前編
序章 魔女の噂
《漆黒の森》。
そこは空を覆うように木々が生い茂り、昼間でも薄暗いためその名がついた。
数多くの動物、植物が生きるこの森には危険が多く、近寄る人はほとんどいない。狼や毒蛇に猪、不可思議な植物。人を拒むように生えた木々。森に足を踏み入れたとしても、まず迷ってしまうだろう。
それと、もう一つ。人々がこの森を遠ざける理由がある。
この森には、とても恐ろしい魔女が住んでいるのだ。
彼女は世界でただ一人、全ての色を集めたような黒い髪を持つため《黒の女王》と呼ばれている。そこらの魔法使いとは比べられないほど強い魔力で、薬草医よりも薬草に詳しいという。ただでさえ人の立ち入らない森で、さらに人気を避けるよう森の奥にある立派な館に住んでいる。
そのせいか、様々な噂が後を絶たない。
死神のように冷酷で無慈悲。人ではないモノを従えている。空中に馬車を走らせる。季節を操る。山を吹き飛ばした。あげくの果てには、街一つ滅ぼしたとまで。どこまでが本当で、どこからが噂かは分からない。
だが、相応の報酬を払えば困りごとを助け、呪いをとき、薬を作ってくれるという。代わりにとんでもないものを要求された、という話がほとんどだが。
本当に困りなすすべがない時、人は黒の女王を頼るのだという。
そういった理由から人々は黒の女王を恐れ、敬遠していた。
しかしそんな《漆黒の森》を一人歩く、栗茶色の髪をした少年がいた。年は十五歳程だろうか。
何故か服は薄汚れており、あちこちにすり傷や切り傷がある。
時折後ろを気にしながら、少年は重い足取りで森の奥へと進んで行く。
どう見ても、黒の女王に頼み事をしに行くようには見えない。
薄暗いこの森では何もかも不気味に感じられるのか、少年は葉のざわめきにさえびくりと全身を震わせた。
それでも、ひたすらに道などないところを進めていたが、とうとう木の根に足を取られ倒れこんだ。
少年はどうにか立ち上がろうともがいたが、枯葉をつかんだだけだった。体はとうに限界だったのだろう。
そんな少年をあざ笑うように、風が吹き抜けていく。
どこまでも広がる森と闇を見ながら、薄れていく意識の片隅で少年は狼の遠吠えを聞いたような気がした。
一章 驚きとの出会い
ジェイル・エリクソンは目を覚ますと、見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上に横たわっていた。
……ここはどこだろう?
ぼんやりとしたまま体を起こそうとすると、体に鋭い痛みが走った。仕方なく、もう一度横になる。ふとんをめくって見れば、体には包帯が巻かれていた。
体にあまり負担がかからないようにゆっくり起き上がると、ジェイルは部屋を見回した。夕方らしく、薄暗い。少し長めの前髪をかきわけて、目を凝らす。
部屋には自分が寝かされていたベッド、クローゼット、小さめの机と椅子が置かれていた。壁にかけられているランプは、随分と凝った装飾がされている。それから、生成色のカーテンがかけられた窓。時計はないので、正確な時間は分からなかった。
調度品はどれも古いけれど埃っぽくはなく、きちんと手入れされているようだった。
窓からは陽が落ちかけてオレンジ色になった空と、静かにたたずむ木々が見える。高さからして、二階か三階だろうか。
そこでジェイルは、自分が《漆黒の森》を歩いていて気を失ったのを思い出した。それじゃ、ここは。
「《黒の女王》が住む館……?」
あまりいいとは言えない頭では、他にありえそうな場所は思いつかなかった。
ならば、黒の女王に助けられたのだろうか。黒の女王に仕える召使いに助けられたのかもしれない。しかしどちらにせよ、ジェイルを助けて得になることなど何もない。もしや魔法や薬の実験に使われるのだろうか。
老婆が不気味に笑いながら大釜をかき混ぜているところを想像して、ジェイルは長いため息をついた。下働きなら何でもするので、実験は止めてほしい。体は痛むが、ちゃんと手当てされているようなので、既に何かされたということはないだろう。
すると、がちゃりとドアノブが回る音がした。思わず身を固くして、ジェイルはドアを見つめる。
「あら、気がついたのね」
部屋に入ってきたのは、黒いローブのフードを深く被った人物だった。服装は最高に怪しいが、声は落ち着いた優しいものだ。フードを目深に被っているために顔はほとんど見えないが、声と口調からして若い女性だろう。ジェイルとそう年は変わらないかもしれない。
「あの、僕は……」
「森で倒れていたのを見つけたのよ」
やはりジェイルは、森で倒れていたところを助けられたようだ。
「僕、どのくらいここで寝ていたんですか?」
「丸一日よ。見つけた時、大きな雑巾かと思ったわ。まだ秋の初めの桧皮月だからいいけど、これが薄鈍月だったら凍死してたかもしれないわね」
ふふ、と女性は冗談めかして笑った。そんなに酷い状態だったんだろうか。言われて気付いたが、服も新しいものになっている。
「その、助けてくれてありがとうございます。えっと、ここはもしかして《黒の女王》様、の館ですか?」
「えぇ、そうよ」
思い切ってジェイルが聞くと、女性はあっさり答えた。
ならこの女性は、黒の女王の召使いの一人だろうか。だから全身黒ずくめの格好をしているのかもしれない。足元を見れば、靴まで黒だった。
「体の方は大丈夫?痛むところはない?」
「え、えっと」
まじまじと女性を観察していると、今度は女性から質問されジェイルは顔を上げた。
「動くとちょっと痛いですけど、気になる程じゃないです」
「ならよかったわ。包帯も緩んだりしてないみたいね」
女性が一歩ベッドに近づいた時、左手にきらりと腕輪をしているのが見えた。召使いの中でも、偉い人なのかもしれない。この人なら優しそうだし、お願いすればどうにかなるだろうか。
「ところであなた、どうして森の中で倒れていたの?服もボロボロだったし……」
「あっあの!下働きなら何でもするので、魔法の実験に使ったりしないで下さい!」
「え?」
予想外の返答に、女性は面食らったようだった。構わずジェイルはまくし立てる。
「掃除でも、洗濯でも、何でもしますから!……あ、そう黒の女王様に頼んでもらえませんか?」
女性はしばらく、呆然としていた。いくらなんでも失礼な申し出だっただろうか。これでこの人の機嫌を損ねて、黒の女王に言いつけられたらどうしよう!
言ってしまってから冷や汗をかきはじめたジェイルだが、意外にも女性は笑い出した。
「うふふ、魔法の実験にあなたを使ったりなんてしないから、安心して。それに、下働きする必要もないわ。ケガが治ったら、帰って大丈夫よ」
「え……」
今度はジェイルが驚く番だった。実験に使われないと分かってほっとしたが、それはそれで困ってしまう。
「二、三日はゆっくりしていきなさい。もしどうしても気になるなら、また今度お代を持って来てくれればいいわ」
女性は気を使ってくれたようだが、ジェイルが困っているのはそこではない。
「すみません、お代は払えないし……それに僕、帰る所がなくて」
「どういうこと?ご家族の方は……」
そこで女性ははっと言葉を切ると、まじまじとジェイルを見た。ぼさぼさな栗茶色の髪を、少し伸ばした前髪を、その下に隠れている両目を。
「あなた、その目……」
女性は身を屈めて、ジェイルに近付いた。その拍子に、女性からふわりと甘い匂いがする。ス、と手を伸ばし、女性はジェイルの前髪を掻き分けた。
露わになった瞳は、右は群青色、左は琥珀色をしていた。
「……何だか、訳ありみたいね」
女性から目を逸らし、ジェイルは頷いた。
「家族もいないから」
女性は一瞬何かを考えると、ジェイルに向き直った。
「じゃあ、ここに住んでみる?」
「………………………………はい?」
突然のことに絶句するジェイルをよそに、女性は続ける。
「もちろん、タダでとは言わないわ。住むからにはそれこそ、あれこれ働いてもらうわよ」
「え、でも、そんな。さっきはああ言いましたけど、僕お役に立てるかどうか。それに、黒の女王様が何て言うか……」
この女性はこう言ってくれても、黒の女王は嫌がるかもしれない。これ以上迷惑をかけたいわけではなかった。
「それなら問題ないわ」
言い切る女性になおも言い募ろうとして、ジェイルは口を開き……固まった。
女性がフードを後ろにやると、ふんわりとした長い髪が零れ落ちた。光の加減で様々な色に見える、黒髪が。セピアの目がにこやかにジェイルを見つめる。
「ようこそ、我が館へ」
そこにいたのは、《黒の女王》その人だった。
しばらくの間、ジェイルはポカンと口を開けて《黒の女王》を見つめていた。本人は、そんなジェイルの反応を楽しそうに見ている。
「あ、あなたが……?そんな……」
「そんなに意外だったかしら?」
「だって、その……もっと年上の方だと思っていたので」
老婆だと思っていたとは、口が裂けても言えない。
「あら、これでもまだ十六歳よ」
「すみません!」
思った通り、ジェイルとほとんど年は変わらなかった。穏やかに笑う女性が、様々な噂で語られる《黒の女王》だとはとても思えなかった。聞いていた話とまるで違う。
「別に構わないわ。それとその敬語をやめてちょうだい。女王だなんて言われているけど、王族でも何でもないもの」
「でも……」
普通に話しかけるというのは、どうにも恐れ多い。表情は優しげだが、佇まいは凛としている。
「そういえば、まだ名乗ってなかったわね。私はアリシア・ハルフォードよ。あなたは?」
「……ジェイル。ジェイル・エリクソンだよ」
「ジェイル、ね。私のこともアリシアでいいわ」
ジェイルはこくんと頷いた。
「本当に、色んな色を集めたような髪色なんだね……」
顔を上げ、ジェイルは思わず呟く。光の当たった所が赤にも青にも、そして緑にさえも見える不思議な色だった。黒に近い髪の人を見たことはあるが、アリシアの髪色とは似ても似つかない。
「別段、面白いものでもないわ」
アリシアは不快そうに髪を払った。意外な反応に、ジェイルは今度こそ怒らせてしまったかと肝を冷やす。
すると、コンコンとノックの音がした。アリシアの注意がそちらに逸れたので、少しほっとする。しかしそれは一瞬で、ドアの向こうから実に悲痛な男性の声が響いてきた。
「すみません、アリシアさん!ピアスが片方見当たらないんです!」
「え!いつも付けてるじゃない!」
アリシアは小走りでドアに駆け寄る。
「それが久々に手入れしていて、ふと目を離したら……」
アリシアに説明しながら部屋に入ってきたのは、極めて端正な顔立ちをした、長身の男性だった。白磁のような肌、筋が通った高い鼻。肩下までのアッシュブロンドの髪は、後ろで一つにまとめている。切れ長のエメラルドグリーンの目は、それこそ宝石のようだ。年は二十代半ばくらいだろうか。
世の中にはこんなに美しい人がいるのか、とジェイルは息を呑んだ。同性であっても見惚れるほどの顔立ちだ。表情は困り果てた情けないものだが、それさえも様になっている。
「テーブルの上も、足元も探したんですがどこにも。……あ、こちらの方は気がついたんですね」
説明に必死だったらしい男性は、ジェイルに気がつき安堵した表情を見せた。
「今日から彼も我が家の一員よ」
「そうなんですか!?」
さらりと言うアリシアに、男性は素っ頓狂な声を出した。それもそうだ、ジェイル自身まだ実感がない。だが驚いたのも一瞬だったようで、
「オレはティーク・フォスターといいます。これからよろしくお願いしますね」
礼儀正しく名乗った。
「ジェ、ジェイル・エリクソンです。こちらこそ、その、よろしくお願いします」
「ああ、畏まらないで下さい。オレはこれが素なんです」
「う、うん。ティークさんは、えっと……?」
召使いにはとても見えない。
「オレは、アリシアさんの助手のようなことをしています。この人、結構そそっかしいんですよ」
「ちょっと、余計なこと言わないで!」
慌てるアリシアに、ティークは声を立てて笑った。《黒の女王》とその助手のやりとりには見えなくて、ジェイルも釣られて笑う。
「そろそろ暗くなってきたし、明かりをつけましょうか。〝点灯〟!」
アリシアが唱えると、装飾されているランプに光がともった。近づいていた闇が遠ざかり、部屋が柔らかく照らされる。窓の外は、ほとんど陽が沈んでいた。
「すごい!僕、魔法初めて見たよ!」
「これはランプに魔法がかけてある《魔法具》だから、呪文が合ってればジェイルにも使えるわよ」
「へぇ!」
《魔法具》は道具そのものに魔法が組み込まれているので、魔法が使えない人でも簡単な魔法の効果が得られるものだ。高価なものが多いため、ジェイルは使ったことがない。わくわくと見上げると、明かりがついたことで装飾がよく映えていた。
「そうだ、アリシアさん。ピアス探しを手伝って下さいね……」
「はいはい、分かったわ」
いつの間にかずれていた話を、ティークが戻した。左耳には彼の目の色に近い碧い石のピアスがあるので、右耳のピアスを失くしたようだ。
「あれ?」
ジェイルはティークの右耳に、違和感を覚えた。自分の耳とは違い、やけに尖った形をしている。それはまるで、昔話や童話に出てくる……
「エル、フ?」
そう、妖精──エルフのようだった。尖った耳を持ち、人より遥かに寿命が長いという。武器の扱いに長け、戦い好きだとも聞いた。ティークはハッとして右耳を押さえたが、すぐに苦笑する。
「……バレてしまいましたね、お気付きの通りオレはエルフです。これから一緒に暮らすなら、隠す必要もありませんでしたね」
「え、でも、昔話なんかじゃ、エルフは滅多に人の前には現れないって……」
童話に出てくるエルフは、人間嫌いで余程のことがなければ人間の前には姿を見せない、というものだった。ジェイルに対しても、アリシアに対しても、ティークの態度は友好的に見える。
「基本的にはそうです。オレは何と言うか……特例だと思って頂ければ」
「特例……?」
「ジェイルが茫然としちゃってるじゃない。だから、驚かせたり変に警戒されないよう、人間の耳と同じに見せるピアスをしてるのよ。全く、どこに行ったのかしら」
「うぅ、すみません……」
エルフの容姿はとても美しいと聞くので、ティークの外見にも納得がいった。耳は誤魔化せても、見た目で目立ちそうな気はするが。
そしてなおのこと、ジェイルは場違いな気がしてきた。魔法はもちろん使えないし、せいぜい掃除や洗濯が人並みにできるくらいだ。
「本当にどこにもなかったの?ポケットとか、実は手で握りしめてたとか」
「それはないです!」
ぐぅ、ぐるるるぐう。
突然の音に、ティークとアリシアがジェイルの方を向いた。ジェイルも驚いておなかを押さえる。
「ご、ごめん!」
「おなかがすいたなら、言ってくれればよかったのに」
自分でも急におなかがすいてきたので、恥ずかしくてたまらない。
「オレのピアスは後回しにしましょう。まずはジェイルさんの食事が優先です」
ティークがそう言ってくれたところで、再びドアがノックされた。
「ティーク、いるー?ピアスあったよ」
「本当ですか!」
入ってきたのは、金髪をお下げにした小柄な少女と、体格のいいキジトラの猫だった。少女は片手に箒を持っていいる。掃除でもしていたのだろうか。
「ほら、これ」
「ありがとうございます!」
