛んだが、そんなことはどうでもいい。

「もちろん、君にもそれなりの金を渡そう!売り飛ばすと言っても、貴族や王族にだ。いい待遇にするよう口添えするよ!」

「いいえ、させないわ」

 ジェイルは驚いて振り返った。アリシアはゆらりと立ち上がり──何と、微笑んでいた。ただし、艶やかでどこまでも冷たい笑みだった。

「魔女め、お前にはもう用はないんだ!」

 《泥人形》の腕がアリシアに振り下ろされる。ティークが走るが間に合わないだろう。ジェイルが叫ぼうとすると、凍えるような声が聞こえた。

「氷結せよ」

 《泥人形》は急に動きを止め、静かになった。よく見れば腕も足も凍り、部屋の半分以上が氷に覆われていた。ライナスの足も凍りついて、身動きが出来ないようだった。

「ぐ、この程度……!」

「氷の刃を」

 ごとり、とライナスが乗っていない方の《泥人形》の腕がもげた。正確には、巨大な氷の刃が、土でできた腕を切り落としたのだ。落ちた腕は、どろりと溶けるように元の土に戻った。ジェイルは背筋が寒くなった。目の前に立っているのは確かにアリシアなのに、雰囲気がまるで違う。外から吹きこむ風が、アリシアの様々な色を集めたような黒い髪を揺らした。セピアの目が冷ややかに《泥人形》を見つめる。死神のように冷酷で無慈悲。

 そこにいたのは、噂に違わぬ《黒の女王》その人だった。

「穿ち貫け」

 アリシアの魔法が作り出した氷が、今度は《泥人形》の腹を貫いた。腕のように完全に無効化はできないようだが、それでも《泥人形》は身動きが取れなくなった。

「そんな、僕の《泥人形》が!」

 狼狽え、ライナスにできた隙。それを見逃さないものがいた。

「てめぇ、俺様を忘れてんじゃねぇよ!」

 物陰にいたウェルが凍った《泥人形》を駆け昇り、

「爪よ、牙よ、伸び斬り裂け!」

どうやら自分自身に魔法をかけ、伸ばした爪と牙でライナスの右腕を斬り裂いた。ライナスが思わず取り落した箱とボスを、ティークがすかさず受け止める。

「う、ぐぅ、猫め……!」

「姉ちゃんに箱を返してやれ!」

「もちろんです!」

 ティークは扉の前にいたイザベラに、木箱を投げ渡した。ウェルの魔法は一時的なものらしく、既に爪も牙も元に戻っていた。ほっとしたのもつかの間、ライナスが血の滴る右腕を押さえて叫んだ。

「ちっ、最大出力だ!」

 パキパキと氷が割れる音がして、《泥人形》は無理に動き出した。氷は粉々に砕け、飛び散った。《泥人形》はどすどすとイザベラ達の方へ走り出す。慌ててウェルとリディアが叫んだ。

「おい、やばいぞ!」

「師匠!」

「壁となれ!」

 アリシアが唱えて厚い氷の壁を作るが、ライナスの言葉通り《泥人形》は全力らしく、それを蹴り割った。短剣で立ち向かうティークをふっ飛ばし、木箱を持ったイザベラに走り迫る。

「お嬢様!」

 片腕がなくなった《泥人形》は、イザベラを大きく蹴り上げようとした。そこへジョセフが飛び出す。ジェイルは足元にあったシャベルを掴んだが、前によろめいた。ジョセフがイザベラを突き飛ばした拍子に、木箱が宙を舞う。それでも容赦なく、《泥人形》が二人に向かった瞬間。《泥人形》の足は、木箱に大きくはじき返された。しかしそれは一瞬のできごとで、木箱は何こともなかったかのように床に転がった。

「な、何だ?」

 《泥人形》は数歩下がり、ライナスも理解できないという顔をしている。誰もが茫然とする中、よろめいたままジェイルは走り出していた。もう、自分でも止まり方が分からない。氷を足場に《泥人形》に駆け寄り、本体だという頭の羊皮紙にありったけの力でシャベルを投げ付ける。どうにか、シャベルは羊皮紙の文字の書かれている部分に突き刺さった。それを見届け、ジェイルはどさっと肥料の上に落ちた。

