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苦手な方はご注意ください。

味気なく無感動で元海賊のジョンの物食う話

作者: 七色春日

 大海原は波立っていなかった。


 濃青色の海面に浮かんでいた小型艇(カッター)はべた凪に出くわして小刻みに揺れるだけで留まっている。


 オールを手に取って船尾座席で漕ぎ出せば航行は可能だが、横幅があるため片側で水をかくことになるし、それには晴天の酷暑に立ち向かえる体力が必要だった。


 船体の全長は五メートル。横幅は二メートル半。精々一人か二人しか乗ることのできない。


 塗料は凝固してべろんと剥がれて船体の地肌をさらしていたし、主帆は風雨のために黄ばんで縦縞もようになっていた。


 つば広の長帽子をずり落とした船長のジョンは色素が抜けた金髪を陽光のもとにさらした。髪質には張りも光沢はなく、乾燥した麻のロープのように傷んでいる。


 彼は這いつくばり、倒れ、死神のカマを首下にかけて身近に死を感じていた。飢えと水分不足が同時に襲ってきていて、昨日の夜に飲んだブダイの血液が最後に口にしたまともな液体だった。


 手足を懸命に叱咤し、操船のために船体の中央部にある居住区から這い出ようとしていたが気力が続かなかった。


 水分を過小摂取が続き、幻覚に悩まされている日々が続いている。


 露天甲板に続く短い昇降階段には緑色の酒瓶と血まみれのステーキ、マッシュポテトとどろどろのチーズが合えられた湯気立つ皿が置かれている。


 生唾を飲み込んで手を伸ばしたが、ほんの数センチのところでかすれて消えてしまった。


 ジョンは目を大きく開いたが、それ以上の無念を表すことはできなかった。


 喉がひりひりと痛む。震える指先で懐から布袋を取り出して、封を解こうとしていた。


 “乞食のはした金”を使ってしまおうとしている。どんなに窮地に陥っても最後の力をふりしぼるために残しておいた真水だった。ジョンにとってはとっておきだ。


 最近は蒸留装置の調子はいい。飲んだって構いやしない。結び目に触れた指が意思の力を反映し、ぎこちない動きをして離れた。そうだ。飲むべきではない。


 一日に三百ミリリットルだけだと決めたはずだ。己に課した禁を破ることはできない。それは死に近づく行いだ。


「ジョン、死にそうだね。そろそろ、安らかに眠れるように祈ろうか」


 翅の生えた小人がジョンの耳元でホバリングしながらにこやかに囁いた。


 友達のプルールは妖精種で生物には違いないがジョンよりも水分を必要としない。小指の先に落ちた水滴ほどでも充分に生き永らえる。実際に帆脚索からこぼれ落ちた夜露だけでプルールは必要な飲料水を獲得できていた。


 燦々と輝く太陽に素肌をさらしても平然としていて、血色もよければ髪艶もいい。


 キューティクルの金髪は両肩が露出したショートラインの藍色のドレスに降りかかっていた。


 階段に伏せていたジョンは右の眼球を上向けたが、かさかさに乾いた唇はぴったりとくっついていて声を発することはできなかった。


「見てくれよ小瓶を拾ったんだ。手紙が入った小瓶だよ。とても古めかしくてロマンチックだね。内容を読んでいいかな?」


 両手で身の丈ほどある瓶を掲げて見せる。


 俯いたジョンは少しでも身体を回復させようと微動だにせず、見てはいなかったがプルールは構わず居住区の奥に飛んでいく。


 メインテーブルに瓶をことりと置き、全身の力をふりしぼってコルク栓を引き抜いた。


 中の便箋をつかんで広げ、朗読調で文面を読みあげる。


「なになに、『この手紙が誰かに届くことを祈っています。私は今、窮地に陥っています。いいえ、きっと我々はゆるやかな滅亡へと向かっているのでしょう』おやおや、救難の手紙かぁ。困ったねジョン。君の方がよっぽど破滅しそうだっていうのに」


 相変わらず、ジョンは身動き一つしなかった。


 プルールは大仰に肩をすくめた。


「やれやれ。南東微東だよジョン。陸地までたったの十キロだ。さぁ、残った水と食料を平らげて勇ましく立ちあがるがいい。そして後でちゃんとドングリ粉のクッキーをおくれよ。ボクのようなか弱い存在に頼るなんて本当に君は末期的だね」



 


 








「ジョン・スミス(誰でもない)?」


 平服を着た書記が眉をひそめた。


 怪訝そうに声に出しはしたが船舶証明書を不正書類だと疑ってかかり、問い詰めようとはしなかった。業務をこなすための羽ペンは一瞬だけ静止した後も記入されていった。真偽を探るつもりはなさそうで、やる気のなさそうに書類をジョンに突っ返した。


 鞄にしまいこんだジョンは植物の毛根のように分かれた桟橋手前の受付所で入港手続きをし終わると<ドリフトウッド号>をもやい結びして係留させた。


 そうしながらも、島の街並みを一望する。


 台形の高山が島の中枢だった。山頂は赤みがかっていてを火口をぽっかり開けていた。林立する樹木が裾野を広げ、扇状に家々が広がっている。


 ほとんどが二階建ての住宅であって工場生産品のように一様に均等な姿形で連なっていた。屋根から窓枠まで薄気味悪いくらいすべて同一だった。


 人里から少し離れた工場の煙突からは白煙がたなびいている。


 数軒ほどだが、荷車と積み上げられた黄土色の干し草が遠目で見えた。


 ジョンは小走りで港の小売店で井戸水のつまったヒョウタンを買った。一息で飲み干し、真水の味を堪能して喉の渇きを癒すとレストランの場所を尋ねた。中年女はジョンの薄汚れた革製の古外套とベルト帯に下げられた舶刀(カットラス)を胡散臭そうにじろじろと眺めた後、ぼそぼそと所在を教えた。


 オープンテラスの開放的なレストランは庶民的な門構えではあったが、他の住居とは違って三角屋根で幅広な構造だった。


 真昼間のせいか丸テーブルに座っているのは五組。空きは二つしかない。


 仕事を終えたらしい酒臭い漁師がジョンに近づいてきた。手足は針の傷だらけで、ぼこぼこに変形していた。腰を屈めてジョンの顔を無遠慮に下から覗き込む。


「あんた、よそのもんだろ。ここは芥子菜(からしな)のソースサンドがうまいぞ。注文するといい」

「なるほど、ありがとう」

「いいってことよ」 


 愛想よく手を振って漁師は席に戻った。テーブルの座った周囲の漁師仲間がにやついて何事かはやし立てた。各々ちらちらとジョンの様子を盗み見て、含み笑いをする。


 赤毛のウェイトレスがグラスに水を入れてやってきた。


 ジョンは芥子菜のソースサンドを注文するとウェイトレスは酒を飲んでいる漁師たちに視線を飛ばした。


 漁師たちはほら穴のウサギのように身を縮め、逃れるように顔を背けた。


 ウェイトレスは何か言いたげだったがメモ帳に数字を書き込んで、厨房に戻っていった。


 料理はサンドイッチで、焼いた肉がたっぷり挟み込んであり、真っ黄色のソースがぬりたくられていた。口にすると、目の奥が針で突かれたような痛みが腹ペコのジョンを襲った。つんとした刺激が目をぱちぱちさせ、涙が込み上げてきた。