ピアスをティークに渡すと、少女はアクアブルーの瞳でじっとジェイルを見上げた。真っ直ぐな視線に、思わず身を引いてしまう。
「アンタ誰?」
「え、えと」
ジェイルが反応に困ると、
「昨日、森で倒れてた人よ」
アリシアが助け舟を出してくれた。少女は思い出したように、ジェイルを上から下まで眺めて言った。
「あぁ、あのボロ雑巾」
ひどい言われようである。
「こら、そんな言い方失礼でしょう!」
「だって、最初本当に大きな雑巾かと思ったんだもん」
アリシアが注意したが、少女は悪びれずに返した。ジェイル自身、ボロボロな格好だった自覚はあるので何も言い返せない。
「んもう……。それじゃ私、お粥を作ってくるわね」
「えっ、アリシアが作るの?」
召使いが作っているのではないのだろうか。そんなことを考えていると、ジェイルを睨みながら少女が詰め寄ってきた。
「ちょっとアンタ、師匠の作る料理じゃ不満なわけ!」
滅相もない。ただ、ジェイルとしては。
「いや、その……そういうのは、召使いの人がやるのかと」
「は?」
正直に答えると、少女は目を丸くした。後ろでは同じようにティークがきょとんとしていて、アリシアは笑いを堪えている。猫は我関せずで、前足を舐めていた。
「誤解しているようだから言うけど、うちに召使いなんていないのよ」
どうにか笑いを押し留めて、アリシアはそれだけ言った。ティークは真面目な顔で頷いている。
「え、え?」
「あたしは師匠の一番弟子だもん!召使いなんかじゃないんだから!」
少女が胸を張って自慢げに言う。瞬きしかできないジェイルを尻目に、すぐ作ってくるから、とアリシアは部屋を出て行ってしまった。
混乱するジェイルの顔をじっと見て、少女はジェイルの目の色に気付いたようだった。
「変なヤツだなぁ。アンタ、名前は?」
「ジェ、ジェイル・エリクソン……」
今までの人生で、こんなに何度も名乗ったことなどない。長い名前でなくてよかった、とジェイルの頭は現実逃避を始めていた。
「こういう時は、先に自分が名乗るものですよ」
ティークに言われ、少女はむすっとした。それでも箒の柄をジェイルに突きつけ、堂々と言う。
「あたしはリディア・カネルヴァ、十歳!さっきも言ったけど、師匠の一番弟子だから!」
「二番弟子はいませんけどね」
ぼそりとティークが言い足す。
「気の強い方ですが、悪気があるわけではないんです」
「はぁ……」
ジェイルは元から回転のよくない頭が、なおのこと回らなくなってきた。召使いはいなくて、弟子はいるのか。ジェイルが茫然としている間に、ティークはピアスを付けていた。右耳はもう、人間の耳と同じ形になっている。これもまた《魔法具》なのだろう。
「本当に、召使いはいないの?」
「召使いどころか、師匠とティークとあたしの三人しかここに住んでないよ」
この館がどれくらいの大きさか分からないが、ここが二階か三階ならそれなりの広さだろう。そこに三人だけだなんて。
「……わ、若い人ばっかりなんだね」
ジェイルはどうにか言葉を絞り出した。これまで思い描いてきたものは、何一つ合っていない。《黒の女王》だけでなく、周りの人々についても。
しかし、さらに爆弾発言が投下される。
「残念、ティークは若くないよ」
「えっ」
リディアの言葉に、ジェイルはティークの顔を思わず二度見してしまった。当のティークは苦々しい表情をしている。
「確かに、オレの年は七十八ですが……」
「七十!?」
予想以上の年齢に、開いた口が塞がらない。常識というのは、どうもここでは役に立たないようだ。
「エルフと人間では寿命が違うだけですよ!人間で言えば二十代です、年寄りなわけじゃありません!」
「たまに爺くさいこというクセにー」
憮然としてティークは主張するが、リディアは笑って流してしまった。もはや、ジェイルは何と言ったらいいのか分からない。
「ま、あたしや師匠にとって、ティークは年の離れ過ぎた兄みたいなものだから。お爺ちゃんとは思ってないから安心してよ」
「当たり前です!」
七十八歳の兄とは、年が離れているという次元を完全に超えてはいないだろうか。頭がクラクラしてきたので、ジェイルはさっきから大人しくしている猫に声をかけた。
「君も、これからよろしくね」
そっと猫に手を伸ばすと、
「あ、ダメですジェイルさん!」
「気安く触んじゃねぇよ」
止めようとしたティークの声と、やたら野太い声がした。直後、伸ばした右手に痛みが走る。
「いたっ!」
ジェイルは思わず、手を引っ込めた。手の甲には、しっかり爪の痕がついている。
猫に引っかかれたのは分かるが、野太い声の主が分からない。部屋にはティーク、リディアと猫しかいない。何よりリディアは『ここには三人しか住んでいない』と言った。つまり。
「おい小僧、これからってどういう意味だ」
不機嫌そうに、猫がしゃべった。手の痛みと驚きで、ジェイルは言葉を失う。
「ジェイルさんも、これからここの一員になるそうです」
「わ、じゃあ皿洗い当番制ね!やった!」
意外にも、リディアは嬉しそうに三つ編みを揺らした。
「あァ?何だそれ、俺は反対だぞ!」
ドスのきいた声で猫は文句を言う。思わぬところから反対され、ジェイルはビクっと姿勢を正した。猫は椅子に飛び乗り、山吹色の目でティークとリディアを見上げる。
「おい、お前らも受け入れてんじゃねぇ!」
「でも、アリシアさんは決めてしまったようですし」
「アリシアは何でも拾ってきすぎなんだよ!そもそも、小僧は何で森で倒れてたんだ?」
猫が声を張り上げると、いい匂いと共にドアが開いた。
「こら、ウェル!もう私は決めたんだから、ゴチャゴチャ言わないで!」
お粥の入った皿を手に、アリシアが入ってきた。猫の名前は、ウェルというらしい。
「何だと、お前はいつも勝手に決めやがって!」
「だって、ここは私の家よ!」
「アリシアさん、落ち着いて……」
ぐぐぅ、ぐうううぅぅ。
再び鳴ったジェイルの腹の虫に、全員が黙った。
「ご、ごめん……」
「こっちこそ、いきなりごめんなさいね。はい、どうぞ」
「あっはは、すごいおなかの音!」
申し訳なく思いながら、皿とスプーンを受け取る。もう一度おなかがぐぅ、と鳴った。
「そ、それじゃいただきます」
ジェイルは冷ましつつ一口食べて、
「おいひい!」
思わず叫んだ。空きっ腹だからそう感じるのか、周りのことなど忘れてひたすらかきこんだ。まさか、お粥に感動する日が来ようとは。ジェイルの食べっぷりに、アリシアも微笑む。
「もう大丈夫そうね」
「ケッ」
興味なさそうにウェルは背を向けた。早々に嫌われてしまっただろうか。
「そういえばリディアさん、オレのピアスどこにあったんですか?」
「広間のソファの下だよ」
「そんなところに!通りで見つからないわけです……」
余程あちこち探し回ったのか、ティークはがっくり肩を落とした。この館はやたら広そうなのによく見つかったな、と思っていると、
「言っとくが、見つけたのは俺だぞ」
ウェルがぱたりと尻尾を揺らした。猫ならば、小さい隙間にも入り込んで探せるのだろう。ひたすらスプーンを口に運んでいると、皿はあっという間に空になっていた。
「むぐ、すごく美味しかったよ」
「口に合ってよかったわ。よければおかわりいる?」
アリシアの言葉に、ジェイルは手をピタリと止めた。
「オカワリ?って、何?」
「えっ」
アリシア達だけでなく、背を向けたウェルでさえジェイルの方を見た。そんなに有名な食べ物なのだろうか。
「小僧、本気で言ってんのか?」
「もっと食べる?って意味なんだけど……」
「いいの!」
世の中にそんな幸せな言葉があるとは知らなかった。ジェイルは空の皿を差し出し、オカワリをお願いした。結局ジェイルはさらに四杯食べ、膨れた腹を撫でた。
「ふぅ、ごちそうさま……」
「それだけ食べれば、おなか一杯だろうね……」
リディアはもの言いたげな顔をした。
「美味しくて、つい……。こんなにたくさん食べたの初めてだよ」
「あらあら、これからは多めに食事を作らないといけないわね」
アリシアの言葉に、ジェイルはそっとウェルに視線を向けた。猫は舌打ちしたが、声を荒げることはなかった。
「……いいか、俺様のことはボスと呼べ」
「は、はい!」
どうなるか分からないが、ここに置いてはもらえるようだ。
二章 館での生活
翌朝。
ジェイルは窓から差し込む光と、鳥のさえずりで目を覚ました。でも、まだ眠い。
もうちょっとだけ……
布団に潜り込み、再びウトウトしてきたところで、ジェイルは異常に気付いた。足元が妙に温かいのだ。爪先の辺りに、柔らかい感触もある。
意を決して飛び起き、がばっと布団をめくる。出てきたのは白と黒、二つの毛玉だった。どちらも、ジェイルの足の倍はある。
「な、何……?」
ベッドの端まで下がって、警戒しながら毛玉を観察する。こんなもの、昨日はなかったはずだ。しばらくすると、毛玉はもぞもぞ動きだした。
「何よぉ、寒いじゃない」
「もう朝ァ?」
気だるそうな女性の声と共に、毛玉はひょいと顔を上げた。毛玉の正体は、白猫と黒猫だった。ジェイルは少しだけ、脱力する。
「おはよゥ。……ってちょっと、何でそンなところにいるわけェ?」
「アタシ達、何もしないわよぉ」
「お、おはよう?……じゃなくて、あの」
二匹は間のびした口調で話しかけてきた。しゃべる猫がウェル以外にもいたとは。
つい返事をしてしまったが、起きたばかりで動きの悪い頭を必死に働かせて、ジェイルは言った。
「君達、誰?」
後ろ足で首をかきながら、黒猫が答える。
「アタシはノッテ、そっちはマティーナ。昨日アリシアがアタシ達を紹介する前に、アンタ寝ちゃったんだからぁ」
そういえばおかゆを食べた後、急に眠くなったのを覚えている。ここに置いてもらえると分かって気が緩んだせいで、寝てしまったのだろう。マティーナは大きなあくびをした。
「まァいいわ。アタシ達、これからここで寝ることにしたのォ」
「へ?」
「よろしくぅ、猫は暖かいところが好きなのよぉ」
それくらいはジェイルも知っている。二匹は話しやすいよう、ジェイルの前に座った。
「えと、でも、何で僕のところに……?」
「だってぇ」
「ねェ」
ノッテとマティーナは顔を見合わせてため息をついた。
「アリシアのとこにはボスがいるしぃ」
「リディアは時々寝相が悪くってェ」
「ティークはありえないわぁ。無理無理」
そして二匹は声を揃え、どこか楽しそうに言った。
「というわけで、ここが一番いいの!」
納得できるような、できないような。どうにも頭がついてこない。
「安心しなさぁい、アタシ達が面倒見てあげるわぁ」
「そうよォ、アンタ分からないことばっかりだろうしィ」
はぁ、とジェイルはノッテとマティーナの迫力に圧されてしまった。とりあえず、昨日から気になっていたことを聞いてみる。
「ボスも君達も、どうしてしゃべれるの?」
「そりゃ、使い魔だからよォ」
使い魔。魔法使いの命令を聞き、仕事をこなす動物などのこと、だっただろうか。主に忠実だと聞いた気がするが、昨日のウェルの様子からして勘違いかもしれない。
「他にも、使い魔ってたくさんいるの?」
「残念ながら、アタシ達とボスだけよぉ。猫は嫌い?」
「そんなことはないけど……」
動物は基本的に好きだ。昨日いきなり引っかかれたせいで、ウェルのことは少し怖いが。痛みはもうないが、右手の甲には爪の跡がしっかり残っていた。召使いがいないのなら、使い魔が多くいるのかと思ったが、そういうことでもないようだ。
「そろそろ着替えなさい。朝食の時間になるわァ」
「汗もかいただろうしねぇ」
マティーナがひらりとベッドから飛び降り、ノッテもそれに続く。
「服は、クローゼットに入ってるわよぉ」
「う、うん」
言われるまま、ジェイルはベッドから降りた。一瞬よろめいたが、昨日ほど痛みはない。くつはベッドの脇に置かれていた。
クローゼットを開くと、中にはシャツやベスト、ズボンが何枚も入っていた。
「ちょっとくらい古かったり、大きさが合わなくても気にしないことねェ」
「急いで用意したんだから、我慢してちょうだいよぉ。ほら、アタシ達後ろ向いててあげるからぁ」
猫に気を使われ、ジェイルは服を引っ張り出しわたわたと着替え始めた。いつものようには体が動かず、どうにも時間がかかってしまう。着替え終わると、マティーナの言う通りシャツが少し大きいが気になるほどではなかった。
「ど、どうかな?」
声をかけると、背を向けていた二匹が振り返った。
「あら、大丈夫そうねぇ」
「それじゃ、行きましょうかァ」
二匹はすでにドアの前で待っていた。そこでふと、疑問がわく。
「そういえば君達、どこから入って……?」
アリシアが部屋の中に入れたのだろうか。
すると、マティーナはドアの下の方を前足で示した。
「ここからだけどォ」
何と、猫がちょうど通れるくらいの潜り戸になっていた。ジェイルはあんぐりと口を開けて潜り戸を見つめた。
「もしかして、他の部屋も?」
「ほとんどそうねぇ」
この館は、猫に優しい作りのようだ。
廊下に出ると、ノッテとマティーナはするりとジェイルの前を歩き出した。
「アンタ、どうせ場所分からないでしょォ」
「慣れるまでは、迷わないようにしなさぁい」
二匹はニャハハ、と猫らしい笑い声を上げた。
廊下の壁には、ジェイルの部屋にあったのと同じランプが等間隔にかけられていた。これも全て《魔法具》なのだろうか。もしそうなら、とんでもない額になりそうだ。
部屋にいた時は気付かなかったが、この館はかなり古い。カーキ色の壁から、年月の重みが感じられる。部屋と同じように掃除は行き届いており、蜘蛛の巣などは見当たらない。
廊下を進み階段まで来ると、猫達は階段を軽やかに下りていった。置いていかれまいと、ジェイルもよたよた駆け下りる。
「はい、到着ぅ」
ノッテとマティーナが立ち止まったので、ジェイルも足を止めた。
「ここ?」
二匹が立ち止まったドアの向こうから、いい匂いが漂ってくる。ジェイルがドアを開けると、リディアがテーブルに食器を並べているところだった。テーブルには四人分の食器と、ジャムや砂糖のビンが置かれている。壁には昨日と同じ箒が立てかけられていた。
「あ、おはよ!食堂がここってよく分かったね。匂いで分かった?」
食器を運んでいたリディアが、ニンマリと含みのある笑みを浮かべて言った。残念ながら、ジェイルの鼻はそんなに優れていない。首を横に振って、説明する。
「おはよう。この子達が、案内してくれたんだ」
「ジェイルのベッド、なかなか寝心地よかったわァ」
「これからは安眠できそうよぅ」
二匹の猫は、ジェイルの足元にちょこんと座って言った。ジェイルの安眠はこれからどうなるのだろう。
食堂は広く、使い込まれた大きなテーブルと立派な食器棚、そして四つの椅子が置かれていた。食器棚に至っては、ジェイルの部屋にあったクローゼットよりも大きい。
「あれ、結構シャツ大きいね」
「ジェイル、薄っぺらいんだものぉ」
近寄ってきたリディアに、ノッテが言った。
「おはようございます。もう少し小さいものを探さないといけませんね」
奥からティークが顔を出した。手には切り分けられたパンの乗った皿を持っている。
「おはよう。何だかごめん……」
「いえ、ジェイルさんが悪いわけではありませんから」