「貴様、何てことを!……うわ!」

 ライナスが悪態をついた。《泥人形》は数歩下がると、おかしな動きを始めた。どうやら、暴走しているようだ。

「くっ、ここまできて!仕方ない、撤収だ《泥人形》!撤収!」

 《泥人形》はおかしな動きのまま、それでも障害物ををはね飛ばし外へと駆け出した。体を起こしたティークが追いかけようとするが、アリシアが止めた。

「少なくとも木箱は取り戻せたし、こちらも被害が大きいわ」

「しかし!」

「今回の依頼は、達成したでしょう」

「……分かりました」

 アリシアにぴしゃりと言われ、ティークは何か言おうとしたものの口を閉じた。さっきまでの冷たさは消え、いつものアリシアだ。

「おい小僧、生きてるか?」

「どうにか……」

 肥料の山を登ってきたウェルに尻尾ではたかれ、ジェイルは答えた。前髪が邪魔で、顔だけ動かす。

「お前にしちゃ、よくやったじゃねぇか。シャベルってのは締まらねぇけど」

 そうは言われても、ジェイルは魔法も使えなければ武器もないので、手近にあったものを使うしかなかったのだ。

「実物の《泥人形》なんて初めて見たのに、まさか戦うことになるとは思わなかったよ……。あの状態でも動くなんて、さすが《大魔法具》だなぁ」

 箒に寄りかかるようにして、リディアは大きく息をはいた。

「どうして……こんなことに……」

 精神的打撃が何より大きかったらしいイザベラは、とうとうぽろぽろと涙を零した。木箱を撫で、誰に言うでもなく呟く。

「きっと、喜んでもらえると……なのに……!」

 リディアも困った顔をしていたが、スカートのポケットからハンカチを出すとイザベラに差し出した。空気が一気に重たくなる。

「……ここは危険です、とにかく外へ出ましょう」

 しんと静まり返る中、アリシアが言った。《泥人形》が穴を開けた天井からは砂が落ちてきていて、いつ崩壊してもおかしくない。ジェイルは何より、早くこの肥料の上から移動したかった。

 警戒しながらリディアとウェルが先頭を務め、次にジョセフに支えられたイザベラが、最後にジェイルがアリシアとティークに両脇から肩を組んでもらうという情けない状態で倉庫を後にした。

「そういえば、瓦礫を吹き飛ばした時の呪文、何で〝整え〟だったの?」

 左肩を支えてくれるアリシアに尋ねる。〝吹き飛べ〟なら分かるのだが。アリシアは後ろめたそうな顔をすると、小声で答えてくれた。

「今までで一番物を吹き飛ばした魔法って、片付けの時なのよ……」

「……それは、頼りになるね」

嵐は弱まり、雲の切れ間からは青空が見え隠れしていた。


* * * *


《園生邸》に戻ると、泥だらけでケガ人ばかりのジェイル達を見て使用人は揃って顔を青くした。《泥人形》が穴を開けた轟音を聞いて、かなり戦々恐々としていたらしい。だがそこはジョセフが有無を言わせず、矢継ぎ早に指示を出した。

ジェイルは一番に風呂に入れられ、アリシアに手当をされた。《クムロク町》で買った包帯を、早々に使う羽目になるとは。アリシア自身も数か所強く打ち付けているので、リディアが薬と湿布を貼った。一番奮闘したティークはやはり人間と体の造りが違うらしく、軽い手当だけで使用人達と一緒に奔走している。

 手当や庭の簡単な片付けが済む頃には、陽はとうに真上を過ぎていた。ジェイルがベッドの上で、アリシアに痛い場所はもうないかしつこく聞かれていると、ドアがノックされた。

「はい」

 入って来たのは、綺麗にした木箱を抱えたイザベラとジョセフだった。イザベラはあの後また泣いていたのか、目が赤くなってしまっている。

「すみません、こんなにご迷惑をおかけして……。皆さんケガの具合はいかがですか?」

「いえ、《泥人形》に気付かなかった私にも落ち度はありますから。……ジェイル、本当に他にケガはないのね?」

 やっと質問攻めから解放されたと思ったのに、再びアリシアがジェイルの方を向いたので大きく頷いた。頭から足まで包帯だらけだというのに、これ以上どこに巻く気なのだろう。そこへ、手伝いに行っていたリディアとティークが戻って来た。