 粘膜が巻き起こす激痛のあまり水を飲んだが解消されず、ひたすら耐えて痛みが去るのを待つしかなかった。


「どれどれ……ありゃー、これは辛いな」


 胸ポケットに隠れていたプルールがテーブルに舞い降り、サンドイッチをじろじろと眺め、意を決して齧りついた。


 頬袋を大きく張ってもぐもぐとして、ごくんと飲み下す。


「でも、まずくないね。この島の名物料理なんだよジョン。こんがりのお肉がたっぷりだし、よそ者としてこの洗礼を受け取り、我慢して食べないといけない」

「……魚よりはましか」


 ジョンはうめきながらサンドイッチを口にする。結局、完食することはできずに残りは布袋に入れてもらった。


 すきっ腹を焼けただれたジョンは胃袋に違和感を覚えながら宿舎を探すことになった。観光客用の案内所や看板を探したがそれらしいものはなく散々町をさまよった挙句、仕方なく町役場を尋ねると先ほどのレストランが宿屋を兼ねているという話で、出戻りすることになった。


 途中、軒境で井戸端会議をしている三匹の猫を見つけた。


 ジョンは残り物のサンドイッチを投げたが猫は嫌がりもせずにがつがつと平らげた。名物として定着しているのは事実らしい。


 ウェイトレスは戻ってきたジョンを見て呆れたように頬を緩ませた。突きだしたサイドテールをいじくりながら、名刺サイズの料金表を提示した。ジョンが最高値から一つ下を指差すとウェイトレスは上機嫌で先ほどの無礼を詫びた。


「あんなのでごめんなさい。でも、意地悪じゃないんです。食べ物、そんなになくて」

「不漁なのか?」

「はい。時化(しけ)続きで不漁だし、雨季で農作物も根腐れして」


 時化とは波高で海が荒れた状態を指す。


 ジョンは海の様子を思い出したが、今日に限っては穏やかだった。運がよかったのかもしれない。


「気の毒にな」


 宿が決まると、観光を兼ねた補給の準備にとりかかることにした。


 船の補修に使う備品や調理用の木炭、真水や保存食料の買い付けに卸し問屋に向かったが思っていたような品は手に入らず、更に主人の食糧の売却は偏っていた。


 悪臭が漂う筋張った肉がメインで、生野菜や果物は高値でとてもまともに売る気などはなさそうだった。


「豚肉か鹿肉はないか?」

「この少しばかり質の悪い羊肉しかない。我慢してくれ」

「木鉢と植物の種はないか?」

「芥子菜の種ならある。種も食えるし、葉茎も食える」

「それでいい」


 少なくない共通銀貨を支払うと主人は用意に時間をくれと言い出した。軒先や奥にある倉庫に並べられた物品は見本や売却済みの品であって即時の売却用ではなかった。


 ジョンはため息をこらえてに期限を尋ねた。およそ一週間猶予ができてしまった。


「素晴らしい歓待を受けてるねジョン」


 店から出て防波堤沿いの道を歩いているとプルールが胸ポケットからひょいと顔を出した。


 口元を手で押さえ、くくくっと喉を鳴らす。


「よくあることだ」

「そうだな。不満は抑えよう。飲み食いもできたし、眠るところもある。補給もできそうだ。君が得意とする手法――蛮性を奮い起こして略奪しなくてもいい」

「得意ではない」

「はぁ……ジョン。ボクは悲しいよ。君のようなうらぶれた男には蛮性ぐらいしか魅力がないのに、それを否定するなんて」

「俺の人間性を否定するなら島に捨てていくぞ」

「無理だね。ボクのような有能な航海士を君は捨てられない。それに一人旅は寂しいぞジョン。誰もいない海にぽつんと一人でいるところを想像してみろ、紙切れのように心が張り裂けてしまうぞ」

「宿で休む」

「ボクという美女と寝床を共できるのもメリットの一つだな。確かに大きさが違うという重大な欠陥があることは認めるが、愛というものはあらゆる障害を越えるのだ」


 返事をするのがだるくなったジョンは貝のごとく口を閉じたまま宿屋に向かった。


 無視されたプルールはきんきんとわめき散らしたが相手にしなかった。彼女が無意味なことをだべってくるのはひとつの発作のようなものだとジョンは考えていた。


 レストランの二階にある寝室は狭く壁はしみだらけだったが風穴はなく、ベッドのシーツは清潔だった。木窓から開くと水平線が見えた。蒼海から背の高い波が海岸に押し寄せ、埠頭に係留してある漁師船を上下に揺らしていた。


「この島は哀れだなジョン」


 木製の年季の入ったローチェストに腰かけて足をぷらぷらさせていたプルールがまつ毛を伏せてつぶやいた。


 ジョンは日焼けして退色したシャツを衣服籠に脱ぎ捨て、上半身を裸にしてベッドに寝転んでいた。腰紐も解いて楽にしたがズボンは脱がなかった。


「ちょうど暖風と寒風がぶつかる地点なんだ。これがどういうことかわかるかな」

「ぬるくなりそうだ」

「出自が違う風同士がいがみ合うと決まって駆けっこ遊びが始まるが。右向きにぐるぐる回り陽気なやつらと、左向きにぐるぐる回る陰気なやつらに分かれる。陽気な者が勝てば太陽を浴びて日光浴をしながら勝ちどきを始める。しかし、もしも戦いに陰気な者が勝ってしまうと世界を暗く染める雨雲が天に蓋をし、狂乱の勝ちどき――嵐を呼び起こす」

「ここではどっちが勝ちやすいなんだ」

「陰気な者だ。しかもここに常駐しているやつらは筋金入りの日陰者だぞ。漁業ではなく別の道を辿るべきだな」

「教えてやればいい」

「そこまで義理はない。ボクは妖精だからな。人の営みを眺めるのみだ」

「そうならそれでいいだろう」

「しかし、責任がある。責任とは受取人としてのものだ。ボクが波間から拾ってしまった小瓶に入っていた手紙の差出人はあの赤毛のウェイトレスだ。ボクは懇願されてしまった」