せめて手伝いを申し出ようとすると、背後でカタンと音がした。振り向くと、ウェルが潜り戸から顔を覗かせていた。
「小僧、ドアの前で突っ立ってんじゃねぇ。邪魔だ」
「わ、ごめん!」
不機嫌そうな声で言われ、ジェイルは横に飛びのいた。
「おはよ、ボスゥ」
「おはよぅ」
足元で毛づくろいを始めていたノッテとマティーナが、ウェルに声をかける。
「はようさん」
ウェルは大きくのびをして、二匹の横に腰をおろした。三匹並ぶと、やはりウェルは他の二匹より一回り大きい。きっとその分、爪も長いのだろうと思ってしまう。
「おはよう!これで皆そろったわね」
「アリシア、おはよう」
ティークの後ろから出てきたアリシアは、今日も全身黒い服を着ている。エプロンだけは、流石に紺色だ。
「もうすぐ、ベーコンと卵が焼けるから待ってて。ジェイルはコーヒー派?紅茶派?」
「えっと、紅茶で」
「コーヒー派、オレだけですか……」
「ジェイルの席、そこね」
リディアに促され、ジェイルは椅子に座った。すぐにアリシアがカップに紅茶を淹れてくれる。
「先に飲んでていいわよ」
残りのカップ二つに紅茶、一つにコーヒーを淹れ、アリシアは奥の台所に戻って行った。
「砂糖いる?」
「じゃあ、一杯だけ」
ジェイルが答えると、リディアは青い陶器の小ビンのふたを開け、スプーンですくった。
「フォークが足りませんね」
「アタシ達のご飯もねェ」
「はいはい、すぐに持ってくるよ」
みんなが慌ただしくしている中、一人先に席に着いてしまって落ち着かない。キョロキョロしていると、
「おかしなことして、皿割られるよりマシだ」
「う、うん……」
ウェルにズバっと言われてしまった。ジェイルは大人しく紅茶をすすることにする。種類など分からないが、花のようなほのかに甘い香りがした。
「さ、できたわよ」
アリシアがベーコンエッグとサラダの乗った皿を運んできて、全員が席に着く。ジェイルの隣は、アリシアの席だった。
「いただきまーす!」
リディアは早くもパンに手を伸ばしている。
「いただきます」
ジェイルもパンを取ろうとすると、ティークがビンを三つ寄こした。
「黄色いのがマーマレード、赤はイチゴのジャムですよ。白いビンはバターです」
「ありがとう」
「ジェイルだけ卵もベーコンも多い!ずるーい!」
「昨日の食べっぷりからして、ジェイルは私達と同じ量じゃ足りないみたいだもの」
昨日の今日で、ジェイルはすっかり大食い認定されてしまったようだ。苦笑しながら、マーマレードを塗ったパンに齧り付く。
「ん、おいひぃ」
「ふふ、ありがとう。食べたいパンや、メニューがあったら言ってちょうだいね」
「パンもアリシアが作ってるの!てっきり、ティークさんかと……」
「悪いが、ティークはとんでもなく不器用でな。前に台所を爆発させて、今はパンを切るくらいしかさせられねぇのさ」
ウェルは銀のエサ皿から顔を上げて、口の周りを舐めつつ言う。
「ば、爆発?」
ジェイルが聞き返すと、アリシアとリディアは静かに頷いた。
「オレだって、どうしてああなったのか分からないんです!」
ティークは弁解したが、女性陣の視線は冷たい。爆破を不器用で済ませてしまっていいものなのだろうか。
「みーんな吹き飛んじゃって、大変だったんだから!」
「なのに、ティークはかすり傷で突っ立ってたもんねェ」
「すごい音だったのよぉ」
リディアの憤りに、白猫と黒猫が畳みかける。ベーコンエッグを頬張りながら、ジェイルはへぇ、と言うことしかできなかった。
ふわふわのパンもジャムも美味しくて、結局ジェイルは皆の倍近く食べてしまった。
「えっと……僕は何をしたらいい?」
食事が終わり、ジェイルは皆に尋ねてみた。食べた以上は、働くべきだろう。
「ですが、まだケガが治り切ったわけではありませんし……」
「館を案内してあげて、リディア」
「えー?何であたしが!」
「リディアは、まず広間片付けろよ」
いつの間にか、ウェルはアリシアのひざの上で丸くなっていた。ジェイルは食後の紅茶を飲みながら、話がまとまるのを待った。
「なら、先に森の注意すべきことを話した方がいいかしら」
「では、オレが行きましょう。ブライズとクレストも紹介しないと」
「広間かぁ。今日中に魔窟も終わらせたいんだけど、無理かな……」
リディアは紅茶を一気に飲み干し、ため息をついた。
「私はジェイルにちょうどいいシャツを探さなきゃ」
「そういえばあの部屋、時計もなかったわよォ」
ジェイルをちらりと見て言ったアリシアに、マティーナが声をかけた。
「使ってない時計なんて、あったっけ?」
「倉庫探してみたらぁ?」
「中庭は行っても大丈夫ですよね」
「そうね、お願いするわ。それじゃ、ごちそうさま!」
わいわいと進んでいた会話が、アリシアの号令で打ち切られた。どうやら、一日のおおまかな予定は決まったようだ。
* * * *
朝食を終えたジェイルはティークに案内されて、さらに下の階におりてきた。ノッテとマティーナに聞き忘れたことを、尋ねてみる。
「あの、ここって何階建てなの?」
「外から見ると三階建てで、実際は四階建てです。仕組みはオレにも分からなくて」
どうやら、ジェイルの想像を越える作りのようだ。ひたすらに広いということだけは、どうにか理解する。
「ちなみにここは一階になります。さっきの食堂は二階で、トイレは各階にありますよ」
「中庭っていうのは?」
「この館はロの字型をしているんです。その中央が中庭で、井戸と畑があるんですよ。ほら」
ティークが窓を指したので、そちらを向く。数種類の植物が畝に生えているのと、古びた井戸が見えた。
「自給自足なんだね」
「量も種類も多くないので、手に入らないものは街で買っているんですけどね。月に一、二度買い出しに行くんです」
珍しい薬草も見えたので、食糧よりはそちらが重要なのかもしれない。
「ここがエントランスです」
ティークの言葉に、視線を室内に戻し──思わず感嘆の声をあげた。
「うわぁ、すごい……」
天井からつられたシャンデリアは、朝なので明かりはついていないものの十分に美しい。けれど派手すぎず、館の雰囲気と合っている。
何より目を引くのは、玄関の扉だった。暗褐色の扉は天井近くまであり、一面に美しい彫刻がほどこされていた。植物のつたのようなものから幾何学模様まで、細かい模様が彫られている。
その扉の中央にやはり大きな閂が、パズルのようにいくつも噛み合っていた。一本一本がジェイルの足くらいの太さがあるだろうか。こちらにも同じような彫刻がされていた。
「これをはずすの……?」
ジェイルの力では、到底はずせそうにない。
「安心して下さい、閂を一つ一つはずしたりはしません。これには、魔除けや侵入者除けの魔法がかかっているんだそうです」
ティークは笑いながら一番下の閂に手をかけた。そして、小さく呟く。
「〝プレコル〟」
途端、大きさに比例して重そうな閂が滑るように横へ動いた。そのまま、歯車が回るように次々とガコンという音を立てて、あっさりとはずれる。
「え、えぇ!」
扉と閂を見比べて、ジェイルは間抜けな声を出してしまった。
「この閂は合言葉で動くようになっているんです。覚えておいて下さいね」
コクコクとジェイルは頷いた。要するに、今の言葉が鍵のようなものなのだろう。
ティークが軽く扉を押すと、音もなくゆっくりと開いた。見るからに古いので、軋む音が大きくするだろうと思っていたので意外だ。
扉の外は、すぐに《漆黒の森》が広がっていた。草木がこれでもかと空を覆っていて、朝だというのに奥まで見渡せないほど暗い。扉の脇には、色褪せて砂色になったポストがあった。配達に来る人がいるのだろうか。
「森には薬草を採りに行くことがあるんですが、まずは迷子に気をつけて下さい」
「う、うん。それに、毒蛇とか狼もいるんだよね?」
そんなところを歩いていたのかと思うと、ジェイルは今さら背筋が寒くなってきた。
「そう簡単に、出会うことはないですよ」
「もし会った時は……?」
エルフなのだからきっと心得があるのだろうと、尋ねる。
「その時は相手を刺激しないようにして、そっと逃げましょう!」
「……………………」
ティークの爽やかな笑顔は、ジェイルの心を重くしただけだった。
「大丈夫、慣れるまで一人で森に行かせたりはしません」
慣れたら、一人で行かなければならないらしい。
「オレ達も、森の全てを知っているわけではないんです」
森を見ながら、ティークが言う。
「森自体が広いということもありますが、足場が悪いところや、植物が群生していて進めないところもありますから」
「ここまで来るのだって大変だしね……」
こんな大きな館ですら、森の中からでは木々が邪魔で見えなかった。見上げると、ティークが言った通り外観は三階建てだ。レンガの壁は、あちこち蔦が絡みついている。
「あれ、でもこのポストは?」
ジェイルの質問にティークは、
「それは《魔法具》で、《転送郵便受》です。人が直接届けに来るわけではないので、心配いりません」
ご存じなければ説明しますよ、と穏やかに言ってくれた。《転送郵便受》自体は、ジェイルも知ってる。ポストに魔法が組み込まれていて、宛先が指定されているポスト同士は郵便物を一瞬で転送できるのだ。生き物はまだ、転送に成功したことはないと聞いている。
だがジェイルの知っているものは、もっとゴテゴテ不可思議な部品がついていて、いかにも魔法の品という外見だった。これは宝石も付いていなければ、華美な装飾が付いているわけでもない、一見普通のポストだ。
「《転送郵便受》は知ってる……けど、もっと魔法の部品がたくさん付いてたよ」
「そういうものもあるようですね。ただ、ほとんどは子供騙しにすぎません。何でも付ければ精度が上がるというものではないんですよ」
憮然としてティークが答えた。これはこれで、さっぱりしすぎな気もする。ポストの中を見てみたが、今日は空だった。
「手紙が来ることは、そう多くないなんです」
申し訳なさそうにティークが言う。よく考えれば、噂では《黒の女王》に依頼をするのは最後の手段だったはずだ。
「他に注意点は、薬草を必要以上に採らない、怪しいものには近づかない、それから……」
忘れまいと必死にティークの話を聞いていると、ガサリと近くの草むらから音がした。驚いて音がした方を向く前に、ジェイルは何かにわき腹へ突進された。
「わぁっ!」
そのまま仰向けに倒れこみ、強かに背中を打ちつけた。ケガが治りきっていない背中の痛みはひどかったが、それ以上に恐怖で混乱する。
「てぃ、ティークさっ、たすけっ!」
のしかかってくる襲撃者は大きくて、全身毛むくじゃらだ。このままじゃ、食べられる!そう意識してしまえば余計恐ろしくなり、ジェイルは必死に暴れた。
「ダメですよブライズ、クレスト!ジェイルさんが怖がってるじゃないですか!」
「……え?」
ティークの冷静な声の後に、「バゥ!」という鳴き声が聞こえた。
上半身を起してみると、ジェイルの体の上に乗っていたのは二頭の大型犬だった。それぞれ、緑と青の首輪をしている。
「え……と……?」
「森で放し飼いにしている、ブライズとクレストです。朝晩ここでエサをあげているんですよ。今日はもう、リディアさんがあげた後ですが」
二頭をわしゃわしゃ撫でながら、ティークが説明した。四つの鈍色の目がジェイルを見つめている。
「緑の首輪がブライズ、青い首輪の方がクレストです。森で倒れていたジェイルさんを最初に見つけたのは、この二頭なんですよ」
「そ、そうだったんだ……。えっと、ありがとう」
突然のことに肝を潰したが、大人しくしている二頭にお礼を言った。
「それにしても、ブライズとクレストがここまでじゃれつくのは初めてみました。気に入られたみたいですね」
「ははは……。昔から動物には好かれることが多くて」
ジェイルは引きつらせながらも、笑顔を作った。食べられるかと思ったのは、忘れることにする。
「そうなんですか?そういえば、ノッテとマティーナも随分ジェイルさんを気に入っていたようですね」
あの二匹は、気に入ったというよりいい寝床を見つけたという感じだろう。ジェイルの扱いは湯たんぽに近い。
「そうかな。昨日ボスに引っかかれた時も、けっこうびっくりしたんだ」
驚きの度合いとしては、ブライズとクレストの方が余程上だったが。
「ボスは誰にでもああいう態度ですから、気にしないで下さい。悪気はないんです、恐らく」
捻くれているというか自分勝手というか……とティークは言葉を濁した。
ジェイルはせめて撫でてやろうとクレストに手を伸ばしたが、鋭い牙が見えたのでそっと手を引っ込めた。悪気はなかったのだろうが、まだ動悸が収まらない。
「森に異変があれば、この二頭が教えてくれるんです。鼻も利きますし、オレ達では行けないところも行けますから」
ティークは二頭を立ち上がらせ、ジェイルの体の上から移動させた。重量感と恐怖心が減って、ほっと一息つく。
「この子達はしゃべらないんだね」
「ええ、使い魔ではないので。でもブライズとクレストがいれば、野生の動物はまず近付いてこないので安心して下さい」
先ほどのティークの笑顔は、この二頭のおかげだったのだろう。二頭は誇らしげに「ワゥッ」と吠えた。
「この二頭で、うちの〝家族〟は全員です。一度、戻りましょうか。背中は平気ですか?」
「ちょっと痛いかな……」
土を払い、ジェイルはゆっくり立ち上がった。幸い、服はさほど汚れていなかった。
二頭を森に返し、ティークとジェイルはエントランスに戻ってきた。ティークが「〝グラティ〟」と唱えると、閂はしっかり噛み合って閉じた。こちらは扉を閉める合言葉なのだろう。
「では、次は中庭を案内しますね」
中庭へのドアはエントランスとは反対側にあり、ドアも普通のものだった。拍子抜けしたものの、呪文を覚えずにすむのは助かる。覚えることがありすぎて、すでにジェイルの頭はいっぱいいっぱいだ。
ティークがドアを開けると、清々しい風が吹き抜けていった。《漆黒の森》とは違い、陽の光が降り注いでいる。畑の脇には、洗濯物が干してあった。
「ここが中庭です。と言っても、見ての通りほとんど畑ですが。畑は爆発しないので、手入れはオレの仕事なんです」
少し誇らしそうにティークが言うが、普通は台所も爆発したりしない。
「あの、手伝うことがあればやるよ」
「いいんですか?」
ティークに問われ、ジェイルは頷いた。ケガは切り傷や擦り傷ばかりで、大したものはない。
ドアの近くに置いてあったスコップを持ち上げると、ティークは井戸を指差した。
「ではオレは雑草を抜くので、ジェイルさんは水遣りをお願いします。如雨露は井戸の辺りにありますから」
「分かった」
井戸に駆け寄ると、如雨露はすぐ横に置かれていた。ただ、ジェイルが想像していたものより二回りほど大きい。これくらいの大きさがないと、この広い中庭に水をやるのは大変なのだろう。
木製の蓋をはずし井戸を覗き込めば、かなり下の方に揺れる水面が見えた。落ちたらどう考えても一人では登れない。ジェイルはなるべく井戸の中を見ないようにして、手早く水を汲んだ。
たっぷり水を入れた如雨露を持ち上げようとして、
「あいたたたたた……」
背中がビリっと痛んだ。さきほど倒れこんだせいだろう。
「何よ、大丈夫ゥ?」
「マティーナ」
声をかけられ振り向けば、白猫がトテトテこちらに向かって来るところだった。