「お庭、だいぶ片付いたよ」

「あの大穴だけは、流石にオレ達ではどうしようもありませんね……と、お話し中でしたか」

 イザベラの姿を認めて、ティークは一歩下がった。

「私も、彼らも大事には至らなかったので気に病まないで下さい」

「でも……本当にすみません」

 アリシアは穏やかに微笑んだが、イザベラは俯いて木箱を強く抱え込んだ。

「そうだよ、探し物も見つかったんだし、悪いことばっかりじゃないですよ!」

 リディアが明るく言うと、イザベラは再び涙を浮かべた。リディアもアリシアも慌てる。

「わわ、ごめんなさい!」

「大丈夫ですか?今日はお疲れでしょうし、休まれては……」

「すみません、違うんです……。これは、ライナスさんのために探していたものだったんです」

 涙を拭い、イザベラは木箱に視線を落とした。全員が黙り、ジェイルの足元で丸くなっていたウェルだけが体を起こした。

「私が探していたのも事実ですが、きっかけはライナスさんだったんです。祖父に話を聞いたようで、凄く興味を示していて……。だから、見つかればきっと喜んでもらえると、思って、いたのに」

話しながら、イザベラはしゃがみ込んだ。その背中を、ジョセフがそっと擦る。声を殺して泣くイザベラを見て、ウェルはヒョイとベッドから飛び降りた。

「残念だが姉ちゃん、使用人の話じゃアンタの気持ちにあの眼鏡はまるで気付いてなかったようだぜ。周りにはバレバレみたいだったが」

「猫ちゃん……」

「それどころか、使用人からは何を考えているのか分からない、胡散臭いヤツって言われてたくらいだ。まぁ、恋は盲目って言うからな。あの男はあの男で、それ以外眼中になかったようだし」

 一昨日の夜、胡散臭いと言われたのはジェイル達ではなかったらしい。そういえば、使用人達のライナスに対する態度は少しそっけなかった気がする。

「だけど、アイツが怪しいと思ってたのに、こんなことになったのは悪かった。まさか《泥人形》を出してくるとはな……。ここの魔法具と土の匂いで気付かなかったぜ」

 項垂れて尻尾を垂らしたウェルを見て、イザベラはぶんぶん首を振った。

「いえ、あの人が私に興味がないのは分かっていたの。だから、これが見つかれば少しは私を見てくれるかと思ったんだけど……」

「それにしたって、酷過ぎるよ!こんなもののために、こんなもののために……」

 リディアはそこで言葉を詰まらせた。ライナスは一体、どれだけのものを踏みにじったのだろう。イザベラさんの心、真偽は分からないがお祖父さんの命。ジェイル達だけでなく、《クムロク町》の人々も危険に晒された。ウェルではないが、人間とは何だろうと思わずにはいられない。

「結局、それは何だったんですか?ここまでして欲しがるようなものなんて、思い付かないんですが……」

「……私もです」

 ジェイルの言葉に頷いて、イザベラは古びた木箱をそっと開いた。倉庫の騒動の中、蓋はずっと閉じられていたので中身は無事だった。ビロードの袋を逆さにし、中身を手のひらに出す。出てきたのは、数粒の三日月形をした小さな種のようなものだった。

「何ですか、それ?」

 イザベラの手元を覗いて、ティークが問う。価値があるようなものにはとても見えない。イザベラに歩み寄ったアリシアとウェルは驚いた顔をした。

「これは……《幻喪種・モーリュ》ね」

「正しくは、《モーリュ》の種だな。《泥人形》の足をはじき返したのは、こいつだったわけだ」

「申し訳ありません、《幻喪種》というのは耳にしたことがありますが、《モーリュ》とは?」

 ジョセフがおずおずと尋ねた。《幻喪種》にいい思い出がないジェイルは顔をしかめる。

「幻喪種というのは、未だに生態も生息地域も正確に分かっていない、希少価値の高い魔法植物です。この《モーリュ》は、魔法を無力化する力があると言われている植物です」

「葉を煎じて飲めば、解毒剤や呪いを解くのにも使える代物だ。ところによっちゃ、街一つ買えるくらいの値がつくぜ」

「街一つ!?」

 ジェイルは思わず大きな声を出して、脇腹がずきりと痛んだ。だが、どう見てもただの種だ。

「もしかして、あたしの鍵開け魔法が効かなかったのもそのせい?」

「きっとそうね。私がやっても一緒だったかもしれないわ」

 リディアは失敗したのを気にしていたようだ。自分の魔法が悪かったわけではないと知り、胸を撫で下ろしていた。

「祖父は、それを知っていたんでしょうか……」

「だろうな。それをあの眼鏡にうっかり話して、こうなったんだろう。俺としては、ひい祖母さんがそれをどこで手に入れたかが気になるぜ。《モーリュ》の発見例は、百年に一回あるかどうかだからな」