「内容は?」

「さしたる君でもショック受けるかもしれないよジョン・スミス。ボクはそれほど受けないし、それもまた自然の営みだと許容するが」

「では聞かないでおこう」


 ジョンが話を打ち切ったことで見当が外れたプルールはびっくりし、そしてそわそわとしだした。


 調子よく語れると思っていたの、せっかく引きつけておいたのにお預けを食らってしまって動揺し、最後に憤って風船のように頬を膨らませていた。


 透明な翅の端がぴんと張られた。とんっとローチェストからジャンプし、滑空して寝転ぶジョンの耳元にすり寄るとプルールは甘い声でささやいた。


「レストランで出てきたサンドイッチの肉はどうも人肉らしい」










 水気のある湿っぽい空気に鼻をひくつかせた。ジョンは目を覚ますと同時に布団に忍び込んできた冷気で身体を震わせた。体温が下がっている。腕をさするとやけに冷たかった。


 木窓を開けるとしとしとと小雨が降っていた。気温を著しく低下させる降雨だった。


 太陽は昇っていなかったが暗闇は薄れ、か弱い朝焼けが世界を群青色に染めていた。


 最初に自船が係留されている姿を確認した。三日の間に浜に陸上げして船底をブラシで清掃する気でいたが、雨天での作業は気が進まなかった。代わりに商店の隅に飾ってあった高価な塗料缶を追加購入しようと決めた。金が目減りするが、使えるところで使うべきだ。


 開放した窓の向こう、視界の隅に目に付くものがあった。


 じぐざぐに枝分れした桟橋の架けられた突堤で老女と若い男が抱き合っていた。お互いに別れを名残惜しむ涙顔での抱擁だった。


 若い男の旅立ちかと思いきや、老女の方が手漕ぎ船に乗ろうとしていた。両端で操舵のための櫂を持った男が二人、その他に両手を自由にした男が二人が顔を引き締めていた。老女が乗り込むと若者は虚空に力なく手を伸ばした。


 思い立った若者は身振りで叫んでいたが、老女が諌めるように何事かを呟くと伸ばした手がだらりと下がった。老女は背を向けた。それでやり取りは終わった。


 オールは深く海の中を沈み込み、規則正しい動きをし始めた。


 手漕ぎ船は朝霧の中に潜っていく。南東へと向かっていった。島を回り込むように迂回している。やがて岩礁に隠れて姿を消した。


「おはようジョン。前から思っていたのだが、無精髭を剃った方がいい。もしかすると気に入っているのかもしれないが、まだ二十八だというのに四十くらいに見えるぞ」


 ローチェストの台座を陣取ったプルールは自前の小さな煎餅布団に横になったまま挨拶した。目はぱっちり開いていて見たまま、思ったままの感想を告げた。


「おはようプルール。人間の髭というものは際限なく伸びる。抵抗は無意味だ」

「感謝するよ。今日も一つ、人間についての知識を増やせた。森を虐殺して油と歯車の機械文明に身を落としたわりには思ったよりも“自然”を愛しているようだ」


 朝食を摂りに一人と一匹が一階の食堂に下りると他の宿泊客の姿はなく、誰も腰かけていないテーブルだけが物寂しく並んでいる。


 厨房からがたごとと物音がしていたので、店の人間は活動を開始していた。


 ジョンはカウンターの呼び鈴を鳴らすと、待つことを求める威勢のいい返答があった。


 赤毛のウェイトレスが勝手口から顔を出して、ジョンとその右肩に乗ったプルールを見つけると口元を覆って背を少しだけ後ろに傾けた。それが済むと哀れむように首を横に振った。


「おじさん、そういう趣味なんだ」


 何食わぬ顔で平静を装ってはいたが、ジョンが受けた心痛はその鉄面皮に若干の影を落とした。


 プルールは両手で腹部を押さえてけたけたと笑い、気が済むと立ちあがって手を水平にして懐に持っていき、後ろに足を持っていき丁寧に紳士のお辞儀をした。


「ボクはウィル・オー・ザ・ウィスプ。不気味な火を意味する。今は<ドリフトウッド号>の船首燈の代わりを勤めている妖精だ。個体名はプルール。そう呼んでもらいたい」

「わっ、しゃべった。へえ、妖精さんか。珍しい。確か乱獲で絶滅したんじゃなかったけ」

「失敬な。ボクらは単にこの世に留まっていることに飽きてしまっただけだ。生存競争で敗れたような物言いは控えてもらおう」

「飯はまだか」

「あ、はい。すいません」

「おい娘。待て、行くな。ジョン、まだボクの名誉が回復していないのにボケジジイのように用を言いつけるな」

「飯を食いにここにきたんだ」

「ジョン、君は配慮という概念を学ぶ必要がある。レディーファーストという言葉は知ってるかね?」

「知らないし、今まで知らなくて困ったこともない」

「うむむ、知識よりも先に探究心か」


 洗面台に向かったジョンはクリームを顔にたっぷりつけ、カミソリで入念に髭を落とした。足下の手桶でプルールがジョンの物真似遊びをしていたが、プルールの顔には髭はおろか産毛も存在しない。肩も太ももから下にもすべすべとした白肌があるだけだった。


 席に着くと魚の油揚げが運ばれてきた。皿の端には申し訳なさそうに菜っ葉と芋が添えられていた。薄っぺらな切り身は小骨が多く、タンパクで塩味しかしなかった。焦がした皮に脂肪分のうまみがあり、そのことにいち早く感付いたプルールは横から頭をつけて皮だけをむさぼり食った。


 大の男ではとても物足りない量だったがこの島の物価の高さを考えると妥当だったし、きっとこれでも――信じられないことだが、贅沢な食事になるのだろう。


 空腹を紛らわすだけの簡素な朝飯を終えるとジョンは愛船の様子が気になり、カットラスの柄を椅子にかちゃりとぶつけて腰をあげた。


 ジョンはプルールを一瞥したが意味ありげな微笑が返され、ウェイトレスの肩に飛び乗った。


 二人はとりとめのない談笑を開始し、かこましく賑やかに話し込む態勢に移った。


 外界に出たジョンを灰色の雨雲が出迎えた。気分を暗鬱にする霧雨にまみれながら目的地に向かった。


 突堤に生えた鉄の杭(ビット)に繋がれ、波に揺さぶられる<ドリフトウッド号>には幌がかかっていなかった。


 居住区の階段の下には水たまりができていた。余っていた帆布を用具入れから引き出し、浸水させないように帆を広げ、船に覆い被せた。船縁の留め具に糸を結びつけるのは足場が揺れる船上では根気のいる作業だった。