「どうかした?」
「アンタの様子、見に来たのよォ。いちおうケガ人なんだから、気を付けなさいよねェ」
「大丈夫だと思ったんだよ……」
背中に負担がかからないよう、今度はゆっくり持ち上げる。よろよろと一番近い畝に近づき、如雨露を傾けた。
「ノッテはどうしてるの?」
「アリシアの方手伝ってるわァ。目当てのものが見つからないらしくってェ。ボスは日向ぼっこ」
使い魔とは思えない気ままさだ。
「そっちの畝は、水遣りすぎちゃダメよォ」
ジェイルが隣の畝に移ろうとしたところで、マティーナが大きな声を出した。
「分かってる、イサゴネは乾燥地域に多い薬草だもんね」
「あらァ……」
「すごいな、ヤクオウもこんなにある。栽培は難しいはずなのに」
もう秋だというのに、畑に並んでいる植物は青々としている。この畑にも、魔法が使われているのかもしれない。
如雨露の水がなくなり、井戸まで戻る頃には、背中だけでなく腕もつらくなっていた。
「重かった……」
「最初に水入れすぎたンじゃなァい?」
「そうだね……。次は半分くらいまでにするよ」
だが半分だけにしてみても、如雨露はまだ十分に重かった。何度も井戸と畑を往復し、汗もかいてくる。
疲れのせいで転びそうになり、マティーナに笑われたところで、やっとティークのいる畝まで来た。
「大丈夫ですか、ジェイルさん?フラフラしていますが……」
「まだ転んでないから、平気よォ」
楽しそうに、後ろをついてきたマティーナが答える。
ティークの隣では、抜かれた雑草が山を作っていた。美形の男性が汚れを気にせず、熱心に草むしりしている光景は中々不可思議だ。
「オレが土いじりをするのは、似合いませんか?」
ぼんやり見ていたせいか、ティークに言い当てられてしまった。
「え、いや、その」
「元々オレは室内にいるより、外で体を動かしている方が好きなんです」
ティークは立ち上がると、手の土をはたいた。
「どうにもじっとしていたり、細かい作業は苦手でして。こういう方が性に合ってるんですよ」
「へぇ……」
何だか意外だ。本を読んでいる姿も似合いそうなのに。
「一度休憩しましょうか。お昼の時間も近いですし」
「そうねェ、ジェイルは今度こそ転びそうだものォ」
そう言うとジェイルとティークの足元をすり抜け、マティーナはドアまで駆けて行った。ジェイルにはもう、走るだけの気力は残っていない。
「おなかすいたなぁ」
言ったそばから、腹の虫がぐぅと鳴った。
皆で昼食を取った後、ジェイルは再び畑仕事を手伝った。しかし、午前中の時点で大分ばてていたため、あまり役には立てなかった。ケガも治りきっていないから、ティークはと言ってくれたが、これではケガが治っても変わらない気がする。何しろ彼は、水が並々入った如雨露を苦も無く片手で持ち上げていたのだ。こればかりは、エルフと人間の違いだと無理やり納得することにした。
陽も暮れてきた頃、今日は終わりにしようと声をかけられた。
「夕食には少し早いですから、広間で休みましょう」
「うん……」
井戸の脇で手を洗い、如雨露とスコップを片付け、中庭を後にする。ドアを開けると、廊下中のランプに灯が点いていた。よろよろと危なっかしく階段を上り、ゆっくり歩いてくれるティークにどうにか付いて行く。階段を昇るのがこんなに辛いなんて、老人にでもなった気分だ。
「ここが広間ですよ」
ようやく辿り着いた、二階の一室のドアをティークが開ける。
案内されたのは、食堂よりさらに広い部屋だった。大きなモスグリーンのソファが、テーブルをはさんで向かい合うように置かれている。床にはワインレッドの柔らかな絨毯が敷かれいて、奥には暖炉があった。どれも長く使われているらしく色褪せ気味だが、それが落ち着いた雰囲気を出している。
ジェイルは沈み込むように、ソファに腰を下ろした。しばらくは立ちたくない。
「お疲れ……」
「わっ、リディア!」
自分のことで精一杯だったジェイルは、反対側のソファに寝そべっていたリディアに気付かなかった。箒はソファの下に転がってしまっている。
「リディアさんもお疲れのようですね」
「師匠があっちこっちで、色々引っ張り出すんだもん。結局、魔窟は無理だったよ……」
げっそりした顔で、リディアはため息をついた。ティークも苦笑する。
「アリシアさんのあれだけは、どうにもなりませんからね」
「何でああなのかなぁ……。でも探してたのは見つかったよ。とりあえず、時計と日用品はジェイルの部屋に置いといたから」
「お疲れ様、ありがとう」
ジェイルが体を起こして礼を言うと、リディア顔をソファに埋めてひらひらと手を振った。会話を続ける気力もないようだ。
そこへ、ノッテとマティーナが部屋に入ってきた。
「ご飯よぉ」
「ほら、さっさとしなさァい」
「はーい」
猫達にせっつかれ、リディアは体を起こし箒を拾った。空腹なのに立ち上がりたくない、という葛藤に苛まれたが、結局食欲が勝ちジェイルも立ち上がった。
食後、今日は早速皿洗い当番だとリディアに言い渡された。食べ終わった食器を洗おうとすると、監督していたアリシアに止められた。
「しばらく水につけておいた方が、汚れは落ちやすいのよ」
「そっか。じゃあ、その間にやることって何かある?」
「そうね……」
アリシアはしばらく棚の上の鍋やヤカン、後ろにあるチェストに視線を走らせていたが、ぽんと手を叩いた。
「ジェイル、お茶は淹れられる?」
「う、うん。ヤカンと茶葉の場所が分かれば……」
難しいことを言われずに済み、少しほっとする。《魔法具》で淹れるなどというわけでなければ、ジェイルにもそれくらいできるだろう。アリシアは食器棚から使っていないカップを取り出した。ポットは軽くゆすぎ、さっき使ったものをテーブルに置く。
「ヤカンは上の棚にあるわ。茶葉はチェストの引き出しの二段目よ」
アリシアに言われ、コンロの上の棚からヤカンを下ろす。台所の一番奥にあるチェストの引き出しを開けると、数個の缶に茶葉名の書かれたラベルが貼ってあった。
「どれを使っていいの?」
「そうね、今回はダージリンにしましょ」
横からヒョイと、アリシアがダージリンの缶を取り出した。その拍子にアリシアの髪が鼻先をかすめ、ふわりとハーブのような匂いがした。
「ティーク用のコーヒーは、紅茶の下の引き出しに入っているから」
スプーンをと缶をジェイルに渡し、アリシアは言い足した。三人分の茶葉をポットに入れ、ヤカンに水を注ぐ。ここまではどうにか、茶葉を零していなければヤカンを引っくり返してもいない。
「えっと、マッチは?」
準備が整ったところで、ジェイルは尋ねた。
「マッチは一番上の引き出しよ。でも面倒だから、今は私が点けちゃうわね。ウェルとティークには、ちょっとしたことに魔法を使うなって言われるんだけど」
内緒話をするように、アリシアは声を潜めた。ちょっと下がって、と言われ、ジェイルはコンロから一歩下がる。
「灯りて熱せよ」
アリシアが唱えると、《魔法具》を使う時とは違い、言葉が直接心に響くような感覚に襲われた。これが、本物の魔法なのだ。
途端、ボボボ!と薪に火が点き勢いよく燃え出した。感心したのもつかの間、ジェイルはぎょっとしてチェストに腕をぶつけた。火はすぐに小さくなり、ヤカンに隠れる程度の大きさになった。
「マッチだと時間がかかっちゃって」
「……そ、そうなんだ」
ヤカンをコンロにかけ、ジェイルは弱々しく呟いた。やはり火の扱いは気を付けなければ。
「ジェイルがお茶を淹れられそうでよかったわ。ティークは危なくて台所に入れられないし、リディアじゃ上の棚に手が届かないの」
換気のために小窓を開けて、アリシアは明るく言う。今回ジェイルが火を点けたわけではないので自信はないが、そうヘマはしないだろう。洗い物を増やしちゃったから、とアリシアはチェストからクッキーを出してくれた。
「これも、アリシアが作ったの?」
「ええ。毎日は無理でも、やっぱり時々甘い物が食べたくなるのよね」
年相応の少女らしい顔で、アリシアは楽しそうに笑う。
つかの間、二人だけの小さなお茶会となった。
「お菓子も美味しかったなぁ」
皿を洗いながら、ジェイルは独り言ちた。畑仕事は大変だし、慣れないことばかりだが食事は文句なしに美味しい。
「お前は食べ物のことしか頭にねぇのかよ」
突然の声に、ジェイルはビクリとした。いつの間にか、足元にウェルが座っている。今の独り言を聞き逃さなかったらしく、じっとこちらを見つめてくる。
「ったく、食い意地ばっかり張りやがって」
「ごめん……」
ジェイルは小さく謝り、一歩下がった。引っ掻かれないよう、どうしても距離を取りたくなってしまう。この狭い台所で猫に本気を出されては、逃げる場所はないけれど。
「役に立つんならいいが、火には気を付けろよ。ティークの時も湯を沸かすって言って、ここを爆破したんだからな」
「……一体何が爆発の原因なの?」
ジェイルは次の皿を手に取り、尋ねた。できれば同じ轍を踏むようなことは避けたい。
「それが分かんねぇから怖いんだよ。だいたい、台所にそんな危険物置くわけねぇだろ」
ジェイルの見た限りでも、危険そうなものは特にない。ひたすら謎である。エルフには特別な能力でもあるのかもしれない。
そんなことを考えていると、上の階からドタンと大きな音がした。
「噂をすれば、だな」
「え?今の、何の音?」
ウェルは音がした方に視線を向けたまま、面倒臭そうに口を開いた。
「ティークのヤツだよ。どうせまた部屋で鍛錬してんだろ」
「鍛錬?」
「暇ならいつも、腹筋やら体術の練習やらやってんだ」
体を動かすのが好きだとは言っていたが、そこまでとは。
またドタン、と音がしたのでそちらに気を取られると、持っていた皿がつるりと逃げ出した。急いで掴もうと手を伸ばすが間に合わず、皿はウェルの鼻先一センチに落下した。幸い割れはせず、しばらく転がってから壁にぶつかって止まった。
「何しやがんだ、小僧!」
「ご、ごめん、わざとじゃ……」
「皿洗いもまともにできねぇのかよ!」
ウェルに怒鳴られ、ジェイルは小さくなりながら皿を拾った。危険はどこに潜んでいるか分からないものである。
三章 入居試験
疲れのせいかぐっすりと眠り、ジェイルはノッテとマティーナに叩き起こされた。ぼんやりとしながらも着替えと朝食を済ませ、今日こそ館を案内してもらえるはず、だった。
だがジェイルは、何故かバケツと雑巾を持たされている。前を歩くリディアに、ジェイルは恐る恐る話しかけた。
「あの、今日は館を案内してくれるんじゃ……?」
「案内するよ。けど、手伝ってほしいこともあるから」
箒を手に、昨日の疲れを見せずリディアは廊下を進んで行く。させられることは一つしか思い浮かばないので、違うことを聞いてみる。
「その箒、いつも持ち歩いてるんだね」
「ただの箒じゃなくて、シエロって名前があるの!」
名前を付けるくらい、大切にしているようだ。穂先に埃やゴミが見えないので、掃除の後に手入れもしているのだろう。
「ま、案内するにしても、半分くらいの部屋は使ってないよ」
「三人でここは広すぎるよね。掃除は分担してやってるの?」
「ううん、掃除はあたし一人だよ」
「えっ!?」
思わず、ジェイルはバケツを取り落しそうになった。この広い館を、リディアたった一人で掃除していたとは信じられない。ジェイルの部屋も、廊下も目に付く汚れはなかった。
「どうしても手が届かない所は、ティークに手伝ってもらったりもするけど」
「廊下も、部屋も、全部一人で?」
「一気にやるわけじゃないから。今日はここ、明日はあっち……って少しずつやるの」
大したことではないように、リディアは言う。
「使ってない部屋は、たまにしか掃除しないよ。ジェイルの部屋だって、大慌てで掃除したんだから」
クスリとリディアは笑った。それでも部屋数から考えると、相当苦労しそうだ。
「もっと手伝ってもらったら?」
「うーん、ティークは力入れすぎて壊しちゃうし、師匠は……。あ、ここはあたしの魔法の修行部屋ね。練習中にいきなり開けると、ふっ飛ぶかもしれないから気をつけて」
「う、うん」
いきなり物騒なことを言われ、ジェイルは間取りの方に意識を向けた。
「見てもいいけど、机くらいしか置いてないよ」
お言葉に甘えて少しだけドアを開けて覗くと、机と椅子しかなくがらんとしている。他の家具どころか、カーテンすらもかけられていなかった。
「カーテンもないんだね」
「前にあたしが魔法を失敗して、燃やしちゃってね……。それ以来、危ないからカーテンははずしてるの」
幼い魔女はさらりと言う。小さいからと言って、魔法の力も比例するというわけではないようだ。何より、この館では事故が多いようで恐ろしい。
「そんな怯えた顔しないでくれる?火を使う魔法苦手なんだから、しょうがないでしょ!」
リディアに箒で思い切り太ももを叩かれ、ジェイルは声にならない悲鳴を上げた。昨日の畑仕事で、全身筋肉痛である。
「こっちの部屋は?」
「図書室だよ、一番広い部屋なんだ。部屋を二つ繋げてあるんだって」
ドアを開けてみたが、本棚がずらりと並んでいて広さが分からない。残りは空き部屋だというので、三階に下りる。
「三階は皆の部屋。基本的にはどの部屋も入っていいけど、私室はダメだよ。あたしや師匠の着替え中に入って来ようものなら、魔法で窓の外に吹き飛ばすから!師匠が!」
吹き飛ばすのは、アリシアの魔法頼みらしい。
「気を付けるよ……」
まだジェイルは自分の部屋も、時々間違えるのだ。ノッテとマティーナが注意してはくれるが、最悪の場合命が危ない。
「二階は食堂、お風呂、広間と応接室だけど、だいたい行ったから分かるでしょ?」
応接室には入っていないが、他は使っているので頷く。
「一階は薬を置いてる調合部屋と、色んなものが仕舞ってある倉庫と食糧庫。でも今日は後回しね」
リディアは階段から二つ目の部屋の前で立ち止まった。
「さて、問題はこの魔窟だよ」
「ま、魔窟?」
魔法の道具が置かれている部屋なのだろうか。リディアは大きなため息をついた。
「ここの掃除が、うちで一番大変なの。覚悟した方がいいよ」
「う、うん」
自然と、バケツを握る手に力が入る。リディアはノックすると、躊躇いなくドアを開けた。どれだけ恐ろしい部屋なんだろう。そう思った瞬間、黒いものがぬっと中から現れた。
「わぁ!?」
思わず悲鳴を上げて、ジェイルは後退った。
「きゃあ!?」
「え?」
しかし、よく見れば出てきたのはアリシアだった。驚いた表情で、ジェイルを見ている。
「あれ、アリシア?何で?」
「何でって、ここは私の部屋よ」
ジェイルがぽかんとしていると、横でリディアが吹き出した。
「あっはは!おかしー!」
「リディア!ジェイルに何を言ったの?」
「ただ、うちで一番掃除が大変な部屋って言っただけだよ!」
アリシアは一度眉を釣り上げたものの、すぐに困ったような顔をした。
「まぁ、間違いではないけど……」
「ほらほら、掃除始めるよ」
「あ、待ちなさい!」
理解できないまま、ジェイルも二人に続いて部屋に入った。
「……………………これ、は」
部屋の中は、言葉では表しにくかった。
入ってすぐにある本棚には、中身がほとんど入っていない。本は床に積まれ、何か走り書きされた紙と服は部屋中に散らばってしまっている。クローゼットの引き出しも半開きで、黒い服が何着もはみ出していた。一見マシに見えるベッドの上も、服や裁縫道具が散乱している。