 ふんふんと種の匂いを嗅ぐウェルの顔を、アリシアは押しのけた。

「今となっては分からないことよ。……ジョセフさん、あなたの依頼もこれで解決でよろしいでしょうか」

「えっ?ジョセフさんからも、依頼を受けていたんですか?」

 ティークの言葉にジョセフは頷くと、木箱に一緒に入っていたドライフラワーのようなものを取り出した。茶色く変色してしまっているので、元の植物は分からないが花冠のようだ。

「まさか、これ……!」

「はい。お嬢様が小さい頃、大旦那様に贈られたものです」

 そんな話を、イザベラがしていたような気がする。だが、その話は。

「どうして……てっきり、捨てられてしまったものだと!」

「大旦那様はこれをもらった時、大層嬉しそうにしておいででした。厳しい方でしたが、決してお嬢様を嫌っていたわけではないのです。それをどうしてもお嬢様に知っていただきたくて。こっそりハルフォード様にこの花冠を探して欲しい、と頼んでいたのでございます」

「イザベラさんの探し物と一緒にあるとは思わなかったわ」

 立ち上がり、アリシアは言った。いつの間に依頼を受けたのだろう。《園生邸》に来てから、そんな様子はどこにもなかった。ジェイルがそっと尋ねると、館でイザベラさんの依頼を受けた後よ、と返された。そんな時間があっただろうか。思い返してみて、イザベラの依頼の後ティークと三人で話していたのに思い至った。ティークが驚いているということは、彼が地図を取りに行っていた短い間に依頼を受けたということになる。

「お嬢様に気付かれては怒られると思いまして、ハルフォード様だけにお伝えしたかったのです」

「俺が別行動したり夜に出歩いてたのは、こっちの依頼のためだったんだぜ。ヒントが花冠ってだけで、年月が経ってるから匂いも分からねぇし。夜中も謎の影の見張りやらされるしよ」

「でも、ライナスさんの情報が聞けたじゃない」

「使用人に、撫で回されたけどな」

 探し物は《幻喪種》だった。影の正体はお祖父さんの霊などではなく、《泥人形》だった。これで、全て解決しただろうか。

「そっちの手紙と、指輪は何ですか?」

 リディアに聞かれ、イザベラは指輪を手に取った。

「ええと……この指輪は、祖父の結婚指輪と同じ装飾……?もしかして、お祖母様の?」

 イザベラに聞かれ、ジョセフは頷いた。

「こっちの手紙は、見たことのない筆跡です。誰が書いたものかしら……」

 遠慮がちに手紙を開き、読み始めた。読み進める内にイザベラは目に涙を溜め、読み終わる頃にはまた涙を流し始めた。

「ど、どうしたんですか?」

「これ、祖父と祖母の結婚の時に、曾祖母が書いたもののようです。優しい言葉で、二人を心から祝福していて……。私、ずっと曾祖母と祖父はいがみ合っていたのだと思っていました。それが、こんな……」

「お二人は仲が良かったとは言えませんでしたが、他の親戚の方達ほど仲が悪かったわけではございませんでした」

 でなければ、妻の形見である指輪と一緒に、手紙をとっておいたりしないだろう。《モーリュ》はその希少性から一緒にしまわれていたようだが、他の品はお祖父さんにとって本当に大事なものだったのだろう。イザベラの贈った花冠も、ありし日の、幸せな思い出として。

世界は見えている通りではないのかもしれない。良い意味でも、悪い意味でも。イザベラはさっきとは違う意味の涙を流し、顔を両手に埋めた。

「そこにある事実は一つでも、そこへ至る人の心は一つじゃなかったようだな。猫の俺様には理解できねぇけど。姉ちゃんも早く好い人見つけろよ、せっかく美人なんだから」

「まぁ!」

 ウェルの言葉に、イザべラは涙を拭いて笑った。


* * * *


 ジェイル達の体調を気遣い、もう一泊させてもらった夕方。

「本当に、お代はこれだけでいいんですか?」

「ずいぶんお庭を荒らしてしまいましたから」

 応接間で金貨を数枚受け取り、アリシアは頷いた。あの後庭の穴はアリシアが魔法で塞いだが、倒れた木や《泥人形》に踏み荒らされた植物はそのままだ。植物やケガを急速に治す魔法は、アリシアにも難しいと言う。

「せっかくですから、これもどうぞ。私には、どうしたらいいか分かりません」

 イザベラは《モーリュ》の入ったビロードの袋を差し出したが、アリシアは首を横に振った。

「いえ、それはひいお祖母様がイザベラさんに残したものです。あなたが持っていて下さい」

「そうだよ、やっと見つけたんだから!」

 リディアはソファに座ったまま、足をばたつかせた。

ケガがほとんどなかったリディアとウェルは元気だ。ジェイルも大分痛みは引いたが、動くのは少し辛い。アリシアも湿布を貼り替えたようだが、一番恐ろしいのはティークである。包帯こそ巻いているものの、朝には走り込みをしていた。これには使用人の女性達も唖然として、ウェルに爆笑されていた。