 無事に作業を終えると次に数センチほどの帆布の破れを発見した。被さったシートの下にもぐり、居住区から帆縫い糸を取り出したところでジョンは手を止めた。


 昔、誤って針を海に落としたことを思い出したからだった。繊細な作業は無風下でするに限る。


 そのまま船室で四脚の調理台(クック・ボックス)の炭の残骸を掃除し、穴の開いたフライパンの修繕をしているところで、人の囁き声が聞こえた。


「一気に行こうぜ」

「どうせ海賊だ」

「血のついた銀貨を渡されたって聞いたしな」


 小声での会話だったが物騒な内容だった。


 ジョンは柄尻を親指で撫で、腰を落として扉が開くのを待った。


 居住区は狭苦しく、剣を振りぬくには適さない場所だったが出入り口も幅がなく一人しか通れない。表に出て三人を相手にする必要はなかった。


 十五分が経過した。襲撃者は警戒しているのか臆病風に吹かれているのか行動しなかった。そこでジョンはハンマーで木板を規則正しく叩き、なんらかの作業に従事しているように振る舞った。


 すると、ぎぃっと甲板が軋む音がした。重量のある物体のせいでほんのわずかに船体が傾いた。扉は蹴破られたような勢いで開いた。予感していたので、鍵はかけなかった。


「動くんじゃねえっ!」


 息を巻いた一人目の男は叫んだが、喉元には抜き身の刃を突き付けられた。顎を持ちあげて「ひっ」と悲鳴を漏らして動けなくなった。


 剣を向けたジョンは片手に持った短刀に目を落とした。男は反撃を想定していなかったのか軽装で、人を襲撃することに慣れていないのだと理解した。


 後続の二人は男の肩の上から室内の様子を覗き見ながら苦々しい顔をしていた。


「武器を捨てろ」


 警告に後の男たちはためらっていた。状況的は不利ではあったが、覆す機会を窺っているのがありありで見え透いていた。敗北の仕方すら知らないようだった。


 ジョンは相手が戦闘の素人だということで、突き付けた剣を下げた。男たちが驚き、視線を飛ばし合って色めき立った。与えられた好機を間抜けさが呼んだものだと捉えていた。


 各々、武器を構え直して戦闘態勢に再び戻ろうとしたがジョンは機先を制した。


「気の毒に思うよ」それほど哀れみ嘆くような口調ではなく淡々としていた。「これまでの人生の善良さをすべてドブに投げ捨てて、最期に強盗の不名誉を着てお前たちは死ぬんだ」







 ◇◆◇




「おかえり、ジョン。しけた面をしてるな。まるで強盗を迎え撃とうと意気揚々と剣を振りかざした癖に、まんまと逃げれたウスノロの剣豪みたいだぞ」


 濡れ鼠のジョンは声かけを無視して軒下で衣服を脱いで絞った。


 衣服の袖から水滴を落としつつ、床に黒いシミを作りながらもジョンは三人掛けのテーブルに置かれた二つのティーカップを見、ない席に腰を落ち着けた。食堂の玄関口にはクローズの標識がかかっていた。


 早くて本日の午後に出帆すること手を組み合わせながら淡々と述べた。銀貨を通常の倍ほど支払ったので積み荷の用意が終わり次第とのことだった。


 自分を歓待してくれたのはいずれも島の漁師で、その中の一人は昨日酒場で見た顔であり、いずれも手に釣り針でこしらえた独特の傷痕があった。もしかすれば復讐に戻ってくる可能性を考えて出発を明日に延期したとしても寝泊りは船ですると決定した。


 逃げられたのではなく、逃がしたのだとつけ加えることも忘れなかった。ベルトとシャツの間にマスケット銃を挟んで持っていたが、気迫負けして逃走する背中を撃つことは男の礼節に反することだと控えめに主張した。


「そうして、船を危険にさらすはめになったのか。全員始末しておけば後腐れがなかったものを。その男の礼節というものは随分とありがたい代物だな」


 ジョンは非難を沈黙で応じた。言い訳を連ねたりすればプルールにやり返されることを知っていた。


 ジョンは生来の口下手だったし、己の信仰心を一ミリも曲げるつもりがなかった。


 帰還を察したウェイトレスがティーカップをトレイに乗せ、ジョンの手前に洗練された動作で紅茶を置いた。


 そのまま立ち去らず、テーブルに横に佇む。不審に思ってジョンがちらりと見やるとプルールが空咳し、促した。


「こちらのお嬢さんはジョンにお話しがあるらしい」


「私を……船に乗せてくれませんか? 次の港までで結構です。お手伝いもしますし、お礼はします」


 ウェイトレスはアルメリアと名乗った。大人びていたが化粧で艶を出していただけで年頃は十八歳で安宿の亭主の三番目の娘だった。姉たちが嫁に行ってしまったので自然と跡取り娘に収まっていたがつい最近、厨房を取り仕切るコックが辞めてしまい、人手確保のために義兄が買って出てくれたはいいが色目を使われて弱り果てているとひっそりと打ち明けた。


 それらしい建前の理由をジョンは顎を傾けて相槌を打ち、航海術の心得のない人手を必要をしないことと、人の面倒を見る余裕がないことと、小娘がなんの後ろ盾もなく荒れくれた世界で一人で生きていこうとすれば深く重い代償を払うことになることをやんわりと告げた。


「大丈夫です。自分の面倒は自分で見ます」

「船ならこの島にもあるだろう」

「渡航禁止令を出されているんです。私たちは植民なんです。政府の通商航路の確保のために土地と家を与えられ、補給も充分に与えられるはずでした」

定期船(ライナー)が途切れたのか」

「ええ、十年の予定でした。ですが思ったよりも漁もうまくいかず、農地もできず、人員ばかりが過剰に配置されてしまって……貧しくなっているんのです」


 最初は夢のような歌い文句から始まった。


 新天地を自分だけのものにできる――市民の身上でありながらも税金という身を締め付ける鎖から一時的に解き放たれ、国家の功労者として愛国の徒の一列に並ぶという。


 土地と家屋が与えられる一級国民だけの特権であり、殺到する応募者の中から選ばれた当選者は羨望と嫉妬の目で見られたものだった。


 戦勝の好景気によって栄えていた大陸国家に地方から流民が溢れかえっていたという下地もあった。職にあぶれた異邦人たちの多くは法も目を閉じる下級労働者や物乞いに成り下がり、急激な人口の増加による治安の悪化は日に日に酷くなる一方だった。


 船旅も夢と希望に満ち溢れていた。無事、島に上陸し、見慣れない風景を見物しながら宛がわれた家の床を踏みしめてパンフレット通りの絢爛豪華な家具が配備されていないことに軽い失望を覚えはしたが、誇張はありがちなものだったし、現実と期待の錯誤は人生の常だと考えてはいたが、翌日に監督官が配分した仕事のでたらめぶりには目を覆うわけにはいかなかった。