「何これ!いつもより酷いんだけど!」
リディアが怒鳴った。普段はここまで酷くない、ということなのだろうか。
「だって、ジェイル用の服を裾上げしたりしてたんだもの」
「本棚はどうしたの!」
「糸通しをしおり代わりに挟んだ本が、見つからなくて……」
「この間のティークのこと、言えないじゃん!で、糸通しあったの?」
弟子に怒られ、アリシアは後ろめたそうに首を横に振った。リディアは小さく呻いたが、すぐにてきぱきと指示を出した。
「師匠は自分の服だけでもしまう!ジェイルは糸通しが挟んである本を探して!関係ない本はどんどん本棚に突っ込んでいいから!」
「は、はい!」
リディアに背中を押され部屋に入ると、早々に何かを踏んで右足が前に滑った。
「う、わわわ」
踏み留まろうとするものの、物だらけで左足を置く場所がない。右足だけで踏ん張ろうにも筋肉痛で体に力が入らず、ジェイルは盛大に尻もちをついてしまった。近くにあった積まれた本が、軒並み崩れる。
「ごっ、ごめん!」
立ち上がろうにも、筋肉痛と尻もちの衝撃が相乗効果を織り成して力が入らない。ジェイルが踏んだのはメモだったらしく、足跡のついた紙が手元に落ちていた。
「……何となく、予想はしてたよ」
額に手を当ててリディアが呟く。
「ごめんなさい、大丈夫?」
アリシアが手を差し伸べてくれるが、情けなくて顔が上げられない。生まれたての小鹿のような足で立ち上がると、ベッドの上のシャツががもぞもぞ動いた。
「んだよ、うるせぇな」
「あれ、ボス」
シャツの下から顔を出したのは、ウェルだった。体を震わせシャツを払うと、そのままシャツはベッドから落ちて本の山を一つ崩した。
「ウェル、これ以上散らかさないでよ!」
「お前が部屋をこんなにするからだろ」
ウェルはそうアリシアに言い放つと、あくびをした。もう一度寝そべろうとしたウェルに、リディアの怒りの矛先が向かった。
「ボスもボスだよ!何で部屋がこんなになるまで、ほっといたの!」
「お、俺はちゃんとリディアが来る前に片付けろって言ったぞ」
「言うだけじゃ意味ないよ!」
リディアの凄まじい剣幕に、ウェルも言葉を返せずにいる。後ろではアリシアがきびきびと服を畳み始めていた。
ジェイルも本を手に取って、糸通しを探し始めた。リディアの怒りがこちらに向いては敵わない。ページをめくりながら本文に目を走らせたが、難しい言葉が並んでいて内容はさっぱり分からなかった。
横目で机の上を見ると、鳥籠が置かれていた。中には本物ではなく、透明な鳥が入っている。ガラスなのだろう、きらきらしていて何だか美味しそうだ。窓の近くには、鈴の付いた星の吊り飾りが下がっていた。
鳥籠の横には砂時計の絵が描かれた木の柱が転がっていて、不思議なものばかりだ。
調べた本を詰めようとして、ジェイルは本棚の中にさらに小さい本棚が置かれているのに気付いた。その中にもちゃんと、手のひらほどの大きさの本が並べられている。
「ジェイル、それ気を付けて!壊したりしたら師匠にミンチにされちゃうよ!」
「えっ、ごめん!」
ジェイルは本の上下を間違えないようにだけして詰め、手を引っ込めた。後ろでアリシアが「そんなことしないわよ!」とリディアに抗議している。
「ミンチじゃなくて、スープの方が簡単でいいんじゃねぇか?」
ウェルまで笑いながら言う。ノッテやマティーナのような可愛らしい笑い方ではなく、低く太い笑い声だった。
「だから、しないってば!」
「……多分、僕はどっちにしても美味しくないと思うよ」
ウェルと言い合っているアリシアに聞こえたかは分からないが、ジェイルは呟いた。
「これは要る……これは捨てちゃうよ。何これ、だいぶ前の買い物メモじゃん!」
リディアは腕まくりをし、どんどん散らばった紙をまとめている。ジェイルもまだ調べていない本の山を引き寄せた。
「あれ、こんなところにハンカチが落ちてるよ」
ジェイルは本と本の間にあった白いハンカチを、拾い上げて──固まった。それはハンカチではなかった。花の刺繍とレースのついた……
「きゃあああ!」
横からアリシアがソレを引ったくった。固まったままのジェイルの横で、アリシアはリディアに怒られ、赤くなっている。
「だから下着だけはちゃんとしまってって、何度言えば!」
「だ、だって、いつも掃除しに来るのリディアだけだったから……!ジェイルも来るなんて思わなかったんだもの!」
やっぱり下着だったのか……
認識する前に取り上げられたから大丈夫きっと大丈夫、とジェイルは自分でもよく分からない理論を展開させ一人頷く。服は黒いのに下着は白いのか、なんて断じて思っていない。
リディアからも、忘れなさい!と後頭部を叩かれる。
「安心しろ、お前みたいなガキの下着なんざ見たって誰も喜ばねぇよ」
どうでもよさそうにウェルが言ったが、凄まじい顔でアリシアに睨まれて「いや、その、悪かった……」と謝ってしまった。本来の上下関係を垣間見た気がする。
そこでふと、ジェイルは疑問を口にしてみた。
「えっと、魔法を使って掃除しないの?」
《黒の女王》なのだから、それくらい簡単なのではないだろうか。ジェイルが大切なものや下着に触ったりしないように、という防止にもなるはずだ。しかし皆黙ってしまい、部屋は急にしんとした。
「……それができりゃ、苦労はしねぇんだがな」
しばらくの沈黙の後、ウェルが力なく言った。リディアもため息をつく。
「本当だよね……」
「アリシアは大抵の魔法は使いこなすが、掃除に関してはてんでダメでな」
ウェルの言葉に、アリシアは言い難そうに視線を逸らした。
「前にやったことがあるんだけど……逆に館中が嵐に遭ったみたいになっちゃって」
……あまり想像したくない。
リディアが今まで一人で掃除してきた、というのはこのせいだったらしい。まさか《黒の女王》の苦手なものが掃除だなんて、誰が思うだろう。
「まぁ、下らないことにやたら魔法を使うもんじゃない。魔法ってのは、もっと崇高であるべきで……」
「掃除は下らなくないよ!死活問題だよ!」
ウェルが語ろうとしたが、リディアの心からの訴えに遮られた。リディアの掃除に対する情熱は、尊大な猫をも黙らせるようだ。
「でも、ちょっとくらいは楽にしましょうか」
畳んでいた服を引き出しにしまうと、アリシアは部屋の中央に立った。
「それぞれを分け、それぞれの元へ」
ざぁ、とどこからともなく風か吹き、散らばったものを空中に巻きあげた。そして、本はジェイルの周りに、服や布はベッドの上に、それ以外はリディアの足元にふわりと落ちた。
「わあ!」
「ぶっふぉ!」
ベッドの上では、服の下敷きになったウェルが、くぐもった悲鳴を上げた。
「もう、最初からやってよ師匠!」
「少し片付いて、量が減ったからできたんだもの」
スカートを手に取り、アリシアは言った。
「おい、何しやがんだ!」
服の下から這い出たウェルが、毛を逆立てて唸った。アリシアはウェルの背中をそっと撫でて、澄まして言う。
「ウェルもたまには手伝ってよ。猫の手も借りたいわ」
「手じゃねぇよ、前足だ!」
猫は肉球を見せ、きっぱりと言い返した。
すると、星の吊り飾りについていた鈴が急にちりんと鳴った。さっきのアリシアの魔法が起こした風でも、鳴らなかったというのに。
「あら、ポストに何か届いたみたいだわ」
アリシアが触ると、鈴の音は止まった。お知らせ用の鈴らしい。
「私、ちょっとポストを見て来るから。そういえば、まだジェイルにポストの説明してなかったわよね?一緒に行きましょ」
「え、でも、掃除が……」
「俺も行くぞ!」
ウェルはベッドから降り、早くもドアの前へ移動していた。
「ちょっと師匠、残り全部あたしがやるの?」
「頑張って、頼りにしてるわ」
文句を言うリディアに、アリシアは笑顔で無慈悲にドアを閉めた。抗議する声が聞こえたが、アリシアは無視して歩き出してしまった。
「……いいの?」
「大丈夫、あの子は優秀だから」
「変に俺達がいても、邪魔だろうからな」
先頭を歩くウェルが言った。リディアの掃除の腕は、かなり信頼されているようだ。
エントランスまで降り、ポストの前まで来るとアリシアが二番からね、と呟いた。
「二番?」
「ポストの横に、番号があるでしょう?それで、森のどこのポストから来たか分かるの。ここから森のポストに転送する時、どのポストから来たか分からないと困るから」
アリシアに言われ、ポストをよく見る。薄くなってしまっているものの、ポストの横には時計のように《1》から《10》の数字が丸く並んでいた。その中で、《2》という数字だけ光っている。前に見た時はまるで気付かなかった。
アリシアがポストを開くと、中には白い封筒が一通入っていた。
「仕事の依頼か?」
「みたいね」
アリシアは手紙の封を開け、中身を取り出し広げた。ポストに飛び乗り、ウェルが覗き込む。
「……流行り病で薬が足りなくて、困っているから薬を分けてほしいんですって」
「何だ、薬か」
一通り読み終えると、アリシアは顔を上げた。
「でも、この薬を作るには薬草が足りないわ……」
「えっ、どうするの?」
「足りないのは一種類だけだから、森に採りに行けば平気よ。ただ、群生してる場所が問題ね」
アリシアは大きくため息をついた。それでウェルは何か察したらしく、しっぽを揺らした。
「《鏡の沼》か」
「《鏡の沼》……?」
ジェイルが繰り返すと、アリシアは頷いた。
「森の奥にある、大きな沼よ。栄養が豊富で、色んな薬草や植物が群生してる場所なの。そこに、一緒に《幻喪種》もあって……」
「ご、ごめん、《幻喪種》って何?」
知らない単語に、ジェイルは少し慌てた。
「《幻喪種》ってのは、生態も生息地域も分かってない、珍しい魔法動植物だ。ものによっては、伝説だとか昔話にしか出てこないようなのもある。売れば大儲けだな。《鏡の沼》には、その一つである《ラバル》ってのがあちこち生えてんだ」
「それって、凄いことなんじゃ……」
本来どこに生息しているか分からないものが、群生しているなんてさすが《漆黒の森》だ。けれど、アリシアもウェルも渋い顔をした。
「普通なら、喜ぶべきことなんでしょうけどね」
「そもそも、《ラバル》のせいで《鏡の沼》って呼んでるんだよ」
ジェイルは話が見えず、森に目をやった。この深い森には、未知が多いようだ。
「……そうだ、小僧。お前《鏡の沼》まで行って薬草採って来い」
「えっ?」
「ちょっとウェル、何を言い出すの!」
突然の猫の提案に、ジェイルは目を瞬いた。アリシアが詰め寄るが、ウェルはどこ吹く風だ。
「入居試験ってことにしようぜ。別に、沼自体はそんなに危険なわけじゃねぇ」
「入居試験……」
「さすがに小僧一人じゃ心もとねぇし、ティークも一緒に行かせよう。それならいいだろ、アリシア?」
アリシアは顔をしかめたまま、考えている。ジェイルはなるべく穏やかな声で言った。
「いいよ、僕行くよ。誰かが、採りに行かないといけないみたいだし」
「でも、ケガだって治り切ってないわ……」
渋るアリシアに、大丈夫だよ、と笑って返した。どちらかというと、ケガよりも筋肉痛の方が酷い。
「うっし、じゃあ俺はティークを呼んで来るぜ!」
ウェルはどこか楽しそうに、ポストから飛び降りた。アリシアは大きくため息をついた。
「ごめんなさいね、ウェルったら……」
「ううん。必要な薬草は何なの?」
「オオセンリっていう、黄色い小さな花が咲いてるものよ」
「オオセンリだね、分かった」
ジェイルは頷いて繰り返した。ティークも来てくれるなら、ジェイルとしては随分心強い。
「珍しいなら、《ラバル》も一緒に採ってきた方がいいの?」
「残念ながら、それは無理なのよ」
アリシアが首を横に振った。無理とはどういうことだろう。今の季節には生えていないのだろうか。
「《幻喪種》は謎が多くて、《ラバル》は採った瞬間に枯れて粉々になってしまうの。本にはたまに採取例があるんだけど、色んな偶然が重なってのことみたいで」
「採った瞬間に?」
それでは、いくら頑張っても持ち帰ることはできない。不思議な植物もあるものだ。
「それに《ラバル》の花の匂いには、幻覚を見せる作用があるからなるべく近寄らないようにね」
「匂いに注意、だね」
ジェイルはしっかり心に留めた。そこへ、ウェルとシャベルを持ったティークが走って来た。畑仕事の途中だったのか、ズボンに砂がついている。
「えっと、《鏡の沼》まで薬草を取りに行けばいいんですか?とりあえず、シャベルだけ持ってきましたが……」
「いきなり悪いわね、ティーク」
「ジェイルさんと二人で、とボスに言われましたが……」
「森を案内がてら、《鏡の沼》でオオセンリを採ってきてほしいの」
「分かりました、すぐに行ってきましょう」
アリシアに言われ、ティークはこちらです、と歩き出した。置いていかれまいとジェイルも続く。暗い森では、距離が空くとすぐに見失ってしまいそうだ。
「気を付けてね!」
「うん」
「せいぜい、沼に落ちないようにするんだな!」
二人が出掛けた後、エントランスには魔女と猫が残った。
「どういうつもりよ、ウェル?」
「あの小僧が何者か知る、いい機会じゃねぇか」
「何者って……。彼には彼の事情があるのよ」
「あいつ、人間の匂いがほとんどしないんだぜ」
「でも、ジェイルから魔力は感じないわ」
「人間じゃないとは言ってねぇよ。あいつからは、人間の匂いよりも──」
* * * *
どこも同じように木が生い茂っている《漆黒の森》を、ティークは迷いを見せず進んで行く。
「道なんてないのに、よく分かるね」
「一応、目印のようなものはあるんです。あの窪みのある石なんかがそうですね」
ティークは先にある、中央に窪みのある石を指した。けれど、大きさはジェイルの手くらいしかなく、決して大きいものではない。うっかりしていると見逃してしまいそうだ。
「それにしても、なぜ急にオオセンリを……?」
ウェルからちゃんと説明されていなかったようで、ティークは後ろを歩くジェイルを振り返った。
「ポストに依頼の手紙が来てて、薬が欲しいって書いてあったんだ。でも、その薬を作るにはオオセンリがないみたいで」
「そういうことでしたか。やたらボスが急かすので、何事かと思いました」
「何だかごめんね」
「いえ、ボスはいつものことです。ジェイルさん一人で森に行かせるわけにもいきませんからね」
「ありがとう。オオセンリってことは、解熱剤かな」
足元の枯れ枝を踏むと、背後でバサバサと鳥が飛び立っていった。ジェイルは驚いて転びそうになり、近くの木に手をついた。
「《鏡の沼》には幻覚を見せる《幻喪種》が生えてるって、アリシアが言ってたけど」
「ええ。その幻覚のせいで、《鏡の沼》と呼んでいるんです」
垂れ下っているツタを払って、ティークが言った。同じことをウェルも言っていたが、幻覚と鏡が結びつかない。
「見える幻覚というのが、その人の嫌な記憶、恐ろしい記憶だったりするんです」
「え……」
「なので、人の心を映す鏡のようだ……ということで、《鏡の沼》と呼んでいるんですよ。沼の水面も、鏡のように反射していますし」
ティークは苦笑して言った。
「ごめん、そんな所に一緒に行かせて……」
「ジェイルさんが気にすることではありませんよ。それに幻覚だと割り切っていれば、無視できます」