「でも……」

「では、代わりと言ってはなんですが、デザートでいただいたプディングの作り方を教えてはいただけませんか?とても美味しかったので」

「あっ、それだと僕も嬉しい!」

「あたしも!」

 ジェイルとリディアが同時に言うと、皆に笑われてしまった。イザベラはすぐにジョセフに指示を出し、ジョセフは厨房へ走って行った。

「お庭はどうするんですか?あの倉庫も使えないですし」

「……私が整えようと思います。もちろん一人では無理でしょうから、庭師も雇って。祖父の愛した庭ですから」

 ティークが尋ねると、イザベラはどこか寂しげだがしっかりと答えた。彼女は彼女で、何かを決意したようだ。

「おう、頑張れよ。執事も手伝ってくれるだろ」

 ウェルはソファからイザベラの前に飛び降りて励ました。元の《園生邸》に戻る日も遠くなさそうだ。

「それでは、お世話になりました」

「とんでもありません、こちらこそありがとうございました」

 アリシアが挨拶をして、ジェイル達も立ち上がる。ちょうど戻ってきたジョセフが、アリシアに作り方が書かれた紙を渡した。

「わたくしからも、重ねてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。猫様もお気をつけて」

「お前らも、達者でな」

 ウェルは尻尾をピンと立てた。

 外に出ると、昨日の嵐が嘘のように雲一つないオレンジ色の空だった。どこか澄んだ風の中、ジェイル達は《ラヴィオスの丘》を後にした。




   終章     我が家


 《漆黒の森》。

 そこまで馬車が辿り着いたのは、夜明け頃だった。森は相変わらず暗く、空は見えない。

 こんな時間だというのに、エントランスの扉を開けるとノッテとマティーナがすぐに出迎えてくれた。

「おかえりぃ」

「おかえりなさァい」

「……ただいま」

 村にいた頃は出かけたことがほとんどなかったので、この一言を噛みしめた。同時に、帰ってきたんだなと改めて思う。

「ただいま!ちょっとジェイル、早くどいてよ!」

「ただいま帰りました。ジェイルさん、早く休んだ方がいいですよ」

「ただいま、ノッテ、マティーナ。皆、洗濯物はまとめておいてね」

「おい、さっさと馬車を片付けろ」

 ジェイルが立ち止まると、皆がわいわい横を通り過ぎた。二匹はそれぞれの顔を見て、少し慌てた。

「ちょっとォ、アンタもティークも包帯だらけじゃなァい!」

「アリシアも湿布してたわぁ!」

「えっと……色々、かな」

 ジェイルでは色々ありすぎて説明できない。きっと後で、アリシアが分かりやすく話してくれるだろう。

「大丈夫なのォ?」

「無茶したんじゃないでしょうねぇ!」

「……心配してくれるんだね」

「当たり前でしょう、家族なんだから!」

 ノッテとマティーナは声をそろえて言った。家族。何だか嬉しくなって、ジェイルはしゃがんで二匹を撫でた。

「……アンタ、少し変わったぁ?」

「ちょっとだけ、顔が引きしまった気がするわねェ」

「そうかな?」

 軽く頬をつまんでみた。自分ではよく分からない。ただ、一つだけ決めていたことがある。

「あのさ、後で前髪を切ろうと思うんだ」

「えっ、急にどうしたのよォ?」

 驚くマティーナに、ジェイルは言った。

「邪魔だし、これじゃ見にくいから……人も、世界も」

 二匹はきょとんとジェイルを見上げる。もっと世界を人を、知りたいと思ったのだ。まだ、自分のこともうまく話せないけれど。

「……アンタが自分で決めたのなら、そうしなさぁい」

「そうそう、ブライズとクレストも寂しそうにしてたわよォ」

 まだ食事の時間には早いので、二頭はどこかで寝ているのだろう。休むのはブライズとクレストに顔を見せてからにしよう。そう決めると、腹の虫がぐぅぅと鳴った。

「……おなかすいちゃったな」

「全く、それは変わらないのねェ」

「ジェイルらしいけどぉ」

 二匹に笑われ、ジェイルもつられて笑った。

「でも、帰ってきたから思う存分おかわりできるよ」

 ジェイルが笑顔のまま言うと、程々にしなさいと怒られてしまった。


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