 麦畑を耕すはずだったが地質と気候は合っておらず、早々に農学者がナイフを開墾計画書に突き立てたことを皮切りに、乾物を輸出するための期待した魚類はどれも水っぽく腐りやすい種類ばかりが生息しており、林業をしようにも樹木は曲がりくねって売値は低かった。


 最初の一年は精力的に島民たちは働いた。潤沢な補給の上にあぐらをかくことができたからだ。商船や軍船が寄るための港の整備も公共事業ということで補助金を得ることができた。


 翌年も努力を続けた。麦の代わりに油種として芥子菜の種をまき、魚は長持ちするように保存法をあみ出した。安価な樹木を伐採して木炭に変え、まっすぐ伸びる別の苗を植えた。


 次の年は儲けの兆しを監督官が敏感に察知し、立身出世のために脚色して本国に報告したことで無税の特権が剥奪された。それどころか、国庫を詐略したとの一方的な通知が飛んできた。


 島民の先頭に立って抗弁しなければならない立場であるのも監督官であったが、彼は通達をした数日後に怒れる住民がしでかした“不慮の事故”で落命した。監督官が殺されたという不名誉が事実として記録されるわけはいかなかった。


 代わりの監督官が派遣されるまでの間、島民の意見の代弁者はおらず、公文書にも記載されなかった。


 そうして、反論すべき時に反論しなかった者に相応しい立場が定着してしまった。


 港に訪れる国家指定の船舶との商取引はこれまでの平等な協定とはかけ離れたものになり、寄港する回数も次第に減っていったが、かといっていなくなっては生活はできず。


 そんなものが生命線であり、屈辱の火はくすぶるものの島民は罪科を恐れて本国に戻ることもできない。


「私はただ生きているだけなんて嫌です。こんな、こんな酷い島で終わるなんて」

「次の島まで連れて行ってやったらどうだいジョン。脚荷(バラスト)だと思えばいい」

「決まり手はなんなんだ」

「決まり手、ですか?」

「本当に島を出たくなった理由が聞きたい。様々なことが積み重なって嫌気が差したにせよ、何が一番気に入らないか聞きたい」


 アルメリアはぎゅっと唇をすぼめた。


「そんなの、人を……食べているからです。口減らしのために老人や……」


 ――旅人を。と続ける言葉はかすれて誰にも聞こえなかった。


 告白したが自分の口から現れた言葉を呪うように、忌避するように顔を背けた。それ以上の問いは拒絶するようにアルメリアは頭を垂れて身をよじった。


 ジョンは荒れた唇をなぞって、喉を唸らせながら昨日のサンドイッチの味を反芻した。強烈な辛さで素材そのものの味を消そうとしていると合点する。


「確かめてみたのか?」

「ええ、人の骨が埋められているのを発見しました。間違いありません」

「なるほど、じゃあその場所まで案内してくれ。人食いを俺が確認したら君を大樽に入れて船に積み込み、速やかに島から出すことを約束する。しかし、次の移住地が幸せな場所とは限らないが」








 赤茶色の畑に生えた弱々しい苗を心配そうに眺めている農夫の姿がなくなり、開墾の及んでいない森の入り口に差し掛かるとぱったりと人気がなくなった。


 曲がりくねった森林の中の砂利道は車輪が通過している轍の痕跡があり、幅狭い道の両端には覆いかぶさるように高木が傾いていた。


 網目となった枝葉は雨露と陽光を遮って周辺を小暗くしようとしていたが、北風が容赦なく木々の梢を削り落とそうと吹き荒れたので、傘を差していても骨身を凍えさせる雨になぶられるのは避けられなかった。


 時刻は正午を過ぎたところで灰色のあぶく雲は厚さを増した。視界は悪化の一途を辿っている。枝がしなり、葉が擦れてざわめいている。


 ジョンは頭上を見回し、プルールに角燈(ランタン)になるように命じた。


 魔力という――ジョンは帆を押す風力や物を燃やす火力とそう変わらないと認識していたが――特異なエネルギーを使ってプルールを中心に緑白色の光が生まれた。


 針のように刺々しい陽光とはかけ離れた光藻に似た妙味のある光明だった。円状に光の薄膜ができ、柔らかな光が草と土の道を照らした。


「ボクは光り輝くように生を受けたが、角燈代わりになるのは僕という個が忘れられ、ただの物体に成り下がったようでなんだか腑に落ちない」

「お嬢さん。煙草でも吸うか?」


 プルールの透明翅の背元に紙煙草の先端を押し付けると、あっという間に乾燥した細切れの葉が赤に染まった。


 ジョンは口に咥えて煙を吸い込んだ後、肩をすくめて茶化す作法でアルメリアに煙草を挟んだ指を差し向けた。


「いえ……」


 アルメリアは両手をばたばたさせて苦笑しながら拒否したが、先行していたプルールは額に青筋を立てて振り返った。


「おい、ジョン。マッチ代わりにするな」

「減るものじゃないだろう」

「いいや、ボクの神秘性が減る。幻想種としての矜持が失われ、人々が畏怖しなくなる」

「得体も知れないものが怖いと思うのは自然なことだが、それを利用したがるのはどうかと思うがな」


 揺れる樹林の間をくねるように風が通り抜けていく。時々、風のひゅうひゅうと細く低い音が響き渡った。プルールは微弱な光点となり二人と一匹の影絵を浮かびあがらせた。


 途中で分かれ道に出くわし、左方の斜面になっている険しい草道を選んだ。人がそれほど通っていなかったが子連れの山猫の姿を見かけた。人を恐れておらず、じろりとジョンたちを見据えると葉陰へと消えた。


「きゃ」

「気をつけろよ」


 道が道としての形を得ず、はびこる根や枝葉が障害として立ち塞がり、平面で踏むことが可能な足場をちくいち探すようになってきたところでアルメリアがよろけて転びかけると、するりと後ろを向けてジョンは両手で抱きとめた。


「気をつけろよジョン。お前は可愛いらしいお嬢さんと船旅ができると妄想して少々、浮かれている」


 プルールは剣呑な声で釘を差した。ジョンは海賊の鼻歌を口ずさみながら浮かれている真似をしてみせると『村を焼いて女を強姦して売り飛ばす』という歌詞のところに差し掛かるとアルメリアはぎょっとして一歩下がった。


 このやり取りにプルールはとても満足して深く頷いた。ジョンは気のない顔でヨーホーと歌い切った。


「この辺りだったはずです」


 灌木が密集した大地に急斜面ができていた。


 どれは坂道のようだったが人為的に掘られた窪地だった。そう深くもなく、夜でも底は見えていた。黒い土を被っているが白い骨のようなものが重なっているのがすぐにわかった。あちこちに雑草が生えているが土は柔らかく真新しい。