きっぱりとティークは言うが、そういうものなのだろうか。苔蒸した倒木をまたいで、さらに進む。
奥へ進むと、だんだん霧が出てきた。転ばないよう、足元をよく見る。
「《鏡の沼》はもうすぐです。薄紫色の大きな花を咲かせているのが《幻喪種》ですから、なるべく近付かないようにして下さい」
「分かった」
突き出している枝に頭を低くし、ジェイルは答えた。木の密度が減り、足元の緑が増えてくると、急に視界が開けた。霧の中セージグリーンの水面の周りに、いくつも花の色が見える。
「ここが、《鏡の沼》……」
霧がかかっているので見にくいが、沼は周りの風景を映し揺れていた。見回すと沼の中央辺りに、黄色の花が群生しているのが見えた。
「あ、あれだね」
「困りましたね、場所によっては急に深くなっていたりしますし……」
シャベルを持ち直してティークが言った。沼を見回せば、足場になりそうな岩や倒木がところどころ沈んでいる。
「僕が採ってくるよ」
「でも、危険です。足場が崩れたら……」
「元々は、僕がボスに頼まれたことだから」
ウェルは入居試験だと言っていた。オオセンリを無事持ち帰れば、館にいることをきちんと認めてもらえるはずだ。運動神経は悪くないので、これくらいなら渡れる自信もある。
「……分かりました。くれぐれも気を付けて下さい。それと、全部採ってしまってはダメですよ」
ティークからシャベルを受け取り、ジェイルは頷く。全部採ってしまっては、ここではもう繁殖しなくなってしまう。足元を確かめつつ、ジェイルは岩に飛び移った。小さいが、乗れないことはない。
時折ぐらつきながらも岩へ木へ飛び移り、どうにかオオセンリの近くまで行く。腕まくりをし、なるべく丁寧に傷つけないようシャベルを入れる。数本掘りだして抱えると、ジェイルは水面が数ヶ所ぼんやり光っているのに気付いた。
何だろう、と前髪を払って目を凝らすと、光っているのは薄紫色の花だった。霧の中、その光は弱いのにとても妖しく見える。《ラバル》、と気付いた時には甘ったるい匂いが鼻をかすめていた。くらり、と眩暈に襲われる。
『災いの根源め』
『汚らわしい……』
霧の中に、農具を構えた男達が見えた。恐ろしい形相で迫って来る彼らは、幻覚だと分かっていてもあまりにはっきりしていた。冷汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。
悪態を吐かれるのも、嫌悪の目で見られるのも慣れているつもりだった。けれど、大人数で囲まれるのは、どうしても恐ろしい。
『気味の悪い目の色……悪魔の子に違いないわ』
『卑しい奴、どうしてのうのうと生きてるのかしら!』
背後からは女性の声が聞こえた。振り返ろうとすれば、足を滑らせ沼に落ちる。離れた所からティークの声が聞こえたが、目の前の幻覚のせいで何を言っているのかまで聞き取れない。それでもどうにかもがき、落ちた拍子にばらまいてしまったオオセンリに手を伸ばす。
『お前さえ居なければ』
男達が大きく農具を振りかぶったところで、ジェイルは強く腕を引かれた。驚いて見れば、そこには鋭い牙に鈍色の目、青い首輪。
「く、クレスト!」
何と、クレストがジェイルの袖を噛んでグイグイ引っ張っていた。慌ててオオセンリをかき集め、クレストに引かれるまま岸を目指す。
「ジェイルさん、大丈夫ですか!」
岸には焦った顔をしたティークと、ブライズが待っていた。
「落ちて濡れちゃったけど、どうにか……。ちゃんとオオセンリは採ってきたよ」
「ジェイルさんが足を滑らせた時は、ヒヤリとしましたよ……。でも、オレより早くクレストが走って行ったので、もっと驚きました」
ティークがクレストの頭を撫でると、大きく身震いして水を飛ばした。思わずジェイルもティークも笑う。
「僕もびっくりしたよ。ありがとう、クレスト。ブライズもね」
ジェイルが怖々なでると、二頭は満足そうに「ワゥ!」と吠えた。
「顔色が悪いですよ。このままでは風邪を引いてしまいます、早く帰りましょう」
ティークは何を見たか聞くことはせず、ハンカチを差し出した。
* * * *
帰って来ると、ずぶ濡れのジェイルを見てアリシアは顔を青くした。怪我や体に不調はないか尋ねられたが、アリシアの方が取り乱し泣きそうな顔をしていた。逆に状況を話している内に、ジェイルが落ち着いてしまったくらいだ。犬達は名残惜しそうにしながらも森へ帰り、ノッテとマティーナに風呂に放り込まれた。
暖かい湯を浴びる頃には、汚した廊下を拭かなければリディアに怒られるな、と考えるくらい余裕も出来ていた。ジェイルが風呂から上がると、廊下にウェルが座っていた。じっとこちらを見上げて、猫は口を開いた。
「一応、採って来れたみてぇだな」
「クレストに助けてもらっちゃったけどね……」
まだ湿っている頭をかいて、ジェイルは素直に答える。助けを借りるのは駄目だったのだろうか。それでも、クレストには感謝している。あのまま沼で幻を見ながらもがいていたら、気が狂っていたかもしれない。
「……お前のことは気に食わねぇが」
ウェルは尻尾を大きく揺らし、諦めたように言った。
「評価は公平にしないとな。合格ってことにしておいてやるよ」
「本当?ここにいてもいいんだね?」
「これ以上何か言うと、俺がアリシアにシメられそうだしな」
フイ、と視線を逸らすと、ウェルは少し耳を下げた。ほっとした分、どっと疲れが押し寄せてくる。自分で思っていたよりも、疲れていたようだ。
「皆は?」
「広間にいるぞ。顔出しとけ」
アリシアにもティークにも、随分心配をかけてしまったようだから謝らなければ。ジェイルはオークのドアを軽くノックし、広間のドアノブを回した。
「高く浮かび上がり、空中を漂え!」
ドアを開いた瞬間、ヒュッとジェイルの横を、ウェルの真上を、椅子が飛んでいった。椅子は廊下の壁にぶつかると、鈍い音を立てて床に落ちた。ジェイルは驚きのあまり動くこともできず、そのまま固まる。風呂に入ったばかりなのに、ぶわりと嫌な汗が背中をつたった。
「あっぶねぇな!」
「だって、急に入って来るんだもん!」
毛を逆立ててウェルが怒鳴るが、リディアも言い返した。ノックはしたはずなのだが。
「それに、ちょっと練習するだけのつもりだったし……」
最後は尻すぼみになりながら、リディアは椅子を拾い上げた。アリシアはテーブルで手紙を書いていた手を止め、慌てて立ち上がった。
「こら、リディア!ただでさえジェイルは大変な思いをしたんだから、ちゃんと謝りなさい。ジェイル、大丈夫?」
「おい、俺は無視か!」
ウェルが尻尾でアリシアの足を叩く。
「むぅ、ごめん……」
師に言われ、弟子はかろうじて聞き取れる声で言った。ウェルは既にどうでもいいらしく、さっさとソファに飛び乗っている。良い意味でも悪い意味でも、この猫は気紛れだ。
「僕は大丈夫だよ。掃除は終わったんだ?」
「あの後、大変だったんだからね!」
テーブルに近付いてジェイルが言うと、リディアにギロリと睨まれた。一人魔窟――アリシアの部屋に残されたのを根に持っているのだろう。
「顔色は大分良くなったわねェ」
「髪の毛ちゃんと拭いてきたぁ?」
ソファの足元に座っていた白猫と黒猫に、早速確かめるように顔を覗かれた。この二匹はもはやジェイルの世話係になりつつある。
「本当に気分は悪くない?」
「何ともないよ、心配かけてごめん。アリシアは手紙書いてたの?」
まだ不安そうなアリシアに、苦笑してソファに座る。沼に落ちた時にできた切り傷が風呂で滲みたくらいだ。しばらくジェイルの様子を見ていたが、アリシアはようやく納得して腰を下ろした。
「さっきの薬が欲しいっていう村へね。薬を作るのに少し時間がかかるから、三日くらい待って欲しいって書いてるの」
さらさらとペンで手紙の続きを書き出す。そっと覗くと、アリシアの字は柔らかく美しいものだった。
「こういうのって、やり取りは手紙が多いの?」
ジェイルが聞くと、アリシアは一度手を止めた。
「依頼内容によっては私が出掛けたりもするけど、この館に人が訪ねて来ることはほとんどないわね。森で迷っちゃうだろうし」
「小僧だって、森の途中で倒れてただろうが」
ソファで丸くなっていたウェルが顔を上げた。それを言われると、ジェイルも何も言い返せない。
「大変だったのは、逃げ出した小鳥を探してくれっていう依頼かなぁ」
椅子を戻したリディアは、いつの間にか箒を握っていた。珍しく持って来ていないのかと思っていたが、そんなことはなかった。
「あれは面倒だったな。まさか二つ隣の町にいるとは思わねぇよ」
「おまけに聞き込みをしてたら、町を荒らしに来た悪党だと思われちゃうし。肝心の小鳥も中々見つからなくて散々だったわ」
「ティークも勘違いで、町長さん投げ飛ばしちゃったもんね」
「わぁ……」
アリシア達のやるせない表情に、ジェイルは感嘆とも驚嘆ともつかない声を出した。《黒の女王》の噂からは信じられない逸話である。魔法を使って困り事を鮮やかに解決するのを想像していたが、世の中そう上手くはいかないらしい。
「変な依頼は、手紙の方が断りやすいからいいんだけどね」
「変な依頼……?」
「たまにあるんだよ。誰それを呪ってほしいとか、破滅させてくれっていうのが」
リディアはジェイルの隣に座り、とびっきり嫌そうな表情で言った。ジェイルは驚いてアリシアの顔を見る。
「そういうのは全部断ってるわ。私だって、恨みを買いたくはないもの」
「人を呪わば穴二つ、って言うのにな。人間ってのは、俺には理解できねぇぜ」
どこか突き放すような物言いで、猫は尻尾をぱたりと揺らした。
「人を呪うと、体に穴が開くの?」
「物理的な話じゃねぇよ!怖すぎるだろうが!」
「ご、ごめん」
ジェイルには猫の言葉の意味が分からなかったので尋ねてみたが、凄い剣幕で怒られてしまった。アリシア達にも笑われてしまい、どうにも居心地が悪い。
アリシアは手紙を書き終え封筒に入れると、横にあった黒い封蝋を封筒の上にかざした。
「灯し火をここに」
ぽ、と蝋燭の先端に火が点いて蝋が溶け出す。アリシアはしばらく蝋を垂らすと、真鍮製の印を押し手紙に封蝋をした。
「ありがとね。ジェイルのおかげで無事薬が作れるわ」
「えっ、いや、クレスト達に助けられたし……」
「ほんと、アンタはあの子達に懐かれたわねぇ」
「今じゃ一番懐かれてるんじゃないのォ」
「そうかな……」
足元のノッテとマティーナに言われ、ジェイルは頭をかいた。二頭の食事の後、少し遊んでやっていたのが功を奏したのだろうか。転ぶ勢いでじゃれつかれたり、顔を舐められてベタベタになったりしているので、おもちゃ扱いな気もする。
「それでも、オオセンリを採ったのはジェイルだったんでしょ?」
ティークから聞いているのだろう、アリシアはにっこり笑った。その後は醜態を晒していたはずなので、あまり詳細に説明されていると後ろめたい。
「ほら、ウェルも」
「ま、雑用係にはよさそうだな」
ウェルが不遜に言うと、ノックと同時にドアが開いた。
「オオセンリ、泥を落として調合部屋に置いてきましたよ」
腕まくりをし、服に泥を付けたティークが入ってきた。ジェイルが風呂に入ってしまったので、薬草の後始末を全部させてしまったのだ。
「ごめん、ティークさん!手伝いに行くべきだったね……」
「いえ。ジェイルさんこそ、ケガはありませんでしたか?」
「平気だよ」
「リディアのせいで、痣を作りそうになったけどな」
「ボス!」
椅子のことを蒸し返され、リディアは箒をぎゅっと抱え込んだ。それでも負い目を感じているのかそれ以上言及せず、矛先を変えてきた。
「ティーク泥だらけじゃん!このままじゃ館中に泥が落ちるから、早く着替えて!」
「は、はい、すみません」
怒られて小さくなるティークを見て、ジェイルは何か忘れている気がしてきた。風呂から上がるまでは、覚えていたはずなのだが。
「分かりました、すぐ着替えてきますから!」
リディアに気圧されたティークがドアに手をかけると、
「ジェイルも早く廊下どうにかしなさぁい」
「ずぶ濡れだったわよォ」
ノッテとマティーナがのんびり言った。二匹の言葉を聞いて、ジェイルは青ざめる。何を忘れていたか、一瞬で思い出した。
「廊下がずぶ濡れ……?」
横からの低いリディアの声を聞き、ジェイルはすくっと立ち上がった。今は《鏡の沼》での幻覚より、隣に座る少女がひたすら恐ろしい。
「ごめん、僕急いで掃除してくる!」
ティークと一緒に逃げるように広間を飛び出し、雑巾を取りに全力疾走した。
四章 猫の説法
ジェイルが館に来てから、五日目。
今日は朝からしとしとと雨が降っていた。
この数日で、ジェイルは動物達の世話をし、皿洗いはリディアと日ごとに交代、手が足りなければ掃除にも畑仕事にも駆り出された。おかげで、いくらかは館での生活に慣れた気がする。
しかし今日は天気も悪いので、ゆっくりしていていいと言われた。することもなく、ジェイルはぼんやり窓の外を見る。
細く降る雨と厚い雲のせいで、《漆黒の森》はいつにも増して暗い。
視線をずらすと、窓ガラスに映る自分に気がついた。左右で色の違う両目が、ジェイル自身を見つめ返す。それが嫌で、ジェイルは窓から顔を逸らした。
リディアが時計やクッションを置いてくれたが、ほとんど物はない。ノッテとマティーナもどこかに行ってしまったので、雨と時計の音がやけに響いた。
「探検してみようかな」
ジェイルはぽつりと呟いた。
一通り館中を案内されはしたが、じっくり見ていないところが何ヵ所かあった。
調合部屋と倉庫は不思議な物がところ狭しとあって気になったが、危険なものがあるので入らないよう言われている。食糧庫はジェイルが摘まみ食いしそう、という理由で立ち入り禁止になってしまった。それ以外の、どこに行こうか。
廊下に出ると曇っていて暗いせいか、昼間なのにランプに灯がともっている。
ふと、ジェイルは図書室が二部屋繋げてあると言われたのを思い出した。もしかしたら、ジェイルに読めるような本もあるかもしれない。
四階に上がり、記憶を頼りにドアの前で立ち止まる。間違っていたら困るので、念のためにノックをしてから開ける。
「失礼します……」
恐る恐るドアを開けると、本棚がずらりと並んでいた。ジェイルはほっとして、足を踏み入れた。
「……〝点灯〟」
ジェイルが唱えると、部屋のランプにぽぅ、と明かりがともった。毎度のことだが、こうしてランプをつけるのは楽しい。まるで、ジェイルも魔法を使えるようになったような気分だ。
「すごい本の数だなぁ」
改めて、ジェイルは部屋を見回した。何十、いや何百冊あるのだろう。本棚だけでも、かなりの数だ。
妙に大きい本、小さめの本、明らかに古めかしい本。全て魔法について書かれたものなのだろうか。
ジェイルは古そうな本を一冊引き抜いてみた。題名が掠れていて読みにくいので、前髪を払って顔を近付ける。
《一手間で美味しい肉料理》。
「料理の本なの!?」
騙されたような気分で、本をあった場所に戻した。よく見れば、隣の大きくて分厚い本は魚料理大辞典と書かれている。
すると、
「おい」
突然背後から声をかけられた。
「うわっ!」
驚きのあまり、ジェイルは本棚に額を勢いよくぶつけた。涙目で振り向くと、足元にウェルがいた。
「あ……ボス……」