 プルールが底へと飛び込み、ジョンはしゃがみこん吟味しながらで顎を擦った。背後でかちりと音がした。


「スミスさん。海賊稼業って大変ですか」


 それが撃鉄の音だとわかってはいたが、ジョンはちらりと後ろで拳銃の威容を確認するとそろそろと両手を挙げた。


 腰元にいつもあるはずのものがない空の感触があった。重みが消えている。先ほどの短い抱擁でマスケット銃をこっそりと盗み取られてしまったらしい。


「俺は海賊じゃない。海賊をやっていたのは十代の頃で免罪符を買い、法王の特赦を貰った後は善良に忠実な国民であることに勤めている」

「おいジョン、その答えでは完全に火に油だぞ。単なるうまくやっただけの悪党ではないか」


 物騒な気配を嗅ぎつけてプルールが飛び上がってきた。フォローを入れるものの、目線はアルメリアから離そうとしない。


 ジョンは背中を向けたまま立ちあがった。振り返るまでもなくアルメリアは指に引き金をかけ、真っ黒な銃口をまっすぐ向けている。


 冷厳な瞳でジョンを射抜きながら、唇を真一文字に縛っていた。


「それなら否定しない。若い頃は誰だって悪党になりやすい。お嬢さん、人の物を盗んだアンタのようにな」

「私はこのろくでもなくみじめな島から出るためならどんな覚悟でもします」

「例えば漁師を暴漢に仕立て上げたり、かな。ボクが察するに君の狙いはジョンの船と」

「お金です。銀貨を見せびらかしたりするからこんな目に遭うんですよ。お金さえあれば私みたいな小娘でも世界を巡れる。さぁ、差し出してください」

「世界を巡れるほど多くはないが」


 抵抗するつもりがないジョンは懐から硬貨袋を摘まみ取り、膝を曲げて地面に置いた。


 アルメリアは拾おうとせず、ちらりと一瞥くれただけだった。


「その銃は大分と年代物の軍用銃だ。あまり整備をしていないので暴発するかもしれないぞ」

「ご親切にありがとう海賊のスミスさん。そしてさようなら」


 それほどためらいもなく引き金がしぼられる。真っ黒な穴が小さな火柱をあげた。銃声が森に切り裂き轟いた。


 一発の弾丸が空気を突き破ってジョンの古外套をぶち当たった。ゆらりと身体を震わせ、前向きに倒れ、窪地の底へと転がり落ちていった。


 アルメリアは銃の威力に驚き、次にうっとりとした陶酔した顔で目を細めた。手に提げたままゆうゆうと硬貨袋を拾う。


「ボクらの素晴らしい持ち物である船と銀貨と奪ったところで、次に奪われるのは君になるだけだ」

「ご忠告ありがとう光る妖精さん。でも、ごめんなさい。大樽に詰め込まれるはちょっと窮屈そうだったの」


 アルメリアは見かけだけはすまなさそうに笑った。


 そのまま足取りに乱れなく森の闇に溶けていき、茂みをかきわける音も遠のいた。




 ◇◆◇



 頬に雨滴が落ちていく。


 ジョンはなんらかの感傷にとらわれているのか目を細めていた。懐かしんでいた過去でもあったのか、痛みに顔をしかめていたのか。


 プルールは両手を腰に当てた。


「さてジョン。君はたった今、全財産と愛船を小娘に奪われてしまったがどんな気分だ」

「そう悪くない」

「そうとも。まだボクがいるしな。まったくもって喜ばしいことだ。まさに君の人生で最高の状態だ」


 仰向けになって僅かに地面に埋まっていたジョンは何事もなかったかのように立ちあがり、雨を含んだ泥土を手で払い落とした。


 泥だらけの顔を袖口でぬぐい、深呼吸する。


 首筋の襟元に逆手を突っ込み、ごそごそとやると血まみれの鉛玉が手の中にあった。


 ゴミのように土中に放り捨てた。ふと、思い出したかのように積み重なった骨に足先でこんこんと傾ける。


「追わないのか?」

「強盗とやり合ったとき、主帆(メインセール)を傷つけた。支索(ステー)の何本かは切れている。補助帆(ジブセール)だけでは嵐を乗り越えることなど絶対にできない」

「ここにいても<ドリフトウッド号>の嘆く声が聞こえるよ。敬愛する主人に斬りつけられた挙句、見知らぬ小娘の重い尻を乗せるはめになっている」


 手を伸ばして拾った白い骨は光沢があり、端はギザギザとしていた。細長いのもあれば、湾曲して尖っているのもある。


 ところどころに穴が開いたり欠けていたこともあるが、どこの部分かも判別はつかない。


「これは人の骨には違いないが、部分的に粉々に砕かれている。肉切り包丁で可食部位を削った後、食えない骨を砕くのは労力の無駄だ」

「それで?」

「人間を食ったのは人間じゃないだろう」

「興味深いなジョン。実に興味深い。面白くなってきたな。人食いの怪物の方を追う方が(さか)しい小娘を追うよりもよっぽど楽しそうだ。しかし、そうなってくると君とボクが食った肉はなんだったんだ? なんとも不可解だな」

「すぐにわかると思うが、どうでもよく感じるな」


 樹木の上をか細い噴煙が立ち昇っていた。


 頬をつたう雨露を振り払い、ずぶ濡れた革靴を持ち上げた。












 森歩きが終わり、急に視界が開けた。


 一面に広がり、刈り整えられた芝地には物流倉庫のような三角屋根の横長が建っていた。


 煙突からゆらゆらと白煙がたなびき、住人がいることを示している。


 円状に仕切られた木柵があり、敷地と森を分けていた。畑のうねはトウモロコシの幹が伸びていて、隅には株などの根菜が植えられていた。森の沿いにはクワやスキといった農具が転がっており開拓の跡が続いていた。


 ジョンは井戸に歩み寄って木桶に張られた水面をちらりと見、建屋の正面入り口を叩こうとしたところで建物の角から白髪の老人が現れた。


「なんだ」

「俺はジョン。先ほど強盗に襲われて有り金を奪われてしまった。申し訳ないのだが、一晩ほど屋根が欲しい」


 頭、胴体、足先に至るまで老人はじろじろとジョンを検分した後、首を捻った。ジョンは丁寧に帽子を脱ぎ、胸に当てた。突っ立ったまま沈黙の間があった。老人は再び問うた。


「どこの息子だ」

「生まれてから両親の名前も知らない」

「そうか、気の毒な息子か。入れ」

「ありがたい」


 促されて建屋に入れられると、つんと獣の臭いがした。次に山ほどの鳴き声が聞こえた。室内には小さな獣が数百頭ほど散っていた。それらが合唱していた。意味もなく騒がしい。


 毛並みや種類の違う猫だ。


 それらが密集して思い思いのところでくつろいだり、じゃれ合ったり、眠っていたりと自由にしている。


 元々は厩舎だったせいか隔壁があり、かんぬきのゲートがあった。今ではほとんどが朽ちてそれらの体を保っておらず、どこもかしこも穴だらけで猫の通り道になっていたが、外に繋がる壁だけはしっかりと補修してあった。


 老人は従業員控室らしき戸口を開け、こじんまりとした部屋に案内した。中央にあるテーブルにジョンを座らせたが、中には数人ばかり安楽椅子に座った老女たちが編み物をしていた。彼女たちは注目を集める結果になった。


「おやおや」

「よくきたねえ」

「まだ若すぎるんじゃないかい」


 感想を受け、ジョンは丁寧に会釈だけはしておいた。


 そうして席に座っていると老女たちはジョンに問い掛けられたわけでもなく、自らの事情をしゃべり始めた。


「ここは悪しきざまに言えば姥捨て山でね。でもね、こんな枯れ枝でも集まったらそう悪くはないんだよ。そりゃあ最初は辛かったさ。息子や娘を憎んだこともある。それでも、根っこは開拓民だよ。そう簡単に死にやしないし、お互い助け合う慣習があるから元気のある人が、元気のない人を助ける生活に自然となったのさ。それにあたしりゃ、死んだことになってるから誰も気にしないのさ。自由きままに自分たちだけで作ったものを自分たちだけで食べられる生活さ」

「まあ、ろくに食べもしないから不思議と余裕ができてきてね。作った食べ物を町にも送ってるんだよ。無論、お役人様はあたしりゃは死んだと思ってる。年寄りなどなんの役にも立たない存在だとも思ってるさ。でも、そう思わせておけばいい」

「国の目をちょろまかすなんて悪いことをしてるかもしれないけど、もう散々に酷い目に遭ったんだから、今更なんにも怖くないねえ。心残りなのはやる気のなくなっちまった町の子供たちさ」


 住人は十人ほどであって、猟の名人や農作業に熟達者がいるおかげで生活はそれほど困っていないとのことだった。


 不思議なもので閑散とした港町にはない包み込むような余裕と暖かさが感じられた。


「さぁ食え」


 どんぶりとスプーンを置かれた。厚切りの肉の入った菜っ葉のスープだった。透明でほんの少し油が浮いていて、ほのかに生姜の臭いがした。


 スプーンを手に取り黙々と平らげると、正面に座った老人は頬杖をつきながらも謝罪した。


「悪かったな。島の人間が余所者に迷惑かけるなんてあっちゃならねえことだ。たとえ生活が食うや食わずだったとしても」


 ジョンにとっては悪かったな、で済む話でもなかったが老人は苦しそうにしていたのであやをつけたり、皮肉を被せたりはしなかった。


「ご老人。この肉はなんの肉だ?」


 プルールがジョンの頭髪から姿を現して質問した。


 老人は目をその姿に見張ったが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。


「猫だ。もう家畜もいない。島の獣も狩り尽くしちまって、最近じゃ水鳥もろくに飛ばなくなったからな。こいつらは島にはたくさんいるだろ? よく増えるし、扱いやすいし、そう悪くない味だ」

「ああ、うまいよ」


 






 ◇◆◇




 夜をわら積みの納屋で過ごすことになり、プルールはあぐらをかいて眠ろうとしていたが、怪我の治療をしなければならなかった。


 板張りの床ではあったが農具にこびりついた泥から渇いた土の臭いが放たれ、未だ森の中に居るような気分に陥っていたが雨漏りはしていない。


 ジョンは老人から借り受けた医療具のうちから消毒液の小瓶の蓋を回し、脱脂綿に含ませてためらわず銃痕に押しつけた。焼けるような激しい痛みがしたが、歯を食い縛ってこらえた。肩の裏に手を伸ばしたり、不格好な態勢で包帯を巻いていく。


「なぁ、ジョン。ひょっとして最初から気付いていたのか。あの肉が人間のものではないと」

「ああ」


 ヘヤピンで包帯を留め、ジョンはわらの山に背中を預けた。


「しかし、どうしてわかった」

「人間の味じゃなかった」

「なるほど、わかりやすいな。なるほど……む、むむっ?」


 翌朝。


 天空を覆う雲は動きを速めていたが、降雨はなかった。顔を洗おうと井戸に水を汲み上げていたジョンは人だかりに気付いた。おおよそ、九人の老人たちが建屋の横に集まっていた。数人ばかりが杖をついているはいるものの、何かを囲んでいた。


 草編みのカーペットの上に一人の老女が眠っていた。両手を胸に持っていき、土気色の顔で目を閉じていた。昨日ジョンに話しかけた老女の一人が息絶えていた。ほとんど眠っているようでもあった。


 牧師代わりの黒い貫頭衣を身に着けた老人が生前の人柄を伝え、人々への好ましい影響を口にし、死後の安らぎを造物主に求めた。


 誰しも沈痛な表情で涙もろい者は死を悼み、泣いていた。


 乾燥した枝葉や紙屑が一塊になったものが遺体に押しつけられ、火打石で火が点けられた。油でもぬりつけられていたのか、一斉に燃え上がり、業火の毛布に身体全体が包まれた。


 白髪の老人がジョンの姿を見つけ、歩み寄ってきた。


「祈ってくれるか」

「祈らせてもらう」


 ジョンは心臓に位置に手を持っていき、黙祷した。


 遺骸の炎はすぐに収まった。皮膚の表面ばかりが黒ずみ、ほとんど原型は留めていた。


 火葬ならば骨になるまで焼き尽くすのが通常だったし、あぶっただけのようだが老人二人が担架の要領で焼け焦げた遺体を運んでいく。


 扉を開き、厩舎を改造した建屋へ。


 猫の鳴き声は騒がしく聞こえた。歓喜の声だった。しばらくして、難を逃れた風に老人二人が怯えた顔で出てきた。遺体は中に残されている。


 室内からは何かがむさぼられる音がしていた。


「野蛮だと思うか?」


 白髪の老人の問いにジョンは見つめ返すのみだった。扉は閉じられた。鳴き声は聞こえなくなっていく。


「腹ペコになるのは苦しい。誰だって腹いっぱい食べたいさ。それが獣でもな。腹いっぱい食えるのは喜びなんだ」

「つまり、ご老人。食ったり食われたりすることが命の平等さに繋がるとでもいいたいのか?」


 いつの間にかジョンは肩に乗っていたプルールが口を出した。


「いいや」老人は否定した。「単なる循環だ」





 ◇◆◇




 埠頭に戻ってくると<ドリフトウッド号>は最初からそこにいなかったかのように姿を消していた。


 遠くの水平線には黒雲が迫ってきており、雲間を稲光がひび割れの裂け目のように走っていた。穏やかだった灰色の雲は押し流され、混ざり合い、判別がつかなくなってきている。