「声かけられたくらいで、ビビってんじゃねぇよ」
「だって、誰もいないと思ってたから」
ジェイルは額を押さえて言った。地味にズキズキする。
「なぁ、小僧……」
「うん?」
すぅ、とウェルの目付きが鋭くなる。山吹色の双眸が、じろりとジェイルを見つめた。
「お前、字が読めるんだな」
「へ?」
突然言われ、ジェイルはきょとんとウェルを見た。
「それなのに、おかわりを知らなかったり、魔法を見たことねぇってことは田舎出だろ。もしくは、かなりの貧乏」
探るように、一つ一つウェルは述べた。どうにも居たたまれない。ジェイルが何か言うより先に、猫は口を開いた。
「そのくせ、薬草には詳しかったらしいじゃねぇか。《鏡の沼》に行った時も、ずいぶん薬草の扱いに慣れてるようだったって聞いたぜ」
「……いきなり、どうしたの」
「お前があっちこっち駆り出されてて、落ち着いて話す機会がなかったからな。田舎モンも貧乏人も、普通は字なんか読めねぇし薬草に詳しいわけもねぇ。……お前、何者だ」
射抜くような、ウェルの目。人の目と違って、心まで見通されているかのようだ。ジェイルは思わず、俯いた。
「……字は、リディアだって読めてたじゃないか」
「そりゃ、アリシアが教えたからな」
言い訳がましく言ってみるが、ばっさり返されてしまう。雨の音が、大きくなったような気がした。
「入居試験は合格にしてやったがな。俺は素姓の分からねぇヤツと暮らすなんてごめんだぜ」
冷たく言われたが、正論だ。ジェイルは床を見たまま、黙り込む。
「そもそもお前、人間の匂いがほとんどしねぇんだよ」
「えっ、何で?僕、人間だよ?」
驚いてつい、顔を上げてしまった。まさかの指摘に、ジェイルの方が動揺してしまう。しかし、猫は鼻で笑った。
「当たり前だ、お前牙も尻尾もねぇだろ。人間の匂いが異常に薄いって話だ。お前からは人間の匂いより、薬草や薬の匂いの方がよっぽどするぜ。あんまり人間と関わってこなかっただろ」
ウェルは畳みかけてくる。
「怪しいモンじゃねぇってんなら、何で森で倒れてた?よく考えりゃ、名前以外年も聞いてなかったな。それと──沼で、何を見た?」
いつか、いや最初に聞かれると思ってはいたのだ。皆が良くしてくれるので、それに甘えて言い難くなってしまった。
「……年は十五、だと思う」
「あァ?自分の年なのに、『だと思う』ってどういうこった」
「……僕、捨て子だったみたいで」
ジェイルがそれだけ言うと、ウェルはくるりと背を向けて立ち上がった。そのまま、部屋の奥へ歩き出す。ウェルの行動の意味が分からないでいると、振り返って睨まれた。
「さっさと来い。長くなりそうだから、あっちで聞いてやる」
ウェルについていくと、部屋の一番奥に机と椅子が置かれていた。ここで本を読む時に使うものなのだろう。ただ、机の上にはバーガンディ色のビロードのクッションが乗せられていた。椅子の上ではなく、なぜ机の上にあるのだろうか。
「聞いてやるから、そこ座れ」
「う、うん」
言われるまま椅子に座ると、ウェルも机の上に飛び乗った。そのままクッションの上に寝転び、ジェイルの方に顔を向けた。ウェルの特等席だったようだ。
「ほれ、続きを聞かせろ。捨てられた理由は、その目か?」
寝転んだまま、偉そうに猫は言う。とても話を聞く体勢とは思えないが、ウェルらしいと言えばらしい。
「たぶん。色は生まれつきみたい」
「初めは呪いの一種かとも思ったが、魔法の匂いはしねぇしな」
「そうなの?」
この目が魔法に関係しているかもしれないなんて、考えたこともなかった。ウェルの言葉からして、残念ながらその可能性はないようだが。
「左右で見え方が違ったりはしねぇのか?」
「見え方?左目だと、少し夜目が効くくらいかな」
「ふむ、視力や瞳孔に異常はなし……虹彩の問題か……特異性はなさそうだな……。んで、捨て子がどうしてそんなデカくなれたんだ?」
ウェルは何やらブツブツ言っていたかと思うと、急に嫌味と共に話を戻してきた。嫌味は聞かなかったことにして、ジェイルは話を続けた。
「その、僕はばあちゃん──えっと、村の薬草医に拾われたんだ」
「薬草医、なぁ。薬草に詳しかったのと匂いはそのせいか」
薬草を使い、病や怪我を治療する人。それが、ジェイルを拾い育ててくれた老婦人だった。他の村を知らないので規模は分からないが、田舎だったのだろう。魔法を使える者は村にいなかった。
「拾われた時、僕は一歳になってるかどうかくらいだったらしいんだ」
言葉を選びながら、ジェイルはぽつりぽつりと話す。
「はーん、物好きなばあさんだな」
「村の人は大反対だったみたい……。やっぱり、この目の色が気味悪かったんだろうね。『そんなヤツがいたら、不吉なことが起きる』とか、『呪いに違いない』って」
実際、近くの森に捨てて来いと言われたらしい。
「でも、ばあちゃんは『この子を追い出すなら、自分もこの村を出ていく』って言い張ったんだ」
「村から薬草医がいなくなったら、困るからな。村の連中はそれで折れたのか」
表面上は、そうだったのだろう。だが村で何かあれば、ジェイルのせいだと陰口をたたかれ、時にはその場にいないように扱われてきた。ジェイルの存在そのものが、許せなかったのだろう。
ジェイルも自分が村中に嫌われているのはよく分かっていたから、滅多に外には出なかった。来客があっても顔を出したりしなかったし、目の色が見えないよう前髪も伸ばした。目が悪くなる、とばあちゃんに言われたこともあったが、村人に面と向かって責め立てられることは減ったのでそのままになった。
「ばあちゃんは僕に色々教えてくれたんだ。薬草のこと、少しだけど字の読み書きも」
彼女だけは、ジェイルに優しく接してくれたし、本当の孫のように育ててくれた。小さな家にはここのようにたくさんの本はなかったが、童話や昔話が書かれた本なら数冊あった。
なるべく目立たないように、迷惑をかけないようにしてきたのだ。
「それがどうして、森で倒れるようなことになったんだ?何をやらかした?」
ジェイルが何かしたわけではない。首を横に振り、ジェイルは答えた。
「……この間、ばあちゃんが亡くなったんだ」
元々高齢だったし、それは仕方のないことだった。本当に眠るように、ベッドで息を引き取った。あまりに安らかな表情だったので、ジェイルは泣くことができなかったくらいだ。
問題はそこからだった。
亡くなったからには、村長に知らせなければならない。意を決して人目を避け、村長の家へ向かうと、出てきた使用人にひどく嫌な顔をされた。事情を話せば顔色を変え、使用人はすぐに引っ込んだ。そして。
「村長に知らせたら、すごい勢いで怒られてね。『お前が薬草医を殺したんだ、お前こそが災いだ』って」
そこからは悪夢のようだった。いつの間にか村中の人々に囲まれ、『悪魔め』『災いの元』『薬草医を返せ』と口々に言われた。男達は農具を振りかざし、ジェイルに襲いかかってきた。どうにかその場は逃げたものの、家に戻れるはずもなく。しつこい者はしばらく追ってきたので、走り続けるしかなかった。
何が何だか分からなくて、ひたすらに怖くて。
「追いかけられて、逃げてたら《漆黒の森》に迷いこんでたんだ」
《漆黒の森》をさまよっている内に、力尽きて倒れた──これが、森で倒れていた理由だ。葬儀どころか、遺品を持ち出すことすらできなかった。
「沼で見たのは、村から追い出される時のことだよ。自分では、大丈夫だと思ってたんだけど」
ジェイルが話し終えると、ウェルも黙った。雨はまだ降り続いている。
「……そんな俺達に言いにくい話だったか?お前が村の食糧食い尽くしたのかと思ったぜ」
「そんなことしないよ!いや、その……アリシア達も本当は、この目が気味悪いって思ってるかもしれないし。面倒事に巻き込まれたくないって追い出されたら……」
ズボンを強く握りしめる。たまたま置いてもらえたものの、ここを追い出されたらどうしたらいいのだろう。
「お前が気にしてるほど、アイツらは深く気にしちゃいねぇよ。だったらそもそも、何で俺には話したんだ?」
ウェルの言葉に、ジェイルは顔を上げた。一番ジェイルを追い出したがっていたのは、目の前の猫だ。
「聞かれたからには、答えないとって思ったから。……それにボスは人じゃなくて猫だから、話しやすかったのかもしれない」
苦笑しつつ、思ったことを言ってみた。人と話すのは、まだ言葉に詰まりがちだ。ジェイルはため息をついて続ける。
「……あのまま、僕は捕まるべきだったのかな」
「どういう意味だ」
ウェルはピクリと耳を動かした。
「だって、ここに来てからも迷惑かけてばっかりだから……」
今朝も、食器を洗っていて皿を一枚割ってしまった。畑仕事も、如雨露をひっくり返したり添え木を倒したりしている。
「目的やあてがあったわけでもないし。……怖くて逃げ出しただけで」
十四年過ごした村が、とても恐ろしかった。出歩いたことはほとんどなかったが、ジェイルにとってあの村が全てだったのに。
「しっかし、村の連中はもったいないことをしたもんだ」
「もったいない?」
「本来なら、小僧が次の薬草医になるはずだったろうに。新しい薬草医なんて、そう簡単には見つからねぇ。薬草と読み書きについて教わってたなら、ばあさんはそのつもりだったはずだ」
そんなことを言われたことはなかったが、思い返してみれば時折厳しく教えられたことがあった。きちんと一人で対処できるようになりなさい、と。
「……でも僕じゃ、ばあちゃんみたいにはできなかっただろうし」
「そこは経験と勉強で、誰だって積み重ねてくもんだ。逆に言えば、お前は薬草医としてやっていけたかもしれない未来を奪われたってことだぜ?」
楽しげにウェルは言う。ジェイルは再び視線を落とし、自分の骨ばった手を見つめた。薬草を煎じて薬を作ったり、ばあちゃんの話を聞くのが好きだった、慎ましくも穏やかな日々を思い出す。
「復讐でもしたくなってきたか?」
猫の表情はよく分からないが、口調からニヤニヤしているらしいことが伺える。そんなことを考えたこともなかったジェイルは、まじまじとウェルを見つめ返してしまった。
「復讐?僕が?……何で?」
「何でって、お前なぁ。村を追い出された上に、安定した未来を奪われたかもしれねぇんだぞ。村ごと燃やしてやる!とか、絶望の淵に突き落としてやる!とかねぇのかよ」
「いや、別に」
ウェルは完全に呆れてしまったようだ。よく考えなくても、ジェイルにそんな過激なことはできない。
「つまんねぇの。まぁ、お前にそんな甲斐性があるとも思えねぇしな」
面白そうという理由で、復讐を勧めないでほしい。
「とりあえず、探してみたらどうだ?」
「へっ?」
「目的なり、目標をだよ」
「え……でも」
「そんでもって、ちっとは役に立てるようになれよ。あんだけ飯食ってんだからな」
のし、と顔を前に出してウェルが言った。
「言っとくがな、色々抱えてんのはお前だけじゃねぇんだ。自分だけが不幸だなんて思うなよ」
皆にも、事情があるのだろうか。ジェイルだけが不幸だなんて思っていないが、自分のことで一杯一杯だったのは確かだ。
「けど僕、できることも知ってることも少ないよ」
「おかわりを知らなかったのは、こっちが驚いたぜ。つーか、今までどういう生活してきたんだ?お前は世界が狭すぎるんだよ、まずは知ることから始めろ」
「……そうだね」
色々なことを知れば、アリシア達にかける迷惑も減るだろうか。ここへ来て、ジェイルはまず自分の世界の小ささを知った。人も魔法も、美味しいものも。
「もし、どうしても生きてる理由がないってなら──俺が殺してやってもいいぜ?」
ウェルはニィ、と牙を見せて嗤った。この猫は本気で言っているのだ。使い魔がどんな力を持っているかは知らないが、爪と牙だけではない何かを小さい体に持っている。そんな確信があった。
「手始めに、読み書きはどの程度できる?」
「よ、読むのはだいたい。でも、難しい言葉は分からないよ……。書くのは、自分の名前くらいなら」
「ほぅ?じゃあ、そこの二番目の引き出しに、紙とペンが入ってるから書いてみろ」
ウェルは前足で机の横の引き出しを指した。ペンを手にすること自体があまりなかったので、書く方は自信がない。それに、疑問が一つある。
「ボスは字が読めるの?」
「当然だろうが。それよりさっさとしろ」
どこまでも偉そうである。けれどこの猫ならば、それくらいできる気がするから不思議だ。言われた通り、ジェイルは上から二番目の引き出しを開けた。しかし引き出しからは、黒いものがにゅっと出てきた。しかもモサモサしている。
「うっわあああああ!?」
ジェイルは思わず立ち上がり、今までの人生で数回出したことがあるかどうかという大声を上げてしまった。勢いで、椅子をがたんと机にぶつける。一緒にすねも机にぶつけてしまい、非常に痛い。
「ひどいわねぇ、驚きすぎぃ」
引き出しの黒い何かがこちらを向いた。
「……………………え、ノッテ?」
引き出しの中にみっちり詰まっていたのは、黒猫だった。今日は驚いてばかりで、心臓に悪い。さっきも頭をぶつけたばかりなのに。そもそも、どうやって引き出しに入ったのだろう。開けたのはいいとして、わざわざ閉めたのか。
「な、何でそんなところに……」
「この部屋にいたらアンタが入ってきて、驚かそうとしたらボスと真面目な話始めちゃうんだものぉ」
「おまけに、そこ座っちゃうしィ。どうしようかと思ったんだからァ」
今度は頭上から声が降ってきた。見れば、本棚の上にマティーナが寝転んでいる。
ジェイルが足をさすりながら座りなおすと、ウェルが豪快に笑い出した。彼女達の悪戯は、偶然ながらしっかり成功したようだ。今日はどうにも踏んだり蹴ったりである。正確には驚いたりぶつけたり、を二回だが。
「ノッテもマティーナも、その、もしかしなくても……」
「話は全部聞いちゃったわねェ」
マティーナが軽やかに本棚から飛び降りた。埃が舞ったりしないところからして、ここもリディアの掃除が行き届いているようだ。
ジェイルはがっくり肩を落とし、ため息をついた。むしろ、途中で出て来てくれればよかったのに。ウェルと一人と一匹で、戦々恐々としてしまった。
「ほら、ペン使いなさぁい。温かいかもしれないけど、気にしないでちょうだいねぇ」
ノッテが引き出しから出たので、ジェイルはペンと紙を一枚、そして墨色のインクを取り出した。確かに少し温かい。
三匹の猫に見つめられて、肩身の狭い中ジェイルはペンを握った。ペンを手にしたのなんて、いつ以来だろう。《おやつをつまみ食いしません》という誓約書を、ばあちゃんに書かされたのが最後だろうか。紙の端に、ガリガリと自分の名前を書く。
「……はい」
インクが滲んでしまったが、字はかろうじて《ジェイル・エリクソン》と読めるはずだ。自分でも綺麗だとは思えないので、恐る恐るウェルに紙を差し出す。
「何だこれ、ガッタガタじゃねぇか!」
やはりお気に召さなかったようで、ウェルは尻尾でぺしぺし紙を叩いた。
「しょうがねぇ、これからは俺様がみっちり読み書きを教えてやる!」
「え、え?」
「あら、ボスに教えてもらえるなんてよかったじゃなァい」
「頑張りなさいよぉ、ジェイル」
足元でマティーナとノッテが笑った。教えてもらえるのはありがたいが、嫌な予感がする。まず、ペンをどうやって持つんだろう?