 ごろごろと遠雷が鳴り、波は荒れて白波が立っていた。集まった雲は本格的な嵐へと変貌しようとしていた。


 空に浮かぶプルールは流れる髪など気にせずこれ見よがしにため息を吐き、やれやれと首を振った。


「かくしてボクらは船を失ってしまったわけだけど、まさか(リーフラビット)を主菜とする島に駐留するつもりか」

「人が何を食っていようと俺は気にしない。犬でもネズミでもイルカでもだ」

「ボクは気にするな。いや、猫は可憐なボクを捕食しようとするから不倶戴天の敵ではあるのだが……ともかくジョン。お前はボクに約束したはずだぞ。ボクに世界を見せてくれると。その代りに加護を与えてやっている。約束を果たせないならボクも考えるぞ」

「そうか、ならば別のやつを探して加護を与えればいい。俺は妖精の怪しい加護など欲しいと思ったことはない。お別れだな」

「おーい。ジョン。待った。待った。待った。歩いていくな。ごめん。冗談だ。しかし、なんで君はそうなんだ。畜生、この傲慢な恐れ知らず(ドレッドノート)め。そのうちバチが当たるからな」


 家々の屋根を吹き飛ばし、窓を割る暴虐の風の滞在期間は二日ほどだった。


 土砂崩れがおき、畑が埋没していしまったところもあったが住民は慣れているようで、後片付けをする顔には悲壮さは漂っていなかった。


 青々とした空が広がるとジョンは住民の手伝いの仕事することにした。


 主に港で漁師をしたり、船具の補修したり、積み荷を降ろしたりして日銭を稼ぎ、その日の食い扶持を稼いだ。


 暇な日は釣り糸を垂らし、ときには海中にもぐってナマコや貝などを捕獲した。そのときナイフで切り分けて生食をしようとしたので、きびきびと働くジョンに好意的に近づいてきた女性の足はすぐに遠のいた。


 二週間が経ち、断崖の下にある岩礁でのん気に釣りをしているジョンと退屈でうつろな目になっているプルールの前方に船影が見えた。


「来たな」

「待ち焦がれた……待ち焦がれたぞジョン。ほんと、退屈で泣きそうだった」


 ぼろぼろの主帆を微風で揺らし、<ドリフトウッド号>は波間に乗りながら帰還してきた。前方に張られるはずの二枚の補助帆は縮帆されていて、単に海流に沿って流されているようでもあったが、船首は真っ直ぐで操船されているようでもあった。


 風を受けてはらむはずの帆がないせいか、港に流れ着くまで相当の時間がかかった。


 茶色の横壁に目を凝らしたが、船体はどこにも損傷はなかった。ただ甲板の上にはトビウオの死骸が転がっており、幾つかの索具に海藻がこびりついていた。


 ジョンは手すりを飛び越えて船に降り立った。ぎぃぎぃと居住区の扉が半開きになっていた。上縁の留め具が外れて斜めに傾いていた。


 部屋の中心で赤毛のウェイトレス、アルメリアがのそっと顔を出した。目の下にクマを作りながら現れた。息も絶え絶えで、頬は頬骨が透けて見えるほどこけていた。


 片手に拳銃を握りしめ、ジョンに向けた。


「どうして海図通りに土地がないのよ!」


 ジョンは質問には答えずにアルメリアの後ろを確認するために首を横に傾けた。


 室内はキッチン用具や工具、衣服などが散らばっていて、衣服箱や本棚などが倒れていた。嵐で散々かき回された様子が窺えた。


「世界の水位があがっているのだよお嬢さん。それに航海とはそううまいこといかないものだ。だから戻ってきたのだろう。その物騒な物をおろしたまえ。ジョンはともかく、ボクはとても気が立っている」


「補給するから荷物を持ってきなさい! 今すぐ!」


 興奮のために手先はかたかたと震えていた。引き金をしぼる指に思いがけず力が入っていく。引き金を引いてしまったが、銃弾は発射されなかった。


 アルメリアはそのとこに気付くと顔を青白くした。自分の持っている唯一の武器がガラクタになってしまって動揺していた。


「どっ、どうして」

「どうしてだろうな」

「そんなはずは――あっ」


 それがアルメリアの最期の言葉となった。銃その物に欠陥はなかったが弾丸に欠陥があった。遅ればせながらも火の点いた不発弾は銃身から発射され、銃口を覗き込んだ彼女の顔面をぶち抜いた。遅発による暴発だった。


 赤い煙が舞った。額が大きくくり抜かれて肉片と砕けた骨が海原へと吹っ飛んで行った。細い体がくらりとよろめき、勢いよく着水した。背中からどぼんと落ちて沈んでいき、ついには海崖にぶつかって跳ねたかと思えば見えなくなった。


「これはまいったなジョン。これだから素人が銃を持つのは頂けない」

「海水で火薬が湿っていたのだろう」

「どうする? 島民は間違いなく君がうら若き乙女を殺したと思うよ」

「俺もそう思う」


 ジョンはシャツを脱いで上半身裸になった。息を吸い込み、海面へと潜水した。両手で海水をかきわけながら奥深くへと向かった。


 回収したアルメリアの死体は帆布で包み込んで船室の隅に置いた。思ったよりも幅があったので、衣服箱の下に押し込んだ。


 問屋に向かって物品を調達しにかかった。その際、世話になった漁師たちに別れを告げた。幾つのか惜別の言葉を交わし、船旅の準備を始める。


 帆を新しいものに張り替え、古くなった索具を交換した。


 在庫になりかけていた食料品や真水などの積み荷を銀貨を支払うことで買い直した。


 船に積み込むとジョンはハリヤードを回してメインセールを張った。


 船尾椅子に座り、舵棒を握った。船首を回頭させて沖合へと向けた。


 島から遠ざかり、小さな点となり、完全に視界から消えてもジョンは操船を続けた。


 幾つかの夜を通り過ぎると孤島を見つけた。直径百メートルもない半月型でほとんどは砂浜だったが中心に少々の緑があり、椰子と亜熱帯の植物が群生していて穴熊などの動物が闊歩していた。彼らはジョンを見つけても怯えず、それどころか興味深げに寄ってきた。


 ジョンは木の根元にアルメリアを埋葬すると、振り返らずに出発した。




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― 新着の感想 ―
[一言] すごい好き!
[一言] 最後にジョンがアルメリアとの約束通り次の島で彼女を降ろした(埋葬した)シーンは格好良さに痺れましたね。 ジョンとプルールの気安い関係も好ましく、ストーリーミステリアスな雰囲気で、とても楽しめ…
[一言] なるほど。 あまり慣れ親しんだタイプの物語ではありませんが、これはこれで楽しませていただきました。 読後感としては酔狂領主様の三章を読ませていただいた後と似ています。 春日さんはあちらの作…
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