「インク付けすぎだし、力も入れすぎなんだよ。ペン先を折る気か!」
「ごめん……」
「これだけ滲んだら、字が綺麗かどうか以前の問題だぞ」
早速、次々に注意されてしまった。変に力が入ってしまったのはジェイルも分かっていたので、一度ペンを置いた。いきなり引っ掻かれなかっただけ、マシかもしれない。
「見本を書いてやるから、それ見て練習してみろ」
ウェルはそう言うと、尻尾を大きくうねらせて呟いた。
「彼の者の名をここに記せ」
アリシアが魔法を使った時と同じように、言葉が心に響く感覚がした。するとペンは独りでに動き、滑らかに紙の上を走った。その後には、整った字でジェイルの名前が綴られている。ジェイルは紙を手に取り、さっき自分が書いたものと見比べて、あまりの違いに感心した。
「すごい、ボスの字綺麗だね!ばあちゃんだって、こんなに綺麗な字じゃなかったよ」
「お前に褒められても、嬉しかねぇよ」
ぶっきらぼうにウェルは言う。だが、尻尾はぴんと立っていた。
「今のも魔法、なの?」
「肉球じゃペンは持てないからな」
ウェルの一言に、ジェイルは妙に納得した。前足でペンを持とうとする所も見てみたかったが、黙っておく。
「とりあえず、その紙いっぱいになるくらいに書いてみろ」
「やってみるよ」
ジェイルはペンを手に取り、今度は力を入れすぎないように握った。ウェルが書いてくれた見本を見ながら、自分の名前を書いていく。初めはどうしても滲んだりペン先が紙に引っかかり、気にしすぎれば手にインクがついて真っ黒になった。
それでも紙一面が埋まる頃には、綺麗とは言えないが最初に書いたものよりは、読みやすい字になっただろう。インク汚れが机につかないように、そっとウェルに紙を見せた。
「ど、どう?最初よりはよくなったと思うんだけど」
「……そうだな、多少はマシになった……が……」
ウェルは一旦言葉を切ると、黙ってしまった。まだまだ練習が足りないということだろうか。
「どれ、アタシ達にも見せてよゥ」
「解読できる字なんでしょうねぇ」
足元に二匹にねだられ、ジェイルは紙を床に置いた。マティーナとノッテはしばらくジェイルの字を眺めていたが、急に笑い転げた。
「汚くったって笑うことないじゃないか……」
「だって、アンタこれぇ!」
「アンタらしいと言えば、アンタらしいわァ!」
二匹はニャハハハと笑いながら床を転がるので、ジェイルは奪うように紙を拾った。そこで、とうとうウェルまで吹き出した。
「こ、小僧、よく見てみろ。途中から、間違ってんぞ」
「え?」
紙に目を落としてみると、何と半分より前くらいから《ジェイレ・エリクソン》になっていた。一気に顔に血が昇る。
「自分の名前間違えてんなよ!こりゃ先が思いやられるぜ!」
大笑いする猫達に、ジェイルは何も言えなかった。
「ふぅ、おかしかったぁ!」
「そういえば、もうすぐお昼じゃないかしらァ」
「文房具一式持ってって、部屋でも練習しろよ」
「……分かったよ」
引き出しの中の紙をごっそり取り出し、インクとペンとまとめて左手で持つ。右手を見れば、指先まで黒くなってしまっていた。念入りに洗っても、全部は落ち切らないだろう。
汚れた右手を握り締めて、ジェイルは顔を上げた。
「あのさ、その、村での僕の話……」
「別に、俺からアリシア達に言ったりしねぇよ。そんな面倒くせぇこと誰がするか」
「ボスが言わないなら、アタシ達も言わないわよぉ」
「話したい時に、自分で言いなさァい」
猫達は興味を失くしたらしく、すでにドアに向かっていた。
「それにしても、全く人間ってのは理解できねぇな」
「本当よねェ」
「動物なら両目の色が違うくらい、たまにいるのにぃ」
「え……」
ノッテの言葉に、ジェイルはピシリと固まった。
「金目銀目って言ってな、数は多くないが大騒ぎするようなもんじゃないぜ。何もなくたって、虐げられる奴なんていくらでもいるんだ」
ウェルが顔だけこちらに向けて言った。
ずっとジェイルはこの目は異質なのだと言われてきたし、そう思ってきた。そのために虐げられてきたのだとも。人と動物では違うのかもしれないが、ノッテの言う通りなら、自分自身でも嫌ってきたこの色はなんだったのだろう。
「ほらな、世の中知らねぇことばっかだろう?」
立ち尽くすジェイルに、猫は口元を歪めて嗤った。
* * * *
猫達による勉強会が加わったため、ジェイルの仕事が一つ増えた。
仕事と言っても、空いた時間に本を読んだり、書き取りをするだけだが。最初に絵本を読めと言われた時は、流石に情けなかった。それでも見てみれば、読み書き以前に知らないことがいくらでも描かれていた。理不尽、希望、報復。猫達の解説を聞くと、暖かいお話が凄惨に思えることもあった。逆もまた然り。ジェイルのような田舎者が国を救う話もあったが、ジェイルにはそんな勇気も力量もないので、感心するばかりだった。
今日は三日前に庭の薬草を大分収穫したせいか、畑仕事が早く終わった。ティークは体を動かしてから戻ると言うので、ジェイルは信じられない心持で先に館へ入った。早く終わったとはいえ、ジェイルにそんな元気はない。リディアからもお呼びはかかっていないので、部屋でゆっくり本が読めそうだ。鬼教師はいるけれど。
いつかよりはしっかりした足取りで一階の廊下を歩いていると、この間と違い懐かしいよく知った匂いがした。どこか渋いような、甘いような薬の匂い。匂いの先は、薬草や薬を保管しているという調合部屋だった。一度リディアに案内されて覗きはしたものの、危ないからと中には入れてもらえなかった場所だ。ノックをしてドアを開けると、薬独特の刺激臭が鼻を刺した。
「あら、ジェイル。どうかした?」
そっと覗くと、髪をポニーテールにしたアリシアが薬研で薬草を刻んでいた。机の上には薬草と瓶が並んでいる。壁には、天井近くまである巨大な薬箪笥があった。ジェイルの家にも薬箪笥はあったが、ここまで大きいものではなかった。流石、あちこちから依頼が来るだけはある。
向かいの棚には、とりわけ大きな瓶に入れられた薬草やトカゲらしきものが並んでいる。種類も充実しているし、珍しいものも多い。部屋の奥には釜があり、ぐつぐつ煮立っていた。
「早く仕事が終わって、戻ろうとしたら薬の匂いがしたから。それ、この間収穫したカタスイナだよね」
「そうそう。乾燥が早いから、急いで薬にしちゃおうと思って」
アリシアは手を止めると、ほぅと息を吐いた。
「……手伝おうか?」
「じゃあ、釜の様子を見てもらえる?焦げ付かないように、時々混ぜてね」
「うん、分かった」
ジェイルが釜に近づくと、暗褐色の液体が熱気と共にボコッと泡立った。カタスイナを入れるということと、色からして胃腸薬だろう。柄杓でかき混ぜると、粘度のせいでどろりと重い。ジェイルの経験からして、これは少し煮すぎだ。
「アリシア、これ胃腸薬だよね?もうカタスイナ入れないと、煮すぎになっちゃうよ」
「えっ、もう?」
アリシアは薬研車を持つ手を早めたが、ずっと一人で作業していたらしく疲れが見える。釜の火を止めるか弱められればいいが、ジェイルには勝手が分からない。
なので。
「アリシア、そこ換わって。釜の火をお願い」
「え、えぇ」
アリシアに釜を任せ、残りのカタスイナを一気に刻む。丁寧に、大きさにばらつきがないよう。ばあちゃんに散々言われたな、とジェイルは懐かしい気持ちになった。
「冷めよ、火から遠ざかれ!」
背後で何やら不穏な言葉が聞こえたが、手元に集中する。どうにか全部刻み終えて振り返ると、案の定釜は火から数十センチ浮いていた。もし急に落っこちたりしたら、と思うと中々に恐ろしい。
「刻み終わったけど……」
「全部入れちゃって!」
ジェイルはへっぴり腰で釜に近付き、一気にカタスイナを放り込んだ。すかさずアリシアがかき混ぜる。
「戻れ、熱せよ」
アリシアが唱えると、釜は中身を飛び散らすこともなく、ゆっくりと元の位置に戻った。火は先程より小さくなっているので、これなら大丈夫だろう。
「助かったわ。前から思ってたけど、薬草に詳しいのね。手際も良かったし」
一瞬ギクリとしたが、アリシアは追求するつもりで言ったわけではないらしく、リディアじゃこうはいかないわ、とぼやいている。それでも、ウェルのように本心では気にしているのかもしれない。穏やかに接してくれているという事実に、罪悪感は増していく。
「……ばあちゃんが薬草医で、よく手伝ってたんだ」
「そうだったの?」
「ばあちゃんって言っても、血が繋がってるわけじゃなくて。捨て子だった僕を、拾ってくれた人なんだ」
「ちょ、ちょっと待ってジェイル!急にどうしたの?」
突然のジェイルの告白に、アリシアは釜から顔を上げる。ウェルには強要されたが、今回話そうと思ったのはジェイルの意志だ。何より、
「急じゃないよ。ずっと、言わなきゃって思ってたんだ」
「でも、その、言い難いなら無理に話さなくてもいいのよ?」
思っていたよりジェイルの心は落ち着いていて、どちらかというとアリシアの方が気が動転しているようだ。小さく笑って、続ける。
「実は、ボスにはもう話したんだ。僕がどうして森で倒れてたのか、ずっと気になってたみたいだったから」
「あの子はまた余計なことを……。ごめんなさいね」
「ううん、最初に話さなかった僕が悪いんだ」
深呼吸をしてから、話し始める。一度ウェルに話したせいか、随分すんなりと話せた。アリシアは質問をすることもなく、時折薬の様子を見ながら静かに耳を傾けてくれた。最後まで話すと、アリシアは悲痛な面持ちで呟いた。
「……大変だったのね」
ジェイルが危惧していたような反応はなく、本心でそう思ってくれているようだった。それだけで、一気に肩の荷が降りた気分だ。
「心残りは、ばあちゃんのお葬式に出れなかったことかな。きちんとやってくれたとは思うんだけど」
自分と違ってばあちゃんは大事にされていたから、そこは心配していない。せめて、墓前に花を供えるくらいはしたかったな、と今更ながらに思った。
「……ジェイルは、うちに来て良かったって思ってくれてる?」
「え?そりゃ、知らなかったことを一杯知れたし、ご飯も美味しいし……」
皆、ジェイルと対等に接してくれている。ウェルは口が悪いが、邪険に扱われたり嫌われているわけではない――と信じたい。
「ありがと。じゃあ、私も話すわね」
「アリシア?」
一体、何を話すと言うのだろう。アリシアは釜の火を止めると、瓶に薬を移しながら口を開いた。
「元々こうやって薬を作って売ったりしてたのは、両親なの。でも、私が八歳の時に二人共亡くなってしまって……。ウェルもノッテもマティーナも、母の使い魔だったのよ」
「え……」
だからあんまり私の言うこと聞いてくれないの、と魔女は困ったように笑った。抱えているものがあるのはジェイルだけではない、とウェルが言ったのを思い出した。あの猫が大人しく誰かの言うことを聞いているのは、どうにも想像できないが。アリシアはその頃のことを思い出したのか、瓶を通して遥か遠くを見るように目を細めた。
「最初は片付けだけじゃなくて、何もできなくて大変だったわ。ウェル達はいてくれたけど、急にこの館が広く感じられて」
今でも十二分に広いこの館に、ぽつんと独り立つアリシアを想像するとやるせない。しかも、人を遠ざけるような《漆黒の森》に囲まれているのだ、孤独感は一入だっただろう。暗い森は、時々世界にこの館しか存在していないように思わせる。
「……それに料理も慣れなくて、何度かお腹を壊したりしたのよ。今はリディアもティークも、ジェイルもいてくれて、本当に助かってるわ」
ジェイルの顔を見て、アリシアは冗談めかして言い足した。気を使わせてしまったのは申し訳ないが、立派な腕前になってくれて本当によかった。毎回の食事は至福の時だ。
「ウェル達に教えてもらって、薬を作ったり困り事を助けてたら、いつの間にか《黒の女王》だの死神だのって呼ばれるようになっちゃって。自分で名乗ったんじゃないのよ、髪と服の色のせいかしら」
噂のほとんどが眉唾であることは、ジェイルが身をもって知っている。噂が気に食わないのか、アリシアはむすっと薬を瓶へ流し込んだ。空の瓶はもう半分もない。
「……服は、別の色を着てもいいんじゃないかな」
ジェイルは一応提案してみた。この間部屋の掃除をした時に見かけた服も、模様やレースの部分以外黒しかなかった。下着に関しては、記憶の彼方に追いやる。
「このおかしな髪色のせいで、他の色の服は似合わないのよ。くせっ毛なのも原因ね」
忌々しそうにアリシアは髪を摘まんだ。好きな色だから着ている、というわけではなかったらしい。ジェイルからは、光が当たった部分の髪がオレンジに見えた。だからといって、他の色が似合わないということはないだろう。
「僕は宝石みたいで、綺麗だと思うけどな。ふわふわしてるし」
きらきらと角度によって違う色合いに見えるのは、先日読んだ本に出ていた宝石を連想させた。確か、オパールという名前だった。そっと、緩く波打つ毛先に触れてみる。固くパサパサしたジェイルの髪と違い、柔らかく手触りがいい。髪を嫌っているようだが、手入れはちゃんとしているのだろう。そんなことを考えていると、アリシアは瓶を抱えたまま、いきなり後ろに飛び退いた。
「え、な、えっ」
口を開いたものの、言葉になっていない。気のせいか、アリシアの耳が赤いような。
「あっ、ごめん!」
ほとんど無意識の内に手を伸ばしてしまったが、触られるのが嫌だったのだろう。迂闊なことをした。ジェイルも手を引っ込めて一歩下がったため、二人の間に変な距離ができてしまった。
「ちょ、ちょっとびっくりしただけよ!それにしても、私達少しだけ似てない?」
わたわたと持っていた瓶を抱え直して、アリシアは言った。ジェイルも机の上に並ぶ瓶を整列させて、ぎこちなく答える。
「そ、そうかな?」
「似てるわよ、嫌われ者なところとかね」
「え、そこ?でも君は、頼られてもいるじゃないか」
「あら、私はジェイルのこと頼りにしてるのよ。手が空いてる時でいいから、また薬を作るの手伝ってくれない?リディアじゃ手元が危なっかしいの」
軽い口調でアリシアが言うので、ぎくしゃくした雰囲気はどこかへ行ってしまった。ジェイルは小さく笑って、言い返した。
「それは、ここの片付けを含めてだよね?」
「……そうなるわね」
「難しい薬でなければ、大丈夫だと思うよ」
「助かるわ、ジェイル!」
こうしてまた一つ、ジェイルの仕事が、できることが増えた。